泡沫の町
頭上には暗雲が垂れ籠めていた。僅かな日の光も許さない厚い雲に覆われて、今が昼なのか、夜なのか、それすら定かではない。
町の中に、私は一人で立っていた。足下には一面にタイルが敷き詰められていて、規則的な模様の上には所々罅割れたところが目につき、何年も前から取り替えられていないのか、元の色がわからないくらい汚れと変色がひどい。
道路に沿うように、直方体の建物が隙間なく並んでいる。外観を煉瓦で覆い、ほとんど同じ高さの建物が、個性なく整列している様は、この町の過去の栄光を彷彿させる。
私は辺りを見回した。どこにも人の姿が見当たらない。誰かが住んでいる気配さえも感じ取れない。
私は歩き始めた。道の両端に並んだ街灯には一つの明かりも点らず、暗黒に覆われた町がいっそう闇に沈んで見える。建物の中にも明かりはなくて、人気のない室内には持ち主を失った机や椅子などが昔から変わらぬ位置でそこに放棄されている。
店も並んでいた。だがどこの店も空っぽだ。店のショーウィンドーを覗いてみても、店員はもちろん、商品の類も見受けられない。レジの上には会計の機具だけが置かれていて、売り物を並べる棚は空のままになっている。商品を置くためのテーブルの上も空席のままで、見本品を入れるためのケースにはやはり何も入っていない。
本屋もあった。窓ガラスから店内を見渡してみたが、客も店員もいない。ずらりと並んだ本棚の中には一冊の本も見当たらず、空白の本棚からは陰鬱な影だけが覗いて、嫌に不気味に見える。
通りに棚を出している店もあった。おそらくこの棚の上に食べ物が並んでいたのだろう。季節の色とりどりの果物が店を色鮮やかに装飾して、その甘美な香りに誘われて店の前には小さな賑わいが生まれる。店に集まった客に向かって、店員が快活な売り文句を口にする。そんな華やいだ情景が頭に浮かんだが、目の前にあるのは暗い無人の空き屋しかない。
どこへ行ったって何もない。持ち主のいない建物だけが無数に転がっているだけだ。
私は一つの建物の前で足を止めた。小さな窓から店内を見渡すと、規則的にテーブルが並んでいる。外に掲げられた看板を見ると、どうやら喫茶店のようだ。
私は試しに中に入ってみた。カランカラン、という客の来店を伝えるベルが店内に響いた。扉が閉まる音が小さく聞こえ、店内にはベルの余韻がまだ残っている。やはり店の中には誰もいない。客を迎えてくれるウェイターの姿もない。
私は奥にあるテーブルに腰掛けた。壁側の席に着くと店内の様子が一様に見渡せる。そんなに広くはない、こぢんまりとした店だ。私の斜め上には絵画が飾ってある。果物の絵だ、りんごと、この奇妙な曲線をもつ黄色い果物は梨だろうか、そして紫色に輝く葡萄。私には絵の才能がないから正確なことは言えないが、なかなかいい絵だと思う。
私はウェイターを呼んでみた。もちろん、返ってくる返事はない。もう一度声をかけてみても、誰も出てくる気配はない。
私は適当に店の中を眺めてみる。同じ形をしたテーブルが幾つも店の中に並んでいて、店の隅のほうには幹のところでとぐろを巻いたような形をした観賞用植物がポットの中から生えていた。この植物は運びにくいからそのまま置き去りにされたのだろうか。そんなことを考えながら、私は目の前のテーブルに目を移した。テーブルの上は見事なまでに綺麗で、何もない。食事のときに使う様々な備品の類はなく、メニュー表も置かれていない。
おや。
私は一つ奇妙なことに気付いた。
テーブルの上に何もないのだ。塵一つない、綺麗なテーブル。私はそのとき初めて自分の座っている椅子にも汚れがないことに気付いた。
おかしい。
誰かが掃除をしたのだろうか。
しかしこの店には誰もいない。町の中にも、人のいる気配はなかった。店の中の売り物も綺麗に片付けられていた。そういえば他の店にも埃はなかっただろうか。
私は不思議な気持ちで店を出た。特別空腹を感じていたわけではなかったので、もう少しこの町の中を歩いてみることにした。
一体ここはどこなのだろう。
この町に見覚えはなかった。タイル張りの道路も、煉瓦造りの建物にも、誰もいない店のことにも。
誰か自分以外の人間がいればこの町のことを少しは訊けるのだが、人の住んでいる気配のないこの町では、その期待も薄い。どこかにこの町のことがわかるものはないだろうか。図書館や役所の建物がわかれば少しは展望が見えてくるのだが、果たして本すら見当たらないこの町にこの町に関する資料が見つかるのだろうか。
考えながら歩いている私の目が一つの建物を捉えた。何かのお店のようだ。看板はない。商品らしきものも置いていないので何の店かははっきりしない。
知らない間に大分長い間その店を眺めていた気がする。
「いらっしゃい」
人の声だ。私は声の主を捜した。
店の奥から一人の老人がこちらに向かって歩いてくる。
「何かお探しですか?」
ゆったりとした口調で老人は私に訊ねる。
私が何かを言おうとして老人の姿を目にしたとき、私はその言葉を完全に忘れてしまった。
老人の口はだらしなく開いていて、その大きさは普通の人間のものよりも明らかに大きい。普通の人間なら拳一つ入れるのも難しいのに、老人の口は拳二つねじ込んでも余裕なくらい裂けていた。その口の裂け目から赤い滴が流れて、それが老人の胸前に掛けたエプロンに真っ赤な水玉模様を描く。
老人の皺だらけの瞼が少し開いて私の顔を見た。その瞬間、私の顔を見ると、老人の眼球が溢れんばかりに瞼が開いた。
「おまえ…………」
