5《結婚初夜》
王子妃の寝室としてあてがわれた部屋には、上部がアーチを描いた大きな硝子窓が二つあり、結婚当日の夜にはそこから丸い月の姿を確認することができました。
わたくしが二冊の書物を抱えて、手にした燭台の明かりをたよりに部屋の扉をくぐったとき、天蓋からカーテンをたらしたベッドの中で待っているべきわたくしの妃の姿は、そこにありませんでした。硝子を通してそそぐ淡いオールド・ブルーの光に、長袖のリンネルの寝間着をまとった左半身を浮かび上がらせて、うっとりと窓枠に両手をそえていたのです。
わたくしは闇を四角に切りとり内包したかのようなベッドを、部屋の左手側になる壁の中央に見て、次に広い部屋の端と端ほどに離れたその背を眺め、妃となったばかりの娘の作法のなさにあきらめを混じらせます。これからの生活に彼女が少なからず関わってくるということは、靴の中に小石が入ることに似ているかもしれません。守るべき礼儀を知らず自由に行動する娘は、わたくしの知るどの婦人とも異なっています。わたくしはおそらく一生この存在になじめないでしょう。
けれども昨日まで平民であった娘が貴婦人らしくふるまえないことに、どんな罪があるでしょう。そうふるまえないであろうと承知していながら、彼女をわたくしの妃に決めたのは母上です。
わたくしは彼女が彼女であることを許そうと考えます。
「景色がお気に召しましたか」
近づこうという思い付きもなく、わたくしは足をとめたその場所から声をかけました。娘はわたくしの声をよく拾えなかったのか、反応が遅れます。どこから声が届いたのかもわからなかったようで、疑うように軽く左右に首を回し、扉の前のわたくしに気付くと跳ねるようにわたくしに向き直ります。一瞬白く、身に付けた衣服の襞が胸元から身体を離れつつ斜め下の方向へ浮き上がりました。娘が踵まで裾のあるゆったりとした寝間着を身に付けていることが、それでわかりました。特に感慨はありませんでしたが、初めて目にする婦人の寝間着姿でした。
娘は背中を窓にはりつけました。角度が変わり、身体のほとんどが闇と同化しました。いえ、あの。娘は口ごもってうつむいたようでした。月の光が作る輪郭がわずかに低くなってそれとわかります。
「……あの、部屋が明るくて。夜なのに」
わたくしは娘の云いたいことがわからず、続く言葉を待ちます。
「窓に硝子がはめてあるなんて見るのも初めてで……うれしくなってしまって。羊の角を薄く磨いたものとは違って、外の景色が……月が見えるんですね、星も。空も、こんなに藍色をしているなんて知らなくて……陽が沈んでしまったら、世界はずっと暗闇だけだと思っていたのに」
娘の声は高さと低さを混じらせてリズムが忙しく変化します。わたくしはそれを軽々しいと感じます。文の終わりを投げ出した話し方も好きになれません。
そうですか、とわたくしは答え、ふだん幾度もそうしているようにほほえんで、寝台の脇に用意されているはずの椅子と机を燭台を掲げて捜します。月の光とサフラン・イエローの小さな炎がたよりの薄暗い寝室の中でのこと、小声ではお互い届かないような距離にあって、わたくしのほとんど無意識になっている常套手段が娘の目にどう映ったのかはわかりません。
「わたくしはここで書物を読ませて頂きます」
え、と疑問を意味のない音に娘は変換させました。
「昼間は他の用事に忙しく、読む時間がありませんので」
多少の嘘を混じらせて付け足しました。娘は肩を細くして沈黙し、わたくしはお互いが急に遥か遠くに離れたような感覚に陥ります。
この感覚には覚えがありました。それも、ごく最近です。蝋燭の炎を左右にかざして生まれる波のように不安定な視界の中で、わたくしはなめらかな曲線を描く乳白色のコップを思い出します。華やかな結婚の宴会会場で、天蓋で覆われた高座の中央に花嫁として座った娘は、左隣のわたくしとの間に置かれたそれを実に珍しげに見つめていたのです。
視界の端をにぎやかな色が幾度も出入りするので、奇妙に思って気がつきました。花嫁たる娘がコップの左側を覗き込んだり、また右側を覗き込んだり、あるいは上から内側を覗き込んだりしているのです。色とは、手をかけて施された娘の頭の装飾でした。全体を真ん中で二本に分けて両耳を隠すように結い上げた髪は、細い金色の紐が表面で格子状になった深紅の絹の布地の中に収められ、大きな詰め物をしたロールが輪となって頭全体に水平にのせられています。エメラルドとサファイアを並べて頭からせりだすようなそのロールには、上から薔薇色の薄布がたれかけられて実に洗練されています。
王子の妃のために用意されたそれらの装いは、踊りの巧みな平民の娘を、生まれながらの貴婦人のように見せかけていました。色ある素晴らしい宝石を始めとして、贅をつくして重々しくあでやかに着飾った娘の姿は、宴会に訪れたすべての人に圧倒的な華を感じさせたはずです。結い上げた髪に髪飾りをつけていたかどうかも思い出せない、流行遅れのドレス姿であった舞踏会での娘より、今の娘のほうが確実に上等な人間と判断されるに違いありません。
