8《衝撃》
筒状に丸めた羊皮紙から切れ目を通ってたれ下がるリボンには、見知った印章が赤い蝋の上に押されていました。わたくしは確認するようにぼこぼこと浮き上がる文様に触れ、記憶を一人の人物に繋げます。羊皮紙をくくる紐を机上でほどき、座していた椅子の背もたれに体重を預けます。わたくしは近しい相手からの書簡であるそれを、上下に両手で広げていきました。
――親愛なる兄さま、お変わりありませんか。先月の兄さまのご結婚式では――
ところどころ大きく跳ね上がる整いきらない文字には、若々しさと朗らかさがありました。人柄が伝わる文字に親しみから細められていたわたくしの目は、しかし羊皮紙に綴られた内容に次第に険しくなっていきました。
最後まで読み終えて再び最初から目を通すと、書簡をにぎりつぶしていました。苦さがのどの奥に迫ります。不安と焦りを噛みしめてかたく瞼を下ろし、高ぶる感情が過ぎ去るのを待ちます。羊皮紙が軋む音を手の中に聞きました。
どれくらい時間が経っていたのか、わたくしが目を開けたとき、にぎりしめた手は色を失って、固まったようにすぐに開くことができませんでした。ぼんやりと、返事を書かなくてはならないと思いました。のろのろとする指を中指からほどきます。机に置かれた、手前へ低く傾斜する筆記用の台に書簡を広げて、指の腹でこするように皺を伸ばします。いくらか元のようになると台の脇に置き、わたくしは新しい羊皮紙を取り出しました。
台の端に小さく並ぶ穴の一つから、差し込まれているガチョウの羽根ペンを取り、ペンナイフで先を削ります。磨耗で崩れたペン先の形を整えると、羽根ペンを取り上げた穴の横の少し幅広い穴から、今度は獣の角を削って作られた小さなインク壺をつまみ上げます。すべてが機械的な動作でした。ペン先をインクに浸して、わたくしは皺の残る書簡を横目に見ます。
良き兄のような温かい言葉を選び、次期王たる王子にふさわしい威厳のある文字と文章で飾る――わたくしがとるべき行動は決まっていました。
削り取った文字跡すらない真新しい羊皮紙を見すえ、わたくしは誰に読まれても恥じることのない返事を綴るために羽根ペンを下ろしました。
うす青い光に満たされた王子妃の寝室で、部屋の主は足先を凝視するような姿勢で膝を抱えていました。入口から覗いて左手になる壁に、頭側をよせて部屋の中央にすえられたベッドの、その足側に腰を下ろしています。身体を横たえていたところでわたくしの訪問の物音に気づき、上半身を起こしてそこまでいざりよったようにも見えましたが、ベッドの端にかけた足裏から視線を床に移すと、皮靴らしき影が二つ転がっています。一つはベッドの下に敷かれた絨毯の上に、もう一つはいくらか離れて、絨毯から外れた植物文様の敷石の上にあります。
もしこれがわたくしの訪問に気づいたゆえの現状ならば、彼女はわたくしの気配に気づくや、本来出迎えるべきところを逆に靴を脱ぎ捨てベッドに飛びのったことになります。そんな意味のないふるまいを誰がするでしょう。また休むためにすでにベッドに入っていたのだとしたら、天蓋からたれる温かな毛織物のカーテンが、四つ隅でまとめられていることはおかしなことでしたし、靴はベッド横に脱いでいたでしょうから、娘は最初からそこで膝を抱えていたことになります。
結論づけたわたくしは娘を視界の隅に映して、三冊の書物と明かりを灯した燭台を持ってベッドの頭側へ進みます。小さな丸テーブルと椅子のわたくしの読書スペースがその横にあります。
青白い横顔を通りすぎます。娘はわたくしを一瞥もしません。王子妃の寝室を訪れるのは四日ぶりになるかと思いますが、娘がわたくしに挨拶を返すことがなくなってから半月以上が経っていました。挨拶と共にあれほど多かった娘の口数もまったくなくなり、ただじっと、窓際にたたずんでいたり、壁に背中をあててしゃがんでいたりと、何をするでもなく、同じ部屋で同じだけの時間を過ごしていました。そしてわたくしから娘への挨拶も消えていました。相手に会話を交わす気持ちがないのなら必要ないと考えたのです。
娘の心情は量りかねましたが、すぐにこの状況は一人でいる気楽さのように感じられるようになりました。結婚など何も窮屈に考えなくても良かったのです。期待しないことと、適度な距離をとることを心がけていれば、わたくしは寛容な夫でいられます。
寛容な夫――わたくしを安定させてくれる心地好い響きに満足します。人より勝るものの少ない己を支えるには、称賛の言葉をかき集めねばなりません。しかし娘もまた、幸運であると考えます。わたくし以外の誰かと結婚していたら、夫を気にかけないでいる態度は、けっして許されなかったでしょう。
丸テーブルにたどり着いたわたくしは、両手の荷物を置いて椅子をひきます。ベッドの端と端ほどに娘の背中と離れます。三冊の書物の中から、金属の止め具が二つついた物を選び、止め具を外します。異国の神話がレス語で写されたそれを開きました。