しばらくしてから、老人は嗄れた声で私に向かって叫んだ。
「ゲーテ。ゲーテじゃないか!」
老人はふらふらとした足取りで私のほうに歩み寄ってくる。しっかりと私の両腕を掴んで、皺だらけの口をいっぱいに開いて叫び続ける。
「懐かしいのぉ、ゲーテ!またおまえさんにこうして会えるとはなぁ」
私にはうまく状況が飲み込めなかった。私はこの老人に見覚えがなかったのだ。
私が困った顔でもしていたのだろうか、老人は慌てて私を掴んでいた手を離した。
「おおう、すまんの。つい興奮してしもうたわ。あまりに懐かしい顔を見たもんでな」
やや距離を置いて、老人は微笑む。引き裂かれた口元が横に伸びてにっと笑う。老人の口は耳のところまで伸びていた。
「ちょっと中に入って、茶でも飲んでけ」
老人が親しみを込めた口調で私を促す。
いえ、そういうわけには……。
そう私が言いかけても、老人はなおも私に言う。
「遠慮なんぞするな、おまえさんらしくない。それに、詫びの一つもできんとわしの気分がよくない」
私は仕方なく、老人に従って店の奥へと入ることにした。老人が案内したのは店の中ではなく、奥のほうにある裏庭だった。
暗黒の雲の下に広がる小さな庭には茶色く枯れた芝生がひかれていて、花壇と思われる白いペンキの剥げた柵の向こうにはもはや何の植物だったかわからないくらいに枯れ果てた植物の群れが一斉に並んでいた。
「見事なもんじゃろ」
老人は一つの枯れ木にそっと手を伸ばす。少し腰の曲がった老人と同じ背丈ほどの干からびた植物を老人は労るような瞳で見つめる。
ええ、まあ…………。
私はそれ以上の言葉が出てこなかった。
「こいつはまだ蕾じゃがの、あと少しすればそれは綺麗な花を咲かせるもんじゃ。そっちの大きいのは、明日には店に出せるじゃろう」
老人は独り言のように呟く。
私は決心して、老人に訊ねた。
あの、ここはどこなんですか。
「…………」
老人は答えない。
おじいさんは昔からここに住んでいるんですか。だったらこの町のことを教えてください。
「…………」
老人は答えない。
不意に老人は空を仰いだ。
「もうこんな時間か」
待っとれよ、枯れた植物に向かって声をかけた後で、老人は庭の奥にある倉庫へと向かっていった。
――ギギギギギギィィ……。
老人が中に入ると、開けたときと同じように不快な音を立てて扉は閉まった。
私は不審に思って扉へ近づいた。歩くたびに枯れた芝生を踏みつけて、くしゃくしゃと乾いた音が返ってくる。
私は倉庫の扉に手を掛けた。そして扉を引いて開けようとした、が、どういうわけか扉は開かない。何度か試してみたがどうしても開かなかった。
おかしいな。
あの老人のときは開いたのに。
もう一度扉に力を込めようとした。
――バサッ!
背後で物音がした。
私の背筋を嫌な感触が走る。
……………………。
ここには誰もいない。町に人の姿はなかった。店の前にも、私以外誰もいなかった。この裏庭にいるのだって、私とここに住んでいる老人だけ、後は誰も見ていない。それに、その老人だって、今は倉庫の中にいる。
私はゆっくりと振り向いた。
そこには枯れた芝生が広がっていて、花壇の中から一本だけ、ペンキの剥げた柵から飛び出して枯れて黒くなった植物が芝生の上に横たわっていた。
私はほっとした。
みんな枯れているんだ、倒れたって不思議ではない。
理由がわかって、私の胸の中で湧き上がった不安は一気に軽くなった。私はその植物を見ていて急に、あれは先程老人が明日には店に出せると言った植物ではないだろうか、という考えが浮かんだ。
そんな根拠のない考えを違和感なく思った。
――バンッ!
突然目の前にある倉庫が揺れた。
――バンバンバンバンバンバンバンバンッ!
倉庫は激しく揺れている。私はすでに倉庫から手を離していて、倉庫には触れてもいない。それなのに、目の前にある倉庫はひとりでに揺れている。その振動が僅かに離れた私の皮膚の先にまで伝わってくる。
――ん~……。
倉庫の振動の間から人の声らしきものが聞こえた。何かに口を塞がれていて、ひどくくぐもった声だ。
――ん~、ん~、ん~、ん~。
ひどく焦っている。助けを求めている、呻き声。
――んんんんんんんんんん!
この声は、どうやら倉庫の中から聞こえてくるようだった。
――んんんんん――――――――ッ!
それが最後の叫び声だった。
……………………。
もう、何も聞こえなかった。さっきまでの激しい揺れは嘘のようになくなって、静かになった倉庫だけが目の前に悠然と構えていた。
私は恐る恐る倉庫の扉に手を掛けた。ゆっくりと力を込めていくと、今度は簡単に開いていく。
――ギィィ。
あの不快な音を立てて。
――ギィィ。
開けちゃダメだ。
――ギィィ。
開けちゃダメだ。
――ギィィ。
見てはいけない。
――ギィィ。
見てはいけない。
――ギィィィィィィィィ。
扉は開いた。
……………………。
倉庫の中は真っ暗でよく見えない。そんなに広い倉庫ではない。目が暗闇に慣れるのを待って、少しだけ奥のほうへ進んでみる。
――ぴちゃ。
濡れる音がした。足の先が水溜まりでも踏んだのだろうか。足下を見ると暗い水溜まりがあった。
ようやく視野が暗さになれてきて、私は顔を上げた。
倉庫の柱に老人が縛られている。そして老人の大きな口はさらに裂けて無理矢理開かされたように大きく口を開けている。開いた口からは前歯から奥歯まで全部見えて、口の裏側、喉仏も一通り見ることができる。そして下顎には溢れるほどの血が溜まっている。
――ゴホッ!
