96.狡猾
東部教会の信用を守る他にも、母さんを処女受胎だとした理由があった――
それは母さんが生まれ、僕が育ったあの教会にあることを、大司教は打ち明ける。
「東部の教会では有名なことなのですが、あの教会に修道女が行くと聖女メリアの呪いがあると言われているのです」
僕たちは多分、大司教から見れば訝しんでいるような表情をしただろう。
実際には、嫌というほど知っていることだから、またその名前が出て来るのかとちょっとうんざりした気分だった。
だけど大司教は、この話を信じて貰えないと思っていたらしい。とても言いづらそうに、だけど信じて欲しいと懇願するような目で訴えた。奇跡認定が難しいように、不祥事隠しの言い訳だと受け取られるかもしれないという不安があるのを感じる。
「迷信だと思われるかもしれませんが、事実として伝えられていますし、非公式ですが派遣も禁止されています。……ただ、破門した元修道女なら大丈夫なのかということについては、前例がないので判断がつかなかったのです」
「メリア…」
表向きの顔を作ることに慣れている聖者様だけは表情を崩していなかったけど、人には聞こえないような小さな舌打ちとともに苦々しく呟いた。
ルルビィに関することには、心が狭いというか容赦がない聖者様だ。さすがに憎むような感情は抑えているようだけど、思い出して良い気分にもなれないのは当然だろう。
だけど今の話の通りなら、メリアの存在があったからこそ母さんは修道女でいられたことになる。僕もリュラに出会えていない。
世の中は、何がどう影響するか分からないものだ。
「迷信とは思いません。私もこの目で見ましたから。そして、メリアの魂が天に召されたことも見届けました」
大司教たちはしばらく唖然とした後、ようやくその意味を理解して、それぞれに声を上げた。
「では、もう呪いはないと…?」
「聖者様が悪霊を退けられたのですか?」
確かに――聖者という、何でも納得させてしまう肩書を持つ人から今の話だけを聞けば、そう考えるのも無理はない。
それにそんなふうに思われていたほうが、信仰のためにも、僕が今後また何か常識外れなことをしてしまったときのためにも都合がいいのは分かってきたから、誰も否定はしない。
…こんな考えを持ってしまうあたり、僕もやっぱり聖者様に影響されているようだ。
「全ては神の導きです。ですから……もう修道女を派遣しても問題ありません。不安があるなら、まずは司祭や修道士を派遣してはいかがでしょう」
聖者様は、にっこりと微笑んでそう提案したあと、一転して厳しい口調で付け加える。
「過疎地はどこも人手不足ですが、あの教会は目に余ります。禁止されていなかった男性の聖職者まで派遣されなかったのは、ライン家の一族運営に甘え過ぎではないかと思いますが――今後、積極的に派遣されるようなら、私も教皇庁への報告はメリアの件だけに留めましょう」
さっきまでの慈悲深い声との落差で、余計に逆らいようもなく聞こえた。
ああ、これが狙いだったから、もうルルビィのために弱みを握っておく必要もないのに暴いたのかと理解する。
言い方が完全に脅しなのはどうかと思うけど、それで助かるのはおじいちゃんたちだから、感謝すべきだろうか…
「……無理強いは難しいですが、何とか説得いたします…」
そう言って大司教は、再び頭を下げた。
人の恐怖心はなかなか薄まるものじゃない。男性の聖職者からも不吉に思われて避けられていたのだから、そう簡単にはいかないだろう。
それでも、他ならぬ聖者様が問題ないと言い切ったのだ。
ここでも、聖者ならと何でも納得させてしまう世間の認識が役に立ってくれるだろう。
それはいいとして、やっぱり僕としては大司教に対して申し訳ない気持ちが続いている。
東部教会と自分の保身の意図があったとは言っていたけど、母さんの身を心配してくれたのも本当のことだ。
いろんな事情が重なって、処女受胎だという結論になった。そしてそれは、実際にそうだった。
人間の行動や考えは複雑だ。完全な悪人や善人と言い切れる人はなかなかいない。
正直に言えば聖者様だって、悪いとは言わないけど狡いところがあると感じる。
口出しするなと言われていたけど、さすがにいたたまれなくなってきた。
「聖者様…今は母も忙しいですから、後は明日にしませんか」
畏まった場で、久しぶりに聖者様に対して「母さん」じゃなく「母」という呼び方をした。
僕もいつの間にかすっかり、みんなの前では砕けていたなと思う。
「やはり神に授かった子だけあって、寛容ですね。彼の言う通りにしましょうか」
聖者様は、僕に目をやって微かに笑う。
やられた。
これは多分、僕がこんな言動をするのは見透かされていたんじゃないか。少なくとも神が寛容だなんて思っていないだろうし、僕が元から東部教会に不満を抱いていないことも知っているのに。
その上で「神に授かった子」と発言して、東部教会の結論に異を唱えないことを暗に伝えている。
こうやって、恩着せがましいような、相手に負い目を感じさせるようでありながら、慈悲でそうしていると思わせる流れで一旦話を終えた。
大人の交渉術ということかもしれないけど、やっぱりこういうところが、狡くて質が悪いと思う…