――砂漠の砂に埋もれて消えた国の女神ケターナト。この神は大地と空を産み落とした巨大な身体を持つ、白い髪と白い肌と大きな口の大地母神である。人が生きてゆく上で必要な自然界のすべてを次々と産み出すが、同時に産み出したすべてを気まぐれに喰らう死の女神でもあった。この神を祭る砂漠の国の王は……べく、……思いつき――
ふっと意識が異国の神話から遠ざかります。腹から首の後ろへ小さな虫たちが這い上がるような感触をともなう、静めたはずの焦りが甦り、わたくしを落ち着かせません。赤い蝋に押された馬にまたがる男性の印影。昼間に受け取った従弟からの書簡の内容が頭をよぎります。
意識を書物の内容へ集中させ、思考を閉じるよう努めます。
――この神を祭る砂漠の国の王は、恐るべき神の食事から国と民を守るべく、あるとき一つの思いつきを勇気を持って実行することにした。王は女神ケターナトが……の……にて――
兄さま。
ここにない声がはっきりと聞こえて、ぎくりとします。従弟がかつての幼い姿で脳裏に現れて、親愛の情を表した笑顔を向けます。彼はわたくしに送った書簡に綴った言葉を、その口から吐き出そうとしています。
必死でレス語の文字を追い、ページをめくりました。砂漠の国の王は思いつきを実行した。巨大な生と死の女神に臆することなく、かの女神に……
――たとき、王は女神ケターナトのかたわらから……を救い出し、……である……を、……として――
文字はばらばらと崩れ、関連を失います。ページをめくっては戻し、また戻します。王は国と民を守るため、女神に、恐ろしい女神に自ら……
幼い従弟が青年の姿に変わり、晴れやかに口を開きます。
兄さま。祝福して下さい。
この僕も結婚することになりました。
恐ろしいほどの気分の悪さです。燦然とした太陽の光を浴びて、それが毒であるかのようにたちまち身体から力が奪われ、城の中庭に倒れた幼い日の感覚がわたくしを襲います。全身に走る打撲の痛みとふき出した汗を感じながら、瞼を閉じた暗闇の中に紫や赤の光の点滅を見て、土と草の匂いを吸い込んだあの苦痛と屈辱と絶望。
どうして、どうしてこの無邪気なそぶりの従弟は、いつも重要なところでばかりわたくしを追いつめるのでしょう。なにもわたくしに続くようにして結婚しなくても良いではありませんか。数年先でもかまわないではありませんか。近しい血縁関係にあって、わたくしより年若い従弟に早々に子供を作られては、より重要に子供を必要とするわたくしの立場がない――
「少し、尋ねたいことがあるのですけれど」
唐突に、半月ぶりに聞く娘の声でした。
わたくしの身体は硬直し額に汗を滲ませていました。意味を拾えない文字に目を止めたまま、どのようなご用件ですか、とだけ返します。
「あの舞踏会の夜に、王子様が気に入る女性は現れなかったのですか」
花嫁選びの舞踏会をなぜ今頃になって持ち出すのかと、いぶかしく思います。どんな気まぐれでしょう。意味らしい意味のない言葉の投げかけを、再びくり返すつもりなのでしょうか。
ともかくわたくしの意識は、臓物を炎にあぶられるような芯からのいらだちから逸れました。
「申し訳ないのですが、質問の意図がわかりかねます」
いらだちを底の浅いものに取り替えると、普段通りの聞きなれた己の声が口から滑り出ました。いくらか安堵して、行末の余白を飾る幾何学模様を、眺めるという意識もなく眺めるわたくしの耳に、苦笑の混じる吐息が届きました。いえ、苦笑ではないのでしょうか。娘のそんな吐息を初めて聞く気がしました。
「……舞踏会で私は、独りでした。可愛らしくまた美しいようすの他の娘のように、踊りに誘って下さる男性がいなかったからです」
娘は語尾を伸ばし、次の語頭につなげて、どこか歌うのに似た調子で話し始めます。わたくしに娘の意図はわかりません。
娘は、だから私は、と語調を強めました。
「一人で踊りました。あなたも見たように。男性をパートナーに踊るべきところを、隣にパートナーの男性がいるかのように踊りました。最初から相手を必要としない踊りを選ぶべきだったと思いますか?でも――一人で完成した踊りは見世物の踊りです。私は踊り子として舞踏会に出たわけじゃありません」
娘は感情を高まらせて早口になってゆきます。何が娘を感情的にさせているのか、何にしても特別に気にするべき事柄ではないでしょう。娘は娘の感覚でこの城で起こる当たり前のこと、当たり前でないことのすべてを捕らえているのですから。
些細でも他の事柄は抱え込みたくはありません。意識の表面から逸れたとはいえ、わたくしは従弟の存在を強く感じています。こちらは存在を危うくする、重く根深い問題です。
「悔しまぎれに王妃様に申し上げました。私が一緒に踊りたいのは王子様だけですから他の男性をパートナーにはできません、と。そんな私を気に入って下さったのは王妃様です。王子様じゃありません」
低く荒れた声を娘は叩きつけます。わたくしはとにかくそれを終わらせてしまおうと考えます。先をうながすつもりで云いました。……そのいきさつが、なにか?
