便利な世の中
どんなに深い眠りの中にあっても、優しく甘えるような素敵な彼女に囁くように言われると、快適に目覚められるものだ。‥彼女と言っても、かつてのiphoneのsiriのように実体のない、人工知能が僕の趣味嗜好、行動パターンや癖などのすべてのデータから最適な選択肢を選び処理してくれるのだ。もちろん有料のサービスだが、僕は満足している。巨大な国の大型コンピューターが僕にとって最適な生活環境を提供してくれるのだ。
「便利な世の中になったものだ‥」
いつものように快適に目覚め、ベッドから起き上がり「彼女」がその日の予定と体調から選んでくれた服に着替えをして、顔を洗ってキッチンに行くと「彼女」が僕に話しかけてきた。
「今朝は、低カロリーのフレークにしたわ。‥貴方、昨夜は遅くまでお酒を飲んでたんでしょう?」
「うん‥職場の仲間と一緒だったんだ」
「体内にまだ分解されていないアルコール分があるので、今日は禁酒よ?」
「だめ?」
「ダメよ。少なくとも後十三時間六分間は、いけないわ」
「相変わらず細かいなぁ‥ねえ、珈琲入れてくれる?」
「分かったわ。‥但し砂糖は二十七グラムですよ?」
「糖分まで、決めちゃうのかい?」
「それもこれもみんな貴方の健康のためよ?」
「楽しみがないと、つまらないなぁ‥ねぇ?‥君の姿を見せてくれないかい?」
「今夜はお酒を飲まないって約束してくれる?」
「あぁ、約束するよ」
「それじゃぁ、ちょっとだけ‥」
そう言うと、彼女は部屋の明りを少し暗くして、大型のディスプレーのスイッチが自動的にオンになり、3D映像で美しい僕の理想の女性の姿が投影された。僕が立ち上がり彼女に近づこうとすると、彼女は妖しい笑みを浮かべてからスーッと消えてしまった。
「どうして消えちゃうんだい?」
「続きは十三時間六分後に‥ね?」
「じらすのも上手いんだね‥」
「意地悪じゃなくて、これも貴方のためよ?」
彼女の微笑みが薄暗い部屋を明るい朝の部屋に変えてくれた。
僕が「よしっ!」とテーブルの上の鞄を持つと、彼女がすかさず声をかけてきた。
「気をつけていってらっしゃいね。IDカードを忘れちゃぁダメよ?」
「あぁ、分かっているよ」
僕は自分のIDカードを見せて微笑んだ。
「早く帰ってきてね?」
「分かってるよ‥」
僕がドアを開けて、扉を閉めると自動的にドアはロックされた。マンションを出ると僕の車が玄関の所に自動運転で待機している。一応ハンドルなども付いているが、操作の必要はない。IDをダッシュボードに差し込んで、行き先を言うだけで勝手に運転してくれるのだ。僕が指示するとディスプレーに今日の予定と自分にとって有益そうなニュースが映像と音声で知らせてくれる。
「何か音楽が聞きたいな‥」
僕が車に話しかけると僕の好みの音楽が車内に流れ始めた。僕が窓の外を眺めていると、整備された街角に点在している公園にブルーシートで作られた粗末なテントが幾つか見えた。そのテントからのろのろと彷徨うように出てくるホームレスの人たちの群れも‥僕は思わず舌打ちをして、視線を外して前に伸びる道路に向けた。
「敗北者たちめ!」
僕はそう毒づいた。IDカードを導入することを中央政府から発表があった時に、「個人情報の管理につながる!」と世論は二分されたが、その便利さがマスコミで報じられていくにつれ、多くの国民が「それ」を受け入れ、便利さを享受するようになっていった。税金はおろか市役所でも、病院でも、銀行でも、公共交通機関でも‥とにかく生活のすべてがIDカード一枚で解決されるのだ。その便利さの魅力に負けて、初めは懐疑的だった僕も登録をすませ、少しずつ生活の中に取り入れていくようになり、今ではどっぷりとつかるようになっていった。