老人が咳き込んで、血にまみれた何かが私の足下に飛んできた。赤い液体が地面に広がって、現れたのは赤い肉の塊だとすぐにわかった。
おそらく、老人の舌だ。
胸が焼かれるような気持ち悪さを覚えて水飲み場に顔から突っ込んだが、胃の中には何もないらしく私の口からは何も吐き出されない。それでも吐き気は収まらなくて、長い間同じ恰好をして気分がよくなるのを待っているのだが、安息の兆しは一向に見えてこない。
老人の店を抜け出した後、私は公園を見つけて、迷わず水飲み場に向かった。水飲み場を見つけるとすぐに吐き気を催してきて、排水溝に触れるくらい顔を寄せてしばらくの間そのまま固まっている。
今の私の姿は端から見れば非常に無様に映っただろうが、幸いにもこの町には人がいないので、私は公の場で吐くという行為に躊躇はなかった。
いや、正確には人はいた。さっきの老人だ。その老人も、今は生きているかどうかわからない。
私は水道の蛇口を捻ってみた。しかし水は出てこなかった。何度も何度も蛇口を捻ってみるが、水が出てくる気配はない。管の先を指でなぞってみたが、そこに湿った感触もなくて、鉄の乾いた心地が残るだけだった。
壊れているのか?
悪態を吐きたくもなるが、胸を蝕む違和感がその気力さえも奪っていく。目を閉じて少しは気分が良くなるのを待とうとすると、瞼の裏側にはさっき見た映像がまだはっきりと刻まれている。
血まみれの老人の姿、惨い殺され方をしていた。
あの時の光景を思い出すたびに気分が悪くなる。胸の不快感が胃を刺激して腹のものを全てぶちまけてしまいたい衝動に駆られるが、長い間同じ恰好を続けてでた成果は、せいぜい僅かに口内に溜まった唾液ぐらいのものだ。
あんな惨殺死体を見たのだ、気分が悪くならないほうがおかしい。
だが誰に殺されたのだろうか。
自殺というわけではないだろう。
そもそもこの町は何なんだ。
誰もいない町なんて明らかに変だ。
唯一の住人ももう息はないだろうし。
私の頭の中をぐちゃぐちゃになった思考が駆けずり回り、答えの見えない疑問はすぐに闇の中へ消えてしまう。非自明の謎が絶え間なく私の思考回路に積み重なって、その重みがさらに私の胸を圧迫する。
気持ち悪い。
ようやく自分の言葉が口から出てきた。
「これをどうぞ」
私は僅かに視線を上げる。私の顔の横に水筒らしきものが差し出されていた。
私はすぐにそれを手にとって、一杯口に含んだ。無味の水だ。私はすぐに水を吐き出して、何度か同じことを繰り返して口を濯いだ。水を吐き出すたびに胸に溜まった不快感が体内から排出されるようで気分が和らいでいく。大分楽になってきて、私は出納を脇に置いた。
「もう大丈夫ですか?」
はい、おかげさまで。
言ってから、私はようやく気が付いた。反射的に私はその場から飛び退いた。私が先程まで伏していた場所のすぐ隣に、女性の姿があった。無人の町に、また人を見つけた。
「あら、あなた」
彼女は私の顔を見て目を丸くした。
「ジュール!あなたジュールでしょ!」
彼女は私に飛びついた。その勢いで倒れそうになるのを私は何とか堪えた。彼女が真っ直ぐ私の顔を見上げる。
「もう、来ているんだったら家に寄ってよね」
間近で見る彼女の肌は清んだように白く、雪のようにきめ細やかな輝きを放っている。少女のように若い肌をしているが、その雰囲気はもう十分に大人の魅力をもっていた。
「そうだわ!」
彼女は私から離れると手を叩いた。
「これから家に来なさいよ」
いえ、そう言うわけには……。
私が遠慮がちに言っても、彼女の提案を思い止まらせるには至らなかった。
「家で休めば少しは気分も良くなるでしょ。それに今からパイを焼くところなの、食べていきなさいよ」
話の途中で、すでに彼女の手は私の腕を掴んでいた。彼女の手に引っ張られて、私は拒否する口実を失った。彼女の後ろ姿を見ながら、私は彼女の細い首の回りに荒縄で強く絞められたような赤黒いミミズ腫れを見つけた。
「さあ、座って」
彼女の家に入ると、彼女は木製の椅子を私に示しながら奥の部屋へと駆けて行った。私はしばらく迷ったが、とりあえず座ることにした。奥のほうからは軽快な包丁のリズムが聞こえてくる。
私はしばらく彼女の家の中をぼんやりと眺めていた。周囲を囲む煉瓦の壁はまだ新しく、テーブルの上にも目立った汚れは見当たらない。私の座っている位置から見えるものは、目の前にある机一つと二つの椅子、私が今座っている椅子を入れればこの部屋には三つの椅子がある、ただそれだけだ。
家に入るときの扉もとても綺麗で、一目見た私の印象では新築だろうか。三人家族でこの町に越してきたばかり、ということだろうか。そうなると、彼女からはこの町のことを訊いても何もわからないかもしれない。
そんなことを考えているところに、キッチンのほうから女性は大きな声を上げた。
「アンナ!おやつよ」
アンナというのは彼女の子どもだろうか。しかし、しばらくしてもアンナの姿はおろか、返事も聞こえない。
「アンナ!こっち来なさい!」
女性が何度か声を掛けても、アンナという少女は現れない。彼女は諦めたのか、今度は私に声をかけてきた。
「ジュール、アンナを呼んできてちょうだい。きっと向こうの部屋でお人形さん遊びに夢中なんだわ」
私は彼女の頼みを引き受けて、彼女のいるキッチンとは別の方向に向かう通路へと向かった。
見たところそれほど広い家ではなさそうだ。玄関を入ってすぐのところに私がいるダイニングがあって、玄関から真っ直ぐこの部屋を突っ切っていったところにキッチンがあって、彼女の言った向こうの部屋とは、おそらく私の右手にあるもう一つの通路の先にあるのだろう。
