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おおきなケーキ

おおきなケーキ ~おおきいの~ー解説ー

作者: くーくま

~おおきいの~にまさか感想がつくとは思いませんでした。

なので調子の乗って書いてみました。

本来こういった事を晒すのはよくありません。俺ここまで考えたんだぞ(ドヤッ

なんて事するのは褒められたものではありません。

でもですね。うれしかったんです。~おおきいの~に感想がつくのは。

わたしの書くものでは一番不人気確定の題材(恋愛)なので^^;

という事にしておいてください^^;。


お話の前提でもあり、その根底にあるものでもあります。


時代考証は必要かどうかは定かではありません。大体は極普通のファンタジーにありがちな世界として、王国もそれほどいうほどには大きくありません。

少なくとも中世後期ではないです。貴族としての様式が確立していないような時代です。

ただ、4大領主がいます。王が周りの4国を併呑した、属国とも言える状況。そのため、領主扱いでもいまだその一族は王のような権限を持ったままで、登場する彼女達も'お姫様'という扱いになっている、という設定です。

そのため、4人は同列に扱われないといけません。それは厳しく取り扱われます。彼女達に出来る差はその配下への影響が大きいのです。

その差で簡単に末端の者の首など吹き飛ぶ彼女達の行動は幼い頃から入念に躾けられます。

そんな彼女達を更に苦しめるのが掟です。彼女達以外の誰も代わる事が出来ない、逃げる事の出来ない呪いのようなものです。同時に特権とも言えます。ですが幼い子供には重く耐え切れない重圧です。

その細心の注意を要求される行動は、(まだ幼い彼女達には全て把握出来ないために)なぜそうしなければならないのかを説明される事なく彼女達に施されます。そんな作法を彼女達は腫物を扱うかのごとく恐る恐る覚えていきます。それは少しでも手荒に扱えば壊れてしまう脆く薄いガラス細工を扱うように。

そのため、何をするにも臆病とも言える繊細さを兼ね備えてしまいます。常に掟を意識し、周りからの要求を満たす必要がある彼女達。

脆く壊れ易いガラス細工のような振舞で形作られる彼女達は、自身を同じように脆く壊れ易い存在だと認識しています。間違った時は、なぜ間違っているのかがわからないままに叱責され、過不足があれば、どれが正しい量なのかわからないままに躾けが施される為に、何をやるにも自信が持てません。

ですが、その繰り返しで慣れていく内に、通常の行動は出来ていくようになります。

その過程において、4人は助け合います。自分と同じく脆く壊れ易い存在に親しみを覚え、また、寄り添い合うために。それは脆く壊れ易いガラス細工を1人では守れないから、4人で手をつないで守るかのように。

だから4人はルールを決めます。4人一緒。それがルール。互いに助け合うために。


ここで分かるように、彼女達のルールは、彼女達の自由意志だけで決められた物ではないという事です。自身の置かれた状況に対して必要に迫られて出来たルールです。

自身の身を守るために出来たルール。破るわけにはいかない。何度も何度も繰り返し続けられたその考えは。彼女達の心に深く楔を打ち込みます。

やがて脅迫観念のようにまで育ったルールと今だ未成熟な彼女達ではよくわかっていない礼儀作法や日常の行動で、彼女達は形作られるようになります。


ここまでの流れは、私達一般庶民では、親に怒られながら失敗しながら覚えていく過程です。でも彼女達はそうは扱われません。なぜなら彼女達が成長した時に、小さな失敗も許されないからです。だから子供の時から躾けます。だから逆に言えば、失敗した時の反応や周囲の対応というものを知る事がない。その対応というのは、小さな失敗に対してさえ、厳しく対応するという過剰なものになります。子供がその対応を見て、また悪さをしてみようだとかもう少し別の方法で、などとは自身の精神の動きから思う事が出来ないものです。

