1《食事》
近々そなたの花嫁を国中の娘を集めた舞踏会で決めようと思う、と母上がサイコロ状に切り分けられた鳥肉を親指と二本の長い指で優雅につまみ上げながらおっしゃいました。
「わたくしの?」
スパイスを効かせた赤ワインを満たすコップを口から離し、わたくしは右隣りに座る母上を見やります。
「隣国の貴族のご令嬢はいかがなさいましたか。確か、わたくしの婚約者であったはずですが」
唇の間に滑り込ませた鳥肉を咀嚼し、ゆっくりとのどをお通しになると、母上はわたくしの問いかけに幅広く色薄い眉をおひそめになり、ふくよかな頬で皮肉げにお笑いになりました。指先のソースの汚れを皿として敷かれた平たいパンの端でお拭いになって、やや乱暴な仕種でコップをお持ち上げになります。わたくしのものと同じ金めっきされた銀製の容器の上に、一瞬赤い滴が跳ね上がりました。そのような約束、とうにあの国は守る気がないであろうよ。この六年、なにかと理由をつけて延ばしに延ばされた輿入れじゃ。
わたくしはそっと周囲に目を配りました。この話が耳に届いたであろう給仕たちの反応が気になったのです。
父上がベッドからお離れになることさえ珍しくなってから六年ほど、母上と二人きりの食事が続いています。二人という人数には風通しの良すぎる部屋で、私と母上は並んで部屋に着きます。
父上が母上と共に食卓にお着きになっていた頃には、楽士をそろえて演奏させながらの賑やかな時間であったのですが、母上はいまではまるで、数多くなった国賓や貴族を招いての晩餐にお疲れになったように、普段は三人の給仕──飲み物を注ぐバトラーと、皿用のパンを切り分けるパン係に、料理の肉を一口第に切り分けて主人のパンの上に差し出す肉切り係──を置くだけの静かな時間をお好みになります。
給仕の三人の若者たちは、それぞれ素知らぬ顔で己の仕事に励んでいました。酒蔵の鍵とコルク抜きのついた鎖を首から下げるバトラーは、母上のかたわらでワインの入った水差しを両手で持ち、中身を注ぐタイミングを静かに待っていましたし、肉切り係は母上に差し上げたときと同じように、ひざまずいて胸の高さになったテーブルで、わたくしの分の鳥肉を慎重に一口大に切りわけていました。一度お互いの身体が触れるほどの距離で目線の合ったパン係は、ごく自然にそれをそらして、わたくしの前からソースの染みた崩れかけのパンを下げ、新しい皿とするための硬いパンの塊をわたくしの右側に立って分厚く切りわけ始めました。なにも聞こえていないような、もしくは無関心であるかのようでした。
無関心であるはずがありません。給仕を仕事とする彼らは全員が騎士見習いの貴族の子弟たちなのです。勤めをそつなくこなす様子を見せていても、己の出世に関わってこないとも限らない政治の話を、本心では気にならないはずがありません。
そもそもが……と、母上はわきあがる怒りを抑えた低い声でおつぶやきになりました。わたくしの注意は母上へと戻ります。母上は手の中に視線を向けながら、水平にコップをお回しになっていました。そもそもが、第三王女をそなたの妃として輿入れさせたいという申し入れであったからこそ、国王陛下もわらわもこころよく承諾した話であったというに。陛下が病にお倒れになったと聞くや、急に王女が虚弱な体質であると云いだして婚約者を入れ替えてくるなど……。
母上の紅い唇はかすかな笑みをお作りになっていましたが、コップを握るお手の甲には関節の骨が浮き上がって、皮膚をぴんとはらせているのでした。死角となったコップの陰では、やわらかな指先が血の気を失うほど強く握り込まれているのでしょう。バトラーは気付いているのかいないのか、変化のないまなざしを母上の手元に向けています。
わたくしの前に新しい皿と鳥肉とが用意されました。コップを置いて手をつけることにします。
「この度は隣国の貴族のご令嬢から、国内の貴族のご令嬢に婚約者が替わるわけですね」
申し上げつつ、船型をした卓上の塩入れ容器から、パン製の皿の端に一つまみの塩を取ります。幼い頃からさほどの苦労もなく身に付けることが可能だった上品とされる指使いで、肉の欠片に塩をつけ、口に運び入れました。口の中で風味付けに使われたジュニパーベリーの舌を焼く軽やかな刺激が琥珀色の脂に混じります。松脂に似た香りを感じながら咀嚼していると、姿勢をお正しになった母上がこちらをご凝視になり、王子、と重々しくわたくしをお呼びになりました。
「婚約者ではない、花嫁じゃ。そなた、今年でいくつになる? 二十歳ではなかったか」
母上は押しやるようにコップを卓上にお戻しになります。空いた場所に両肘をおつきになると指を顔の高さでお組みになり、額の重さをお預けになりました。