右手の通路を入ると、そこは一本道になっている。大人一人が通るのにやっとの大きさしかない細い通路は照明がないために暗澹としている。
暗がりの通路の先に二つの部屋が見える。一つは通路の一番奥、通路に入りかけた私の位置からでも部屋の存在がわかるが、今は木製のドアが律儀に閉められていて中の様子を知ることはできない。
もう一つの部屋は奥の部屋の手前右側面部分にある。昼間でも暗そうな通路の中で唯一光が見えるから、そこの部屋のドアは開いているのだろう。もしその明かりが見えなければ、私は通路の右側に設けられた部屋の存在に気づけなかったかもしれない。
私は暗澹とした廊下の上を歩く。石造りの床と私の靴が触れ合う乾いた音だけが、闇にそのみを中程まで沈めた廊下の静寂を控えめに掻き消している。他には何も聞こえない。
だんだんと、部屋のほうへと歩み寄っているのに、何の物音もしないので、私はささやかな違和感を覚える。どちらの部屋にいるにせよ、少女が遊んでいるにしては些か静寂が濃くはないだろうか。人形遊び独特の役者めいたセリフが、先程から一言も聞こえない。
右側の薄明かりまであと一歩を踏み出す距離にきた。私は壁の縁に手をかけて左足を踏み出した。闇に呑み込まれそうな光の中に私の足の影が縫い込まれる。
アンナちゃん。
少女の名を口にして、私は右側の部屋の中を覗き込んだ。どうやらここは寝室のようだ。部屋の大半を占めるのは中央に設置されたダブルベッドで、そのせいか部屋全体がとても窮屈そうに見える。床の上にはまだ穢れを知らないカーペットが覆っていて、右側の脇のほうには黒色の重厚感のあるタンスが佇んでいる。
ここにはいないのだろうか。
そう思って振り返ろうとしたときだった。
――パサッ。
背後で何かが落ちる軽い音が聞こえた。私は振り向いて足下に目を向けた。
一つの人形が床の上に落ちていた。顔から足の部分は薄茶色の布でところどころ継ぎ接ぎがされている。細い手や足の先端は丸いだけのシンプルなものだった。人形の服は赤茶けたチェックで、あまりきらびやかな色ではない。瞳は色の統一がとれていないボタンを左右に縫いつけられていて、髪は厚みのある茶色い毛糸、鼻は付いていない。人形の口は色の強くない黒糸で形ばかりに縫われただけで、一目見た外見は、どちらかというと口を縫い止められているふうにも見える。
私は訝しんで、床に落ちている人形を注視した。
さっきはこんなところに人形など落ちていなかった。
目の前のドアは閉まっているし、ドアが開いたような気配もなかった。天井を見上げても、何かを吊しておけるようなところはどこにも見当たらない。
私は不思議に思いながらも、その人形に手を伸ばす。
左手で胴体を掴んで持ち上げようとしたが、途中で両腕と両足、頭が千切れて床の上に落ちた。
――トサッ。
私は驚いて、人形を掴んだ左手を反射的に自分の体から遠ざけた。その拍子に、胴体から不可視に近いほどに細く伸びた綿と繋がって宙吊りになっていた片腕が、糸が切れて床の上に落ちる。布の裂け目から伸びた細い糸の先は、空気の微かな流れに弄ばれて暗がりの中で白い光を反射しながら揺れている。
……………………。
私は黙って五体を失った綿の塊を眺めていたが、少しして左手から人形の胴体を床に落とした。反射に等しい意識の中で、左手から胴体だけの塊を弾き落としたのだ。
――パサッ。
作り物の肉が落ちる軽い音だったが、私の耳には本物の人間の胴体が落ちるような重量感のある響きとして、妙に強くこびりついた。
私は左腕を引っ込めようとしたが、僅かに躊躇って、バラバラになった人形を避けるように正面の部屋へと近づいて、左手でドアをノックした。
――コンッ、コンッ。
アンナちゃん。
痩せた板を叩く乾いた音が廊下の空気を僅かに震わせる。数間、私は沈黙で待ったが、部屋の中から少女の返事はない。私はもう一度ドアを叩く。
――コンッ、コンッ。
アンナちゃん。
おやつだよ。
やはり返事はない。人形遊びに夢中なっているのだろうか。しかし、薄いドアの前にこれだけ近づいているのに、遊んでいるような感じがしない。それとも、この子の人形遊びは口も利かないで静かにやるものなのだろうか。そうだとしても、この部屋の中にいるならば、私の呼びかけに何らかの反応を示してもよいはずなのに。
……………………。
私はドアを開けて中を確認しようとしたが、念のために、もう一度ノックをしようと左手の甲を掲げる。
――ガタンッ!
私は弾かれたように半歩下がる。
ドアの向こうから盛大な音が飛んできた。木製のドアに向かって、部屋の中から体当たりをするような激しい衝撃音が一回だけ、私は体ごと引いて、ドアに触れかけた左腕を勢いよく引っ込めた。
……………………。
私は声が出せなかった。
直後に訪れた冷たい静寂が私の肌のすぐ上を這いずり回る。耳元の首筋をひんやりとした空気が撫でていく。
長い時の間、無音が続いていたような気がした。その閑寂の中で、私の体は硬直して動けなかった。しかし、時は停止を許さなかった。
――カンッ!
甲高い金属音が廊下を駆け抜ける。
――カンッ!
斧か鉈のような大振りの刃物が硬質の岩肌に躊躇いなく振り下ろされて生まれる清んだ鋭利な響きのように聞こえる。
――カンッ!
ドアの向こうから三度、連続して、その鋭い音が私の脳髄の中枢まで貫いた。
――カンッ、カンッ、カンッ!
再び、同様のリズムが刻まれる。
――カンッ、カンッ、カンッ!
凶器の刃を。
――カンッ、カンッ、カンッ!
一振り、二振り、三振り。
――カンッ、カンッ、カンッ!