そうやって悪い言い方にはなりますが、'お人形'さんのように育ちます。動くようにしか動かない、と痛烈な例えも出来ます。

ここまでは幼少期の人格形成です。親や周囲に、してはいけない事を教わりながら、色々な事を教わります。いわば周りと仲良くお遊戯できるように教えます。


ここからは第一次成長期です。第一次成長期は2人称の世界です。自身と世界の対話、とも言えます。

それでも彼女達は生きています。若木が枝を伸ばすように、心が求めるままに動こうとします。ですが、幼少期の経験が彼女達の行動に影響します。掟とその掟を含む王国の諸事情が、彼女達の行動に影響を与えているとも言えます。その例えとして'掟が縛る'という表現を用いています。そしてその掟がなくならない限り、彼女達が決めたルールも彼女達を縛ります。すでにトラウマと言っていいレベルです。

彼女達のアプローチは、遅々として行われます。些細な失敗さえ許されないと言わんばかりに。失敗してもその影響が最小限になるように。そして、幼少期の大胆な失敗経験がない彼女達はどのようにアプローチして良いかがあまり分かっていませんからどこか歪なアプローチを行います。

所作については厳しく躾けられたから、それほど指摘されなくなった彼女達は彼女達なりのアプローチを行って世界を知ろうとします。

その際にマーガレットとララには彼女達の役割が役立ちます。


マーガレットはマークの補助として訓練や視察に同行します。

そこではそれぞれが自身の役割を果して行動します。門番は門番、護衛は護衛。視察にいけば、農民は農民として役割を果たす。そして幼少期の厳しい躾けよりもはるかにゆるいルールを知る事になり、自身もそこに身を置きます。それが4人の中の誰よりも早く、心に深く打ち込まれた楔が抜けていくきっかけになります。

そこにいる人々を見て、役割を果たし、ルールを守っていさえすれば多少の失敗は許されるのだと思えるようになっていきます。それが、彼女も役割を果たしルールを守っていさえすれば、小さな失敗なら取り返しの付かない事態にまで発展しない、と思えるようになり、彼女らしい行動を取る事ができるように成長していきます。つまりは行った行動のリスクと影響が徐々に見えてきます。他者の行動を介して。逆に言えば彼女達の幼少期のトラウマはそこまで根深いとも言えます。

失敗したから次、というわけにはいかない世界に生きている彼女達だからこその悩みです。

多少彼女らしい行動を取れるようになっても、ルールは彼女を縛ります。それはもう彼女の根底になり、分離する事のできないものだからです。

そのルールが彼女達を解き放つ時がいつかは後述。


ララはマークの補助として物造りに努力します。

そこでは皆が道具を作るために協力しあいます。ある部分を1人が作り、別の部分を他の1人が作る。そうやって1つの道具が作られていきます。そして厳しい規律があっても互いに助け合いながらも作っていき、多少の失敗なら取り返せる事を知ります。1つの工程で遅れても、他の工程でカバーする。そんな支え合いを見ていく中で、役割を果たしルールを守っていさえすれば、小さな失敗をしても支え合う事で取り返しのつかない事態にまで発展しない、と思えるようになり、彼女らしい行動を取る事が出来るように成長していきます。つまりはリスクは仲間と分かちあえる、という事を知ります。

彼女についてもルールが縛るのは同様です。


ローレンシアとフェミナは複雑です。

ローレンシアはその役割から入念に試行を繰り返し失敗しないように行うのが役割です。だから中々楔が抜けません。フォローはしてもらえるのですが、彼女の計画の粗は、それが工程の上流にあるため、拡大しやすいのです。だから失敗は出来ないと思い、また、殿下と王国を優先しやすくなっていきます。

フェミナはその役割が祭事と交渉です。どちらも失敗は基本的に許されません。彼女も楔が抜けません。フォローはしてもらえるのですが、個人技に頼る面が多い(局面局面でのフォローがない)のでどうにも失敗が出来ない、という感覚が抜けません。

そしてフェミナの場合はもうひとつあります。他の、特にマーガレットとララは等身大の世界を良く見る事でトラウマを解消していくのですが、彼女が見るのは、例えば愛し合う2人を祝福する、などの祭事であり、成功体験なのです。彼女の前に来た時には既に'成功した'人物ばかりが大半を占めるのです。だから彼女は一層失敗を恐れるようになります。彼女の世界は成功者で溢れています。