「婚約期間が長すぎたのう……王女を婚約者に三年、貴族の娘を婚約者に六年……もっと早くに見切りをつけるべきであった。国王陛下が床に伏せられてから六年……次代の王たる王子が二十歳にもなって妃を持たぬとは」
静かなため息が豪奢な部屋を満たしました。わたくしは二つめの肉片を飲み込み、のどにワインを流します。
「母上のおよろしいようになさって下さい。わたくしは、誰の娘であってもかまいません」
細長く焼かれた皿用とは別のやわらかなパンを口にちぎり入れ、年齢も容姿もかまわないのだと付け加えるべきか、いらぬことか考えます。
ややして、そうか、と母上が顔をお伏せになったまま声をおもらしになります。
「聞きわけが良いのはそなたの美点じゃな。気性も穏やかで、王の子にふさわしい気品も備わっておる。しかし」
頭痛を払うのに似た仕種で軽く首をおふりになり、母上はその先を口になさいません。
食事を続けながらわたくしは、音にならない言葉をいくつも耳に入れます。己でその一つ一つをはっきりとさせたくはありません。どれをとっても、まともに向き合えば独りで立つことさえ難しくなるような、そんな言葉たちである気がしています。
「……いや、ならば舞踏会でより良き娘を選べば良いことじゃ」
重たげに上体をお起こしになった母上が、思慮深いまなざしで、うっすらとお笑いになりました。
「妙齢の娘ならば身分は問わぬとおふれを出そうぞ。──国中の娘という娘が集まるかもしれぬな。だが結局のところそなたの花嫁におさまるのは、財力はあってもさほど権力を持たぬ貴族の娘になる。当日は人々の前でせいぜい迷ったふりで娘たちを眺めるとしようか、王子」
次第に楽しげに声をおはずませになり、最後にわたくしの瞳をお捕らえになります。母上は特別なことなくくり返される毎日にあっても、わたくしには理解しえない感情の波でもって時々ひどく明るく浮き立ったご様子におなりになるので、この度もその内だろうと状況を己に納得させます。けれども云い渡された内容に関しては不可解で答えようがなく、周りの給仕たちの存在が気になりはしたものの素直に質問することにします。
「なぜさほど権力を持たない貴族と限定なさるのですか。そしてお迷いになるふりなど。真実お迷いになってらっしゃらないのであれば必要ないではありませんか」
「わからぬか、王子」
「はい……わかりかねます」
「我が国王陛下が御健在ではないからじゃ」
母上はわたくしが知る内でもっとも厳しい顔でお見すえになり、軽く流せぬ空気を感じたわたくしは両手を空けて姿勢を正します。じっと説明を待っていると、再びため息をおつきになります。
「……そなたは事実上、国王不在の王室を支えるために、有力な領主の娘をと考えておるかもしれぬが、いまそれらの者に王子妃の父や兄といった権威を与えることはむしろ危うい。要はバランスなのじゃ。わらわやそなたよりも、多くの人や物を動かせる者が臣下であってはならぬ」
強く、かたく、紅い唇から言葉があふれ出ます。声の響かせ方から、なんとなく感じられたことがあります。母上はわたくし一人にお聞かせになっているようで、同時に給仕たちにも云い聞かせて給仕作法以外の教育をおほどこしになっているのです。やがて彼らが騎士となったとき、身のほどをわきまえた安全で使い勝手の良い臣下となるように。
手堅いなさりようを尊敬しつつも、わたくしは集中できません。母上のお吐き出しになる息に緊張を覚えます。母上から流れ出るそれが、己にまとわりついてくる気がするのです。霧だの靄だのといったもののようにわたくしを覆っていくのです。
昨日読んだ書物の一ページと同じように、耳に入る言葉が通りすぎていきます。
「しかし政治に必要不可欠なそれらの者たちをおろそかに扱って、反感や不満を持たれても困る。一国の主が存在を印象付けられないということは、そなたが考えている以上にもろく見られるものなのじゃ。王女を別の娘にさし替え、さし替えた娘すらよこさない隣国のようにの。選ぶ花嫁は一人きり。反感や不満をやわらげるために選ばれない娘たちの数を増やし、選び終えるまでは大層迷ってみせることがわらわとそなたの役割じゃ──なにをほうけておる、王子」
「……え、いえ、申し訳ありません」
「また体調不良か? 食は進んでいたようなのにの?」
わたくしはうなずきながら、ぼんやりと曖昧に笑います。曖昧な笑みはわたくしの癖のようなものです。常套手段と云うべきものなのかも知れません。こうしてさえいれば、大抵のことは通りすぎていきます。相手が誰でもそう変わりはありません。つられたように少し歪んだ笑みが返され、わたくしも相手もお互いの本当の心など知らぬままその場を逃れるのです。
母上のお顔から力が抜けたように思いました。眉間に皺をおよせになって、母上は細く息をお吐き出しになりました。