この音で最後だった。
神経に直接食い込むような痛ましい音も、もう聞こえなくなった。あとに残ったのは、押し潰されそうな無音の静寂だけだ。
……………………。
さっきまでとはうってかわって静かになり、この沈黙が私を無性に不安にさせる。まだ何かあるのではないかという憶測めいた不安、しかし何の変化も訪れない様子は、私を安堵させるには至らない。今この暗澹な廊下を覆っているのは、安息の静けさではなく、心臓を凍てつかせるような黒く淀んだ恐怖だ。
……………………。
とても長い間、私は無言で硬直していたような気がする。暗い沈黙の中にいることは、私の胸をひどく圧迫したが、私の頭にはどんな言葉も浮かんでこなかった。私の瞳は虚ろに泳いでいたのか、私の視野にはいつの間にか床に転がっているバラバラの人形が入っていた。五体の千切れた胴体からは中に押し込められた綿が耐えきれず溢れ出ている。
そういえば、先程の甲高い響きは五回繰り返されてはいなかったか。
私は妙な既視感を抱いて身震いを覚える。
そんなことはない。
私は頭を振る。意を決して、私はドアの取っ手に左手を伸ばす。
何もありはしない。
もう一度念じてから、私はゆっくりドアを押した。
見た目はとても軽そうなドアなのに、思ったよりも開きが悪い。何かがドアの前で支えているような異質な感触を左手に受ける。
……………………。
私は少しだけ力を込めてドアを押した。その勢いでドアは九〇度に開く。弾みで、ドアの前を塞いでいたものが私の目に飛び込んできた。サッカーボールくらいのボールだろうか。そのボールには金髪の光沢を放つ繊維がびっしりと生えていた。奇怪なボールはしばし床の上を転がって、私が不思議そうに見つめる先で目が合った。
それはボールなどではなかった。
――ゴロ。
少女の首だ。
少女とは思えないほど凄惨な表情を私のほうへ向けている。
恐怖に開いた瞼の中には白い蛋白な眼球が覗き、絶叫のために引き上げられた唇は血の気が失せて、だらしなく垂れた舌の奥からは喉の様子がはっきりと見える。少女の金色の髪には所々赤いものが付着して、ドアから少女の首の辺りまで、彼女のものと思われる夥しい量の鮮血が、まだ石が敷き詰められた床に染み込みきれず、紅色に濡れている。その血の泉に向けて、彼女の目元から溢れた涙が幼い頬を伝って流れ込んでいる。
私は無意識のうちに後退って、床に落としていた視線を上げ、そのとき、部屋の中の様子が私の視界全てを占領した。
正面の一番奥には小さな窓が備えられ、窓を飾るレースは赤い液体を吸って、レースの端からは吸収しきれなかった血液が滴っている。その窓の真下には長方形の塊が転がり、その奇妙な塊の正面と側面には赤い切断面が覗いていて、その切れ目からは今でも赤い液体が漏れ出ているのがわかる。長方形の肉の塊の周りには色の薄いワンピースが巻かれていたが、床の上を濡らす血によって、真っ赤に汚れて元の色がなんだったのかはわからない。
少女の胴体と覚しきものには、両手と両足に頭、五体が付いていなかった。私は視線を床へと落とす。部屋の中央、少女の首が転がっているところよりも部屋の内部に入ったところに、マネキンのように白い両手と両足が無造作に転がっていた。
……………………。
少女の口から声が漏れてきた。
「……い、たい」
肉体を失った少女の頭は、自ら意志を持ったように言葉を紡ぐ。
「い、たい、…………いた、い、いた、い、……い、たい……………………」
苦痛を訴える彼女の声が――もはや少女のものとは思えないおぞましい声が――鮮血と一緒に、この部屋には満ちていた。
……………………。
私の口からは言葉が出てこない。震える足取りで、一歩ずつ、緩慢な動きで後退る。足下に流れている光沢をもった血液が私に向かって少しずつ近づいてくる。
――チンッ!
後ろからベルの音が聞こえて、私は無意識に肩を震わせた。私の足はそのまま硬直してしまい、動けなくなった。床を流れる鮮血は私の足下まで到達して、私の靴は少女の血の色に汚れているが、私の脳はその出来事を感知できていなかった。
私は非常に遅い速度で背後へと振り返る。薄暗い廊下の向こうには誰もいなかった。怪しいものの気配が近くにないことを感じて、私の心に僅かばかりの余裕が生まれる。きっと、キッチンでパイが焼けたのだろう。
焼けたの?
キッチンにいる女性に向かって、私は声をかけた。だが、それに応える女性の声はない。私の胸の中に再び鉛のように重たい不安が落ちる。
あの……。
私がもう一度声をかけたときだった。
――ボトッ!
あまり聞いたことのない鈍い音が、石造りの廊下で波打った。背筋が一気に凍り付く。粘性のある半個体状の液体が高いところから落下したような不気味な音だ。その異質な音を耳にした直後、私の視界でダイニングにあったテーブルが倒れた。
――ガタンッ!