すうっと、胸深く空気を吸い込む気配が娘とわたくしのはさむ空間をふるわせました。
「王子様、私の名前がわかりますか?」
質問がすぐに理解できませんでした。前後の関連のなさに手間どりつつごく単純な意味にたどりつきます。つまらない質問です。
そして、わたくしは気づきました。
暗い室内から晴れ渡った真昼の野外へ出て、視界を白く失うのに似ていました。
この娘の、名前。
わたくしは、呼んだことがない?
徐々に、目が明るさになれて周囲の明確な形を映してゆくように、わたくしは頭をゆっくりと回転させます。
知らないはずはありません。娘は、彼女はわたくしの妃なのです。母上が娘を見下ろして花嫁を決めたと宣言したあの場で、また結婚の儀式で、さらにはわたくしの結婚を祝う者たちの言葉に、それは使われていたに違いないのですから。記憶をかき集めて、両手を探り入れるようにその場面を求めました。彼女のための衣装の確認をしていた召使いの口の動き、母上が夫婦仲を尋ねた言葉の間。
どれもこれも、無音です。
胸が激しく脈打ちました。視界に映る己の腕を見て身体がふるえていることを知ります。わたくしは己の妻の名前もわからないような人間ではありません。それではまるで、わたくしを傲慢に見限った隣国の王のようです。
違うと否定しするための思考を巡らせていると、見知った貴婦人たちのようすが浮かびます。名前。あでやかに着飾って品良く会話を交わす彼女たちの名前を、かつてわたくしは端から懸命に覚えていきました。
若くても老いていても、彼女たちは花々が蜜を滲ませるように自信を溢れさせていました。彼女たちは己に価値があると信じ、己が粗雑に扱われるなど想像したこともないと仕種や会話から伝えます。もし彼女たちの名前をわたくしが間違えてしまったなら、それが誰であっても不快感をあらわにわたくしから離れて行ったように思います。
貴婦人たちは、自身の夫が妻の名をわからないことを許しはしないでしょう。
動揺に身体をぐらつかせつつ顔を上げました。娘は最初に見た姿勢から上半身をわたくしに向けてひねっていました。腰の後ろに手をならべて支えにしています。彼女の目線は手元に落ち、その先で、ぱた、とかすかな音が立ちました。リンネルのシーツを消え入りそうな小さなものが叩いたのです。
夫に名前を覚えられない妻などどれほど惨めであることでしょう。どれだけプライドを打ちすえるでしょう。彼女がもし王女であったなら、あるいは母上が無視できないほどの有力な貴族の娘であったなら、絶対にありえなかった状況です。
寛容な夫? 嘘です。わたくしは妻の名前がわかりません。わからなくてもすむ程度の認識で、わからなくてもすむ対応を続けてきたということです。
――私のこと愛していますか。
――いいえ。
あれはいつの会話だったのでしょう。なにも考えずに答えました。わたくしは本当は一体なにを問われていたのでしょう。
真実の愛とは、結婚が叶うことのない相手への憧れの気持ちであると吟遊詩人は歌い、身分ある者にとって、結婚が家同士の取り引きに過ぎないことは誰もが知る常識。わたくしは最初の婚約者であった王女の絵姿を、いまでも肌に青白く浮かぶ血管の形まで思い出せますが、王女を女性として、また人間としてなど愛していません。
身体の中にがらくたを詰め込まれた心地です。ひどく違和感を感じます。わたくしのどこかが間違っています。根本的なところでなにかを欠いていて、決定的に取り返しがつかないものにしています。
努力をしなかったのでしょうか。意識にものぼらないほど当たり前に、相手を対等な人間として見ていなかったのでしょうか。彼女を惨めにしているのが、彼女自身の生まれや育ちではなく、わたくしの態度だったのでしょうか。
答えを求めて再び娘に目を向け、わたくしは不意に水滴に打たれたかのような衝撃を受けます。
