7《動揺》
わたくしの前の机の右側から左側へと、書物の塔は積み直されて高くなっていきます。それらは全部で九冊ありました。左側へと移動済みの書物は六冊で、読み残る書物はわたくしが開いている一冊と、右側に置かれた二冊になります。六、七年ほど前に一度読み終えている物ばかりなので、頁をめくるわたくしの手も速くなっていました。
アメジストと翡翠の並ぶブレスレットが視界の隅をよぎりました。母上のふっくらと丸いお手が、わたくしの前に平積みされた書物を一つお取り上げになって、「すぐに役立つとも思えぬ古い王国の制度より、より確実な子作りの方法でも勉強してもらいたいものじゃな」とおっしゃいました。
わたくしは読みかけの頁と頁の間に指を置くと顔を上げて、ゆったりと机の横にお立ちになっている母上にほほえみかけます。
「命の誕生は神のご意志ですから。わたくしが焦ることで早く授かるというものでもないでしょう」
母上はなにごとかをおっしゃりたいような渋いお顔になり、しかし数秒ののちに、ネネストラ語で『古代王国における身分制度』と書かれた書物を、無言で塔のてっぺんへとお戻しになったのでした。
それらの動作を見終えて、わたくしは視線を手元の文字の並びへと戻します。母上のお小言を聞き流すことに慣れつつありました。お小言のために不意にわたくしの元を訪れる母上の行動にも。近頃にあってはそれらは度重なって、わたくしの中で急速に母上のお言葉もご訪問も意味を失っていきました。
わたくしは時間をなにより大切にしたいと考えます。時間は有意義に使うべきであり、無意味に消費されるべきではありません。特に、わたくしのような者にとっては。
窓から差し込む陽光が、澄んだ冷たいものからぼんやり暖かいものへと切り替わるこの時間帯は、正式に許された唯一のわたくしの自由時間でした。
「もっと器量の良い娘が良かったか」
母上が再び言葉をお投げになります。聞き流すつもりでいたわたくしは、しかし本意が量れず、顔を上げました。
「それとも、乳房や尻の肉の豊かな色香のある娘……いや、そなたの身分につりあうどこぞの国の王女や女王ならば良かったか」
これといった表情もなく言葉を繋げる母上を見つめて、わたくしは眉をひそめました。王子らしく優雅に上品であろうと心がけた六年の年月、眉をひそめるなど数えるほどの経験しかありません。それでも耳に届く単語の下卑た響きに自然とそうなっていました。母上が貴婦人らしからぬ物言いをなさったことに動揺もありました。
「なにの、お話ですか」
母上は半ば瞼をお下ろしになった冷めた視線を、わたくしに向けておっしゃいます。
「そなたの女の好みを尋ねておるのだ」
思わず開いた頁から手が離れました。わたくしは最後に読んだ行を見失います。これまで一度も、母上から男としての嗜好を問われたことはありません。王子としての役割の範囲で貴婦人への対応の仕方だの、いずれ妃を迎えたときに行うべき行為だのを説明されることはあっても。
あぜんとしているわたくしに母上は続けます。
「……馬上槍試合の観覧席で、また貴賓を招いた宴のにぎわいの中で、そなたは貴婦人たちを皆同じにあつかう。最初の婚約が決まったときも、婚約者が入れ替えられたときにも、受け入れるだけで何も云わなんだ。感心するほどに――そなたの品のよい微笑は相手が美女でも醜女でも眉筋一つ変わらぬ。この母は、そなたに好みがあるように感じたことがないのだ」
わたくしが内心認めているところの事実に触れて、母上はどこかおゆらぎになっているようでした。いつも万能の神のようである母上がです。
「舞踏会でわらわ一人の意見を通したのは、それが最善だと思うたからだ。しかしすべてが間違いで、そなたにも好みがあり、あの娘にいまだ手をつけずにおる理由がそなたの身体の不具合でなく、好みに合わぬという点にあるのならば……」
かつてないほどの気恥しさといらだちとに襲われました。夫婦となる男女がベッドの中で行うべき行為の一つ一つを、教師たちに説明されたときにも感じなかったことです。およそこの世界において、必要なことというものはつきつめれば神がお決めになったことであり、神がお決めになったのならばそれらは恥ずべきことではありません。ですが必要以外のこととなれば、醜く愚かしい欲望としか云いようがありません。
