74.幻想
もともと椅子に座っていたシャシルと、立ち上がりかけながらの不安定な体勢だった僕は、あの投げ飛ばされるような衝撃でそのまま崩れるように転んでしまった。
そこは当然、教会の床の上ではない。
満月の光に照らされた岩場だった。
背後に鬱蒼とした木々はあるけれど、ここは少し開けている。何より目の前の岩場の下に湖が広がっているから、月光を遮る物がない。
「ついて来たのかよ、反応早いなぁ」
相変わらずタタラは、転んだシャシルより僕の行動を面白そうにしている。
肉体がないから助け起こすとかは無理なのかもしれないけど、もう少し気遣いは出来ないんだろうか。
「逃げないって言ったのに、何してるんだよ!」
警戒はしていたけど、あまりにあっさり逃げ出されて、つい声を荒げた。
「だってあんな調子じゃ、もうどうにもならなそうだっただろ。俺がいつまでもいられないってのはホントだし、シャシルを逃がさないとは言ってないし?」
確かに話は、行き詰っているように感じたけど。
シャシルはゆっくりと立ち上がり、湖のほうへ歩きながら夜空を眺める。
「……もう、ここにこだわらなくて良かったんだけどね…」
何となく感じていたけど、僕が隣村に行っていた間に、何かやり取りがあったんだろう。
シャシルは連れて来られたことを、驚きもしていなかった。
そして岩場の淵まで足を進めると、また座り込んで湖を覗き込み、力なく呟く。
「やっぱり、今日が一番近かったね…でも溺れるなんて苦しそう……」
僕も立ち上がって、シャシルの側まで行ってみる。そして同じように淵から下を眺めると、湖面までかなりの高さがあった。
「もしかして、ここから飛び込むつもりだった?」
訊いてみたけど、シャシルはぼんやりと湖面を眺めている。
しばらくして溢した言葉は、僕への答えなのか、独り言かもよく分からなかった。
「フィナはここまで来たことはなかったんだよ。小屋の近くに湖があるって話したら、見てみたいとは言ってたんだけど。ここまで来たら採取して帰る時間はないし、何も採れずに帰ったら、フィナがあの父親に怒られると思って」
小屋の近くということは、樹海の中だ。
もっと高い位置から見渡せていたら気付けたかもしれないけど、転移先を見つけるためになるべく高い木ばかりを探していたから、こんなふうに木々が途切れている場所には注意していなかった。
ふと思い立って気配を探ってみると、幻妖精たちの気配が感知ギリギリの範囲にある。
聖者様の気配を追って移動したのか、元の場所で待機していたのかは分からないけど、どちらにしても直線距離なら村まで一日で往復できない場所じゃないと思う。
シャシルがフィナを連れて来られなかったのは、地形的に辿り着くのに時間がかかるということだろう。それなら、飛んで来られる幻妖精たちには問題はない。
気付いてくれることを祈りつつ、僕は全身を思い切り光らせた。
…分かっていたけど、やっぱり何となく恥ずかしい。
「何だよ、目眩しのつもり? シャシルはともかく、俺には大して効かないよ?」
「あ…」
シャシルが眩しそうに両手で目を押さえているのに気が付いて、僕はすぐにやめた。間近にいたシャシルは、数秒くらい影響しそうだ。
「……オバケもだけど、聖者様の使徒も変なんだね」
タタラと一緒にされるのはかなり心外だけど。シャシルにしてみれば、どっちも常識から外れているという意味では変わらないだろう。
何度も瞬きをしてようやく視界を取り戻したらしいシャシルが、それでも怒りもせずに無表情にまた湖面を見ながら呟く。
「私を村に連れ戻す気だったの?」
「そういうつもりじゃなかったんだけど…でも戻って欲しいとは思うよ。だけどどうしてタタラがここに連れて来たかも分からないし、今すぐ無理にとは思ってないよ」
タタラもシャシルの横に立ち、同じように湖面を覗き込む。
「俺もどうしてここなのかは知らないんだよね。フィナってのは、どういう死に方をしたがってたわけ?」
そう言われたシャシルは、今度は夜空に視線を移した。
「湖に映る満月に飛び込んだら、綺麗だろうなって……」
だから、満月の今日を選んだのか。
そう理解して、湖面を覗き込んでみた。だけど月が映っているのは、この岩場よりも少し離れた場所だ。
「最初は楽な死に方を探してたはずなのにね。綺麗ってだけで本気じゃなかったのかも……実際に来てみたら、飛び込める場所からは月に届かないし、想像してたより小さいし…」
きっと想像の中では、もっと大きく映った満月の中に落ちていく感じだったんだろう。それは確かに幻想的とも言えるけれど。
「最初に来たときは、一晩中見てたんだよ。でも一番近く見える真上に来たときでもあんなに離れてるでしょ。別の季節ならもしかしてと思ったんだけど…毎回離れていって、半年前からまた近づいて来たから、やっぱり今の季節が一番近いんだよ。今日は理想に一番近かったはずなのに……フィナが本気じゃなかったかもって考えたら、私は苦しそうな溺死は嫌だななんて思っちゃった…」
そう言うと、シャシルは膝を抱えて顔をうずめてしまった。
家出してから1年かかった理由は分かった。それに満月が条件だったなら、フィナの説明の違和感も何となく分かる。
「最初に死のうとした日に帰らなかったのは、人を案内して遅くなったからじゃないんだね?」
夜の樹海は、松明の明かりくらいじゃまともに歩けないと言っていた。
夜になって湖に映る満月が想像と違うと分かっても、その日は帰れなかったはずだ。
シャシルは膝に顔をうずめたまま頷く。
「人を案内したのは本当だけど、それは帰り道でだよ。『ありがとう』って言われて、死にたい人を手伝おうって思ったのも本当」
声が少し、震え始める。
「だから、何回かは満月の日に見に行かなくちゃと思ったけど、お父さんたちに心配されてもう通えないと思ったのも本当……それでもう帰らないつもりで着替えも持ってきたのに、裁縫道具までは持ち出せなくてこんなにボロボロになっちゃった。……疲れたよ、今さらやめたって、フィナや死んだ人たちを思い出すのが苦しい。だけど本当は死ぬのも怖い。どうしたらいいのか分からない」
友達を信じられなくなった人に、どう声を掛けるべきか言葉が出て来ない。
生きてさえいれば、疑問をぶつけることも出来たんだろうけど。
「俺がシャシルの来たいって場所に連れて来たのはさ、逃がすためじゃなくて最終手段を説明するためなんだよね」
タタラが、少し体を屈めてシャシルに囁く。
「最終手段…?」
シャシルが顔を上げて視線を合わせると、タタラは体勢を戻して腕を組み、大きく溜息を吐いた。
「ホントは嫌なんだけどさ。すっごい嫌なんだけど。シャシルに自殺されるのは最悪だから、それよりはまだマシってだけなんだけど」
かなり勿体ぶって、首を横に振る。
だけど実際に嫌そうな顔もしている。
「どうしても耐えられないって、自分で死ぬくらいだったら……」
そして、真顔になってジッとシャシルの目を見つめる。
「俺が、殺してやるよ」
次話「前世」、6/14(金)夕方頃に投稿予定です。