見慣れないのです。天蓋とその四つ角から下がるカーテンに切り取られた四角い空間に、しなやかな身体の曲線が作る芸術的な造形が、半ば闇に溶けるように存在していました。知らない、と感覚が訴えています。何度もこの部屋で目にしたはずのその娘の身体の輪郭すら、わたくしは。
放心するわたくしの目に、そこに存在する娘の情報が映り込みます。貴婦人たちが持つ、マットレスに使う羽毛のようにやわらかな肉の存在が、その身体には感じられません。代わりに滑らかな筋肉が肩や腰をおおっているのを、リンネルの寝間着越しに感じます。丸く、広い額です。左右からゆるく波打った髪がたれかかって、伏せる顔を完全に陰に隠しています。暗色の髪は、昼の明るさの中で眺めれば栗色なのでしょうか。月の光を受けた部分にかすかにその色味を感じます。どれ一つとして己の記憶にないものです。
古い記憶を伝って正体の曖昧な哀しみが滲みます。なにかに復讐されているかのようです。わたくしは、幼い日のわたくしのままなのでしょうか。幼稚で、浅はかで、心得違いな。
猛然と頭を横にふりました。違います、そんなはずがありません!わたくしが、あれ以来ひたすらに努力を続けてきたわたくしが、重大で決定的な過ちを犯すはずがありません。状況のほうが間違っているのです。
舞踏会で母上の向こうに見た娘の不安げなまなざしを思い出しました。そうです、わたくしにはわかっていました。娘にわたくしを責める権利はありません。
「あの日の舞踏会の会場に、わたくしの妻になりたいという女性は数百人存在しました……」
感情が声を震わせて不安定にします。言葉は止まらず、感情も高まっていきます。
「数百人の誰もが、わたくしに愛想良くふるまいました……誰であっても変わりません。誰にしたところで、わたくしの妻になりたかったわけではありません。王子妃というものになりたかっただけです」
あなたも同じでしょう、と早口に娘を睨んでいました。問いかける形でありながら、続く言葉でわたくしは断定します。
「ここであなたが否定なさっても認識は変わりません。確かにわたくしは不誠実にあなたに対応しました。けれどもわたくしもあなたも結婚した理由はそう違いはないはずです。わたくしは妻という形におさまる相手がほしかった。あなたは地位と財産を己に与える相手がほしかった。……だったら、わたくしは既にあなたにそれを与えた!」
わたくしに非があるはずがありません。いつだって、必死に努力してきたのです。
「不安げに母上の後ろを見上げたあなたのまなざしに、わたくしへの好意などなかった」
刺々しく最後の言葉を吐き出すと、娘が静かにわたくしを見すえていました。湿った感情の気配は消え失せ、いけませんか、と低い声を響かせます。
娘は強い瞳の力でもってわたくしを捕えます。毅然として脅えがありません。舞踏会で萎縮していた娘ではなく、二ヵ月近くをこの城で過ごした、おしゃべりで卑屈な娘でもありません。
視界を奪うかのようにひきつけ、歌うように開いた唇が吐き出しました。
「そこから始めては、いけませんか」
ふり上げたハンマーが小石を砕くように、己の身体を固く戒めていたものが、弾け飛ぶ感覚がありました。
「……そこから?」
後ろに数歩よろけていました。馴染んでいた感覚を失い、身体が安定をうまくとれません。不意に身体と心に生じた広い可動範囲に、混乱します。
じめじめと暗く湿った建物の日陰を歩きながら、その先に日のあたる場所を見るイメージが閃きました。
羊皮紙をナイフで直線に切り取とるように、明確にこちらとそちらに分けられた空間を前にわたくしは、世界はここまでしかない、と信じます。太陽は毒のようなもの。やわらかな日差しは強烈に青白い肌を焼き、窓から注ぐ光を横から眺めることに慣れた目の奥を通って、頭の芯を焦がします。この先にわたくしの生きられる世界はない――
わたくしは己が立ち止まっていたのだということに、ようやく思い至りました。