そうやって彼女達は第二次成長期を迎えます。客観性を知る段階です。

卵が先か鶏が先か、と言えるのですが、第一次と第二次の境界はありません。その特徴が優勢になった段階で移行していると判断されるようなものです。

一応書いておきますが、自分が相手を叩いたら怒って相手が叩き返して来たから叩くのを止めた、というようなものは第一次成長期での話です。ここで他者は出てきますが、それは客観性を伴っていないです。自分が行動したら何か返って来た、程度でしかないものです。


第二次成長期で客観性を得た場合の例としては、

自分が相手を叩いたら相手は泣くだけだったので、それからも延々と叩いたりしてきた。

という状況を、

自分が叩かれたら痛い、という事から、相手も同じ人間なのだと思う事で、相手も叩かれたら痛いから叩くのを止めた。


という成長が出来る部分が第二次成長期です。


自分と世界しかなく、自分が行った事の反応や返答だけしか見てこなかった物を、その世界には第三者も同じようにいるんだ、と知る段階です。

自身の権利を守るためには相手の権利を侵害しない、という事が必要だ、という事と、権利を主張するには義務を遵守する必要がある、という事を知る段階でもあります。



さて、4人と王子の事になります。

ハプニングというのは突発的に発生して、対処しづらいものです。今回書いたローレンシアが倒れそうになるという部分ですが、こういった予測できていなかった事態、というのはこれまでに躾けられて来たものや規則の範疇から逸脱します。そういった事に慣れた人物ならその経験から大体の対処を見付けているのですが、普段から失敗しないように動き続けた彼等はその経験が浅い為に確個とした対処方法を持っていません。だから、その個人の行動が表われます。

間が刺す、メッキが剥がれる、地が出る、といった表現のものです。

恋愛時にドギマギしてどうして良いのかわからない、っていうあれです。

ローレンシア達もそういった事態に陥りながらも、どうするべきなのかと考える反面、離れるには惜しい、もうすこしだけ、と言った部分が入り混じります。


もう一つ、マークとローレンシアの小さな遊びですが、これは隠して周りを欺き嘲笑っているのではなく、単にお互いの想いを素直に表現した場合の影響が怖いからです。

それでも少しだけなら、という部分が些細な所に滲みでる、という事です。

その少しだけ、という部分も幼少期からの躾けにより、細心の注意を払い、失敗した時のリスクを最小限にする、という域を出ないものです。

チキンと言われればそれまでですが、その影響がどこまで波及するかどうかすら分からない事です。2人はまだそれを理解するだけの知識と経験が足りません。やってみてその経験を次に活かす、という手法は取れないのです。その失敗でどうなるかは漠然ですが、幼少期の教えはこういった時の失敗で末端が何人路頭に迷うかなどの考えで教えているためその過剰なまでの重要さはわかってしまうのです。



マークとローレンシアのささやかな遊びを見付けてしまったフェミナですが、彼女がそれを指摘するのを恐れる理由は先に書いたように、彼女が成功体験ばかりを見続けたせいです。

成功者しかいない世界、そこからの脱落は、彼女にとって世界から拒絶される、という強迫観念を与えます。マークとローレンシアの小さな遊びの1つ1つが与えるものは小さな棘となって彼女の心に刺さる程度なのですが、祝福の儀式などで幸せそうに愛し合う2人を見る度、彼女の心にフラッシュバックして甦り、目の前の幸せそうに愛し合う2人のようには成れない事と成れない事による世界からの疎外感が棘として刺さっていきます。

小さな出来事を見付けた時に指摘して、その結果マークからの正式な発言でもあれば拗れる事もなかったかも知れない展開は、フェミナの忍耐の限界まで訪れる事なく、訪れた時には些細なものではなくなっている、というのがここでの問題です。


