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踊り子と結婚  作者: 言代ねむ
9/9

9《再生》

 エスコートしていた手を逆につかまれた驚きも表現できないまま、軽やかに走り出されて、わたくしは前にのめりそうになりました。とっさに悲鳴を飲み込みます。

 つま先を詰め物で長く尖らせた流行の靴は、突然の方向転換に不向きです。ましてや今日は、明け方に降った雨のせいで中庭の土がぬかるみ、ぬかるみを歩くために、普段より底の高いオーバーシューズをわたくしは靴の下につけているのです。

 よろめく背後の身体にかまわず、手をつかんで進もうとする相手に抵抗を試みるものの、引きずられてわたくしは恐怖します。こんな状況を母上に目撃されようものなら、どれほど深くため息を吐き出されることでしょう。

「待ち……、待って下さいっ」

 必死に声をかけます。相手が片腕で抱えるように裾を引き上げたスカートの下で、わたくしと同じ底の高いオーバーシューズの動きが止まりました。ただしこちらは靴そのものも、足の甲にかけた皮のストラップで固定させたオーバーシューズも、つま先の長さがまったく違います。流行遅れのデザインが備え持つ機能性を恨みます。

 わたくしはこの状況において、なぜその顔が不思議そうなのかと問いたく思います。

 腕が伸びきって低く崩れた体勢から、呼吸を乱してわたくしはたしなめました。

「貴婦人は、男性、の……手、を、にぎって、駆け出す……ものでは、ありません」

 相手は琥珀色の瞳を端によせ、わずかに考え込む仕種をみせたあと、淡くそばかすの散る頬を健康そうにつやめかせ、どこか子供じみた口調で胸を張ります。

「だって私、貴婦人じゃありませんもの」

 そのこめかみのあたりにこぼれた明るい栗色の髪が、草花や建物のレンガの間に残る雨水の匂いを含んだ風に、そよそよとなびきました。わたくしは目に映るものに焦点を定められず、己の耳を疑っていました。

 やがて理解に至り、ふつふつと沸き上がる感情を精一杯堪えます。あなたはわたくしの、この国の王子の妃でしょう――と叫びたいのですが、その妃の名前を覚えていなかった己に、云い返す資格はありません。

 不満を消しきれずに凝視していると、皮の厚げな顔の動きで、娘は跳ね返すようなまなざしです。

「だって、王妃様にも云われてしまいましたもの。私に、多くは望んでいないって。だからたちふるまいの完璧な王子妃にならなくてもいいんです、私」

 大胆な態度です。呆気にとられます。いえ、めまいがします。太陽の光を浴びて倒れる虚弱な己が、太陽への不条理な非難の言葉を脳裏に渦巻かせるときの気分が甦ります。

 己とも己の理想とも異なる人間が存在し、それが不可解なほど強く生きているという神秘について、考え込んでいると娘が告げます。

「王妃様のお望みは、子供だそうです」

 口調が温度を変えていました。娘を見つめ直します。頭上を厚い雲がよぎって、陽光に熱された肌がつかの間冷やりとするのに似た感覚を味わいました。

 娘は慎重な様子で言葉を並べました。瞼が深く下ろされ、長くそろったまつ毛が胡桃色の影を陰鬱に瞳に重ねます。

「国が滅んでも生き延びるくらいのしたたかな子供だそうです。……だから私、貴婦人じゃなくてもいいんです」

 胸に鋭く落ちる意味がありました。それ以外は必要ない、という無慈悲な拒絶です。

 シーツを被るように絶望感がふわりとわたくしを包みました。言葉の向こうに、わたくしを追いつめるときの逆らい難い威厳と、民への責任を負うがゆえの息苦しいまでの誇り高さで、母上が等しく存在しているのです。緊張がのどの奥をするりと冷たく滑っていきます。幼く開き直ったそぶりで語る娘は、この拒絶を知っているのでしょうか。

