最終日
トビアスと両親にとって、慌ただしい一日が過ぎた。
朝から真剣に荷造りするトビアスの腕は、肘まで黒くなっている。なんとか肩掛けカバンに詰め終わったころには約束の時間になろうとしていた。人生の大半を過ごした自室を出ると、一階のリビングに降りていく。
ダイニングテーブルには証明書が一枚と、両親からの手紙が二通と、それからトビアスが食べるには多くの大きな弁当が置いてあった。手紙と弁当を一生懸命肩掛けカバンに入れていると、玄関のベルが鳴らされる。トビアスが出迎えると、三人の悪魔が立っていた。
「みんな、おはよう」
悪魔たちがそれぞれ挨拶をしてくる。トビアスは父がやってくれるようにドアを抑え、三人を家の中へと招き入れた。
「ご両親にさよならはしてきた?」
「うん。きのうと今朝は、いっぱいハグしてもらったよ」
ニアへ満面の笑みで答えるトビアスの瞳はほんの少し陰っていた。それでも笑顔で証明書をニアに差し出してくる。
「ぼくたちのお名前、かいたよ」
ニアが受け取り、書類に目を通していく。
「はい、確かに。ハルディン、ヨノン、あなた達もお願い」
「ええ。任せて」
「承った」
ハルディンとヨノンの両名が、どこからともなく羽根ペンを取り出す。魔力の込められたインクがペンからほとばしり、後見人の欄に二人分の署名がなされた。見たことのない魔法に驚くトビアスの前にニアが立つ。ひざを折り目線を合わせ、一通の手紙を差し出す。
「昨日は嬉しいお手紙をありがとう。お返事を書いてきたわ。それからこれは、悪魔アガレスとしての贈り物」
ニアが指を鳴らすと空中からネックチョーカーが出現する。本体は細い革製で、コウモリを模した小さなシルバーアクセサリーがついていた。
「かっこいい! ありがとう、ニアお姉さん!」
「喜んでもらえてよかった」
ニアにより、ネックチョーカーがトビアスの首に装着される。
「よく似合ってる。かっこいいわ」
「おてがみ、もうよんでいい?」
「それは大人になってから読んでね」
「えぇ〜〜」
クスクスと笑うトビアスの肩にニアが優しく触れる。柔らかい光が強く二人を照らした。
「じゃあ、最後の贈り物をさせてちょうだい。新たな悪魔アガレスの誕生日よ。おめでとう、トビアス」
ニアの体が緑色の炎と化し、トビアスの周りを勢いよく取り巻く。それも一瞬の事だった。炎がトビアスの体へ吸収されていく。腕の黒ずみが消え、背中にはコウモリに似た小さな羽根が生えた。
「ニアお姉さん……ありがとう」
トビアスの手元に滑りこんだ悪魔の証明書から、小さなカードが排出される。トビアスは自分の顔写真と住所などが記載されたカードを、興味深そうに眺めた。
「これはなぁに?」
「悪魔の身分証明書よ。無くさないようにね」
「はい」
「書類は国に提出しなきゃいけないから、アタシが預かっておくわ」
「ハル先生おねがいします!」
歩み出たハルディンが、大切そうに書類を受け取る。
カバンの一番奥へ手紙と身分証明書を入れようと奮闘するトビアスの頭を、ヨノンが何度か撫でた。
「うむ。健康状態に問題はないな」
「それならよかった。力の暴走とかもなさげ?」
「まだ大丈夫だろう。なんだ、臆したのか教授」
「違うわよ。ただ、アタシの先生みたいな方だったから」
「まあ、感慨深くはあるな」
悪魔たちが感傷にひたっていると、肩掛けカバンの重みでふらつくトビアスがいきなり走り出した。
「うわーーん! 止まらないよぉ!」
「あっ。暴走したな」
「とーめーてー」
「トビアス。カバンに『止まれ』って思ってごらん」
勢いよく止まったトビアスが、カバンの重みやら反動で倒れかけたところを、ハルディンが優しく受け止める。
「カバンはヨノンに持たせましょうね」
「はぁい……」
久々に走って息切れしたトビアスが、カバンをヨノンに預けた。
「試運転としては上々だな」
「ぼくがこうなるから、お父さんたちはここにいちゃいけなかったの?」
「そうだ。アガレスの能力はとても強力で、時間を操作するんだ。暴走した状態で人に接するのは危険をともなう」
「またお父さんたちに会えるの、いつかなぁ」
「半年もすれば暴走しづらくなるだろう。寂しいようなら、手紙を書くといい」
「うん……」
手を打ち鳴らす音がダイニングに響き渡る。
「さあさあ、行きましょう。やることはたくさんあるわ」
「もう少し感傷にひたらせてやれ。これだから年齢三桁の悪魔は」
「んもう。ニアはいなくなっちゃけど、トビアスにはご両親がいらっしゃるじゃない」
軽い漫才にも似た掛け合いに、小さな影が割って入る。
「ぼく、なかないよ。行こう」
トビアスが大きく息を吸う。
「お父さん! お母さん! 行ってきます!」
年長者の悪魔達が顔を見合わせ微笑む。
二人に手を差し出されたトビアスが両手をつなぐ。三人の足元に大きな転移魔法陣が現れ、光の柱を作った。
「これはなに?」
「転移しているんだ。念のために安全装置をつけている」
「そうなんだ。これが、おひっこし?」
「そうだ。一軒家を譲り受けたから、さっきみたいに暴走しても問題ないぞ」
空いた手でヨノンに撫でられ、髪をかき乱される。光の柱が消えると、そこは森の中だった。手入れがされているのか、森の中は意外と明るい。
トビアスたちの目と鼻の先に新居があった。
「あたらしいおうち!」
トビアスがはしゃぐ。赤い屋根が目立つ、大きな家は誰か住んでいるといってもいいくらい綺麗だった。
三人が家の中へと入っていく。
ニアから贈られたネックチョーカーのペンダント部分が、トビアスの首元で誇らしげに輝いた。