1-9 幸福に殺す
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ジンはゆっくりと目を開く。部屋が暗い。いつの間にかうたた寝して、夜になっていたらしい。肩にかけられた薄い毛布の存在に気が付いて、だから途中で寒さで目を覚ますことがなかったのだな、と納得した。
まだ窓を叩く雨の音が聞こえる。雷は収まったらしいが、雨足は昼間とそれほど変わったように感じない。
ソファではクラウスが横になって眠っていた。
ジンは毛布を持って、クラウスの側に寄る。その胴体にそっと毛布を乗せてやり、何となく顔を覗き混んだ。睫毛が長く、思ったよりも整った顔立ちをしている。
本来の目的は、バーコードを殺すこと。ジンは静かに彼の首元に指を添えた。高めの体温。規則正しい呼吸を繰り返しているのが、脈打つのが、伝わってくる。その首筋に、くっ、と指を食い込ませた。
「ジン」
小さく自分の名を呼ぶ声。リビングの入り口の方に顔を向ければ、トゥールがこちらを見ていた。
「来てくれるか」
トゥールの言葉に返事はしなかったが、彼が踵を返して、玄関が開閉する音が聞こえた。ジンもその後に続く。
外は雨の匂いが充満していた。また同じように、トゥールが階段を上がるのが見える。殺しても、血の色を雨が洗い流してしまう。そのために、屋上を目指している。
ジンは顔をしかめながらも、トゥールを追いかけた。
ローブの色が変わるほど、水が染み込んでいる。屋上の中央、トゥールは雨に打たれることも気にせずに、こちらを見て佇んでいた。
呆れるように嘆息しながら、ジンもその中に踏み出していく。肌を打つ水滴は、ただ冷たい。
「ジン。俺を、殺してくれないか」
「……で、お前を殺したら、クラウスを見逃してやってくれ、だったっけ?」
ジンは、トゥールを鋭く睨みつける。
「悪いけど、そういうの大っ嫌いなんだよ」
棘のある、苛立ったような口調で言うジンに、トゥールはゆっくり首を横に振って応えた。
「俺は生まれた瞬間から、生きててはいけなかった。でも、クラウスは違うんだ。生きて、幸せになってよかったはずなんだ。だから、」
──幸せなんて言葉も、大嫌いだった。
ジンは、突発的にトゥールに掴みかかっていた。勢い余って、ぎょっとした顔のトゥールが数歩後退る。
ジンは彼の顔を怒りのこもった眼差しで睨み、溢れ返る感情をそのままぶつけるようにして、吼えた。
「あんた、僕に殴られた意味がわかってないみたいだな? もしかしてもう一発食らわなきゃわかんない?」
右手拳を振り被る。殴られるとわかっていても、トゥールは避けなかった。
強い一撃を受けて、トゥールはよろめく。その瞬間にジンが強く肩を押したために、トゥールは押し倒された。衝撃でばしゃ、と水が跳ねる。
「バーコードである限り、“幸せ”なんて簡単に口にするなよ。それは、僕らとはかけ離れすぎてんだ!」
こんな風に声を荒げるのは、何時ぶりのことか。誰とも関わらなければこんな激情に駆られる必要もないというのに。喉がチリチリと熱くなるような感覚に、ジンは嫌気が差す。
「生きれば生きた分だけ、僕達は不幸になっていく! 僕らはそういう運命なんだよ!」
ジンの言葉に、トゥールは思わず頬の痛みも忘れ、口元を歪め笑う。
嗚呼、そうだ、その通りだ。今まで生きてきて得られたことなんて、胸を抉るような罵声、蔑んだ視線、醜悪を恐れる悲鳴。そうして生まれる自己嫌悪、希死念慮。辛酸を舐めて、反吐の出るような毎日に困窮する。生きている意味など、わからなかった。──そんなこと、よく知っている。
「生きてたって幸せになんか、なれない……!」
血を吐くような叫び。
トゥールには、ジンの頬を伝う雨が、何処か泣いているようにもみえた。実際、泣いていたのかも知れない。