 唇をひき結ぶわたくしに、空虚な眼が向けられました。

 知っているのです。

 直感に震えます。彼女は十分に理解しています。わたくしの無関心に気づくことのできる彼女が、もちろんより深刻な事柄に気づかないわけがありません。

 瞳に映る白濁したかのような感情の色合いを、わたくしはよく知っています。重い沈黙を覚悟した次の瞬間、裏切られました。

 娘の瞳は明るく色を変え、唇からは踊るように軽い声が放たれます。

「そんなわけなので気にされないで馬小屋へ急ぎましょう。私、王子様と馬に乗ってみたいです」

 やさしく沈んだ空気、苦くさびしい共感がたちまち手軽な笑顔に消し飛んでいました。再び引きずられ、我に返ったわたくしは、名残りを惜しむ余裕すらない状況に青ざめます。

 待ってください、と手と腕を捕まれた身体をかたくします。顎をそらした娘がますます子供のように声を高くしました。

「嫌です。私と一緒に散歩してくださる約束じゃありませんか」

 確かに……ですが、と云い澱みます。刹那にいくつかのうまくない云い訳と、一つのそれらしい云い訳、二つ三つの話題をそらす方法を思いつきます。

 なにか子供の頃にも似通った状況に陥ったことがあるような気がします。気のせいでしょうか。

 胸の内に選択肢を並べて、どれが王子たる己に相応しい態度なのか、どれならばこの場を丸く収められるのかと検討します。選択肢にはあきらかな偽りも含まれましたが、嘘を通すぐらいのことは難しくありません。城での常識など知らない娘なのですから、理由を作りつけて都合良く云い含めることができます。

 けれども――と静かな声に変換された別の思考が、選択肢を選びとろうとする心の動きを遮ります。


 けれども、わたくしはこれで良いのでしょうか。


 ずいぶんと長く、この方法で持つものの少ない身を守ってきましたが、最良の方法であったのでしょうか。わたくしが作る世界は一度砕けて飛び散り、また作っても崩れて押しよせたではありませんか。偽りで欺き、必要なものの欠けた己を欠けたままに許していつまで先があるのでしょう。

 疑問が浮かぶと、誰かがすうっと、胸深く空気を吸い込む気配が蘇って胸に響きました。

 突然に視界に鮮明になって広がり、ぬかるみに浸る雑草の葉先の水滴に映る世界の形まで捕らえました。耳は蝶の羽ばたきを拾い、肌は空気の湿度をはかり、馬小屋の干し草に混ざる糞尿から古びた小屋の柱の匂いまでを嗅ぎとりました。

 澄まされた感覚でわたくしは記憶された誰かを判別します。

 あれは、この娘です。

 この娘がわたくしに己への認識の程度を問いただしたときの気配です。真っ正面から事実に向き合う気配です。

 娘は――追求してそこに酷い苦痛をともなう事実を見つけてしまうことを、恐れなかったのでしょうか。うとまれて身一つで城を追い出される可能性や、わたくしの無関心を明瞭にしたときの己の存在の揺らぎを、考えなかったのでしょうか。

 考えたはずです。そうでなければ、口を利かなくなるより以前の、おどおどとした遠慮がちな態度の説明がつきません。母上から与えられた得ることの容易でない特権のすべてと、壊さないよう曖昧に過ごしてきた日常の平穏を投げ出したのです。

 潔いことです。要領の良いこととは思いませんが。わたくしは称賛すると同時に、己の存在を苦いものとして捕らえます。娘が見つめる世界と、わたくしが見つめる世界はかけ離れているに違いありません。同じ覚悟を持てたなら、わたくしはどれほど心にかかる負担を痛みと引き換えに減らせるのでしょうか。

 側にある細い背中を視野の中心に置いて、わたくしよりも拠り所のない存在である娘が独りで選んだ痛みを想像し、せめて誠実でありたいと願いました。

 ああ、でも、どのような顔で、それを、どのような言葉を選んで、私は伝えるべきなのでしょうか。参考とする経験もないわたくしは、幼な子のような不器用さで事実を差し出すしかありません。

 ただ困り果てた顔で薄情します。

「不得手なのです」

 娘はぬかるみに吸い込まれるように足を止め、ふり向いてわたくしをじっと丸い眼で捕らえます。

 なにがですか、と尋ねます。

 わたくしは低くくぐもった声で早口に、乗馬です、と目をそらしました。そらしてから、曖昧にした声も急いだ言葉も卑屈なすべてが恥ずかしくなります。事実をさらした後悔が増していき、雑多な感情のままに歪んで色を変えているだろう顔を徐々に伏せていました。手を取って娘にすがっている格好になりはしないかとの懸念がありましたが、そうであってもわずかでも遠ざかろうとするように、頭は深く深く下がっていきます。

 弱みをさらした己をどう受け取られるのか、興味と恐れに胸を高鳴らせるものの、明確な反応はありません。顔色をうかがった瞬間、そうですか、と答えが返ります。

 笑いもあきれもなく、娘がわたくしを見下ろしていました。

 なにが不得手なのかと尋ねた瞬間のままに変化のない表情が、こちらの見苦しい狼狽ぶりにも無感覚であるかのようです。まごつくわたくしの手を急に解放して、じゃあ仕方ありませんね、と方向を変えてわたくしを置き去りにします。