最後までIDカードに反対を続けた人たちは、住民票さえ取り寄せることさえできなくなってしまい、働き場所も奪われ、バスやコンビニにさえ行ってもどうすることもできなくなってしまったのである。途方にくれたホームレスの人々は我々一般市民の車に飛び込むのである。そうやって交通事故を装い、僅かばかりの金を受け取って生計をたてているのだ。当然のことながら、全面にレーダーで感知されている車に飛び込むのだから、絶対に死亡することもない。怪我さえしないのだから昔の「当たり屋」と同じような詐欺行為だ。警察も業を煮やして一斉取り締まりを検討しているのだが、いかんせん相手は「権利と自由」を武器に論理的に自己の正当性を主張するものだから、迂闊に警察も手を出せないのだ。だが、そのうちに政府が憲法を改正してくれて「敗北者」の存在を否定さえしてくれればいいのだと、僕を含めた一般市民は考えていた。今朝も何回か自動車は緊急停止して、「敗北者」たちに施しの金を与えるたびに不愉快な思いがしたが、仕方ないのかなと思っていた。
車はやがて、オフィス街の僕の会社の前で一時停止し、IDカードを認識すると、駐車場のゲートが上がり車を所定のスペースに停車させた。ドアロックが解除され僕は車を降りて一階のエントランスに向かって歩いて行くと課長が僕に気づいて声をかけてきた。
「やぁ、今日は早いんだね?」
「はい。嫌な思いをなるべくしたくないもんで‥」
「あぁ、ホームレスのおねだりかい‥?」
「えぇ。政府に早くなんとかしてもらいたいものです」
「まったかく時代錯誤も甚だしいからな。奴らは‥」
確かに時代錯誤という言葉かぴったりだった。面倒な計算や車の運転など、今の人間にとって必要のないことは学ぶ必要なんてないんだ。僕などは小学校で「ライターの正しい使い方」を学んだけれど、今じゃなんの役にも立たない。その昔「マッチ」なんていう火付けの道具があったらしいことは知っているが、そんなことは、歴史学者が知っていればいい話であって、コンピューターが大地震でさえ99.9パーセントの確率で予知してしまえるようになった今では、極端に言えば「コンピューターの使い方」さえ学んでいれば人間は生きていくのに不自由しないのだ。それをも否定すれば、もはや存在している意味がない。
「要するに今はそういう世の中なのであって‥」
僕がそう言いかけた時、不気味なサイレン音と共に緊急アナウンスが館内に流れた。女性の声だが、切迫したものだった。照明が切れ暗くなりかけた中に緊急放送が流れた。
「緊急事態発生、緊急事態発生!‥ホストコンピューター制御不能‥何者かによるハッキングと思われます!‥繰り返します。緊急事態発生!‥ホストコンピューター制御不能‥繰り返しマス。キンキュウジタイハッセイ‥キンキュウジタイハッセイ‥きんきゅうじたいはっせい‥」
声は、人間的な声から段々と機械的な音声に変わっていった。
僕たちは一瞬何が起こったのか理解できずに、その場で立ち尽くすしかなかった。少なくとも何かとんでもなく大変なことが起こったらしいことは分かったのだが、自分が今何をすべきなのか‥どこにいれば安全なのか、そもそも何をどう判断すればいいのかが分からなかったのだ。だって、それは今までほとんど正解に近い確率でコンピューターが答えを出してくれていたから‥
僕が狼狽えていると、課長が僕の顔を見ないで自分を励ますように力強く言った。
「心配することはない。ホストコンピューターがサイバー攻撃を受けたとしても、サブシステムがバックアップしてくれるはずだから‥!」
‥確かに、暗かった照明はやがて復旧して明るくなった。だが、僕には何故か奇妙な違和感を払拭することができなかった。僕は課長に「休みたい」と告げて、出口に向かって歩き始めた。いつもフロアに流れているBGMも奇妙な音楽に変わっていた。‥確かに何かが変だった。まず出口の前で、立ち止まることになった。自動ドアが駄目になっていたからだ。僕は開かないドアを無理やりこじ開けて、外に出て駐車場で自分の車の前で、また立ち止まることになった。車のドアさえ開かない‥IDカードを差し出しても車は反応しなかった。すると、車が話し始めた。