対照的に軽い音を立てて、テーブルは床の上に転がった。
……………………。
そして冷たい閑寂が家の中を包み込む。静けさは意志を持ったように私の足下から、腕からへばりついて、喉元を封じられて生まれる沈黙は私の胸に恐怖の銀貨を蒔いていく。
――ドクン。
その鼓動さえ、静寂に呑まれて私の意識には聞こえない。あるのは、私の心臓を締め付ける恐怖だけだ。
……………………。
もう、声が出てこない。女性からの返事はない。次に動くためのきっかけが欲しいが、そんな都合のいいものなどありはしないという不安が私の思考に助言する。
……………………。
踏み出すしかないのだ。
一歩を。
……………………。
決心を固めて、私はまず、自分の右足をダイニングへと向ける。
――ぴちゃ。
濡れた音が聞こえた。
爪先から頭蓋の天辺まで悪寒が走る。
……………………。
私は恐る恐る足下に目を向けた。胸の締め付けが一段と強くるのを感じた。
血だ。少女の部屋から溢れ出た夥しい量の血が私の靴を赤く染めたのだ。靴底には幼い子どもの血糊がベッタリと染みついて、それが床に触れたとき私の重みに押し潰されて爆ぜた音が、私の鼓膜を執拗に揺さぶる。
私はすぐに目線を上げた。そのまま真っ直ぐ、廊下の先にあるダイニングへと視線を固定する。もう後ろには下がれない。振り返る勇気もない。足が戦慄いて、奥歯が震えている。荒くなった自分の呼吸に、私の心臓は耐えられなくなっている。
前へ進むしかない。
もう自棄になっていたのかもしれない。私は震える左足を無理にでも抑えて、ダイニングに向かって踏み出す。
――ぴちゃ。
血が爆ぜる音だ。
――ぴちゃ。
靴が床に触れるたびに濡れた音が耳につく。
――ぴちゃ。
胸の痛みに、私は吐き気を感じる。
――ぴちゃ。
私は寝室のあった壁に左手を付いて進む。
――ぴちゃ。
落ち着かない緊張を壁に預けても、私の気分がよくなることはない。
――ぴちゃ。
暗い静寂に覆われて、湿った音はからかうように私の背筋に寄り添う。
――ぴちゃ。
あと少し。
――ぴちゃ。
あと少しで、ダイニングに辿り着く。
――ぴちゃ。
私の視野には、まだ倒れたテーブルしか入っていない。
――ぴちゃ。
ようやく私は、通路の出口までやって来た。壁に凭れかかりながらも、私は間近の出口を求めて廊下から出たダイニングの壁に左手をつけた。
途端に、今まで経験したことのない異臭がした。私は咄嗟に右の手で鼻と口を押さえた。魚か肉が何日も放置されて腐敗が進んだような、強い臭気がダイニングから溢れている。鼻を押さえても腐敗臭は少しも消えず、そこら中に染みついた臭気が吐き気を誘う。しかし、何も出てこないことを知っていた私は必死に耐えて、通路から抜け出すためのもう一歩を踏み出した。
――ぴちゃ。
それが見えた。
ダイニングの真ん中に、長時間体内の酵素の影響を受けてすっかり溶解が進んだ肉塊の一部からは白骨が突き出して腐敗が進みすぎた肉体から原型を想像するのは不可能に等しい。とろろのように溶解した肉体からは酵素の分解の過程で分離した液体が滴り、その異色の液体が床に染み込んで、肉塊の置かれた場所だけが異質なもののように感じさせる。
そのおぞましい光景に、私は反射的に後退って、その勢いで通路の反対側の壁に背中を預ける形となる。鼻と口を塞ぐことも忘れて、私はその気味の悪い塊を凝視していた。
――ぴちゃ。
天井から、腐敗が進んだ肉塊に向かって何かが垂れた。ゆっくしと視線だけ上に向ける。天井に吊された明かりに、大の男の二の腕くらいの輪を成した荒縄が結ばれていた。その縄から再び滴が落ちる。
――ぴちゃ。
私は再び視線を床に転がる肉塊へと向ける。荒縄の真下に腐敗して柔らかくなった肉塊に埋もれるように、一部が白骨している人間の頭部が覗いている。金髪はドロドロの半個体状の物体の中ですでに色褪せて、唇の半分と片目は肉塊の中に埋もれて見えない。ほっそりとした輪郭は、この遺体が女性のものであると私に確信させる。
女性の首は体とは繋がっておらず、本来あるべきところとは違うところから生えている。いや、千切れた首は、腐敗した自分の体の上に置かれている。おそらく、天井に吊されていた体が酵素の影響で徐々に腐り、自分の重みに耐えきれず首から下の部位が先に床へ落下して、その後に、支えを失った首が肉塊の上に落ちたのだろう。
「……う…………」
女性の口元が僅かに動く。
「…………して……」
肉体から分離した首が、恨めしそうな眼差しを私に向けて何事かを呻いている。
「……どう、して…………」
ほとんど溶解した肉塊が僅かに動いたように見えた。女性は呪詛のように同じ言葉を繰り返しながら、私を見つめて目を逸らさない。
「……どうして…………どう、して……………………」
私はその女性から目を逸らしたくなった。彷徨う私の瞳の先に映ったのは、通路の向こう、暗がりの先に、私が開いたドアの向こうで五体を分解された少女の顔は、恐怖に歪んではおらず、白目を向いたまま、笑っていた。
無人の町を、私はたった一人で歩いていた。頭上は漆黒の雲に覆われて、暗澹とした空気が町の中に満ちている。風の吹かない通りを包む静寂に息苦しさを覚え、肌の先から感じる空気はささやかな冷たさを含んでいる。
母親と彼女の娘の住んでいた家を出てから、私はあてもなくただ歩いている。家の中の光景は私の瞼の裏で頻りに映し出される。それを目の当たりにするごとに私の心臓は不快感に締め付けられて、消えることのない吐き気に苛まれる。しかし、空の胃袋からは何も出る気配がなくて、吐くことのできない不快感を背負いながら、私はただ歩いていることしかできない。
最初の老人のときと同じく、母子は殺されていた。娘は頭と両手、両足を切断されて、母親は首を絞められて天井から吊るされていた。しかも、母親は死後、何日も経っているとみられるほど体の腐敗が進行していた。
それはおかしい。
私はあの女性とついさっき公園で会ったのだ。彼女の家に着いてから一時間も経っていない。それなのに体が溶解するほど腐っているなんて、普通ではない。
さらにおかしなことに、母子ともに、意識があったのだ。二人は、私に向かって何事かを口にしていた。その二人の言葉が、まだ私の耳から離れない。
何故二人は殺されたか。
一体誰に殺されたのか。
どうして。