 放心しました。

 高く持ち上げたスカートの裾の下で、ちらちらと赤い飾りのある白い靴が前後します。不慣れな事態にぼんやり見送っていたわたくしは、慌ててハーブ園へ進んでいるらしき背中を追いました。



「あれから色々と、思い浮かぶ端から考え直してみたのですが、わたくしは恥ずかしい人間だという結論に至ってしまいました」

 リンゴに似た香りがただよう幾何学式庭園のベンチに腰かけたわたくしは、大人が一人座れるほど離れて隣に座る娘に話しかけました。ベンチの後ろには一重咲きの花をピンク色に開かせたバラが、石積みの白い壁にそわせた木製のトレリスに枝を絡ませています。ベンチに触れるほど近くまで茂る葉からは、花よりも豊かに清々しい香気が放たれています。周囲を満たすリンゴに似た香りの正体がそれでした。

 石積みの壁はまた、二階に居間と複数の豪奢な寝室を持つ、居城としての建物の壁でもありました。庭園は他の三方を板壁で囲って矩形をとっています。シンメトリーに植物が配植された散策を楽しむための場所で、わたくしたちはお互いを向き合うことなく、正面を向いていました。

「従弟を恨んでいました。従弟から書簡が届けられて、来月に決まった結婚式に出席してほしいという内容であったからです」

 庭園の中央には噴水があり、わたくしはその昇り落ちる水の流れに視線を据えながら、幾度かそれを隣の娘に移動させては戻します。娘はわたくしの話に興味の薄い様子で、マンネンロウを噛んでいました。先に歩いて回ったハーブ園でつまみ採った一枝です。

「若く健康な従弟には、きっと何年も待たずに子供が生まれるでしょう。そうなれば彼と比べられて、わたくしの立場が苦しくなります。だからなぜそれらしい話も聞いたことがなかった従弟が急に、わたくしの結婚からいくらも経たずに結婚してしまうのかと恨みました」

 娘が唇に挟んでのんびり噛みつぶす針のような細い葉からは、強い森林調の芳香が流れ、ベンチの背後の壁に這わせたバラの葉の香りに勝ります。

「……思い違いです。従弟はわたくしの真似をするのではありません。わたくしが結婚したからこそ、ようやく結婚ができるのです」

 噴水の飛沫がその花弁数の多さからキャベツローズと呼ばれるバラの花に降りかかっています。まだやわらかな色合いをした葉は陽光を照り返し、根元に直線に植えられたスミレの花の紫色が、キャベツローズのピンクの花色を鮮明にしています。

「本来ならば彼は何年も前に結婚していたはずなんです。彼が結婚するのは、彼の母上が再婚なさった相手の姪にあたる女性ですから」

 庭園の隅に親指ほどの大きさの人の姿があります。青いスカートの裾でナデシコの灰緑色の葉を揺らしながら、若い二人の庭師が植物の中に分け入って、咲き終わりのバラの花を切り落としているところでした。

 お聞きになっていますか。心配になって尋ねました。はい、と返されます。

「彼の結婚は、義理の親子のむすびつきを強くするための結婚です。おそらく、彼の母上が再婚なさったときには、すでに決められていたことだったと思います。ただ彼は、己の結婚が兄のように慕うわたくしより先ではならないと考えていた」

 鼻先の空間に焦点をむすぶ横顔は無機質な印象で、彼女の意識がどこにあるのかつかめません。

「わたくしの最初と二度目の婚約者は何年も名前だけのものでしたから、彼は困っていたのでしょうけれど……顔を見合わせる機会に恵まれても、なにも申しませんでした」

 退屈なさっていますか。問いかけると、娘は、いいえ、と首を横にふります。わたくしは信じられず、質問を重ねました。では不快にさせていますか。いいえ、と娘は答えます。

 本心を怪しんでいると、わずかに間を置いて、娘が補足しました。

「わからないだけです。どう聞いていればいいのか、どう答えるべきなのか」

 わたしを気づかって発せられた様子のある言葉は、拗ねたような恥じたような感情の気配があって、存外に可愛らしい響きで耳をくすぐりました。意外だったのは口調だけではなく、その言葉が、貴婦人らしい作法がわからないから、と聞こえたことでした。

