4《従弟》
わたくしがおよそ三分の二の時間をベッドの中で過ごしたと記憶している、最も身体の不調が顕著だった十三歳の年――一年半ぶりに会う従弟がわたくしを見舞いに寝室を訪れていました。
「兄さま、もう一ヵ月も部屋からお出になっていないのですって? ほどほどになさらないと、身体がお腐りになりますよ」
召使いたちを部屋から下がらせた途端、やんちゃな従弟はベッドの端をよじ登っていたずらっぽく笑いかけてきました。
「……そうだね、そろそろ外に出てもいいかな」
ベッドの中で開いていた小難しいネネストラ語の書物を閉じると、微笑を作って答えました。起こしていた上半身を支えるクッションの位置をずらし、従弟に向き直ります。
およそ二年前、父親を亡くしたばかりのこの従弟とその母を気づかい、まだ比較的健康でいらした頃の父上は、たびたび二人を王の住まいであるこの城へ呼びよせては、慰めのためのさまざまな催しを開いたものでした。それから半年ほどあとに彼の母が外国へ嫁ぐまで、城のあちらこちらで顔を合わせることになったこの従弟とは自然に親しくなり、兄弟のように過ごした経緯があったのです。
従弟は四つ年上になるわたくしを兄のように慕い、尊敬し、その尊敬ゆえにわたくしの身体の不調のほとんどを、わずらわしい周囲をあざむき自由を得るための賢い嘘であると信じていました。
毎日のように顔を合わせていた時期に、晩餐会を病気と伝えて欠席しながら、隠れて鞭独楽遊びをしているところを見つかるという出来事があって、弟のように思う気持ちからこっそり打ち明けた一つきりの秘密を、従弟は拡大させているのです。このときのわたくしの体の不調は真実であったのですが、従弟の幼く熱のこもったまなざしを否定することができません。
陽光のさし込む明るい窓辺を見やって従弟は、今日は良い天気だから、僕、兄さまと乗馬で遠くまでご一緒したいなあ、とわたくしの顔を覗き込みました。わたくしは言葉につまり、少しばかり不自然な間があきました。
「……遠乗りできるほど、上手に馬に乗ることができるようになったのかい?」
従弟は不自然さに気づかず、まったく問題ありません、とほがらかに答えて、わたくしの笑顔を心ないものにさせました。馬に乗ることに問題があるのは、わたくしのほうでした。体調とは関係なく、わたくしにはまだ馬を御するだけの技がなかったのです。
「申し訳ないけれど……今日はそんな気分になれないから、また今度にね」
従弟は不満げに天井を仰ぎました。話題をそらすよう努めて、外国での生活の様子などを片端から尋ねました。叔母上はお変わりないのかい? あちらの国では何が流行しているのかな。君の義父になった方は……二つ三つ答える内に従弟は機嫌を直し、やがてわたくしの手元の書物の存在に気づくと、興味を示して書物を取りました。君にはまだ無理じゃないかな、とわたくしは声をかけようとしていました。
「古代王国における身分制度……? 兄さま、なぜこんな物をお読よみになっていらっしゃるの?」
思いがけず、従弟はタイトルを訳して読み上げました。
「……家庭教師に、渡されたんだよ」
わたくしはあっけにとられながら答えました。それはわたくしの語学の教師が、これほど頻繁に体調を崩されていてはなにもお教えすることができない、と嘆いて届けた一冊でした。教師を横に机に向かうことができないのならば、せめてこの一冊だけでも体調を整える合間に読み終えてほしい、と。
「ふうん、どうしてでしょう? 僕が二ヵ月前に習い終えたときは、読み返すようになんて云われなかったけれど」
耳を疑いました。習い終えた? わたくしがまだ最初の数ページも読めないでいるネネストラ語の書物を、四つ年下の従弟がすでに二ヵ月前に?
意味を理解した瞬間、すうっと己の血のひく音を聞きました。従弟が暮らしているのは外国ですが、そこで使われる言葉はネネストラ語ではありません。住む場所とは関係なく、彼はネネストラ語を己のものにしているのです。体調不良で、また嘘の体調不良で後回しにしてきたわたくしの学習が、積もり積もって四つ年下の従弟に追いつかれるほど遅れていたのです。
従弟は無邪気に告げます。
「そういえば兄さま、僕この中の一節をそらで云えるんですよ」
わたくしがこれまで無視してきた家庭教師たちの嘆きを、初めて真剣に思い浮かべました。ひどく勘違いをしていたことに目まいがします。幼い頃よりわたくしにつけられた家庭教師の数は十人を越し、課された学習科目の数はさらにそれを上回っていました。乳母も召使いも、わたくしの身の回りの世話をする者たちは一様に同情し、そんな彼らの感覚を基準として己の怠ける心を許してきました。また安心していたのです。少しばかり学習が遅れようと、それは次期国王たる者への押し付けがましい周囲の期待から外れるだけであって、個人と個人を比べたときにこのわたくしが他の誰かに劣るわけではない――と。
従弟はわたくしの知らない一節を大げさなアクセントをつけたネネストラ語で暗唱し、わたくしは身体の下に地の底まで続く暗い穴が開いて、つかむ物もなく墜落していく気分を味わっていました。
うわの空で従弟と会話を続けました。従弟がなにを云ったのか、わたくしがそれになんと返したのか、記憶につながれないまま二つの耳を通過しました。ようやくなにかしらのはずみで思考が外界の再認識を始めたときには、従弟がわたくしに背を向けていて、彼の栗色の髪の向こうに、見慣れたわたくしの婚約者の絵姿がありました。どこか妙な雰囲気でした。肌になじまないものが空気に混じって触れてくるようです。
なぜ彼はそんな風にしているのでしょう。彼の姿勢から、視線の先が肖像画であることは検討がつくのですが、うまく頭を回転させることができません。やがて従弟のか細いつぶやきが聞こえました。
「なんだかお笑いになっているようでお笑いになっていなくて、怖い……」
その意味するところはわからず、従弟はわたくしを案じる憂いに満ちた瞳で続けたのです。
「ねえ兄さま。やっぱり僕、このお姫さまは少しもお美しくないと思うのですけれど……兄さまはなぜ、このかたとご結婚なさるの?」
わたくしの世界は砕けて飛び散りました。
あどけない従弟と驚きに満ちた言葉を交わす以前、わたくしはなにを考えて毎日と毎月と毎年を過ごしてきたのでしょうか。世界はやさしさと欺瞞を抱えて、ほうけている人間など置き去りにしていくというのに、わたくしは己の危うさすら知らずに、また感じずに。
いまや目に映るすべては色を変えて内側に沈むのみ。わたくしはもう、己の背中によりそう、わたくしと同じ顔をして同じ背丈で同じ声で、確実にわたくしでないものの存在を忘れることができません。呪文のような言葉が、あれから常に頭の奥深いところを回り続けているのです。
早く、あるべき姿に戻らなくては。
早く本当のわたくしにならなくては。
このわたくしなど、誰も要らないのだから。