秘密
暑い夏が終わろうとしていた頃、ほどよく冷房が効いた病室で、ベッドに座るパジャマ姿のユカは唐突に言った。
「セイヤは圭ちゃんの子なの」
私はユカが何を言っているのか、瞬時に理解できなかった。
ユカの夫、平出さんから、私たち仲良しグループにメールが届いたのは先週のことだった。
「ユカが入院して手術を受けることになりました」
仲良しグループのサクラは「一週間くらいの入院じゃ、お見舞い行かなくていいでしょ」、カナコも「私も今週末は用事あるし。退院して落ち着いてから会お」と、誰も見舞いに行こうとしなかった。
「でも、せっかくご主人が連絡くれたのに」
私は平出さんに連絡を取って、日曜の午後、彼女の病室を訪ねることにした。
「子供の用事があって……、夕方には行けます」
平出さんはそう言っていたが、私はなんとなくサッと行ってサッと帰りたかったので、彼と顔を合わせないよう午後イチで来た。
ユカは子宮筋腫の手術を受けるため、先週入院した。手術は難なく済み、もう二、三日で退院するはずだった。短期間の入院だから、と、ユカは個室を選んだそうだ。
「いいじゃない、病気の時くらい、ゆっくりしたいわ。どうせ自分の稼いだお金で出すんだもの。これくらい、いいわよねえ」
彼女は化粧っけのない白い顔でしらっと言った。ここ数年は綺麗に化粧した顔しか見たことがなかったが、こうして眉毛も描かずにすっぴんで病院のベッドにいる彼女を見ると、もう私たちも若くはないことを感じる。
「え、何、今なんて言ったの」
私が聞き返すと、ユカは満足そうに微笑した。
「だから、セイヤは圭ちゃんの子なのよ」
セイヤ君は平出さんとユカ夫妻の長男だ。たしか今春、中学二年生になったはずだ。
一方、圭ちゃんというのは、私たちの学生時代の友人で、仲良しグループのひとり、カナコのパートナーである。
口を半開きにしたまま発する言葉を失っている私に、ユカはなんでもないことのように言った。
「私、思ったの。もし私が死んだら誰も真実を知らないままなんだなと思って」
「え、そんな、だってさっき、ほんの一週間だって言ってたじゃない」
「うん、今回はね」
「今回はって」
「手術室に入る前、もしこのまま麻酔が覚めなかったらどうしよう、そうしたら真実は誰にも伝えられないんだと思って。今回は大したことなかったけど、もしいつか私に何かあったらって思ったら、今のうちに話しておいたほうがいいと考えたの」
「だからって、私に言うことないじゃない」
「他に誰もいなかったから。……ねえ、絶対誰にも言わないでね。サクラにも」
「サクラにも」
「だって、口が滑って言っちゃいそうじゃない。その点、マリエは口が堅いから」
ユカは、何か含みがあるような微笑みを浮かべ、私に言った。
「圭ちゃんは、知ってるの? 」
「ううん、言ってない。マリエ以外、誰も知らない。今日初めて人に打ち明けたんだもの」
「あっ、アオイちゃんも圭ちゃんの」
私は、セイヤ君の妹の名を口にした。
「アオイは違うわよぉ。正真正銘、平出の子。顔見ればわかるじゃない。かわいそうなくらい平出にそっくり」
ユカは残酷なほどにケラケラと笑った。
「だから、もし私に何かあったら、いつかあの子に伝えて。あなたのお父さんは圭ちゃんだって」
私は即答できなかった。
「ああ、打ち明けてスッキリした」
ユカは軽い口調で言った。
ユカと私は、大学時代の仲良しグループの友人だ。大学の入学式で偶然隣に座ったことから、なんとなく親しくなった。
学生の頃から彼女はモテていた。程よく美人で、甘えた仕草もできた。学生時代にはユカ、サクラ、カナコ、私、の仲良しグループ四人で他大学のサークルに入ったり、コンパに行ったりした。私は彼女の引き立て役に近いものがあったが、別に構わなかった。彼女が魅力的なのは事実だったし、私は自分なりの相応な恋愛をしたいと思っていたから。
圭ちゃんとは大学一年の時、仲良しグループ四人で入った他大学のテニスサークルで出会った。
圭ちゃんはひとつ年上の先輩で、育ちがいいイケメンだった。女子は皆、多かれ少なかれ好意を持っていたんじゃないかと思う。私も恋愛感情まではいかなくても、でももし圭ちゃんに誘われたら受け入れるかもしれないという程度には思っていた。
当時、圭ちゃんには他の学校に彼女がいた。はっきりと圭ちゃんの口から聞いたわけではないが、ある時カナコが「圭ちゃんが女の子と腕組んで歩いてるの、見ちゃった。たぶん彼女」と言った。
