仕返し屋 第1章 第15話
◇――第3水曜日 AM7時55分――◇
未来は扉に背をつけて座り込んでいた。後ろから感じるのは、怜斗がいるという温もり。
あれから数日経った。怜斗は毎日のように、朝と放課後この場所へ来て、ジッと座ってくれていた。未だに家から出られない彼女にとって、こうして怜斗と背中合わせになれることは途方もない幸福に感じられた。
後ろから、彼の存在を感じる。後ろから、彼の温もりを感じる。苦しくって塞ぎ込んでいたのが、少し良くなった気がした。ジッと、黙って、ただいるだけ。そんなゆったりとした時間を過ごしていると――
「――あ、時間だ。悪いな、白雪。俺、もう学校いくよ」
怜斗がそう言って、立ち上がる音がした。未来は「あ……」と声を漏らす。それに呼応するように、怜斗は笑った声をあげて。
「また放課後、来てやるからさ。安心しろよ」
未来はそれを聞いて、ふぅ、と安堵した。
――このまま、学校なんか行かないで、私と一緒にいてくれたら。未来は自然とそう、考えるようになっていて。その度、未来は首をぶんぶんと振った。
「うん。――行って、らっしゃい」
未来の言葉に、怜斗は「おーう」と軽く声を出して、歩き出した。
◇――第3水曜日 PM4時35分――◇
未来は扉の前でジッと座っていた。最近はいつもこう、彼が帰ってくるまではいつもこうしている。何時間も、ただ座るだけ。未来はその間に、いろいろなことが頭を巡っていた。
自分の愚かさでこんな事態を招いたこと。軽率だったこと、今、迷惑をかけていること。全部胃を捻じ切るような思いだったが、特に大きな物は。
――怜斗くんがいてくれたら、それだけで生きていける。怜斗くんが、支えになっている。怜斗くんがいないと、私はダメになる。怜斗くんさえ、私を見てくれていたら。
自分の中で膨らんだ、この執着だった。自分でも、おかしくなってきていると自覚している。でも、止められない、止まりたくない、止めなくっちゃいけない。
未来は怜斗が帰ってこない間、ずっとこの思いに頭を抱えていた。離れなきゃいけない、そんな想いと矛盾した「いてほしい」に。
まだ彼は来ない。遅いだけか、それとも……。未来の不安が、つい、大きくなったその時。
「白雪。待ったか?」
あの声が、聞こえてきた。
「ううん、いいよ。ごめんね、いつも来てもらって」
「いや、いいさ。お前が話してくれるだけでも、俺は嬉しいしよ」
ストン、と座る音がする。背中には怜斗がいる。未来の心はそれだけで暖かくなり、それだけでしか暖かくならずに。
「……うん。私も、若山くんがいてくれるだけで嬉しい」
後ろめたさと共にそう答えていた。
◇――第3水曜日 PM7時23分――◇
背中合わせにジッとしていた。互いに寄せた会話は「いる?」「うん」、これがほとんど。あとは少し、たわいもない言葉を。未来はそんな時間が嬉しくて、何年でもここにいられる気がしていた。
「ねぇ、若山くん。いる?」
もう何度目かの言葉。きっとすぐ返事がくると思ったが、跳ね返ってくるのは無音ばかり。未来の中に不安が募った。
「ねぇ、若山くん。いるよね?」
まだ音はしない。未来の顔が引きつる。
「ね、ねぇ。若山くん、若山くん? いるんなら返事してよ……」
だが返事は来ない。未来の不安が大きくなった。
――まさか、嫌われた?