ただしそれは、あくまでも見せかけに限ってのことなのです。
見慣れたバトラーが水差しを持ち、娘の横で苦笑いをしている様子がわたくしを不快にさせます。このバトラーの彼であっても、いずれ迎えるであろう妻は、わたくしの花嫁よりも身分ある女性に違いない、という事実が頭をよぎります。
「……ダチョウの卵です」
わたくしは音楽と笑い声と、給仕たちによって次々と運ばれてくる料理の匂い、それから床に撒かれて行き交う人々の靴の底で踏みつぶされるハーブの香りが溢れる、宴会会場の中央に顔を向けたまま、視界の端に娘を捕らえて小声で告げました。娘が肩幅をよせて前屈みになった姿勢から、重たげに頭をゆらしつつ上げて、わたくしを見つめます。
え、とその口から疑問を含んだ声がもれていました。
「遠い東の国には、我が国では見ることのない大きな鳥が生息するそうです。その鳥の卵の殻を細工して、このようなコップを作ることができるそうです。珍しいものですが、不思議なものではありません」
勢いよく、たまご、と言葉をなぞって、娘はますますコップに見入る様子を見せます。わたくしは自分の失策に気づき、唇をひき結びます。
待つのをあきらめたバトラーが、娘に断りの一言をかけて近づき、ていねいにコップに赤ワインを注ぎます。ジンジャーとシナモンのかぐわしい香りが鼻をかすめました。ほどよい調合をバトラーの舌によって確認された赤ワインには、砂糖と数種類のスパイスが溶け込んでいるのでした。慣れ親しんだ香りを頼りにわたくしは平静をとり戻そうと努めます。
「あの」
今度はわたくしを上目づかいに見て、娘がおどおどと話しかけます。
「もしかして、このコップ……私と王子様で使うんでしょうか」
多くの儀式の場において、席の隣あった者同士がコップを共同で使うことは、ありふれた慣習です。貴族であっても王族であってもそれは変わりないというのに、娘の質問はおかしなものでした。不足ない数の食器をそろえることの難しい平民の身分で育ったのならば、なおさら疑問を感じるはずもないと思うのですが、王子妃となったからには、他の客とは別に一人でテーブルを使い、専用の数人に給仕されるような贅沢を望んでいるということなのでしょうか。
確かにこの場にダチョウの卵の殻などという特別に貴重なコップが存在しなければ、宴の主役であるわたくしたちには、代わりに陶器や金属や硝子といったありふれた素材のコップが一個ずつ用意されていた可能性もあるのですが。
わたくしは右隣りにお座りになっている母上を見やります。その向こうに本来お座りになるべき父上の姿はありません。にこやかに前方を見つめる母上の前に用意されている食器を、目線で一つ一つ確認します。
「非常に貴重なものです。父上――いえ、この場をご欠席なさっている国王陛下ですら、所有数は二個とわずかです。その内の一個を母上がお使いになっています。わたくしとあなたが、それぞれ一個ずつ使うことはできません」
いいえ、そんなっ。目を丸くした娘は声をひそめて強く反応します。
「そうではなくて、私が王子様と同じコップを使ってもいいのかと」
わたくしは招待客のために作った笑顔を、会場の末席にまで届くよう正面に向けながら、隣の娘に云い聞かせます。
「それは同じことではありませんか。この先そろって出席することになる酒宴の席で、いまのようなことをおっしゃられては困ります」
娘はうつむき、やがて消え入りそうな声で、はい、とだけ返すと、もうなにを云うこともすることもありませんでした。
「あなたもご自由になさって下さい」
扉をくぐって最初に娘の姿を捜したときよりも、なにかがさらに静まり返った部屋の中で、わたくしの声はよく通りました。
「わたくしに付き合う必要はありません。一人で休んで下さってけっこうです。もし同じように書物をお読みになりたいということでしたら、適当なものを選んでお貸ししましょう。そのおりには、どの程度まで文字がおわかりになるのか教えて下さい。わたくしは陽がのぼるまでにはこの部屋を失礼します」
娘はなにも答えませんでした。寝台の脇にたどり着いたわたくしは、安定を確かめて燭台を小さな机に置きます。ひきよせた椅子に腰を下ろすわずかな身体のかたむきの間、わたくしは娘を一瞥します。
娘は身じろぎもせず、そこにありました。顔も首も胸も足も闇に沈み、わずかな輪郭だけがその存在を示しています。背後にあるはずの無色の硝子は失われたかのようで、窓の格子だけが正確に藍色の空を区切っています。それらが重なって、磔にされた人間のもの悲しい姿に似た形が、書物に視線を落としたわたくしの瞳の奥にしばらく残りました。