2-1 まるで幽霊だ
眠れば、脳裏で反響する悲鳴と、泣きわめく声。
離れない。鼻孔の奥、もうするはずのない薬と鉄の匂いがする気がして。鳥肌が立つ。
冷たい鉄の感触も肌にこびりついていて、消えてはくれないのだろう。
「クソ、また“失敗作”が消えやがった!」
「ああ? 構うこたぁねえよ。どうせ処分待ちの使えねぇ奴だろ」
数人の大人たちの声が、眼前の漆黒の中で木霊している。
「生きてても死んでても構わねぇ。そんな奴さ」
闇色に溶けて、彼らの姿は人型を成しているものの、なんだか現実味を感じられない。此方に向けて言っていることはわかるのに、大人の視線は自分を見ていない。虚空を見回して、此方を見つけられないでいるらしい。
少年は冷たい鉄の床に転がったまま、息を吐く。寒い。寒くて仕方がなかった。
お母さんは何処。帰りたい。ここは寒い。寒いよ、ねえ。どうして誰も見えないの。
「どうせ廃棄処分待ちの翡翠バーコードなんだ。いつか殺すなら、いつ死んだって構わねえな」
死ぬ? ぼくはここにいるよ。消えてなんかない。誰か見つけてよ。ぼくは生きてるって、証明してくれ、でなきゃ生きてるか死んでいるか、わからないよ。嫌だ、消えてなんかない! ぼくは、死んでない。死んでない!
思考がぐらぐら、ふよふよ、取り留めもなく回る。行き場のない言葉を見つけてくれる者は此処にはいない。声は其処にあるのに。捜してくれれば簡単に見つけられるのに、自分はもう居なかった者のように扱われ。
もしかしたら、もう本当に存在しないものになっているのかもしれない。少年の金色の双眸が涙に霞んだ。
──ああ。まるで幽霊みたい、だ。
◆
まともに眠れもしないくせに閉じ続けた瞼を開く。そこに、冷たい部屋も、黒い人影も無い事に安堵しながら、深く息を吐き出した。クラウスにとって、いつにも増して目覚めの悪い朝だった。
「嫌な、夢……」
酷い胸騒ぎと、赤色の熱に呑まれる錯覚が、消えない。
昨晩の事が脳裏に焼き付いて、離れそうもないのだ。だからあんな悪夢を見てしまったのだろうか。ソファの上でゆったりと上体を起こして、自分の体を抱きしめる様に蹲る。
トゥールは昔から、死ぬ為に生きているみたいな奴だった。
いつも、生きようとしているように見えなくて。“だから殺してくれ”という言葉が聞こえても、クラウスは特に驚きはしなかった。ただ、酷く胸が痛くなって、息苦しさを覚えた。きっと彼は、クラウスの痛みなんか一切知らないのだろうが。
昨日のことが夢なら、と思いたかった。けれど捻った足首が現実を否定させてくれない。治りかけの鈍痛でも、真実を突き付けるには十分すぎるようで。
あの少年は。ジンは何者なのか。
一人で考えたって、わからないものはわからない。クラウスだけで悩むことほど無駄なことがあるだろうか。いや無いだろう。それよりも、直接トゥールと話しがしたいと思った。
クラウスは軽く伸びをしてソファから腰を上げると、急ぎ足に寝室を目指す。別に急ぐほどの距離もないが、自然と脚がそのように動いていた。
自分を急かすように寝室の戸を少々乱暴に開け放ち、今朝の不快な夢を、昨日のおぞましい話を頭から振り払うみたいに、明るく繕った声をあげる。
「トゥールおはよ──っていねぇし!」
クラウスは不眠症気味で、夜に眠ろうとしても眠れないのだが、一睡もできないわけではない。丁度あの嫌な夢を見ていたとき、トゥールは外に行ってしまったのだろう。声くらい掛けてくれてもいいのに。クラウスはそう思いもしたが、誰の顔も見たくなかったのかも、と考えなおした。
だって、昨日死のうとしてた友人が、次の日をどんな顔で過ごせばいいというのだろう。クラウスには想像も付かなかったし、考えたくもなかった。
トゥールの代わりに寝室にいたのは、ベッドに対して身体を垂直に、枕を抱きしめて寝息を立てる継ぎ接ぎの少年。ジンだった。
寝相が悪いのだろうか。ベッドに垂直の姿勢で寝るせいで、収まりきらない脚がぷらん、と床に付いていて、掛け布団は足元でグシャグシャに丸まっている。この様子だと、ベッドから落ちて眼を覚ますようなことも頻繁にあるのではなかろうか。
昨夜聞いた会話を思い出すと、若干近寄り難かったが、トゥールがいないのでは、やることもない。それに、あまり昨日と違う振る舞いをしていては不自然だろう。
暇つぶしにはいいかもと思い、クラウスは安らかなジンの寝顔を覗き込んでみる。
規則正しい寝息を立てるだけで、昨夜の死神の姿なんて何処にも感じられない。幼さを携えた、無垢な子供の寝顔だ。
クラウスはなんとなく自分の人差し指をジンの頬に食い込ませてみたが、眼を覚ます様子はない。
──このただの子供が、いつかはオレたちを殺す。
クラウスは望んでバーコードになった訳ではなかった。殆どのバーコードが自ら望んでそうなるわけではないだろうが。
