1-8 馬鹿
◆
陽光に雨粒が煌めいている。窓を滴る雫をぼんやりと見つめて、ジンは瞬きをした。
雨上がりの朝の空気が何となく好きだ。特にこの街では、灰色が全て、洗い流されたように錯覚するから。
窓に映る自分の顔を見ないふりして、ジンはゆっくりとベランダに踏み出してゆく。風が肌を撫ぜる。雨のあとの洗われた空気は、昨日の嫌な生暖かさを孕んでいない。
ベランダのフェンスに両手を付き、足をかけた。バランスを取りつつ、両足で立つと、ジンは目を閉じた。
トン。フェンスを蹴る。
瞬間、重力が少年の身体を引っ張って。
息を吐く間もなく、地面に叩きつけられた。
七階からの落下。頭部は爆ぜ、歪にねじ曲がる四肢、肺を突き破る肋骨、滔々と溢れる血液が、瓦礫を鮮やかに染める。
意識は残らなかった。少年の心臓が鈍い光を放ち、体を再形成する頃には、ジンは自分の落ちてきたボロマンションを見上げて、地面に転がっていた。
「さて」
ジンは灰色の街を徘徊する。
瓦礫を踏みしめて、コンクリートからはみでた鉄骨をツ、となぞる。風が吹けば砂塵が舞う。それらが目に入って、痛みで顔を覆う。
瞬間、背後に何者かの気配を感じ、その方向に右手を突き出した。
無数の黒いナイフが練成され、ターゲットに突き刺さる。
ぎゃあ、というような断末魔と鮮血。
赤く散りながら倒れた者を確認すると、やはり紅蓮バーコードだった。自分と体格の近い、小柄な女性である。
彼女の着ている肩出しパーカーが、状態も良さそうだと思い、拝借して羽織ってみる。今まで着用していたものはボロボロなので、その辺に捨てて、紅蓮バーコードの女にはしっかりととどめを刺した。
街のバーコードを見つけては殺す。しかし、“奴”には会えない。
そんなことを繰り返し、日が落ちてきた辺りで、トゥールとクラウスのいるマンションへ戻った。
「ジン、どこ行ってたんだよ! あんな酷い怪我してんのにいなくなるから、もう帰ってこないかと思った!」
七一〇号室に入るなり、クラウスにどやされた。
「傷は治ったから、肩慣らしに動き回ってたんだよ。あと、新しい服を調達にね」
「カタナラシ? 何してたんだか知らねーけど、怪我治ったみたいだし、元気そうでよかったぜ」
クラウスはジンの頭をぽんぽんと撫でる。それを煩わしげに払い除けたとき、トゥールと視線が合ったが、すぐに逸らす。
「なあ、今日こそ枕投げしようぜ、ジン」
「なんでそんなに固執するの……そんなに楽しいもんじゃないと思うけど」
クラウスが枕を両手にはしゃいでいるので、仕方なくジンも枕を手に取った。
トゥールは巻き添えを食らう前に退室してしまったため、ひたすら二人で枕をぶつけ合った。
「このっ、顔は駄目だって言ってるじゃないか!」
「避けねーのが悪いんだ、アボッ! やりやがったな! お返しだ!」
「そんなヘボい攻撃当たるもんか。僕が本気を出す前に降参するん、ヘボッ! クラウスお前、また顔を狙ったな!?」
「だーから、避けねーのが悪いって、ウギャッ」
「ムカついたから本気出させてもらうよ? おりゃっ」
「おい、枕全部持つのは卑怯だぞ!」
「枕を積極的に所持しないのが敗因だね?」
「なんだこの、チビ!」
「誰がチビだい、成長途中だよ!」
終わったあとに、思ったよりも楽しんでしまった事が恥ずかしくなりつつ、ジンは寝室に移動してベッドに潜り込んだ。
◆
次の日。再びの曇り空。
ジンは前日と同じように街を徘徊し、襲い掛かってくる者がいれば殺した。しかし、“本命の相手”を見つけることはかなわず。
昼過ぎからは酷い雷雨になったために、ジンはまたマンションへ戻ってきた。
「雷やべえな。でも、こんな日に出歩く奴はそうそういないと思うから、襲撃の心配とかはしなくていいと思うぜ」
クラウスが窓の外を見ながら話しかけてくる。ジンはそう、と短く返してから、チラリとトゥールの方を見た。目が合うと、トゥールは無表情にジンを見つめ返す。それでも結局言葉を交わすことはなく、ジンは二人から離れたところに座ってくつろいだ。
「ね、トゥール。こんな日はカミナリ様が耳を奪いに来るんでしょ」