 己は貴婦人ではない、と主張しながら、貴婦人らしくふるまおうとしているのです。矛盾しています。

 戸惑いながら助言を試みます。

「……見苦しくならないていどに楽になさって、あなたがお思いになるところをおっしゃれば宜しいと思います」

 マンネンロウの風味が痛みの刺激となったのか、娘は舌先を下唇にのせて空気にさらします。爽快感のある甘く苦い香りが拡散します。幾度か息を通してひっ込めたあと、頭頂部の欠けた緑の小枝を飽いたように放ります。

「そんなわけ、ないじゃないですか」

 邪険に反応した娘は、ベンチの上に両手を揃えてわたくしのほうへ身をのりだし、ねめつけるような上目づかいになりました。

「王子様と私では、見苦しくないていども、思うところも違います」

 そんなことは、という言葉がのどを通る前にしぼみます。身をのりだした娘のネックラインが緩んで、スリットから深く肌が覗いていました。胸の膨らみの淡い影や静脈の位置が目に入って、思わず冷静に肖像画の王女と見比べていました。

「堂々とするべきだと私の教育係だという人に云われました。けれど威張るのとは違うと。一体、どんな態度ですか。わけがわかりません。私は、嫌いです。返事に困ったときには黙って微笑むようにとか、そんな曖昧なことは。高貴な人たちの常識や価値観なんてわかりません!」

 勢いに負けます。身を引いて反芻を試みますが、内容にわたくしの落ち度が見当たらない気がするのはどうしたことでしょう。まさか王子妃教育のストレスを、ぶつけられているだけなのでしょうか。王子であるこのわたくしが。

 事実が認識できたところで、やわらかに意識が遠ざかりました。

 母上――果たしてこういった感情の処理の仕方をする娘を、打たれ強いと評価するものなのでしょうか。

「肉付きは王女のほうが豊かでしたか……」

「なんですか、その感想は」

 現実逃避は躊躇なく叩きつぶされます。実に新鮮な体験です。

「心配なさることはありません。それだけおっしゃることができるのなら、あなたはあなたのままで十分おやりになっていけるでしょう」

 ひねた諦観の境地で告げるわたくしの胸の内には、暖かい陽光のようなものが差し込みます。感触すら忘れた身体の芯の部分で、血が通って機能を果たしています。感情とは肉であり、身体の一部だったのでしょうか。じわじわと脈打つそこに、心の在りかを感じます。

 生まれたときより苦痛と屈辱しか己にもたらさなかった脆い身体に、他人と等しく確かな生命力が宿ることを実感します。

 娘がわたくしに注意を向けて、咎めるのにも似た激しさで目を見開いて固まっていました。その意味を視線で問うと、思い出したように動きを取り戻し、きまりが悪そうに顔をそらします。形を整えて動かすことに慣れた身体は、滑らかな順序で重心をわたくしから遠く移していきました。

「いかがなさいましたか」

 娘はぎこちなく口を噤みます。

 ごく新しい記憶には、温かい球体のイメージが膨らんでいます。ただわたくしの心の中のそれだけが、娘の反応の前に普段と違っていた事柄のはずでした。

 答えを促すようにその名を呼びかけようとして、娘が伏せた顔から忙しく瞳を動かしてこちらを盗み見ていることに気がつきました。子供のようなその仕種が、思いついた仮定に確証を求める目線とぶつかり、娘はわずかにたじろぎました。

 お互いがお互いの瞳の底を、水瓶に素手を差し入れるのに似た感覚で掬い上げたのです。

 正体のわからない衝撃を味わいます。急に世界中の秘密という秘密を理解した気分とでも云うのでしょうか。人の心の根本までを見通せた気がしたのです。

 娘の奇妙な反応は、先ほどわたくしが無意識に笑っていたからだと確信します。己が賢者になったようでした。図らずも娘の奥深い部分に感覚が触れました。言葉に変換できない、寂しいような、かすかな喜びに戸惑うような正体に感情がざわめきます。

 ざわめいた感情が、感覚領域に放置され続けた疑問を拾いあげて思考領域に押し上げます。わたくしは単純にも、過去に己に与えられた言葉を組み替えて、幼子が大人の言葉をなぞるように娘に与えました。

「あなたは、わたくしの子を産みたいのですか」

 揺れていた娘の琥珀の瞳が、刹那わたくしを真剣に捕らえ、すぐに焦点を失って低く宙に投げられました。眉間に色濃い皺がよせられます。

「……わかりません。考えたこと、なかったんです。ただ、お城で祝福されて王子様と結婚したいと思っていました。そのあとのことは、なにも。考えなければならないとも……」