「あれほどかっこいい人なのだから、彼女がいないほうがおかしい」
私たちはそう言い合った。ユカもその場にいたし、別になんともない感じだった。
私たちが二年生、圭ちゃんが三年生の夏、サークルの合宿という名目で、海辺に旅行に行った時のことだ。
夜、広間でみんなでゲームをしていると、いつの間にかユカがいなくなっていた。初めは、飲み物でも買いに行ったのかと気にしなかったが、圭ちゃんの姿もなかったことに私は妙な胸騒ぎを覚えた。
しばらくして缶ジュースを片手にユカがひとりで戻ってきたが、私はユカに何も訊けなかった。
圭ちゃんは、サークルを引退した後も、たまに部室に顔を出した。その時も特にユカと親しげな素振りは見せなかった。圭ちゃんたちの追い出しコンパの時も、他の女子の中には泣きながら圭ちゃんに挨拶をしている子もいたが、ユカはあっけらかんとしていた。逆にそれが不自然と言えば不自然だった。
今思うと、当時、ユカと圭ちゃんは皆に内緒で関係を持っていたのかもしれない。
圭ちゃんが卒業して就職してからは、私たち四人は圭ちゃんと会っていなかった。連絡すら取っていなかったと思う。たまに、他のサークル仲間の噂話から圭ちゃんの近況を小耳に挟む程度だった。
やがて私たちは大学を卒業し、私はすっかり圭ちゃんのことを忘れた。そして、就職して四年目の秋、ユカは同じ会社の男性、五歳年上の平出さんと結婚した。
当時流行りの、小洒落たレストランを借り切っての結婚式の二次会に、圭ちゃんが現れた時は驚いた。ユカが呼んだのかと思ったがそうではなかった。
「圭ちゃん、こっち」
そう手を振ったのは、仲良しグループのカナコだった。
「ジャン。実は私たち付き合ってまあす」
「え、え」
半年ほど前、街でばったり会って、ちょうどその頃二人ともフリーだった縁で、付き合い始めたのだそうだ。
圭ちゃんは新郎新婦の前に立つと、爽やかにお祝いの言葉を言った。
「この度は、ご結婚おめでとうございます。お二人で幸せな家庭を作ってください」
ユカはアイドルタレントのように唇の両端を上げ、答えた。
「ありがとうございます。圭ちゃんとは久しぶりね。今日は来てくれてありがとう」
ユカの長男、セイヤ君が生まれたのはユカの結婚式の一年半後である。ということは、結婚後にユカは圭ちゃんと関係を持ったと言うことになる。いわゆる不倫だ。あの時、怖ろしくて訊けなかったが、今も圭ちゃんとの関係は続いているのだろうか。
今、カナコと圭ちゃんは一緒に住んでいるが、事実婚という関係のままで入籍はしていない。カナコは「子供ができたら籍入れると思うけど、今のところ考えてない」と言っているが、もしこのまま二人に子供ができなかったら、どうなるのだろう。もし圭ちゃんが、セイヤ君が自分の子供だと知ってしまったら、圭ちゃんはどうするだろう。カナコはどんな気持ちになるだろう。圭ちゃんとカナコの関係は、今までのままでいられるだろうか。カナコとユカの関係も。
これは、カナコには知らせたくない。疑惑すら持たせたくない。私はどうしたらいいのだろう。仲良しグループのもうひとり、サクラに話したいが、ユカの言う通り、それは危険なことだ。
私は、考えなしに見舞いに行ったことを後悔した。
ユカは私に秘密を打ち明けスッキリしたと言っていた。彼女はそれまでひとりで背負ってきた重荷を、私に半分預けたのだ。いや半分どころではない。彼女がいなくなったら私が全部背負うのだ。
突然背負わされた重荷に、心が沈んでいくのがわかった。
「忘れてしまえ」
ユカの打ち明け話など、忘れてしまうのだ。何も聞かなかった。セイヤ君は圭ちゃんの子供なんかじゃない。もしいつか、彼女が死ぬ時が来ても、私さえ黙っていれば誰にも知られないで済むのだ。わざわざ平出さんやセイヤ君、カナコと圭ちゃんに波風立てる必要はなかろう。そうだ、忘れるのだ。それが一番。
彼女の望みには反するが、私は何も聞かなかったことにしよう。そう、何も頼まれなかったのだ。
「ユカが落ち着いたら、久々に集まろうって」
ユカが退院して三週間ほどして、カナコからメッセージが届いた。
私は、お見舞いの日以来ユカと会っていなかった。退院した時には他の友人たちに紛れてお祝いメッセージを送ったが、それ以外は連絡を取らなかった。私は彼女と話すのが怖かった。普段通りに接する自信がなかった。ふとした瞬間に、言葉の端に漏らしてしまいそうな気がするのだ。
