2《舞踏会》
高い笑い声に、周囲を流れていた軽快なテンポの音楽が途切れました。手を取り合って会場で踊りを再開しようとしていた多くの男女の動きが止まります。視線が集まる中、母上は扇で顔をお隠しになってお笑い続けになり、母上と母上のおそばに控えているわたくしに向かって、正面から低くお辞儀の姿勢をとっていた一人の娘をおろおろとさせました。
「ホホ……ホ……なるほど、なるほどのう……ホホ……」
母上はいつになくご興奮なさっているようです。わたくしの立つ位置からだけうかがうことのできる扇の陰では、薔薇色の頬に押し上げられた瞳がひどく楽しげに細められていました。お声の震えに合わせて扇を縁どるダチョウの羽根が細かにゆれます。
困惑に琥珀色の瞳をうるませる娘を、わたくしは哀れに思って眺めます。その娘は、国中から王子妃を目ざして若い娘たちが集まったこの舞踏会の会場で、単身中央に進み出て踊り始めた娘なのでした。踊りの技によほどの自信があったのでしょう。宝石らしい宝石もつけず、尋ねなくとも平民とわかる流行遅れの粗末なドレスで、会場を満たす人々の非難を恐れず大胆に踊りの腕を披露し、会場の半数の拍手喝采と残り半数の眉をひそめたざわめきを受け取ったのです。
母上は前者でした。少なくない非難などまるでお耳に届かないご様子で、子であるわたくしでさえも、おや、と思うほどの拍手を娘にお贈りになったのでした。それならば、とわたくしは母上を真似て拍手を贈り、ふり向かれて意見を求められれば軽くうなずいて、「みごとなものだと思いました」と従います。母上はますます上機嫌で、楽しませてくれた踊りの褒美に城での役職を与えると宣言したのが、つい先ほどのことです。話しはこれで終わるはずでした。
ところが突然に高くお笑いになったのです。一言二言、もののついでとばかりに娘にご質問をなさり、娘がやや遅れて答えを返した途端のことでした。勢いよく母上に感謝の言葉を述べていた娘は、驚きと不安に口をつぐみます。そばにいたわたくしにも理由がわからなかったのですから、娘が戸惑うのも当然のことでしょう。
母上と向き合う娘は弱く小さく見えました。舞踏会に一応なりとも身なりを整えての参加ができた事実を考えると、農民よりは裕福な商人などの娘なのでしょうが、見回してみてもこの場に連れの者もないようでした。いくら踊りの才能に支えられた自信で会場中の人間に挑む勇気があろうと、病に倒れた国王に代わり国の政治を行ってきた気高いこの母を前にしては、萎縮せずにいられるわけがありません。ましてや母上には、お気に召さぬたった一言を理由にして、この娘の人生をどうすることもできる権力があるのです。娘の踊りが会場の空気を変えるまで、母上とわたくしについて離れず、さかんに話題を投げかけていた貴族の令嬢たちとこの娘では、立場が違いすぎました。
わたくしはほんのわずかに視線を横に移して、母上の向こうに立つ令嬢たちを眺めます。令嬢たちはそれぞれの扇で口もとを隠しながら、身をよせ合ってなにごとかを囁きつつ、娘を観察してうすく笑っているのでした。扇の陰からときおり覗く鮮烈に赤い唇をよく動くものだと思った瞬間、頭の中で二つの色がひらりと動いて淡く消えました。そのおしろいをはたいた肌の白さと、血の色の深さを思わせる赤みの対比を、既に自分はどこかで見終えていました。
色、いろ――いついかなる場所で目にしたものか。ローズ・レッドという近しい色名がまず浮かびます。濁りのない明るい赤を指す華やかなそれは、視線の先の令嬢の一人がドレスの袖にあしらったリボンの色でした。さすがに令嬢たちは心得たもので、ドレスの袖をふくらませてリボンでしぼるという最新流行のスタイルです。鮮やかな色の記憶はあれらのリボンであったかと考えます。いえ、端を細く長くたらしてたよりなくひるがえるリボンの軽さは、イメージとは異なっていました。記憶をたぐる糸はどこも途切れて求めるものに行き着きません。
たわいない考え事をくり返している最中でした。
「気に入ったぞ、娘」
力強い声が響きました。母上のお声でした。戻した視線の先で、母上が娘をお見すえになっています。そなたにしよう、と母上はお続けになりました。
「悪いが、城での役職は取りやめじゃ。そなたを我が王子の花嫁としよう」
会場を埋める者たちの息を飲む音が、巨大な生き物のもののように一つに重なりました。わたくしは母上の横顔と娘を視界の中で等しくし、娘は疑うようにまた助けを求めるように琥珀の丸い瞳で母上とわたくしの顔を忙しく見比べています。
どよめきが会場を覆う中、わたくしは靄のかかったような思考で、この娘は果たして幸運なのか憐れなのかと考えていました。