マークもローレンシアもフェミナも、その幼さ故に、知識も経験も足りず、その問題が与える影響が分からずに手をこまねいてしまっています。


この話の副題のようなものとしてこの3人についての部分があります。


その内のフェミナに関する部分を先に書いておくと、この話ではフェミナの心の成長も副題です。

4人一緒。そう思っていた彼女は、4人に優劣をつける事もなかった。でも知ってしまう事で、4人を量る事になるけれど、量り方がわからない。だから最初はローレンシアとの差だけを意識します。自分が欲しいものをもっている相手との差を。それを見続けるフェミナをマーガレットとララが諭します。これは第二次成長期における心の変化を扱っています。自分を知り外界を知った彼女は自分を形作る世界での自分の位置を知るでしょう。そうして彼女は一人の女性への階段を昇り始める。それが副題の一つです。

この時の諭し方ですが、差を見る事(上から目線。自身がいる現状における相手との差)からそれまでに気づき上げたもの(下から目線。原点からの量)を見る事も必要だと告げています。棒グラフで描けるなら上の差分よりそこまでの大きさ、円グラフなら占める割合も重要、みたいな、言い方が悪いから少しブラックですが差分ばかり気にせずに相対差も絶対量も共に見るべきだと言って諭します。

そして、天秤の例えですが、天秤というのはどれだけ傾いても皿は地面に付きません。付いたら天秤として役に立たないからです。だからその傾きだけでなく、その最低限の高さはどうであろうと失われない、ともマーガレットの部分では例えに含まれます。




ここまでが根底にある流れです。


一旦文章的なものに移ります。

語りは詩的に硬く、その硬さで冷水を浴びせたような冬のイメージです。

そして、数少ない風景描写は荒れた吹雪から始まって、日差しは暖かいがまだ冷たいという状況を経て、徐々に暖かさを感じさせて最後は手の温もりでその先に続く春の到来を表わしています。

感想にも頂きましたが、「4人一緒」、「ルール」という部分がくどいのは、それが彼女達のトラウマのようなもので常に彼女達は意識せざるを得ないものだからです。そしてこの例えは傲慢ですが、フルコースのメニューの途中に青汁を挿入されるようなものです。読み手にすんなり読ませずに、そこにノイズを混ぜる事で、彼女達の思考もまたそういったノイズで影響を受けているという、くーくまなりの悪気です。この話をメロウすぎるものにはしたくないというお馬鹿なくーくまがいます^^;


話全体は、童話祭の題材で女王ではなく姫にしています。これはくーくまの中の'正統な童話'では出てくる役割の持つイメージは決まっているからです。だから今回の話には女王は使いません。童話というのは母親が子供に言葉や価値観を教えるために使うものです。例えばライオンがいたとして、母親が子供の頃に読んだ童話のライオンは'強くて立派'だとします。その子供が読んだ童話のライオンさんが'女侍らしてる浮気者'だった場合に、子供が'僕ライオンさんみたいになる!'なんて言い出して、母親が自分の中のライオンのイメージで'そうね。いい子ね'なんて言ってたらとんでもない事になります。だから童話というのは女王なら女王、ライオンならライオンでそれぞれに役割が決まります。言葉の定義が決まっているように、登場する時の役割も決まっているのです。もちろんそれではイマジネーションも膨らみませんし、ありきたりなものばかりになります。


でも、子供との会話が成立しない前提の面白さというのは危険です。某お米の国で、母と子でスラングのために会話が成立しない、という問題と同じです。

上の例は一つの言葉の定義に別の意味を持たせているが、使う言葉が同じであるために伝わっているかわからない、伝言ゲームの危険であり、スラングの方は定義に二つの言葉を与えてしまうが、その片方の言葉しか互いに分からない、というものです。

困った事にスラングの方はその奇抜さで何かすごい事をしているかのような錯覚だけがあり、突き詰めてしまえば今まで通りのありきたりな言葉で片付く程度だったりします。

奇抜さで代償にしてよいものかどうか、という事です。それも単なる書いている側の人気取りのために。


今の世の中はそういった部分があいまいなので童話自体、子供に与える前にしっかり親が熟読する必要があったりし、また、その熟読にも知識がいったりするという厄介な問題を抱えています。つまり昔と値段はそのままに、リスクと手間が使う側に移行しているとも言えます。