六年前のあの日。不思議な桜色の少女に話だけ聞いた継ぎ接ぎの少年がどんな奴かと思えば。それは寂しく虚しい、独り善がりだった。
「そうかもな。それでも、俺はクラウスに死んでほしくない。あいつの幸福を願いたい。そう、思うんだ」
雨は冷たかったが、トゥールの声は暖かく、慈愛に満ちていた。
翡翠バーコード。それは、望まれない存在。生まれた瞬間に、この世にトゥールの居場所はなかった。それでも母親に愛されて育ち、誰かの命を奪って、トゥールは罪を重ねながらも生き永らえてきた。
自分は生きるべきではない、それを知りながらも。
自分の命は終わりでいい。だが、クラウスは。悲しい事しか知らない彼は。少なくとも今は死ぬべきでは無い。そのはずなのだ。
ジンがトゥールの言葉を聞き届けると、睨みつけるような、泣きそうな。
ただわかるのは辛そうな。
そんな顔で、口を開く。
「だったら、お前も生きろよっ……」
絞り出すような掠れ声。
雨音が一層強くなったような気がした。
トゥールは目を剥いていた。
「…………」
二人の間に沈黙が続いたが、雨音は静謐を殺す。
トゥールは、ジンの言葉の矛盾に疑惑と困惑を隠せずに、彼を凝視していた。
「生きろ、って。お前は、俺達を殺しに来たんじゃなかったのか……?」
「ああ……そうだよ。僕だっておかしな事言ってる自覚はあるよ!」
ざわつく胸が鬱陶しくて。ジンはおかしいついでに、全て吐き出す。
バーコードを殺すことだけ考えていた自分が、どこか遠くに感じられた。
「僕は訳あってバーコードを殺して周っている。見逃そうとも思ったけど、でも、お前らも例外なく殺す気だったさ!」
こんな出会い方でなければ。ジンが瀕死の怪我を負っていて、それを二人が助けようとなんてしなければ。今頃、死体のトゥールと向きあっていた事であろう。なのに今、息を吐いて、言葉を交わすトゥールと。生きたバーコードと対峙している。
これは、どうしようもなく弱い少年の、身勝手なエゴかもしれない。それでも。
それでも、願ってしまった。
ジンは深く息を吸い込んで、真っ直ぐにトゥールの双眸を捉えた。
「僕からすれば、生きることなんて不幸でいることで、僕にとっての幸せは死、だけだ。君は不幸の中にクラウスを置いて逃げようとしてるんだ」
トゥールはジンの言葉を受けて、僅かに考え込んだが、すぐに否定する。
「……違う」
「じゃあ証明しろ! 生きる幸せってやつを見つけてみろよ! クラウスを独りにすんな、お前が一緒に居てやらなきゃ、意味がないだろ!」
トゥールの琥珀色の瞳の中で、瞳孔が大きく広がる。爬虫類が驚いた時の眼だ。
ジンは握り締めていたトゥールのローブを、更にしっかりと掴み直す。そして、力強く声にする。死神と呼ばれた自分には無縁と思われた言葉が、勢いのままに口から放たれるのを、止めることはできなかった。
「……だから生きろ、トゥール!」
トゥールはただ、静かに息を呑んだ。
驚愕に目を見開いたままの彼と、それを睨み付けるジンが、しばらく見つめ合っていた。
生きろ、なんて初めて口にした。
でもきっと、この言葉はずっとジンの胸の中に囚われていた言葉だ。命を奪う身で在りながら、何度も抱いた願い。抱くだけで声にすることは許されず、失う度に悔恨がのたうち回っては、はばかられた言葉。
ジンが口にすると滑稽に響いたかもしれないが、その余韻は暖かく思えた。
「…………」
ジンが勢いを増した雨に身震いをした頃、呆けたままだったトゥールが、力無い声で呟く。
「……生きろ、なんて。初めて言われた」
それから、トゥールは苦しそうに顔を歪める。
「俺は、生きていて……いいのか? だって、俺は」
それを見て、ジンは苦笑した。
「まだ生きてちゃいけないとか言うのかよ……。そりゃ、生きるのを許された存在なんかいないさ。誰だってそうだよ。誰かの許可を貰って生きてる奴なんか、いない」
ずっとローブを掴み続けていた手を離して、ジンはトゥールから降りて続ける。
