0-0 漆黒バーコード
──どれくらいの間、こうしていたのだろう。
肩で息をしながら、割れて明滅する蛍光灯の下を歩く。
少年は血に濡れて重たくなった白衣を脱ぎ捨てた。血液を染み込ませ過ぎて、これが本当に白衣だったのかも疑わしい程に汚れてしまっていた。
血染めの衣を床に落としても、肌を伝う血の不快感は拭いきれない。
毒々しいほど鮮やかな色彩。それらに全身を包んで、自分が動くたびに雫が白い壁や床をも彩った。
──彼女は何処だ。
進もうとすれば、転がった死屍累々に脚がもつれて、何度も転びそうになる。まるで死して尚、縋り付くみたいに。何度も何度も、肉片に足を引っ掛けた。
知っている研究員の顔もあった気がする。最早どうでもいいだろう。構わず踏み潰して、寡黙に進む。靴底に耳障りな音と感触がある。意識してしまえば、少年の肌が粟立ったが、次の瞬間には興味を失っていた。
進んでも、進んでも、そこかしこに死体がある。込み上げて来る胃液の存在に、まだ自分が人間らしさを捨ててないのだと知って、安堵した。
壁伝いに進む。刹那、通路の先から悲痛な叫び声が響いた。
「嫌だ、殺さないでくれぇ!」
そっと、声のした部屋を覗きこめば、彼女の後ろ姿と、少年もよく知る研究員の男が向かい合っていた。
男の涙やら鼻水でぐしゃぐしゃになった顔と。少女の後ろ姿。美しい桜色の髪を揺蕩わせる彼女の何処に、怯える要素があるか。武器の一つも手にしない華奢な女の子に、必死に命乞いする男。そちらの方が異常なように、見えてしまう。
「止めろッ、こんなことは間違えてる! 今なら戻れるだろ!? やめてくれ!」
「──ええ。そうね。私、間違ってばっかりだ。でもね、もういいの」
押し殺したような、それでも優しい声色で。彼女が答えた。
そして続ける。
男と同じように、その手は震えていた。怯えているのは少女も同じだった。
「どうか、私の身勝手を赦して」
瞬間。
時が止まったかのように錯覚する。
音の消失。
相対する男の目や耳、鼻。そこから黒々とした血液が溢れ出した。
聞いているだけで気が狂いそうになるような呻き声。
男は蹲って、ベチャベチャと血の塊を吐き出している。
胸を何度も何度も何度も何度も何度も掻き毟って。のたうち回り。やがて、脱力した男の身体は、彼が創り上げた赤黒い水溜りに沈む。
泥人形のように動かなくなった肉体と、目が合った。血走ったそれは、恨めしそうに少年を見ている。
どうしてこんなことをするのか、と。訴えているみたいだ。
「……約束だからね」
あまりに震えて掠れかけた声だったから、泣いているのだと思いこんでいた。此方に気付いて、ゆっくりと振り返った彼女。その紅色の瞳は、薄っすらと潤んでいたが、辛そうに、それでも。確かに笑っていたのだ。
今にも壊れそうな脆い笑顔。そこに、深い愛情のようなものを感じて、勘違いだと言い聞かせる。
間違った愛に呪われた者たちに、真実の愛など分かりはしない。だから、そう。少年の勘違いだ。
「例え何年掛けようと。必ず殺し続けるの。終わりのその時まで、ね」
終わり。
少年はその言葉を口の中で転がして、余韻を確かめる。だって、何処か可笑しな響きであった。
彼女の言葉に小さく頷いてみせたが、それは本当に数ミリ程度の上下動しかなかったように思う。なんと儚い言葉か。心の奥で静かに嘲笑する。
────終わりなんか有りはしない。
そんなこと、彼女だってとっくに気が付いていた筈なのに。それでも尚、存在しない終わりを目指して生きるなんて。
「約束だ」
揃いの継いで接いだ皮膚。その中心。胸に刻まれた、漆黒のバーコードに手を当てて。ただ、二人は誓い合う。
その約束は、彼らに出来る最大の懺悔であり、罰であり、贖罪だったのだ。
──それは、少年が自分自身で与えた罰。
生きたいとか、殺したくないとか、愛されたい。そんな願いが、全て叶わない。物語。
百年間愛に呪われた、少年の物語。