冷静になれば。こんな質問を何度もしてたら、相手も引く。自覚していた、自覚していたけれど止められなかった。未来の中にしっとりと、絶望が染み込む感覚が生まれて顔を落としたら。
「悪い、白雪。トイレ行ってた」
怜斗の声が、聞こえた。未来は顔を上げて、安堵の息を漏らした。
「もう、びっくりした。若山くんに、嫌われたかと……」
「何もされてねーのに嫌わねーよ。……んでも、悪いな。今日はもう、帰らなきゃならねー。そんだけ言ったら、もう行こうってな」
「……帰っちゃうの?」
「ああ」
未来はしゅんと、顔をうつむけて。
「……どうしても?」
そう呟いた。怜斗が「ああ」と答えてくれた。未来は、離したくない想いを我慢して、痛みに耐えるように。
「わかった。それじゃあ、また明日」
怜斗が「おう、じゃーな」と答えた音がする。怜斗が遠ざかる音がして、未来はドアの前でうずくまり。
また、1人の夜か。そう、天井を眺めた。
◇――第4木曜日 PM4時35分――◇
未来は。震えてドアの前にうずくまっていた。
今朝も怜斗は来てくれた。その時の安心感はすごくって、彼が支えになっている実感が確かにあった。
だからこそ、今が怖い。後ろに誰もいない孤独感。震えの理由の大半がそれ、だからこそ怜斗を苦しめそうで怖い。
ゆっくり、時間が過ぎていく。怜斗が来てくれる時間まで、ゆっくりと。期待と不安が同席したよくわからない感情のまま、未来はドアの前で震え続けて。
「うす! 待ったか、白雪?」
彼の声が聞こえた。未来は止めなきゃと思いながらも弾む気持ちを止められなかった。
「うん、待ってた」
理性が拒否する。本能が受容する。未来はそのまま扉に背中を付けて、怜斗の言葉に耳を傾けていた。
これといってなんの特徴もない、とりとめもない話。好きなアーティストとか、好きな本とか、好きな漫画とか。怜斗は未来の予想通り、少年漫画やスポーツが大好きなようだった。自分は文化系でスポーツはあまり好きじゃないし、少年漫画もバトルやスポーツより推理モノを読んでいる。違いは大きかったけど、未来は怜斗との一体感を感じていた。
このまま時が流れてほしい。このまま怜斗が行かないでほしい。自分だけを見て、自分だけを愛してほしい。そんな風な願望が、意識の中に生まれる度に。未来はそれを、打ち消した。
そして、打ち消して、打ち消して、打ち消して、打ち消して。どうしても、どうしても、どうしても。
我慢の、限界だった。
「――若山くん」
「ん? どうした、改まった声になって」
未来は暗い部屋の中、ゆっくり立ち上がって、ドアに顔を向けて。
「私、いろいろとおかしくなっちゃっている」
声を震わせてそういった。怜斗が「……なにが?」と静かに尋ねる。
「私ね――若山くんが、今、すごく好き」
想いを、ぶつけてしまった。未来はカタカタ震えて、黙り込んで静まった怜斗の姿を思い浮かべて。静寂を切るように、言葉をさらに紡いでいった。
「変だって、わかってる。突然で、困惑するってわかってる。でも、私、本当にそう思っていて。それで、それでね。私、若山くんの一番になりたいって、そう思っていて。だから、ホラ、ね。だから、若山くん。それで、その、お願いが……あるんだけど……」
未来がカタカタと震えて声を出す。怜斗は困ったように、「なに?」と聞き返して。未来は、出しちゃいけない勇気を出して。
「私と、付き合ってください。私の支えに、なってください。私と一緒に、生きてください。私を一番に、見ていてください」
言った、言った、言った。未来は顔を赤くして、そして言葉を恐れて。震えて、震えて、涙をためて。言葉を待って、そして怜斗が出した言葉は。
「――ごめん」
聞きたくない、言葉だった。
「俺、正直さ。白雪のこと、そんな風に見ていないんだ。大事だけど、大事な“友達”。異性として、じゃなくって大事な親友。だから俺は、お前の言葉を受けられない。それに、今は――たとえ好きでも、受け入れられない」
「なんで……? なんで、そんなこと言うの?」
未来は反射的に答えていた。
「待ってよ、ねえ。私、若山くんのことが本当に大切なんだよ? だから、ワタシ、あなたと一緒にいたいって。あなたが私の支えになっていて、それで私今、こうして話していられるんだよ? なんで、ナンデ、ナンデそんなこと言うの? 私、ワタシ、若山くんがいないと生きていられないよ。だから、ねえ。お願いだから、お願いだから、私と――」
「無理だ。今のお前とは、付き合えない」
未来は怜斗の言葉を、無慈悲に感じた。