王子でなく、我が子でもなく、ただの男、いえ動物の雄までひき落として品定めするかのような視線が、他ならぬ己を産んだ母から向けられています。耐え難いことです。とっさに伏せた顔がゆがんでいく中で、頭に耳に頬に血がのぼるのが感じられました。重さを預けていた左手で書物を机に放ると、自由になったその手の甲を唇にひきよせます。目線は母上から外れ、己の膝頭や机の脚や絨毯の模様を落ち着きなくさまよいます。
わたくしにとってのどをふさがれるような思いのする話はなおも続き、礼儀も忘れてわたくしは顔を隠し身をかたくして黙り込んでいました。
暗色の背景に文字と色の欠片とが乱れ落ちている――そんなイメージが思考を支配します。壁を見上げる幼い従弟の後ろ姿。ニイサマハナゼ。ちらちらとゆれる鮮烈な赤。娘たちの笑い声と音楽。ドウカ、ワタクシヲ選ンデクダサイマセ。扇の陰になったよく動く口もと。ナゼ、オ選ビニ。城の庭、わたくしを支える乳母の大きな手。ドウシテ王子サマバカリコンナニオ身体ガ。耳障りな己の呼吸。ベットの中で目を閉じて聞いた声。ワラワノ産ンダ子ガ、ナニユエコウマデ弱イ身体デ。寝室から外された肖像画。肖像画の消えた壁。隣国ノ王ハ、ナゼワタクシヲ王女ノ夫カラ外シタ。ワタクシナド、スグニ死ンデシマウトオ思イニナッタノカ。白いリンネルのテーブルクロスが敷かれた食卓。母上の厳しいお顔。
つまらない疑問が記憶から蘇りました。答えなどどうでもよかったにもかかわらず、わたくしは状況から逃れたい一心で、はねつけるように疑問を口に出しました。
「なぜ、あの娘をお選びになったのですか」
母上がつかの間、心を空白になさった気配が感じられました。策が功を奏したかと、そっと上目づかいで様子をうかがうと、母上は急にお笑いになって、丈夫そうであったからのう、と背を丸め肩をおふるわせになります。異様な反応に汗をかく思いをしながら、それでもとりあえず胸をなでおろし、話しを合わせます。
「丈夫そう、とは?」
「王子妃の地位に群がるどの娘よりも、打たれ強そうであった」
あまりの内容に、興味のなかったこととはいえ、さすがに王子妃となった娘が気の毒で言葉を失います。
「……このような娘でも良いかもしれぬと思うた。余計な身分や血筋を持たず、健康な身体を一つ持つだけの娘。むしろいま必要なのはこちらかもしれぬ、と」
背筋を伸ばし、ゆっくりと言葉をお切りになった母上は、視線を高く天井の辺りにお投げになりました。最後に音になさった言葉の形のまま、口はわずかに開かれ、わたくしが見つめる先で数秒間を時が止まったようにお過ごしになりました。
そうして、とうとう切り込むように唇の間から、わたくしが恐れていた言葉をお吐き出しになったのです。
「王子。そなたの子が必要じゃ」
冷たい痛みが、打ち鳴らされる鐘のふるえのように硬直した身体を走り抜けました。
「おそらく時間がない。そなたの父上はベッドの上で回復に向かわれているわけではないのじゃ。王の血を受け継ぐ者を、そなた一人にしてしまうつもりか」
――こうまでも身体の弱いそなた一人きりに。
答えられないわたくしを、母上はねっとりと重い視線でお捕らえになります。
「あの娘が母ならば、王子でも王女でもそなたよりは健康な身体を持って生まれよう」
――不出来なそなたよりも、立派な後継ぎとなろう。
顔にはりつけた指が小刻みにゆれています。それをじっと見つめ、返す言葉を、また心で唱えるだけのなにかをわたくしは懸命に探していました。
時間にしてわずかな間の必死の思考の末に、一言だけ応えていました。
「はい――」
顔にはりつけた手を膝に下ろし、母上を正面に見すえて背を伸ばします。わたくしはごくゆっくりと笑んでいました。
存在したことのない感情が生まれています。染み出すようにじわじわと、笑みが深くなって口の端が頬に沈んでいきます。わたくしの内側を熱く水のように溢れて渦巻いています。
いいえ、母上。いいえ――わたくしは子など作りません。子を産むためだけに用意された妃になど指一本触れはしません。わたくしが王子なのです。父上のあとにこの国を治める次代の王はわたくしなのです。健康な身体を持って生まれてくるであろう、わたくしの子ではありません。
母上、まだわたくしがここに――