私の思考と母親の言葉が重なって、私の背中を冷たいものが走る。心臓が圧迫されて、胃の辺りがキリキリと痛みだす。思い返すたびに不快感が私の体の中に累積していく。私は得たいの知れない町をただ歩くことしか他にすることがなかった。
何なんだ、この町は。
言葉に出しても答えるものはいない。最初に会った老人も、その問いには答えてくれなかった。まるで私という存在が見えていなかったかのように。初めに対面したときは老人のほうから駆け寄ってきたというのに。
老人のときの光景を思い出して、私は足を止めた。老人は私のことを何と呼んでいただろうか。そして、あの女性は私を何と呼んでいただろうか。
二人はともに異なる名前で私を呼んでいたことに、私は気付いた。もしかしたら、どちらかが名前で、どちらかが名字だったのかもしれないが、私はそう思わない。どちらか片方が私に似た人物と見間違えたのだろうか、それとも二人とも私以外の人と間違えたのだろうか。
それとも……。
私が思案していると、どこからか人の声が聞こえた。私は顔を上げて周囲を見渡す。どこにも人の姿はない。私の瞳に映るのは、通りに沿うように並んだ無人の建物と、少し先に見える十字路ぐらいのものだ。十字路といっても、私が歩いている道のほうが大きく、横に逸れた道はどうやら路地裏へと続いているようだった。
再び声が聞こえた。一人や二人ではない、かなり大勢の子供の声のようだった。どうやら奥のほうにある、路地裏へと続く道から聞こえているらしい。
私は声のしたほうまで歩いて行く。ここからでは建物の陰になって細い通路の先が見えない。私は小道の脇に立って中を覗き込む。
それにあわせたように、中から子供たちが一斉に飛び出してくる。私は驚いて身を引いた。十人くらいの子供の群れが、弾かれたように大通りへと駆け出していって、私の斜め後ろにある路地のほうへと姿を消してしまった。
……………………。
一瞬の出来事といったところだろうか。あっという間に子供たちの姿はなくなって、快活なはしゃぎ声ももう聞こえない。私はしばらく意識が抜けたように子供たちが消えた先を眺めていた。
この町に人はいないのではなかったか。いや、人がいないというのは私が勝手に判断しただけで、どこにもそんな情報はない。それに、無人とはいってもすでに私は三人の人間に会っている。もはや無人とは断言できない。
しかし私にはまだ納得がいかない。この町に人はいないはずなんだ。根拠はない、そもそも人はいたではないか、けれど私はこの町が無人であるということを信じている。まるで始めから知っていたように。
私は右手を強く握り締める。そんなはずはない。私はこの町を知らない。町を横切るタイルも、町を取り囲む煉瓦造りの建物も、私は知らない。あの老人も、女性も、その娘も、私は以前に会ったことがないし、あの人たちが私のことを何と呼ぼうと、私はその名前に心当たりはない。
……………………。
私の視界に子供たちの消えた通路が映る。私は歩いてそこまで向かう。路地の前に私は立った。先ほどの細い通路よりさらに細い路地だった。ただでさえ光の届かない場所なのに、町を覆う黒雲のせいで路地の先は夜の闇と同じ色をしている。私は一瞬躊躇ったが、それでもこの路地に足を踏み入れることはすでに私の中で決定していた。
とても窮屈な道だ。私が通路に立っているだけで、この道を塞いでしまう。
この通路の一番奥、突き当りを右に曲がると行き止まりになっている。そこは道の幅とは対照的に少し広めの空間になっている。
そんなことを考えながら歩いていくと、本当に道の先に壁に覆われた空間が開いていた。道はそこで終わっている。
私はその場所を見渡してみる。さっきの子供たちの姿はどこにもない。路地の入り口からここまでは一方通行で、ここから先に抜けられるところはない。しかし子供たちの姿は消えてなくなっていた。
私の視線は行き止まりの壁のすぐ下に設置されたマンホールへと向いていく。黒ずんだマンホールは開けられていて、その先には何もない闇だけが覗いている。私は地面に手を付いて闇の中を凝視する。地下へ向かって伸びた梯子は途中の暗黒に呑まれて、暗渠も見えず、水の流れる音さえ聞こえてこない。
……………………。
私は闇に向かって声をかけようとしたが、止めた。きっと何の返事もないだろう。私は梯子に足をかけて地下へと下り始める。
――カンッ、カンッ、カンッ、カンッ。
金属製の梯子に足を乗せるたびに、清んだ鉄の音が生まれて、それが地下の中で反響して、静寂で満ちていた闇を震わせる。地上の光が届かない地下の世界はどこまでも下へ下へと続いていて、なかなか底へ辿り着けない。地下の闇は深く、梯子の先を見下ろしても、その一番下に何があるのかわからない。私はただ深淵の底へと下っていった。
――カンッ、カンッ、カンッ、カンッ。
どれくらい梯子を下りただろうか。永遠に見えた闇であったが、私の足に石の感触が触れた。そこで金属の梯子が途絶えて、私は地下の底に両足をついた。
私は辺りを見渡した。おそらくは下水路なのだろうが、脇に流れる暗渠のせせらぎも聞こえず、周囲を覆う黒い闇は深海の景色と同じ色をしている。私の目は長時間闇にの中に曝されているはずなのに、僅かな光もないせいか、何も見えない。まるで時間が止まってしまったような静けさと、虚無の闇がこの地下の場所を制圧している。
……………………。
私が暗黒の奥を見透かそうとした、そのときだった。眩いばかりの色のない光がこの場所を埋め尽くした。あまりの強力な光に、私は反射的に二つの瞼を固く閉じて、咄嗟に左腕で顔面を覆った。
……………………。
僅かな隙間から瞼を透ける光が次第に力を失っていく。私の肌を優しい風が吹き抜ける。私は瞼を少しだけ上げてみる。私の足元が、今度ははっきりと見える。目を開けてもそれほど眩しさを感じない。顔を覆っていた左腕を剥がして、私は辺りを見渡した。そこは、下水路ではなかった。
周囲を建物に囲まれて、上を見上げれば暗雲で覆われた空が広がり、私が下りてきたはずの梯子はどこにも見当たらない。足元には水路のようなものは見られず、代わりに建物に沿うように花壇が並んでいる。花壇の中には枯れて黒ずんでいる小さな花がびっしりと敷き詰められている。さっきまでとは異なる場所にいる。
……………………。
私は戸惑った。事態がうまく飲み込めない。先程マンホールの下の梯子を下りて、地下に下りた。そして、気付いたときには地上の、どこか知らないところに私はいる。