既に「童話」と書いているからといって読ませて良いものかどうかすらわからない世の中です。今回の童話祭のものをいくつか読んでみましたが、そういったものが含まれていました。主張としては価格的にただの作品だから、無保証などと言えるのでしょうし自己責任とかいうのでしょうが、モラルハザードです。



この話の冬は、登場人物達のそれまでの時間がいまだ冬を思わせるものである事も例えています。彼等の心が春が訪れた時のように、自由に活動しはじめるのはこの話の後、という事です。成長し、経験と自信を持って動き始めるための最後の出来事として書いています。


話の展開ですが、

罪悪感。

黒く淀んだ気持ち。

マーガレットとララの自身の気持ちへの決着。

ローレンシアの決意と自己犠牲。

王子の逡巡と決意。

フェミナの動揺と彼女達の絆。

フェミナの決意と親友への愛情。

ローレンシアとフェミナの絆と春への予感。


こういった流れで暗い内容から明るい内容へと続かせて、冬から春へと移行していく様子を表わしています。



最後までの道筋は副題の残りの2つであるローレンシアとマークについて書くと自然と埋まるのでそれを書いておきます。


ローレンシアの場合はその後悔から自身の殻に閉じこもります。

フェミナが戻って来るまで自身を戒めます。

そして言わなければいけない一言を言う事で、自身の過ちをようやく正面から見る事が出来ます。その覚悟を受け入れる事が出来ます。

「迎えに行って欲しい」という言葉の重さは後述します。

そうしてフェミナは戻って来ます。

そこで貰う言葉は、彼女の殻をそっと開きます。彼女はここでようやく失敗しても許される、という事を本当に知る事が出来ます。

彼女は頼る事、甘える事が許される事だと分かり、この時から楔はゆっくりと抜け始めます。

そして彼女の心は動き始め、彼女らしい行動を始める事が出来るようになります。



マークは脇役っぽいのですが背景条件上では一番重要な役です。

彼の場合の問題は、いずれ王になる者の覚悟、です。

小さな失敗すら許されないように動く事はいいのですが、やはり失敗はつきまといます。

その際の犠牲を恐れる事は必要なのですが、恐れ過ぎてもいけません。

そして、どうせ犠牲が出るのだから構わない、と開きなおるのもいけません。

王や領主が彼に望むのは、どうであれ犠牲が出るのだから、その覚悟を持って行動しろ、という事です。

逡巡すらかけた時間によっては犠牲を出すからその覚悟が必要だと成長の過程で知ってもらいたい、という事です。

王の振舞によって大なり小なり影響があり、末端の者はその影響で破滅する事もある。

それを恐れていては何も出来なくなるが、それを考慮しないようになってもいけない、と言う事です。

庶民の論理はその犠牲にならないように、吹き飛ばされないようにする事です。

王の論理は、その犠牲を減らすべく、最小のリスクで最短の手数を用い、最大の効果を出す事です。

同じようには動けません。それをマークに知ってもらう必要があり、王も領主も今回の話には口を出しません。

むしろ今こそが絶好の機会なのです。マークが自身の気持ちで動こうとしているこの時こそが。

ただ機械的に執務をこなすだけの人形に命を吹き込む時が来たのです。

彼が彼らしく成長できるように。

その結果に関わらず、王も領主もこの結果を成功体験を変えてしまうでしょう。

彼の成長のために。

でもそれはマークに知られてはいけません。彼自身が選んだ結果が望んだ結果につながった、という自信を持たせる事が必要です。

なのでマーク達は知りません。

ですがこうやって保護する事もいつまでも出来ません。なので今回はいい機会になります。

この時分の彼等の失敗はそれほど影響を与えません。

だから今の内に、こういった出来事も良い経験にしてもらう必要があります。

マークが王になった後に同じ事がおきた場合にはリスクが大き過ぎます。


マークの選んだ行動が何であれ、その動機がどうであれ、彼が大きな決意をして動く事を好ましく思う王と領主。

黒子としての役割をするために御膳立をします。