口止めされている以上、サクラにも相談できない。忘れようと決心したが、簡単に忘れられるわけはない。気持ちが落ち着くまでしばらくはユカと会いたくなかったのに。
「圭ちゃんも連れて行っていい? 」
メッセージでそう訪ねたカナコに、ユカは軽く返事をしていた。
「いーよー。うちも旦那がいるし」
圭ちゃんが来る。
私はドギマギした。どんな顔をして圭ちゃんと接すればいいのだろう。せめて家にセイヤ君がいないことを祈るのみだ。
金木犀の香る土曜の午後、私たちはユカの家を訪問した。
ユカと平出さんが玄関で出迎えた。子供たちはそれぞれクラブ活動で出掛けているということで、とりあえず私は安堵した。
ユカは病院の時と違って今日はナチュラルメイクをして、実年齢より五歳は若く見えた。圭ちゃんが来るからか、などど勘繰ってしまう。
「圭ちゃんも来てくれたんだ。久しぶりね」
なんでもないように圭ちゃんに挨拶するユカに、私は学生時代の胸騒ぎを思い出した。
サクラは「お茶うけに」と有名なパティシエの焼き菓子を出し、私も高級ブドウを渡した。
カナコがワインのボトルをユカに見せた。
「退院祝い。ご主人と飲んで」
ユカが好きそうな銘柄のワインだ。
「ありがとう。高そうなワイン」
これも圭ちゃんがユカの好みに合わせて選んだのではないかと、下衆の勘繰りをする。ああ、つい余計なことを考える自分に嫌気を感じる。何も知らなければこんな思いをしなくて済んだのに。
私たちはリビングのソファに促されて座った。平出さんはL字型のソファの端、隣に圭ちゃん、カナコ。ユカは平出さんの向かい辺りに寝椅子を置いて座った。「病み上がりなんだから」とソファの席と替わろうとしたサクラに「もう全然病み上がりじゃないわよ」とユカは朗らかに笑って断った。
私は圭ちゃんとなるべく離れたかったので反対側の端に座った。
カナコと並んで座る圭ちゃんは、若い頃より落ち着いていい感じの渋いオヤジになっていた。髪の毛が薄くなっている平出さんと比べるのがかわいそうなくらいだ。ユカはこの二人を見比べて、何も思わないのだろうか。圭ちゃんと結婚しなかったのを全く後悔しないのだろうか。
「カナコさんたちは結婚しないんですか」
悪気なく尋ねる平出さんを、ユカが嗜める。
「そういうの、聞いちゃダメなの。ハラスメントになるから。会社とかでもダメよ。ごめんね、うちの、無神経で」
「いやいや、別に気を遣わなくても大丈夫ですよ。よく訊かれるし。子供いないから特に必要に迫られないんですよね。いずれは籍入れるかもしれないですけど」
圭ちゃんが答える。
「子供、作ればいいのに」
ユカの言葉に、今度は平出さんが口を挟む。
「ほら、だからそういうのは」
「いいのよ、私たちは。ねえ、作らないの。まだ全然大丈夫な年齢よね」
カナコが答える。
「ううん、今更もういいかな。圭ちゃんも私も、ちゃんと子供を育てられる親になれそうもないからねえ。これから産んでも子供が成人する頃には二人共60過ぎだし、キツいわよ。ま、二人だけでのんびり生きるわ」
「へえ、そうなんだ」
ふたりが子供を持たないという意志を確認して、ユカがほくそ笑んでいるように見えたのは、きっと私の思い過ごしだろう。
ユカがキッチンに紅茶の茶葉を替えに行ったタイミングで、私も席を立った。
「ねえ、本当に、本当にあの話、本当なの? 」
「あの話って」
「セイヤ君の父親の話」
ユカは私の唇に人差し指を当てた。
「こんなとこで不用心に言わないで」
「ごめん、でも、本当なの? 」
「さあ、どうかしら」
「どうして私だけに打ち明けたの」
「……あの時ね、ちょっとイラッとしたのよね」
「何が」
「入院する時にね、一週間やそこらだから、旦那に、親戚にも知らせなくていいよって言ったの。だけど、あの人、大袈裟だからみんなに言っちゃったのよね」
「普通、女の人って病気で弱ってる姿を他人に見られたくないじゃない。だから、よほどの大病じゃない限り、逆に気を遣ってお見舞いに行かない、みたいなのあるでしょ」
「うん? 」
「親戚以外でお見舞いに来たの、あんただけだったから」
「じゃあ、あれは嘘だったってこと? 」
ユカは横目で私を見ると、フッと曖昧な笑みを残して、皆の元へ戻っていった。(了)