「なんで、なんで、なんで……」
口を押さえてへたれこむ。ドアの前で、嗚咽する。否定された、否定された、否定された。歪む、歪む、ナニカが歪む。怖い、怖い、一人で、怖い――。
「なんでって言われたらさ。それは、“お前のため”って言うしかないよ」
思っていると、怜斗は未来にそう答えていた。未来は、顔を上げて。
「どういうこと?」
興奮したように聞き返した。
「俺さ、お前としばらくいて感じていたよ。お前が、日に日におかしくなっていくのを。なんっていうのかな。依存、って奴? お前が俺を支えにしているって実感、俺にはあったけど。でもそれは、なんか違う支えだった。今ここで、お前の言葉を受け入れても。お前はきっと、幸せになれない。俺はお前を、支えきれない」
「そんなことない! 若山くんは私の支えだよ、私もあなたがいれば、あなたがいさえすれば、幸せになれるよ! 絶対、そう! 断言できる!」
「なれないよ、絶対に。俺はお前を支えきれない。――お前を、幸せにできない」
未来はドアに手をついて、膝を床につけて。
「どうして、そんなこと――」
「お前が自分で、立とうとしてないからだよ」
怜斗はハッキリと未来に答えた。未来はそれに声を出せずにいて、そのままの顔をずっとし続けて、怜斗が続けた言葉を、ジッと聞いていた。
「今のお前は、自分じゃ何もできないって、自分じゃ前を向けないって、そう思ってる。それじゃあ俺は、何もできない。俺は、お前を背負う力なんてないからさ。だから、お前に自立してもらわなきゃ困るんだ。だから俺には、お前を支えられない」
「――でも、でも、でも。わた、しは……。
仕方ないじゃない! だって私、何もしてないのに! 何もやってない、それなのに! ただ見た目が地味だったとか、根暗そうだったとか、そんな理由であんなことされて! 私だって、私だってこんなこと言いたくなかった、こんな風な告白したくなかった! でも、私の人生は――全部が全部、暗くって。目の前にはどうしようもない壁があって。そんな嫌な人生なんだから、誰かを支えにして生きたって、それでもいいじゃない――」
未来はひとしきり声を出して。でも、怜斗は。
「それでも、俺は。お前が俺に依存しなくなるまで、たとえ俺がお前を好きでも、その申し出は受けられない」
そう、残酷なようにも思える言葉を出した。
「無理だよ。私、自信ないよ。絶対若山くんに依存する。絶対若山くんに迷惑かける。絶対若山くんを縛っちゃう。絶対、若山くんの人生を壊しちゃう。だから、私には――」
「できるさ」
未来は、顔を上げた。
「お前は自分が弱いって思ってるだろうけど。お前は実際、弱くなんかない。むしろ肝が据わっている方さ。だからお前は、大丈夫。俺はお前を信じてる。
だからもし。お前が自立したいって、お前が前を向きたいって、そう言った時はさ。俺に、その手伝いをさせてほしい」
未来は、ゆっくり、立ち上がってその声を。
「リベンジ、しようぜ。お前のその、クソッタレな自分と人生に」
確かに、笑った。彼の朗らかで、眩しい顔が、ドア越しに見えた。未来は、伸ばされた手に捕まるように。ドアノブに手を触れて、
ガチャリと、見えた未来に向かって扉を開けた。
目がちかちかする。2階の電気が、付いていた。目の前にいたのは、やっぱり笑っていた怜斗の姿。体は、ちょっと濡れていたりゴミが付いていたり。学校で何かあったことは確かなのに、それでも彼は自分のためにここへ来て、自分のために笑っていた。
未来はそれを見て。泣きそうな顔で、笑った。
「若山くんってさ。本当に、バカだよね。あんな臭いセリフ、私なら恥ずかしくって言えないよ」
「んな、てめ、元気づけようとしてた俺に向かってなんだよそれ!」
「ふふふ、一本弱み握っちゃった。『リベンジ、しようぜ』だって」
「あああああ! 恥ずかしいから言うな、言うな!」
怜斗が頭をウガーッと抱えた。それを見て未来はまた笑って、手を、差し出した。
「白雪未来。未来って呼んで」
怜斗は顔をほころばせて。
「若山怜斗。怜斗、でいいぜ」
その手を取って、固く握手を交わした。
【技術解説】
○伏線
回収するまでが伏線です。今回特に大きいのは「未来って呼んで」の部分。4話辺りで、未来は怜斗に「気持ち悪いから下の名前で呼ばないで」と思いました。それを、今度は自分から「呼んで」と言います。これは心変わりも演出してますね。
こういうのも伏線です。どんでん返しや驚きの展開に繋げなくとも、わかりやすくともにくくとも、上手く繋げられたらそれでもういいんです。分類なんて面倒だし。