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踊り子と結婚  作者: 言代ねむ
3/9

3《青空》

 昨日読み終えた書物の数は四冊になります。ネネストラ語で書かれたものが三冊と、レス語が一冊。その内の二冊が歴史書で一冊が兵法書、残りの一冊が色名事典です。母国語であれば四冊など珍しくもない数ですが、外国語の書物を一日に四冊となれば自己最高記録になります。やはり昨日の馬上槍試合を、観覧席から途中で抜け出て読書に充てた時間が大きかったと、わたくしは密かに満足します。

 わたくしの頭の裏側には、まだ羊皮紙の上から読みとったままの形で大小様々な文字と図形と色とがあふれています。


 ――建国から二十四年目に他民族によって王位を一度簒奪されたレス王家。百五十年前に三十五歳の若さで病死したネネストラ国の王は、生前戦争を重ねて自国の国土を三倍にも広げるが、一方で一人の女奴隷を寵愛し国を傾けるという愚行も犯した。さて、古代において軍の右翼に最強の兵を配置することは常識であった。歩兵は右手に槍を持ち左手に楯を持つため、楯のない右側の防御力が落ちる。従って軍の右翼に配置されるのは最も勇敢な兵士たちであった。サフラン・イエロー、マラカイト・グリーン、薔薇色、灰白色、アイボリー・ブラック……色名とはそもそも相対的なもので、例えば完璧な白や黒というものは存在せず、理論上の――


 時代も年齢も人種も異なる人間たちが、それぞれの知識と言葉で示した多くの情報は一人の人間が一生の内でえる情報を上回ります。

 しかし己の内側を知識が埋めつくしているというこの充実感は、病に倒れた夫と病弱な息子の分を補って懸命に社交に励む母上を思うとき、いともあっけなく萎みます。気丈な母上が一人息子に望んでいる姿は、暇さえあれば読書にふけっている今の姿ではないのです。貴族たちを集めた大がかりな行事のほとんどを体調不良として欠席し、周囲の憂いを感じていないはずがないのに、剣の稽古や乗馬訓練などで体を鍛えるようなこともせずに過ごす毎日を、どれだけ情けなく思っていることでしょうか。

 この上、わたくしの体調不良の半分が嘘であるとお知りになれば、母上は果たしてお嘆きになるのか、お喜びになるのか。結果がどちらであれ、わたくしが望まれるようにふるまえないことだけは確かな気がしています。周囲の考えるごく普通の程度が、生まれつき病弱なわたくしにはひどく困難なことでした。

 乳母や古くからの召使いたちは口にします。この頃はずいぶんとご健康におなりで喜ばしいことです、と。無理もありません。一週間寝込んでようやく起きられるようになって庭園を歩き始めたならば、途端にめまいを起こし再び一週間寝込むというような子供時代だったのですから。むしろ一日の空白もなくこの脆弱な身体が生命活動を続け、今日に至ったことのほうが不思議でした。

 けれども実際のところ、わたくしの身体が変化したわけでなく、わたくしがわたくしの行動を変えただけなのです。剣の稽古も乗馬の訓練も度を越した読書も、わずかでも負担を感じたらすぐさま手をひくことが習慣になりました。それだけでおもしろいほど寝込む回数が減ります。無理を通さなければ、わたくしは空に両腕を広げて笑い出したくなるほど自由なのでした。


 高い空に記憶と思考の断片を並べていると、青一色の視界の中心に不意に暗い色の塊が現れました。塊は人間の上半身の輪郭を持って、「良い天気で御座いますな、王子様」としわがれた声を出します。わたくしはしばらくぼんやりとしていました。

 耳には遠く弱々しい水音が聞こえていましたし、頬にはやや強くなった日ざしを感じていて、感覚の半分はそれらに向けられていました。瞳だけを動かして周囲を見回すと、ベンチに腰かけた己の膝に開く書物の角に、塊のてっぺんの濃い影が落ちていました。

 のろのろと声に刺激された記憶がその形を構築していくように、視野もまた光を調節して明瞭になっていきました。使い古したつばのない丸い革の帽子に、襟元のほつれた粗末なウールの上着、ベルトに下げた革の巾着から覗くなた鎌の柄には、まだ瑞々しい小枝の切り屑。背の高い痩せた老人が、にこやかにわたくしの前に立っていました。

「はい、良い天気です……」

 状況を把握したわたくしは穏やかに答えて、長年城に勤める庭師の老人に習慣でほほえんでいました。

「こんな日にまで外で読書とは、王子様は勉強熱心でいらっしゃる」

 庭師はこの数年間で何十回目かになる言葉を口にします。導かれるようにわたくしの言葉も同じものになります。

「あなたも読んでみますか」

 庭師の返事はわかりきっていました。

「わしは字など、とても読めませんから」

 生温い空気が周囲に満ちました。宴会の熱気で崩れていく琥珀色の肉のゼリーを思い浮かべながら、わたくしはうとましいのか愛しいのか判断のつかない気持ちで目を細めます。覚えれば良いでしょう。わたくしも昔は読めませんでした。そりゃ、お小さな頃のお話でしょう。わしらのような者と高貴な方は違いますよ……。

