閑話:眠れない夜
雲が流れる。闇色が空に浮かぶ月を端から侵食していく。部屋の窓際に身を寄せて、ただ凝と夜空を見上げていたアリスの顔に影がかかる。夜の街並みは閑散としていて、みていて面白いものでもない筈だが、彼女は月が隠れたことにすら気付かないようで、尚、物憂げに空を見上げていた。
寝付けない夜。横になって目を閉じると、奥底に刻まれて未だ色褪せない願いが心を揺さぶる。
「彼……いや、その人に会えたら……思い出せるのかな……」
灯の無い、真暗な部屋に小さな呟きが響く。その声はひたすらに重く、苦悩に満ち、どこか寂寞としたものを含んでいた。
暫くして、未だ外を虚ろに見つめているアリスの目に、人影が通りかかるのが映る。夜の街は人通りが少なくはあるが、時たま人影があるのは珍しい事でもないのに、気づけば彼女はその影を目で追っていた。
どこか見覚えのあるような背格好が、記憶をくすぐった。暗がりではっきりとは見えなかったが、わずかな朧月の明かりに照らされるその姿に、思い当たる人がいた。
その人だとすると何故こんな夜半に外出するのか、理由が見当もつかなかった。夜の街は人通りが少ないが故に危険で、油断していると人目に付かないうちにキールの闇に呑まれてしまうことがある。拐かされたり、襲われたり、売られたり、翌朝に動かなくなって見つかったり。……少女に酷い目に遭って欲しく無い、とアリスはさっきまでの陰鬱な気持ちも忘れて、外出の支度を急ぐ。薄いネグリジェの上にコートを羽織って、取り敢えず外に出られる格好になると、足早に人影が去っていった方へ足を進める。
小道を覗いて、その姿を探しながら街を進んでいく。暫くして漸く、広場の中心、夜闇の黒に染まった噴水の縁に腰掛けて、空を見上げている少女の姿を見つける。
「……イリア」
やっぱり思っていた人だった、とアリスは無事な姿で少女を見つけられたことに安堵して、声をかける。少女は声に気がついて、少し驚いたような顔をする。
「アリス……?こんな時間に何で?」
「こんな時間に、はこっちの台詞だよ。危ないでしょ、夜に一人で出歩いたら」
少女は決まりが悪そうに、ごめんなさいと謝る。アリスは少女の横に並ぶように腰掛ける。
「窓の外を見ていたら、イリアちゃんが外に出ていく姿が見えたの。……それで、何でこんな時間に?」
理由を聞くと、少女は僅かに表情を変える。暫く沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開く。
「私が吸血鬼だって……ずっと眠ってたって……この前、伝えましたよね」
うん、と頷く。
「眠りにつく前。……殺されかけたんです、ついさっきまで仲良くしていた人達に。――端的に言うと、その時の光景がフラッシュバックして、眠れないんです」
少女は分析するように、平坦な口調で淡々と言う。いや――一見、冷静なようにみえるけど、言葉の端端が微かに揺れている。膝の上に揃えられた両手は爪が食い込むくらい、きつく握りしめられて震えている。……多分、表面だけでも平静を装わないととても言えないような酷い経験をしたのだろう。強がっているように、ギリギリで耐えているように、今にも折れてしまいそうに、アリスの目に少女は危うげに映った。
「偶にあるんです。唐突に夢に出てきて……そして飛び起きる。――起きた後は息が乱れていて、怖くなるんです。横になって天井が見えるのが怖くて……急に扉が開いて、なんて嫌な想像が頭にこびりついて離れなくなるんです」
――だから、天井が見えないお外に気晴らしに出かけようかなって。危ないな、とは頭では理解していたんですけれど、どうしても我慢出来なくて。と少女は少し恥じるように言う。
「……そう……大丈夫?」
アリスは、予期していたよりもずっと重い話に、何か反応を返そうと口を開いたり閉じたりして、結局何の言葉も不適切なように感じられて、不器用な言葉をかける。
「大丈夫……って言いたい所ですけど、まだ少し……怖いです」
だから、あとちょっと……もう少しだけ、お話に付き合ってくれますか?――少女はそう言い、アリスは頷く。
「こうやって座って噴水の穏やかな水音に浸っていると……少し落ち着きます。アリスが居てくれるだけでも……ほら、震えがちょっとマシに」
少女はぎゅっと握られた震える手をゆっくりと開いて見せる。……アリスには、ある種の痩せ我慢、あるいは心配かけまいとする彼女なりの気遣いのようにしか見えなかった。それほどに、少女は辛そうで、苦しそうで、泣きだしそうですらあるように見えた。
少女は空を見上げて言う。
「……天気が良くて、お月様が顔を見せてくれていたら、どんなに心が紛れたことでしょうね」
「うん、本当に。昼は晴天だったのに……急に曇っちゃったね」
雲の隙間から月光が差して、アリス達を照らす。丁度空を見上げて、天候の話をしていた所の偶然に、二人は黙って雲の狭間に浮かぶ月を見つめた。黒色の空をぼんやり白く照らす月は、真ん丸で、美しくて、壮大で……こうやって“あの人”も何処かで空を見ているかもしれない、とアリスにそんな感傷を齎した。
「昔……ニーアと一緒に……こうやって並んでお月様をみたなぁ……」
感傷に浸っていたのはアリスだけではなかったようで。少女は瞳に空を映して、そう呟く。少女の開いた目から雫が頬を伝う。その一滴を皮切りに堤防を決壊したように、ボロボロと涙が流れ落ちた。
「ぁっ……あれ……何で、何で涙が……出て……」
表情を少し歪めて、自分が何故泣いているのか分からないといった風に少女は目元を拭う。拭っても拭っても涙は次々と溢れ出す。
限界が来てしまったような少女の様子に、アリスは酷く同情して、その自分と比べても一段小柄な少女を抱き寄せる。震える背中に手を回して抱きしめて、片手で慰めるように小さな頭を優しく撫でた。
閑静な夜の街角に、押し殺した泣き声だけが響いていた。
本編は沢山かけてはいるけれど、細かいところを手直ししている最中。一気に更新予定




