1-3 不審な来訪者
カツン、カツンと。
ゆっくり階段を上がる靴音が、彼らの耳に届いていた。
二人揃って、背後に位置する屋上と下の階とを繋ぐ階段室を凝視する。鉄の扉で隔てられた向こう側に、何かがいる。彼らの命を脅かす存在であれば、対応をしなくてはならない。
クラウスは先程触れていたナイフの柄を引っ掴んで構えると、透明化してソレを待ち受けた。己の手に備えられた鋭利な爪を武器とするトゥールは、黙って階段を睨みつける。
階段を上がる靴音が止まった。それからドアノブが回り、金属の擦れる耳障りな音を纏いながら、ゆっくりとドアが開いた。
「……、……」
姿を表したのは、ボロ布と濃い鉄の臭いを滴らせる、何か。身長的に子供のように見える。フラフラと頼りない足取りで、最早立っているのもやっとなのかもしれない。
子供がどうにかして一歩を踏み出すと、鮮やかな雫が飛び散った。赤く鉄臭い。よく見れば、纏った布にそれが染み込んでいるようで、トゥールは先ほどの“死神”を思い浮かべる。しかし、その赤が返り血ではなく、そいつ自身の出血だと理解して、考えを改めた。
此処にたどり着いた時点で限界だったのだろうか。それとも、ヒトの姿を見て力が抜けてしまったのか。子供はその場に膝を付いた。
思わずトゥールが二、三歩近寄ると、肩で息をする子供が、ゆらりと顔を上げた。
額の左側から鼻筋を通って、右頬まで続く、痛々しい縫い跡。目付きは悪いものの、幼い顔立ちは十歳前半の少年のように見える。
彼の虚ろな光を湛えたエメラルドグリーンの瞳と、トゥールの蛇のような琥珀色の視線が交差する。傷だらけで、息をするのさえ辛そうな少年が。ポロポロと涙を零して、縋るようにしてトゥールを見つめるのだ。
「た……、けてぇ……」
“助けて”。
掠れたか細い声を最後に、少年は糸の切れたマリオネットみたいに、倒れて動かなくなった。
ぎょっとして近寄ろうと脚を上げたが、トゥールが動くよりも先に、クラウスが少年に駆け寄っていた。恐る恐るその身体を抱き起こし、顔をしかめる。
「……まだ息はある。でも、ひでぇな。コレ“死神”にやられたんかな」
クラウスが少年の纏っていた布をはいでみると、身体の至るところに切り傷と出血の跡。しかし、それらよりも更に目を奪われるモノがあった。
「コイツもオレらと同じ、なのかな……」
トゥールが近寄って覗き込むと、顔の縫い跡だけではなく、首、右肩、左二の腕、両手首、両足首。服に覆われた胴体にもあるのかもしれない。少年の体中に、痛々しげな縫合痕が見つかった。
トゥールには似たようなモノを見た覚えがあった。人間をバーコードにする実験と共に秘密裏に行われていた、“漆黒計画”。完成したバーコードに、他のバーコードの細胞を埋め込んで、多重の〈コード〉を開花させようとするものだ。成功の確証は無く、数人の研究者による妄想のような手術が、何百人と施され、そしてその何百人が命を落としたという。数十年前に実際に行われていたことだ。
皮膚に残る縫合痕は、その忌々しい痕跡である。
「よく、生きていたな」
トゥールは静かに声を漏らした。
縫い跡以外にも勿論、切創や裂傷等、とにかく体中傷だらけだ。特に胸元に酷い傷があるのか、衣服越しに現在進行形で鮮血を滲ませていた。これはもう助からないだろう。
──なんていうのは、この少年がただの人間であれば、の話である。バーコードの身体能力は人間よりも優れており、個人差はあれど治癒力も人間とは比べ物にならず、止血さえしておけば数時間程で完治するというのが普通のことであった。
「痛かったろうなぁ」
クラウスが少年の顔を覗き込みながら、ぽつりと言う。手術の話かこの怪我の話、どっちのことだ。トゥールがそう訊ねようと口を開きかけたが、言葉は直ぐに行き場を失った。
クラウスは、どちらの痛みもよく知っているから。きっと、自分と少年とを、重ねずにはいられないのだろう。
──ぼく、何処にいるの? 消えたく、ないよ。
初めて出会った日の、ボロ切れの様なクラウスを思い出して、トゥールは目を細める。命を繋ごうと、トゥールに必死に縋りついてきたあの日のクラウスは丁度、この少年と同じくらいの年齢だった。
「……クラウス。部屋に包帯があっただろう。持ってきてくれるか」
「手当するなら部屋に運んでやったほうがいいんじゃねーの?」
「運んでる途中で余計に傷が開いたらどうする。それに──」
トゥールはその続きの言葉を口にしなかった。それについて特に気にすることもなく、クラウスは包帯を取りに階段を降りていった。早く手当してやりたいと考えてのことだろう。しかし、不用心な奴である。余りにも傷ついた少年を同情して、疑うことを忘れているのだろう。
怪我をした子供だとしても、味方とは限らないのに。
そんなことを考えながら、トゥールは少年の顔をじっと見つめた。本当に生きているのが不思議なくらい痛ましい傷を、その小さな体で背負って此処まで来た彼を、本心では疑いたくはなかったのだが。