 娘は身体に入る力のすべてをゆるめたかと思うと、筋肉を背中から優美に動かして反転させ、空を仰ぎました。

「結婚してから初めてその先があったことに気づいたんです」

 空虚な瞳に空の青と流れる雲が映り込みます。うぶ毛が金色に光る横顔を見つめます。ああ、わたくしもまったくその通りです。四本の指に、馬小屋へ、と娘につかまれたときの弾力ある圧力が甦りました。

 ベンチに投げ出された娘の手に意識が集まります。関節が少し目立つ痩せた指の形などを見つめていると、不意に視界から逃げられます。娘がわたくしの視線になど気づかないで立ち上がって遠ざかるところでした。引かれるようにわたくしはいくらか前のめりになり、途方に暮れたようにベンチに留まります。

 わたくしの視線をより添わせて、娘は噴水の近くで足を止めました。スカートの裾をはしょって目線を高くすると、顎を突き出してゆっくりと一回転します。円錐形の青い屋根を持つ隅塔、白い城壁と壁塔、大広間のある天守、衛兵所の窓と、娘は庭園の四方を囲う板壁の向こうに見えるすべてを確認しているようでした。

「私、このお城に嫁いできたんですね」

 手に入れたものの重さに震えているとも、栄光に酔っているともとれる声の響きが耳に残ります。

 倣うように城壁を見上げ、衛兵たちの姿を見つけます。城の内外を、一人ずつ等間隔に配置された場所から監視する彼らの目に、己と娘がどのように映っているのかと考えます。四角い木箱の中に着飾らせて収めた豆粒大の人形でしょうか。わたくしと娘は仲の良い夫婦人形です。

 見回した壁塔の窓の一つに、貴婦人の姿を認めてぎくりとします。すぐに懸念が現実となったのだと理解します。窓枠は肖像画の額縁のようで、頭部に被せたベールの下で、角のついた頭飾りの宝石と骨組みの金属が、細かに光を弾いていました。ドレスの袖の色は鮮やかな深紅です。この城にいる者たちの中で、そのような豪奢な装いが可能なのは母上しかありません。

 目鼻の形もぼんやりとしか判別できない距離にありながら、母上が上品に扇で口もとを隠しつつ、わたくしとその妃を無感情に観察しているのが感じられます。冷たい気配がありました。いつからご覧になっていたのか、己の腑抜けたようすをご覧になったのか、娘が飾りもつけずに編み髪を風になぶらせているのがお目に入っているのか、わたくしは娘を注意するべきだったのか――後悔と焦りと気休めと羞恥がめまぐるしく訪れます。苦しいほどの心の動揺は、それでもやがてどこかを境に硬質な澄んだものへと変化しました。 わたくしは距離の離れた母上としっかり視線を結びつけ、いつもの微笑を返しませんでした。

「そろそろ私の名前を覚えて頂けましたか」

 噴水の軽い水音に混じらせて突然に話題をふられました。わたくしはふり向ききらない内に勢い良くうなずきます。

「心に刻みつけました」

 母上の気配にまだ気づかない娘の、貴婦人らしからぬごく明るい笑顔が返ります。まるで巣箱から取り出したばかりの蜂の巣の欠片から、黄金色の蜜が滴るような印象でした。

 わたくしの知る世界に属さない人間を相手に、返すべき表情を知りません。中途半端に崩れた表情で落とした視線が、はしょられたスカートの下の娘の靴にぶつかりました。


 白い色でした。わたくしにエスコートされた娘が水溜まりを前に、最初にスカートをはしょって足首までをあらわにしたとき既視感がありました。

 オーバーシューズを皮のストラップで固定した白い靴は、わたくしの見慣れないもので赤い造花が一輪、足の甲を鮮やかに飾っています。デザインを別にしても、母上が普段お履きになっているものや、わたくしが履いているものと比べて上等な品ではありません。王子妃となる以前からの娘の私物なのでしょう。娘の靴に開く色を捕らえて無意識に、ローズ・レッド、とつぶやいていました。

 ローズ? 耳の良い娘が聞き返します。いいえ、椿です。赤い椿の造花です。これを作った靴屋がそう云って売ったんですから。勘違いをした説明をすると、娘は足の甲をそらしてすっと左脚を高くします。わたくしは動作の気軽さに眉をしかめます。女性がふくらはぎをさらすなど胸をさらすよりも非難される行為です。しかしよくもここまで上げられるものだと思う左脚の動きは、底の高いオーバーシューズをつけていると思えないほど優雅に安定しています。