母親が死に、独りになった子供が研究施設に連れて行かれるのを、止める者などいない。
抗う権利もないみたいに、勝手な誰かの都合で実験に使われ、挙句失敗作の刻印を。翡翠のバーコードを刻まれ、捨てられて。不要だから、と訳もわからないまま、殺されそうになった。
生きる資格も価値も、最初からなかったみたいだ。
それなら、何のために生まれたのだろう? この命は何のためにあったのだろう。もう一度ジンの頬を突付きながら、クラウスは思った。
もしかしたら、ジンも自分と同じなのでは、と思っていた。
彼の顔や体のいたるところに刻まれた縫合痕。それは実験に使われた証拠で。傷だらけで今にも消えてしまいそうな、縋りつくようなあのエメラルドグリーンの眼が、かつてのクラウスと重なった。同じだ、きっとそうだと。思いたかった。
本当にそうなら、良かったのに。
「……なんでよ」
現実はいつだって残酷にクラウスを打ちのめした。助けた少年が、自分を殺す存在だったなんて。唇を噛み締めて、表情を歪める。遣る瀬無くって、激しい喪失感に、僅かに心臓の辺りが熱くなるような錯覚を覚えた。
不意にジンの瞼がゆっくりと開かれて、エメラルドグリーンの瞳が露わになる。普通の表情でも、睨まれているのかと勘違いしてしまうほど悪い目付き。ジンは二、三回瞬きをして体を起こし、目を擦る。その一連の動作をする間、真正面にいるクラウスに、彼は何の反応も示さなかった。
最初からいない者として扱っているかのように。
……実際そうなのだろう。ジンの眼に、クラウスの姿は見えてない。
ああ、またか。クラウスは小さく肩を落とす。
翡翠バーコードが失敗作と呼ばれる由縁は、必ず何かしらの欠陥を抱えていることだった。
クラウスの持つ欠陥。それは〈コード〉が自分の意志で制御できないこと。
時折、無意識のうちに透明になっているのだ。自ら〈コード〉を発動して透明化しているときに、勝手に姿を表してしまうようなことは流石になかった。それがせめてもの救いである。しかし、時折突然姿が消え、消えた本人も自分が透明になっていることに気が付かないのだ。本当に、幽霊みたいで。クラウスは自分自身が気持ち悪いと感じていた。
「ジン、おはよー」
此方の姿が見えていないのを知ったうえで声を掛ける。そうすると、ジンが分かりやすくビク、と肩を跳ねさせた。それから強張った表情で辺りを見回す。面白いくらいにクラウスの姿が見えていないらしい。
……笑えないけれど。
ジンがとりあえず声のした方向、つまり正面に恐る恐る右手を伸ばすので、クラウスはそれを左手で掴んでみた。
突如手に伝わる生暖かさと、眼の前に出現したクラウスに驚いて、ジンは短く声をあげる。
「寝起きドッキリ大成功ー、いえー」
そう言いながらもクラウスは不服そうな顔をしていたし、その声も苛立ったように低い。しかも、ジンの手を掴む力が妙に強く、思わず顔をしかめてしまうほどだ。いっそ握り潰そうとしているかのように。
「朝から何がしたいのさ。手、痛いんだけど。離して」
ジンの小さな手に無意識のうちに爪を突き立てていて、それがどんどん食い込まされてゆく。何処か他人事のように眺めていたクラウスの視界に、顔を歪めるジンが映る。
再び、心臓が熱くなるような錯覚。
刹那、紅い思考に呑まれる。
心臓が跳ねる。殺せ、と何かがクラウスの中で激しく揺さぶって。
拒否する間もなく頭の中が朱に、赤に、紅に、埋め尽くされてゆく。
ドロドロと染まる。思考が鮮やかに呑まれてゆく。
──ジンは、オレたちを殺すんだって。怖い。怖くて仕方ない。ああ。ああ、そうだ!
──殺される前に、殺せばいいんだ。
──そうだろう?
クラウスは、口角を吊り上げて笑った。
「…………」
「クラウス……?」
痛みに困惑していたジンだが、それ以上に彼の奇行が心配になって、思わず名前を呼んだ。
明らかに様子が可怪しかった。爪を食い込ませつつ、握り潰され続けたジンの拳から、鮮血が滴り落ちる。此方を見つめているかと思われた金色の目は、虚ろに虚空に向けられていて焦点が合わない。
ジンがもう一度声をかけると、クラウスの左手がズルリと離れた。それからゾンビみたいに歪な動きで一歩、距離を詰めてきた。
ジンの心配が警戒に変わる。
クラウスは緩慢な動きで腕をもたげて、血の付着した自らの指先を見た。
生気を感じさせない凍てついた眼。黙って指先を眺めているかと思えば、その視線がジンを捉えていた。寒気のする酷く馴染みある視線。
それはねっとりと絡みつくような……殺意だ。
咄嗟に〈シュナイダー〉で黒いナイフを発動しようとする。──が、間にあわなかった。ジンが手を動かすよりも速くクラウスの両手が伸びてきて首元を掴むと、体がベッドに叩き付けられていた。