6《踊り子と会話》
「私がお城へ来てから一月が経ちますね」
……そうですね。
「嘘です、まだ、一月は経っていません」
……そうでしたか。
わたくしが夫の役目を果たしているふりを装い、数日置きに妻の寝室を訪れると、娘はわたくしにつきあっているつもりなのか、それが何度目のことであっても、夜が明けるまで眠ることなくわたくしに言葉を投げかけてくるのでした。
「王子様は本がお好きなんですね」
……特に好きではありません。
「え? じゃあ、なぜそんな量を読んでらっしゃるんですか」
……知識が必要だからです。
「一晩に何冊も読んでらっしゃるのに、まだ必要なんですか」
……わたくしに必要とされるのは、このような量ではありませんから。
「楽しいですか」
……いいえ。
「王子様のご趣味はなんですか」
……読書になるかと思います。
「……なにが楽しくて生きてらっしゃるんですか」
……楽しくなどなくとも生きていくことはできます。
「つまらなくないですか」
……苦しくなければ良いと思いますが。
暗いサファイア・ブルーの空を見上げて娘は窓によりかかります。流れる雲がときおり枠にはめられた淡い光に影を通らせて、音のない部屋で変化していくものが、声の他は景色だけであることをわたくしに気づかせます。
「王子様、空が明るいですよ」
……そうですか。
「月が半分ですよ」
……そうですか。
「雲が細いですよ」
……そうですか。
わたくしはベッドの脇の椅子で書物を読み続け、娘はぽつりぽつりと言葉を取り出しながら、緩慢な動きで姿勢を変えそこに立ち続けます。つむぐ言葉のすべてに意味らしい意味はありません。わたくしは開いた書物の文字を目で追いながら、聞いている証しとしての言葉をゆっくりと返すのです。
「王子様、私は昨日初めてビーバーの尻尾を食べました」
……それが、なにか。
「魚のような味がしました」
……そうですか。
「美味しかったです」
……そうですか。
ページをめくりながら、あかぬけない声を耳に通すことに慣れてゆきます。わたくしは正式に認められた妃を、ぞんざいに扱うつもりはありません。どんなつまらない内容でも、彼女が人前で恥をかくような場合でもなければ遮ることはないでしょう。
「いつもの肉切り係の人が教えてくれました。水の中で魚のように動くビーバーの尻尾は魚に分類されるって。王子様は知ってらっしゃいましたか」
……ええ。
「肉を食べることを禁じられた断食の期間であっても、食べていいんですね。尻尾だけなら魚を食べたことと同じになるから」
……そうですね。
「王子様はどう思います?」
……どうとも、思いませんが。
「ビーバーが嫌な気持ちだと思うんです」
……そうですか。
「尻尾だけなんて、全身の数分の一にしかならないじゃないですか」
……そうですね。
「ビーバーを丸ごと一匹食べてお腹いっぱいになる人が、断食の期間にビーバーを食べようと思うなら、ビーバーは尻尾が丸ごと一匹分の量になるまで、何匹も殺されなくてはいけなくなります」
……そうですね。
「最初に殺されるビーバーは、どうせ殺されるなら尻尾だけを食べられるより、自分の肉がすべて食べられて、他のビーバーたちが一匹でも多く食べられずに済むことを望むと思うんです」
……そうですか。
それでも娘は、わたくしにとってそれなりに都合のよい妃でした。こうして二人きり静かな夜を過ごして言葉が途切れると、音楽もなく一人ゆるやかに踊り始めて時間をつぶし、わたくしをわずらわせることがありません。上品でおとなしい性格とは評価できませんが、周囲に威張り散らして、召使いたちの不満を集めるようなことはありませんでしたし、元々の身分の低さを気にしてか、わたくしがふるまいを注意するとひどく恐縮した様子で正します。
「王子様、子供の頃にお手玉遊びをしたことはありますか」
……どういったものでしょうか。
「手にいくつかにぎった羊の骨を、放り投げては受け取とめるんです」
……ありません。
「私、得意なんです。荷物の間から羊の骨が出てきて思い出したんですけれど。見てもらえませんか、得意なところを。私の妹たちが結婚式の前の日に、自分の遊び道具の中から渡してくれたんです」
……それは、ひかえて下さい。
「はい?」
……王子妃にふさわしい遊びではありません。
「え、あの、でも……子供の頃からしている遊びで……あ、骨は、羊の距骨をよく洗ったものなんです」
……いまのあなたは、平民の子供ではありません。
「それは、でも」
……わたくしの妃です。
「あの、……いえ、はい」
母上がおっしゃっていた、余計な身分や血筋を持たず、ということの利点がいまになってよく理解できます。
血筋の良い身分ある妻を持つということは、財産や権力や崇拝を新たに得るだけのことではありません。ときに苦い事態をひき起こす場合もあるのだと、歴史書は教えます。
――百五十年前に死亡したネネストラ国の王が寵愛した女奴隷は、王が戦争で国を空けると廷臣たちによって殺害されました。やがて帰国する王の怒りを買うことを厭わぬこの行為は、王の女奴隷への並々ならぬ寵愛ぶりが、国を傾かせるのではないかという危機感と共に、国の宝石と呼ばれた、王の正室その人が蔑ろにされたという思いを廷臣たちに抱かせたことに原因がありました。一夫多妻制度であるネネストラ国で、王の妻は数百人存在しましたが、王家の血筋を神にも等しいものとして崇拝するネネストラ国の民にとって、王の従妹でもあった正室は女神に等しい存在であり、それが女奴隷よりも下に扱われることは、許しがたい事態だったのです――
健在だと聞いた覚えのある娘の家族が、一度として城を訪れないのは、平民という身分から遠慮してのことでしょう。訪問さえ遠慮するほどですから、貴族のように政治に口を出してきて母上をわずらわせるようなこともありません。
そして娘もおそらくは、わたくしにどのように扱われたとしても母上に訴えようとは考えないでしょう。
「王子様、もっと大きな声で話してもらえませんか」
……聞き取れませんか。
「いいえ、それは、ないのですけれど」
……では、かまないでしょう。
「でも、王子様の声は……細くて。なにか他の人とは違って、聞き取れはするのですけれど、聞き取れていることが不思議なくらいで」
……聞き取れているのならば必要ありません。
娘は尋ねません。どうしてわたくしが娘と一緒のベッドで休もうとしないのか、また夫婦の役割を果たそうとしないのかを。母上に対しても、わたくしに対しても、娘はいまだ絶対的な弱者なのです。
「王子様」
呼びかけに気がつくと、ゆるりとしたリズムを刻んで、ひかえめに寝室に響いていた足音が消えています。自由に手足を広げ、身体を伸ばし、滞りのない連続した動きを作っていた娘が立ち止まったところなのでしょう。
わたくしはページの最初を飾る優美な大文字に目を落としていました。
「私のこと愛していますか」
洗練されきれない声が明瞭に届きます。娘はまっすぐにわたくしに向かって立っているのでしょう。装飾文字に続く行を指先でなぞりながら答えます。
「いいえ」
間が空きました。
「……そう、そうですよね……」
力の抜けた娘のつぶやきでした。聞き覚えがあるような気がします。娘の言葉に返すときのわたくしの声に似ているかもしれません。 娘はなかば茫然とした戸惑いの混じる声で、ごくごく当たり前の事実を確認しました。
「私たち、愛し合って結婚したわけじゃありませんものね」
はい、と思考の中で答えたわたくしの脳裏に、鮮やかすぎる色彩の残像のように懐かしい肖像画がよぎりました。