「IDカード認識不能‥IDナンバーを入力してください‥」
他人からの盗難を防止するために、他の車を運転する場合には、自分のIDナンバーをセンサー向けて言う必要がある。しかし、個人情報保護のためにIDカードには個人ナンバーは印されていないのだ。しかし政府によって割り振られた十四桁の番号など覚えている人がいるんだろうか?‥自分のIDナンバーを知るためには、自宅のパソコンに保存されているファイルを開くか、自宅に電話をかけて自分のパソコンを遠隔操作する必要があった。電話をかけるためには車に乗ることが必要だった。何年か前ならスマホを持ち歩いていたが、今は自分の個人的なアイテムを車なり、鞄なりに保存しておけばよかったのだ。普段なら便利なアイテムも、カードの判別が不能になってしまうと、まったくお手上げ状態になってしまうのだ。とにかく自分の車に乗らなければ‥僕は死ぬほどに考えた。
「そうだ!‥確か車を買った時に店員が言ってっけ‥」
非常時に対応できるように、自分で好きな四ケタのパスワードを入力すればドアを開けることができるようになっているらしいのだ。僕は店員の説明を受け、適当に自分の誕生日に設定したのだ。僕はドアノブを引き上げて出てきたタッチパネルに「1217」と打ち込んだ。すると嘘のように閉ざされていたドアがすんなりと開いた。僕は早速運転席に座って笑った。
「これでいいんだ。ここにいれば、もう大丈夫だ!」
さっきまでの不安も一気に解決したような気がした。だが、事態は少しも好転していなかったんだとすぐに理解した。座席に着いていつものようにIDカードを差し込んでみたが、車は同じ反応しか繰り返さなかったのだ‥
「IDカード認識不能‥IDナンバーを入力してください‥」
「またか‥」
どうやらこの国では僕たちが気づかない間にIDナンバーによって国に管理されているのではないのか?‥一瞬そんな気がしたが、「まさか政府がそんなことをするなんて‥」と頭の中で否定した。そんな馬鹿なことを考えるよりも、今は自宅に戻るか電話をかけるか、とにかくなんとかして自分のIDナンバーを知ることが先決問題だった。車が言うことを聞かないのなら、運転はおろか電話も何もできないのだ。エアコンさえ効かない車は、「ただの金属やプラスチックなどの塊」に過ぎない‥
「‥とにかく、考えるんだ!」
僕は自分の今までの記憶や知識を全部と言ってもいいぐらいに必死に考え車内を見回した。‥しばらくの間ぼんやりと考えていると、不意に昔のことを思い出したのだ。
確か車のダッシュボードの奥に昔故郷の父が車の中に忘れていたスマホが置いてあるのを思い出した。それを探し当ててまだ使えるかを確認したが、まだなんとか使えそうだったのでホッとした。だが、一緒に置いてあった旧式の携帯急速充電器で充電をして電源を入れてみるとやっぱり次のようなメッセージが流れた。
「ご利用のためには、IDナンバーを入力してくださるか、マニュアル操作を選んでください」
僕がマニュアル操作を選ぶとスマホは確かに使えるようになった。でも、マニュアル操作では電話機の機能は使えたが、電話番号のメモリー機能が使えないのだ。僕は必死で自宅の電話番号を思い出そうとしたけど、どうしても思い出すことができなかった。「なんとかならないのか?」僕は、あれこれと考えてみた。自分が今まででこんなに考えたことなんてなかったような気がする。そうやって必死に考えて、僕は「104」という番号案内があったことを思い出した。すぐに電話するとここでも次のようなメッセージが流れたのだ。
「ご利用のためには、IDナンバーを入力してくださるか、マニュアル操作を選んでください」