 不明のまま記憶の片隅に残されたイメージの正体を知ります。舞踏会でちらちらと揺れていた鮮烈な赤。おしろいをはたいた肌の白さと、血の色の深さを思わせる色の対比がひらりと動くさま。あれは娘が舞踏会でスカートをひるがえして強烈に見せつけた、軽やかで力強い動きだったのです。


 幸いなことです。この鮮やかな記憶を理由にして、わたくしもこの娘を選んでいたということにしてしまいましょう。

 品位のないことだ、と思いました。

 嘘を本当にして生きようとするわたくしは卑怯です。不誠実な人間です。

 でももう、それで良いのだという覚悟がありました。努力では得ることの容易でない特権と、誰にも望まれない本来の己を隠す壁を失って、わたくしが生きてゆけるはずもなかったのですから。そうです、生きてゆけるはずもないのに、母上の手の中でかろうじて呼吸を続ける己を恥じ、手の中に収めようとする母上を心の奥底で憎んできたのです。

 娘の持つ矛盾と同じです。周囲が己に望む以上を目指すものの力及ばず膝をつき、力及ばぬ己を己で庇護する。そして周囲の圧力に耐えかねて再び届かないものを望むのです。

 口腔にかすかな苦味が広がります。これから一生この苦味とつき合っていくのです。

 古びた書物の挿し絵が思い浮かびます。異国の神話に登場する英雄と讃えられた王の最後の姿です。国を守る戦いで傷を負い、戦場を逃れて野原に身体を横たえた王は、施された彩色のかすれに損なわれることなく気高くありました。わたくしもそうあれたらどんなに良かったでしょう。

 わたくしは気持ちのどこかで、伝説の中の英雄のように華々しく信念を持つ存在でなくてはならないのだと信じていました。厳しく恐ろしい外の世界へ飛び出して、死に物狂いで勝ち続けねばならないのだと。人より秀でるところのないわたくしが、勝ち続けることなどありえないのにもかかわらず。

「あなたは最初から貴婦人に生まれたかったとは考えませんか」

 届かないように囁きます。

 わたくしはどうやら王女と結婚したいと考えていたようです。懐かしいふくよかな輪郭が頭をよぎると、間もなく、熱に浮かさてぼんやりとした視界と、重く自由にならない身体を記憶が過去から引きよせました。最初の婚約者を思い出すときにいつも伴う感覚です。格調高い額縁に収まった、文句のつけようのない貴婦人の姿をわたくしは脳裏に再現します。

 王子の結婚相手には王女が相応しい。わたくしは己が確かに王子である証として、王女を妻に迎えたかったのです。

 しかし意味のない思考をくり返す癖はもうやめます。わたくしの妻は踊り子です。それが現実です。わたくしが生きていく現実です。奥歯を噛み、わたくしはわたくしに与えられた現実を一つ一つ選びとっていきます。

 暗闇に青白く浮かび上がるように、娘の声が思考の中心で再生されます。


 そこから始めては、いけませんか――。


 与えられた世界でしか生きられないのなら、与えられた世界で生き抜くしかありません。あれは、きっとそんな意味なのです。わたくしは英雄ではありません。娘は姫君ではありません。そう生まれたからには、そこから始めるしかないのです。

 目を閉じると馬のいななきが聞こえます。

 わたくしの生きる世界に耳を澄ませ、胸深く息を吸い込みます。空気はバラの香りを含み、しっとりと湿度を持っていました。目を開くと太陽は高く、鳥が飛び立つ空は澄んでいました。噴水の飛沫が光を散らして、青い服の二人の庭師が、そわそわと庭園の片隅からわたくしたちのようすを窺っています。

 さて、なにから始めましょうか。

 背後から一枝だけ長く伸びて風向きの加減で肩にのるやわらかな葉をそっと払いのけ、ベンチから立ち上がります。己へ一直線に近づいてくるわたくしを、わたくしの妃が不思議そうに眺めます。生真面目な子供のようなその清いまなざしを受け止めます。

 いつか幼い従弟に抱いたような気持ちを、わたくしはこの娘にも抱けるでしょうか。


 ……わかりません。

 いまはまだわかりませんが、覚えたばかりの名をわたくしが呼びます。






 《終わり》



サイトの操作手順の練習に昔書いた小説を投稿しました。

ジャンル分類違いや、あらすじに不足があれば参考にしたいので教えて頂けるとありがたいです。

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