1-7 死にたがりバケモノ
「起きてるか、“死神”」
それを聞いた瞬間、ジンはクスッと笑った。
「なぁんだ、知ってたんだね」
今更惚けたところで無駄だろう。そう考えて、ジンは緩慢な動きでベッドから起き上がった。
爬虫類であるため、夜目の効かないトゥールには、暗い寝室の中でジンの表情まではわからなかった。ただ、暗闇に浮かんだエメラルド色の双眸が、ゆらりと浮かび上がっているのだけが見えた。殺気立って爛々とした瞳。正しく、殺人鬼のそれだ。
立ち上がったトゥールを睨みつけながら、ジンは黒いナイフを構える。
「……ここが血で汚れたら面倒だ。外に出てくれるか」
トゥールのその言葉に眉をひそめながら、ジンはナイフを下げる。
「どうしてそんなお願い聞くと思うのさ。ま、別にいいけど」
殺す瞬間なんて、実に呆気なく、容易く終わるのだ。それにかける時間も場所もどうだっていい。ジンはそう考えて、ベッドから床に足を伸ばす。冷えた床に触れた爪先が強張る。手にした刃よりも、冷たく感じた。
立ち上がって、先に寝室を出ようとするトゥールの背中に、ジンは声をかけた。
「クラウスは起こさないの」
「……寝かしといてやってくれ。ちゃんと寝ないと、隈が取れなくなるだろう」
「へえ、いいの? もう二度と目を覚ますことも無いかもしれないよ?」
此方に振り向きもせず、彼はそうかもな、と軽く返事をして寝室を出る。ジンの脳裏にリビングに行って先に始末してしまおうという思考が過ぎったが、結局その脚はトゥールの後を追って外に向かっていた。
相変わらずの悪天候のせいか空気は肌寒い。だが、ヒトを殺すには相応しい天気だ。雨は、溢れ出た赤色の全てを洗い流してくれるだろうから。
ジンが通路を見回すと、既に階段を上がってゆくトゥールの尻尾が見えた。どうやら屋上を目指しているらしく、ジンはその後ろ姿を追いかける。彼のあまりにも緊張感の無い足取りに、僅かな違和感を覚えた。これから死ぬことになるというのに、妙に落ち着いているように感じたのだ。戦闘に持ち込んで逆にジンを片付けるつもりだろうか。ジンがここで思考しても、真意はわからない。
トゥールは階段室の重たい扉を開け放つと雨に濡れるのも構わずに、土砂降りの下に踏み出していく。屋上の中央まで進んだ頃には、彼の纏うローブの色が変わるほどに雨水を染み込ませていた。しかし、やはりそれを気にする素振りは見られない。
ジンは少しばかり躊躇しながらも、仕方なくその後を追いかけた。容赦なく濡れた服が張り付く気持ち悪さも、全身浸った頃にはどうでもよくなっていた。
立ち止まったトゥールの背中を見つめながら、ジンは静かに口を開く。
「さっき、此処で僕が言ったこと覚えてる? “後悔しないでね”ってさ。手当してくれたことは感謝しているんだ。君たちのその優しさに免じて見逃したかったんだけどね。なのに、引き止めたりなんかしてさ」
ジンは口角を吊り上げて、低い声で続ける。
「君たちは僕から殺さない理由を奪ってしまったわけだ」
「俺もクラウスも、後悔なんてしていない。あいつは多分、お前のことを自分と重ねていたから。助けてよかったと思っている。それに、俺もお前に用があったから」
やっと振り返ったトゥールは、真剣な眼差しでジンを見ていた。
「俺はお前の事知ってたんだ。話に聞いた見た目と名前で、直ぐに分かった」
ジンは驚きで目を見開く。誰に聞いた、と咄嗟に声にしたが、それよりも先に理解してしまう。自分の中で答えは出ていた。一人しか居ないのだ。ジンと深く関わりがある存在なんて、“彼女”の他に無いのだから。
「六年前。名前は最後まで教えてくれなかった。桜色の髪の……不思議な少女だった」
──桜色。
ジンの脳裏に浮かんだ彼女が笑う。紅色の瞳を細めて、儚い笑顔で。今にも泣き出しそうに。それでも、その頬を涙が伝うことなんてなくて。
名前さえ持たない、命を奪うだけの存在。本当の“死神”──最高傑作にして、最悪の咎。
ジン、と短く呼ぶ声に顔を上げる。琥珀色の双眸は変わらず真剣にジンを見つめている。なのに、先程よりも何処か力無い弱々しい瞳に、ジンは小さな違和感を覚えた。
トゥールは深く息を吸い込んでから、はっきりと、けれども静かな声で言い放つ。
「俺を殺してくれないか」