 眠るように意識を霧散させつつあったわたくしは、娘が、という唐突にはっきりと発っされた単語に、はっと意識をかき集めて庭師を見やります。

 庭師は歳を重ねてゆるんだ瞼を目尻にのせ、視線を庭の中央で弱々しく飛沫を散らしている噴水の後ろに投げました。二つの青い色が茂みの間で動いています。スカートだとわかりますが、その動きは貴婦人が散策するためのものとは違います。

「わしの娘が二人来ています。実は今日がわしの最後の仕事でして。……腰を痛めましてね。明日から庭師はあの子たちです」

 屈んでいるため明確に識別できませんが、どうやら痩せた背の高い娘と、中肉中背の娘が枝切りの作業をしているようです。眺めていると庭師が、なかなかの美人でしょう、と自慢げに話します。あれは妹のほうです。姉のほうは先妻の子でしてね、母親が違うので姉妹で容姿に差がついてしまって。姉はどう化粧しても十人並みの容姿にしかならなくて、可哀相に妹のほうが先に嫁に行くことになってしまいましたよ。……せっかく王子様がいらっしゃるんですから、こちらで挨拶させましょう。

 おおい、と庭師が娘たちに向かって声を上げました。やがてわたくしの前にそばかすを頬に散らした娘と鼻筋の通った娘が緊張した面持ちで並んだとき、わたくしは使い慣れた笑みをはりつけてそれぞれの挨拶を聞き流し、内心で一つの判断を下すための情報をかき集めていました。


 もうずいぶん古い出来事になりますが、隣国の第三王女というひとの肖像画を贈られたことがあります。わたくしは十歳で、初めての婚約を交わしたばかりでした。婚約者たるその王女とは、とうとう一度も顔を合わせる機会がありませんでしたが、贈られた肖像画は婚約が解消されるまでの三年間、わたくしの寝室の壁を飾り続けました。

 子供時代の大半をわたくしはベッドの上で過ごしています。ベッドに横になった体勢から全体を眺めることのできる王女の肖像画は、父上や母上のお顔よりも親しんできたと云ってよいかもしれません。それを見越してわたくしの寝室に飾るようにとの父上のご指示であったのかもしれませんが、ともかく、寝室の壁とベッドの上とで王女とわたくしは向き合う時間を多くしたのでした。

 母上が肖像画を初めてご覧になったときのお言葉は、よく理解できないものでした。召使いに掲げさせた肖像画を見やり、口の端を曲げてうすくお笑いになりました。

「まあ……そう悪くはない。初々しい様子ではないか」

 わたくしより二歳年上の十二歳だと聞くその王女は、金色の額縁におさまってピンク色の丸い顔にあるかなしかの笑みを張りつけているのでした。紅のたっぷり塗られた肉厚の唇、肩にやわらかにのる艶やかに重たげな黒髪、鎖骨を飾るエメラルドの首飾り、青白い血管がかすかに浮かぶ大きくふくらんだ胸の谷間、布張りの椅子に優雅に腰かける姿勢と、どこに目を向けても、わたくしにはありふれた貴族の女性のようにしか映らないのです。悪くないとも、初々しいとも、いっさい感じられないのです。

 わたくしには健康を保つ才能もなければ、人間を見分ける才能も備わっていないのでしょう。忙しく立ち働く召使いたちが城内を行き交う人々を一瞥で見分けている様子をみせるのに、わたくしが心の内で同じことをするのに難儀するというのは、その証拠に他ならない気がします。判別できる他人の外見の違いとは、背が高いか低いか、太っているか痩せているか、男か女か、その程度のものであり、年齢でさえ、身体の小さくつたない行動をとる者が子供であり、肌に皺や髪に白毛を持つ者が年寄りであり、その他が大人であるという、たった三つきりの区別なのです。

 召使いは召使いの服を身に付けているから召使いであると判断し、貴族は貴族の身なりをしているから貴族であると判断する。三十歳も四十歳も五十歳も同じであり、それ以上の区別は意識せずにここまできたのです。もし、見知っているはずの貴婦人が召使いの服を着て現れたらどうか。あるいは流行通りに着飾った面識のない貴族たちが一ヵ所に集まっていたら、男女の別以上に区別がつくかどうか。それとも二人並べられた娘のうち、どちらがより美しいかと問われたら。


 わたくしは庭師の二人の娘を見比べています。背が高く痩せて鼻筋の通った娘と、中肉中背でそばかすの目立つ娘。青い瞳と灰色の瞳。真っ赤になってうつむく仕種と、それを隣で咎めるような顔つき。

 一体どちらかが行き遅れた十人並みの容姿の姉なのかと、ほほえみをはりつけてわたくしは必死で考えています。



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