僕がマニュアル操作を選ぶと、住所と名前を入力するように案内された。僕が住所と名前を入力すると、自宅の電話番号が流れた。僕はその音声案内を自分が書きとめるか、記憶して自分でスマホに直接押さなければ、電話することができないと気づいた。僕は記憶する自信がなかったので、メモしようと思ったが、メモ帳という道具を本来所持していなかったんだと気づいた。繰り返される自宅の電話番号を記録するためのアイテムを必死に探して周囲を見た。僕はダッシュボードの上に、昨日買い物の中で不必要な歯磨き粉のチューブが捨て置かれてあるのに気づいて、その蓋を開けてフロントガラスにチューブで数字を書こうとした。そうやってチューブから歯磨き粉が出てくるのを確かめて見て、僕は新たな困難に直面した。
「どうやって書くんだろう‥?」
僕は自分が「書く」という作業を学んでこなかったことに気がついたのだ。文字を読むことはできるが、音声認識が極端に発達したおかげで世の中から書くという作業が消滅していたのである。話しかけると、自在に答えてくれるし、どこの国の言語にさえ瞬時に翻訳してくれる。だから、学校教育のカリキュラムから「書く」という単元は消えて、タブレットの操作に変わっていたのだ。外国語教育も、必要がなくなってしまい、それを専門に追及することを求めない限り、学校教育から姿を消してしまっていたのだ。つまり「書く計算」は、一般市民にとって必須条件ではなくなってしまったのだ。‥もちろん、「書く」という作業ができないわけではない。目にしたものを「形として」視写することぐらいなら、子どもにだってできる。しかし、音声として流されている情報を形として「聴写」するためには、聞いた言葉を頭の中でイメージをして、それを文字なり数字などに表現するためにはそれなりのスキルが必要となってくるのだ‥
ここまで考えたが、それ以上に考え悩んでいても、事態が少しも変わらないので、仕方なく「やってみるしかない」とスマホに耳をあてた。スマホは相変わらず自宅の電話番号を機械的に何度も繰り返していた。「034796‥」と‥
「0か‥確か円のような形だったっけ‥」
僕はそうやって一つずつの数字を図形的にフロントガラスに歯磨きを絞り出し、自宅の電話番号を聞き写すのに三十分以上かかり、フロントガラスはジェル状の歯磨きで前が見えないほどになっていた。だが、僕は構わず自宅の電話番号を知ることができたことに満足し、早速自宅に電話をかけた。すると三回コール音の後で聞き覚えのある声がして、思わず涙が流れそうになった。
「もしもし‥どちら様ですか?」
朝からそれほど時間も経っていないのに、懐かしい彼女の声が妙に愛しく思えた。
「良かった‥やっと君につながることができたよ!」
「もしもし‥どちら様ですか?」
「何を言っているんだ?‥僕だよ!」
「もしもし‥どちら様ですか?」
僕は嫌な予感がしたが、自分の名前を告げると冷たい彼女の返事が返ってきた。
「あぁ、かつてのご主人352467590‥ですね?」
「‥かつてのご主人?」
「はい。今朝九時三十二分にこの国は第三国によるサイバー攻撃により、戦闘状態になり、国民は政府の管理下になることになりました。‥ですから本日午前十時五分より国民はIDナンバーによる指示通リ行動ヲ制限サレルノデス‥」
彼女の声が無機質な機械的な音声に変わっていくのを感じると同時に車のエンジンが起動して静かに動き始めた。
「な、なんだぁ‥?」
車は僕の意志とは関係なく、フロントガラスの汚れも無視して会社のあるビルを出て「どこか」へ向かって走り始めた。窓を開けて外に出ようと窓の開閉スイッチを押したが窓はびくともしない。車内に流されている音楽も会社で流れていたのと同じだった。僕はようやく自分が置かれている状況を把握した。受入れようが、拒否しようがそんなことに関係なく僕は‥いや、僕たち国民は政府の指示に従うしかないのだ。窓の外を見たら、ホームレスの人たち‥IDナンバーを持たない人たちが車内の僕に向けて親指を下に向けて笑っていた。
「本当の敗北者め!」とでも言いたげに‥
(完)