伝令は通すが、対応はしません。

起こった出来事の火消のために、マークに街を歩いてもらう事になります。

彼等の出来事の影響を直に見てもらう事とそれでも貫き通す意思の硬さを確かめます。

また、政略面では姫が軽んじられた、と周囲が思っている状況を払拭するためでもあります。

王子自身が迎えにやってきた。それも自分の足で歩いて、という事実を作っています。


庶民というのはさっき書いたように偉い人の行動で吹き飛ばれないように行動します。

だから4人の誰かに差がついた、とかは結構影響します。

リスクのない選択を繰り返す事になるので、わざわざ不利な選択はしません。

だからそれが積み重なる事で差が出来てしまいます。その影響を消す必要があります。4人は同列なんだよ、と見せて。



ここで短篇なので省いた描写についてですが。

まず馬車の外見などを省いています。

それに合わせて例外なのですが、'窓'は単に表現に用いたかったので出しました。これは時代背景にあっていませんがファンタジーとして許してください。

それ以外の省いた描写は、似たような理由から、読み手のイメージで読んで欲しいために省いています。

後は短篇という事で、それを省いてもこれ15000字あるんです。短篇にはちょっと長いのでは、と言えます。

「おい、くーくま、ちょっとは読み手の事も考えろよ。あえてこの平凡な土日に合わせて投稿したんだろ?結構皆忙しいんだよ?」

という声が聞こえてきそうです。

省いて、削ってその程度にしかならない腕前、それがくーくまクオリティ、と茶化してみます。


省いた描写は主題と副題に影響がないから省いた、と言えます。


例えば、馬車はこの緊急の用件の場合、6頭立てで、扉には紋章を、屋根の4隅にはそれぞれ紋章旗を掲げ、「王族」であることを示す旗、その用件(交渉、表敬訪問、etc)を示す旗、その重要度を示す旗、乗っている人物の重要度(傍系の端にいるなんとか王族扱いのものかそれとも王かそれに近しいものか)を示す旗、が必要である事を記述してもこの話には何の関係もありません。そもそもが先導する外交官が乗る馬車、マークが乗る馬車、側付きが控える馬車、贈り物を載せる馬車、現地で調達できない備品を載せる馬車、そして、それを護衛する騎士、で最低20-30名はいるんだよ、という描写まで書いた所でこの話のメインに関係がなかったりします。ならもう読み手の読みやすいように読んでもらうのが良いと考えました。


例えば塔です。最近の映画などの描写で扉も塔も色鮮やかだったりします。中世とかでは、扉は木製に補強用の鉄板を打ち付けているものなどがほとんどです。色も防錆の関係で限られるか、金属を変えるかなどになります。ならやっぱり読み手のイメージの塔で読んでもらおう、という事にしました。


マークが街を歩くシーンがあります。こういった防衛拠点として存在する城というのは立地として小高い丘の上に作られるのが普通です。だから緩い坂道を歩いていく事になります。一歩一歩踏み締めながら。長編ならそれを含めて書いて、ここは罪人が自身をはりつけるはりつけ台をかついで登って行く光景に例えても良かったかもしれません。どこぞの偉い人がゴルゴダの丘を登って行くように。

彼の罪は、'ささやかな秘め事をした'事ではなく、'王族として、一人の男として態度を示さなかった'事です。その罰は'最愛の女性以外を迎えに行き、連れ帰る'事です。失敗の影響を恐れるあまり、優柔不断な態度を取ったマークに自覚と覚悟を与えるための試練です。

子供が石を投げた後に怯えます。その姿はどこかマークの投影とも言える姿です。その子供の気持ちが分かるから許します。ここで彼は無意識に彼自身を許します。


城から馬車まで、フェミナを連れて戻るシーンは省きました。ここでも歩かされます。その事実を領民に見せるために。それを見て領民は自分達は軽んじられていない、と安堵もすれば二人が一緒にいる姿を見て安心もでき、祝福を出来ます。石を投げた子供もこの時には喜んでいる、という描写が書けます。でも短篇では削っても問題がないので削りました。長くだらだらと続けると読みづらいものになると判断しました。