それは不自然なほどに優しい声色だった。
「お前が誰かの許可がなきゃ生きられないって言うのなら、僕が許すよ」
目を見張って、何かを言おうとして、しかし言葉が出てこなかったのだろう。微かに頬を綻ばせて、そうか、と笑うトゥールの表情は物悲しげに写った。けれど、ジンは安心しているような気がした。
何を抱えているかも知らないくせに、殺してくれと頼んできたトゥールに“生きろ”という言葉は、酷だったかもしれない。
それでも、とジンは口を開く。
「いつか、必ずお前を……お前達を殺す。でも、今はお前に死ぬ権利なんかない」
だから。だからヒトと関わるのは嫌いだった。
関わってしまった以上、知ってしまった以上、それを簡単に切り捨てることが出来なくなってしまう。立場上、ジンは残忍に徹しなければならないのに。
“彼女”はジンのそれを優しさと呼ぶが、その優しさがお互いに、より惨たらしい結末をもたらすのだ。それはきっと、ただ殺すことよりも残酷だ。
それを知っているくせに。ジンは自嘲しながら肩を竦めて、空を仰いだ。淀んだ空から降り注ぐ雫は、ナイフのように冷たく、肌に刺さる。
ジンは静かに瞼を閉じた。光の届かない漆黒の中。浮かべるのは、“彼女”との記憶。
「ジンは、優しい子に育ったね。非道になりきれなくて、いつも泣きそうな顔してるもん。無関係なら精肉するみたいに殺すくせに。関わったら可哀想になっちゃうんでしょう?」
「それもあるだろうけど。きっと、僕は恐いんだ。自分のことも、生きることも。殺すのも……全部」
「ふふ。いいねえ、まるで人間みたい。でもそれがジンなんだから、それでいいんだよ」
「…………」
「私はもう、わからないや。慣れちゃったのかなぁ。どんなふうに殺したって、何も感じないの。なんにも恐くないの。ふふ、恐怖を失うなんて狂ってるって、そう思うでしょ? そうなんだよ。私はおかしいの。バケモノ──いいえ。“死神”だから」
「そんな、こと……」
「否定しないで。そんなの、慰めになんかならないもの。私は“死神”で、私達はバケモノで。バケモノに生きる権利はない。ね、だから殺し続けなくちゃ。いつか迎える、終わりの為に、ね」
「……。ねえ、君はさ」
「なぁに?」
「君が殺したのは、────」
◆
必ず、殺す。
屋上と下へ繋がる階段を隔てる重い扉。その向こうで一人震える、透明人間がいた。
夜、まともな睡眠を取れたことのないクラウスが、二人が部屋を出て行くのに気が付かないはずもなく。いぶかしみ、こっそりと後を付けてきて、話を聞いていたのだ。
全てを聞き終えたクラウスは、煩い心音を押さえつけながら、ゆっくり息を吐く。
“殺す”。
その単語だけが、クラウスの脳内をぐちゃぐちゃと掻き乱していた。
──ジンが、オレたちを殺す。どうして? どうして!
何もわからなかった。寒さのせいか、別の理由か、手足が震えた。扉を開けようとした腕は、震えを殺せずに、動かないまま。
上手く息が吸えないような気がした。鼓動が、耳鳴りが酷い。心臓の辺りが赤く、熱くなるような、錯覚。
駄目だ!
クラウスはその場にいたら、“何か”得たいの知れない恐ろしい物に飲み込まれてしまいそうで、ふらりと階段に一歩踏み出した。けれど、脚がもつれて階段を踏み外し、受け身も取れずに落下した。
「痛……」
捻った足首が熱を帯びる。その熱に誘発されて、“何か”がクラウスの内側でのたうち回った。必死に身体を抱きしめるようにして押さえつける。ここにいてはいけないと、警鐘が鳴る。
「ひ、い、いや、いやだッ!」
クラウスの喉の奥から、情けない声が漏れた。不眠症故に眠れないくせに、早く眠りたいと思った。
痛みを湛えた熱を持つ足首を庇いながら。心臓の上の赤い熱に怯えながら。クラウスは無我夢中で走った。
深淵の哄笑を、聞かないふりして。
To be continued