「ん? 何かの話と混じっている気がするが、まあいいか。奪われないように、隠しておくことだな」
「カミナリ様は、耳なんて奪ってどうするんだろ」
「さあな。背中の太鼓みたいな飾りに使うとか?」
「うわ、怖え」
トゥールとクラウスは、中身のない会話を続けながら、窓の外を眺めている。時々稲光に驚いたクラウスが、トゥールにしがみついて、その様子を、トゥールは優しげな目で見守るのだ。
それだけで、二人の関係がよくわかる。だからこそ、ジンはあの夜にトゥールに言われた言葉が引っかかって仕方がない。
◆
「俺を殺してくれないか」
は、と。ジンの口から殆ど無意識に、吐息と変わらないような声が漏れた。
一瞬、雨音が聞こえなくなるほど。狼狽して、言葉も出ないジンを無視して、トゥールは続ける。
「俺はお前に殺されるために、お前を助けたんだ。だから“お前のバーコード”のことも、見ないふりをした」
トゥールはクラウスが包帯を取りに七一〇号室に行っている間に、傷の確認と共にジンのバーコードを見た。容姿は六年前に会ったあの桜色の少女に聞いた特徴と一致していたものの、もし少年が人違いで、紅蓮バーコードであった場合、意識を戻した瞬間に襲い掛かってくる危険があった。仮にそうなら、今のうちに屋上から投げ捨てればいい。そう考えながら確認し、トゥールはその必要はない、と判断したのだ。
ジンは俯き、服の上からギュッと心臓の辺り──バーコードが刻まれたところを握りしめた。
「そうかい。変な感じはしてたよ。僕が紅蓮バーコードの可能性も考えずに助けるなんて、馬鹿な奴らだと思ってたし、手当するとき気付くよね」
顔を上げ、トゥールの顔を見つめながら、ジンは続ける。
「でも、お前のさっき言った、殺されたいっていうのが本気なら、確認する必要も無いんじゃないの」
「あの場では、そういうことをしたくなかったんだ」
相変わらず冷たい雨が二人の肌に打ち付けて、滑り落ちてゆく。その度に少しずつ体温を奪われているような気はするが、トゥールは不思議と寒さを感じなかった。
眼に入った雨粒に思わず瞼を閉じる。トゥールはそのまましばらく目を瞑る。水滴が地面を叩く音と、自分の心音が聞こえる。今日死ぬくせに。でも、だからこそ煩く鳴り響くのだろう。命の終わりを、叫ぶのだろう。
再び目を開けば、眼前ではジンが無表情で立ち尽くしていた。
一つ息を吐いてから、トゥールは口を開く。微かな望みを、託すように。
「俺を殺したら、クラウスを見逃してやってくれないか」
その言葉を耳にすると、ジンは目を見開いた。それから、苛立ったように、顔を歪ませた。
──僕が死んだら、彼女を見逃して下さい。
耳にこびり着いたその台詞を、思い出してしまう。
自分の命と引き換えに、誰かを生かすという、ふざけた行為。自己犠牲の精神。嫌気が差すほど見てきて、反吐が出るほど理解ができなかった。
自分が死ねば、何も残りはしない。死んだ後に、生き残った者に何を望むというのか。ジンには理解できなかった。それに。
──死んでくれ、なんて。誰が頼んだっていうんだ。
ジンの遠い記憶の中、自己犠牲の愚か者は最期まで笑っていた。自分とそう関係も深くない、ただの人間の女の子を助けるために。その姿と、今のトゥールが重なって、酷く苛立った。歯を食いしばらないと、余計な言葉が溢れてしまいそうで、ジンは息苦しくなる。
拳を握りしめ、ジンはズカズカと歩き、トゥールとの距離を縮めた。少し驚いた様子の彼が、何か言ったかもしれない。聞こえなかった。というよりは、聞きたくなかった。
ジンはトゥールの胸ぐらを掴んで屈ませると、その鱗で覆われた頬に、思い切り拳を叩き込んだ。
「馬鹿」
殴られてよろめくトゥールに一言。それだけ放って、ジンは部屋に戻った。雨に濡れた体は冷えたが、芯の熱も引いてくれればいい。そう思って、ベッドの中で丸まった。
何故殴られたのか理解できなかったトゥールも、しばらく経ってから部屋に戻ったが、ジンと同じ空間にいるのがいたたまれなくなって、リビングの隅で眠った。