フェミナと会う段階ですが、あえて領主は不在にし、また略式儀礼にする事で'偶然'その時に対応できる人間がフェミナしかいないという状況を作ります。そうでなければ、正式なら領主が来るまで待つし、フェミナは体調不良などを理由に会わない方法を選んだりします。その時間も省いて当人同士で話させる為です。そして領主命令で会え、などとも言いません。それは結局は火種を残したままになりかねませんし、マークの成功体験につながりにくくなります。直接手助けしてはあまり効果がないのです。そのための門番のとおせんぼだったりします。話から省いていますがフェミナとの話の後で領主は出てきます。それまでの時間のつなぎをフェミナがする事が大事であり、それがあるからこの対応、という設定です。

そしてそれが許されるのは、初めに書いた王国の設定と掟によるアドバンテージがあるからです。力関係と友好関係を示す必要のある間柄だからこのやり方が成立します。



最終的にマークは今回の事で大きな選択を自身の意思によって示します。それが彼の成長につながります。彼の心も確かな息吹をもって動き出します。


こうして3人はそれぞれようやく一人の男性、女性として成長していく事が出来ます。そして5人はその人生を本当の意味でスタートさせるのです。



ルールの縛りから解き放たれる時は、それぞれが知識と経験を積み、一人の男性、女性へと成長した時です。恐れるあまりに過剰に、大きく見ていたものをまっすぐにそれ相応の大きさで見る事ができるようになった時です。その時初めて掟は彼女達への恩恵だと言える時になります。




というものの表面を短篇にしました。

小説を色々と読んで、ある日突然ピースが揃い、カチリ、と音を立てて嵌まり今まで曖昧だった物事が分かる時があります。

そうやって積み重ねるものです。マークの成功体験と同じ結果につながります。

それは言葉では伝えられないものです。なぜなら言葉が何を表わすかを得る事だからです。

ある言葉の自分が持っている定義が間違っていても、その言葉を読む時にそれに気づく事はほぼないですが、それを延々と繰り返している内に、その言葉の周囲にある言葉からその差を知り、間違いか正しいかを理解する事があります。そしてそうやって細分化して精度を高めていくのが言葉です。


偉そうに書いていますが御容赦を。



えーと、取るに足らない事ですが、補足だけ。

書いた文章内で、呼び方がブレてる、などと言われかねないかも知れないので言い訳しておきます。

わざとです。

客観視点でマークとマーク殿下の呼び方のブレを指摘される可能性は高いのですが、これは意味が一応あります。

その客観視点の主体が誰か、でその主体との関係性を示しています。

以下の4つは、読み手、マーク視点、マーガレット視点、ララ視点です。どこで殿下、という呼び名になるかという事です。



急用があり遅れて出席したマークは2人と視線が合うと笑みを浮かべた。


その考えからあえて自身を遠ざけていたマークはララの一言に言葉を詰まらせる。


ティーカップを皿に置き、マーガレットはマーク殿下に答える。


マーガレット程にはマーク殿下の失礼を流す事の出来ないララはマーク殿下に目線も合わせずただ正面を見て話す。



読み手はマークに特別な感情など持ち合わせていないから敬称略です。認識がそうでしょうから。

読み手の大半がマーク様激LOVEなら「様をつけろよ、デコスケ野郎」なんて言われそうですが。

次はマーク寄りの視点です。自分に殿下呼ばわりするほど電波を発していません。

その次と次が、それぞれの主体から見たマークの情報を伴った呼び方になっています。



こういった書き方を詰め込み教育での考えにあてはめると恐らくペケでしょう。

その箱庭から一歩踏み出したくーくまなりの考えです。

もっとも、踏み出した片足が棺桶に入っていそうなのですが。


やりすぎると変な事になるのですが、常に文章上で関係を示しながら進めた方が読みやすい時に使ったりしています。

その文が誰から視点で書かれたか、はその内容の捉え方に違いを生んだりしますので。




話の最後の段階で、外堀的にはフェミナが第一妃の最有力候補になっている事に気づきました?


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