私は周囲を見て状況を把握しようとした。建物の感じや花壇があることから、ここはどこかの学校ではないかと私は思った。
「来たわよ」
奥のほうから声が聞こえた。
「なに?こんなところに呼び出して」
女の人の声だ。喋り方からすると、この学校の生徒だろうか。姿は見当たらない。どうやらこの道を曲がったところの、奥のところにいるようだ。他にも誰かがいるようだが、もう一人の声は聞こえない。私は動かないで女子の声に耳を傾ける。
「用事ってなに?早く済ませてよね」
女子の声は見えない相手を急かすような感じがする。聞いていてあまりいい感じを受けない。私は見えない女子生徒にささやかな反発を覚える。
「ちょっと、なに!」
女子生徒が突然大きな声を上げる。それは、私が女子生徒によくない感情を抱いたのとほぼ同時だったような気がする。
「やだ、離してよ!」
女子生徒にとって明らかによくないことが起こっているらしい。
「やめなさいよ!」
しかし女子生徒の強気な態度は相変わらずだった。
「いやだって言ってるでしょ!」
相手側の声は、全く聞こえてこない。女子生徒の声だけが、とても大きく私の耳まで届いてくる。
「いい加減にして!」
女子生徒の明らかな拒絶を含んだ声が、私のいるところまで響いてくる。
「私にこんなことして、ただじゃ済まないんだから」
その言葉に迷いは感じられない。女子生徒の強気な性格が見受けられる。
「なによその顔」
女子生徒の怪訝そうな声が聞こえる。
「なに?」
女子生徒が詰問する。
「なにする気!」
女子生徒の声音が一転した。
「あんた頭おかしいんじゃないの!」
再び女子生徒の荒れた声が響き渡る。
「来ないでよ!」
女子生徒の叫び声が聞こえる。
「来ないでって言っているでしょ!」
それでも女子生徒の強気な態度は変わらない。
「いや」
正常な言葉はそれが最後だった。
私は咄嗟に耳を塞ごうかと思ったが、間に合わなかった。
女子生徒の悲鳴が建物に反響して私のところまでその痛ましい絶叫が轟いて空気を劈いていく。悲鳴とともに、木の葉が舞い散る音が聞こえる。何かに揺らされて木々になった若い葉が無理矢理引き剥がされて、その合い間に枝の折れる音も聞こえる。聞き間違いではない、かなり太く頑丈な枝が盛大な音を立てて折れていく。ボキッ、ボキッ、と骨が砕けるような鈍い音が私の耳の奥まで聞こえてくるのは、たぶん気のせいではない。
――ドサッ!
重量感のあるものが地面に落下する音を最後に、もう何も聞こえなくなってしまった。生意気そうな女子生徒の声も、もう聞こえない。
……………………。
何も聞こえない。風の音すら、耳を揺すらない。無人の静寂が、再びこの場所を満たしていく。
私は女子生徒の声が聞こえていた建物の陰へと向かって静かに歩き出した。極力音を立てないように、極力気配を悟られないように、私は足元に神経を集中させて奥のほうへと向かう。
私は建物に手を当てる。あと少しだけ身を乗り出せば、奥の様子を見ることができる。向こう側にいる人間に気付かれないように、私は注意して建物の陰から奥のほうを覗き込んだ。
そこは建物の影によって作られた小さな空間だった。裏庭というほどの広さもない、もっと狭く、秘密の話をするにはちょうどよさそうな場所だ。
そこには誰もいなかった。私は建物の陰から出てその場所をよくよく調べてみた。といっても、人が隠れられるようなところはどこにもなくて、ただ閑散としている。先程まではっきりと女子生徒の声が聞こえていたのに、始めから誰もいなかったかのように、人のいた形跡がみられない。地面を覆う枯れた芝生は萎れて小さくなってはいるが、特に踏まれたようには見えない。
私は正面にある壁に向かった。壁といっても私の腰くらいまでの高さしかなく、小さな子どもでも簡単に飛び越えられそうだ。壁の向こう側を見てみると、生命力を失った茶色い木々が針のような枝を伸ばして直立している。葉を失って木々の間は見通しがいいはずなのに、その向こう側は暗く、何も見えない。壁の向こうから地面までは相当の落差がありそうだ。ここから落ちたら、まず無事では済まない。
……………………。
下りてみよう。
私はそう思った。女子生徒の無事を確かめたかったのかもしれない。声の感じから、気が強そうで、あまり感じのよい相手ではないのに、女子生徒の無事を確認したいなど、私はどうかしている。
いや、別に無事でなくてもいい。ただ、ここに誰かがいたことへの確証が欲しかったのかもしれない。私は女子生徒らしき人物の声を聞いただけで、実際にこの場所にいたかどうかは定かではない。だから壁の向こう側に下りて確かめたい。
私は改めて壁の向こう側を覗き込んだ。うっすらと広がる枯れ木の林、見た目も不気味だが、一番下が見えないだけに安全の保証はない。枯れ木にしがみついて下りることができればいいが、生憎末端に生えている枝はとても細く、私の体を支えるには非常に弱そうに見える。
私は壁を越えて、壁を乗せている地面の僅かな盛り上がりに足を乗せた。崖のようにほぼ垂直に真下に向かって地面が削られているが、少しずつ下っていけば何とか下に下りれるだろう。
……………………。
私は足元を見る。自分の体を支えているのは両足の踵に触れる地面だけで、爪先は完全に宙に浮き、不安定な体を左手一本で壁を握って支えている。少しでも足を滑らせたら命の保障はない。
……………………。
安直な私の行動は当然の結果を招いた。
――ガラッ!
足元の地面が崩れた。剥き出しの地面は非常に脆く、私一人の体を支えるのも無理があったようだ。
咄嗟の出来事に、私は左腕一本で自分の体を支えることができなかった。私の体は重力に任せて落下を始め、私の視界に針のように突出した木々の枝が迫ってくる。
私は瞬時に目を閉じ、顔を守るように両腕を交差させて体を丸くする。私は体を突き刺す枝の感触と地面まで落下したときに受ける重たい衝撃を予想した。
……………………。
しかしそれはなかった。一秒ほど浮遊した感覚の後には、私の体は足場に落下した衝撃を受けたが、それは数メートルの高さから落下したときの衝撃ではなかった。もっと低い、一メートルにも満たない高さから落ちたような軽い衝撃だった。加えて、足元も町中にあったような硬いタイル張りの道路ではなく、もっと柔らかい場所のように思える。
……………………。
私は警戒しながら目を開けた。私の目の前に灰色の景色が広がっている。私は顔を上げて周囲を見渡す。どうやら私の体は砂場の上に落ちたらしい。
私は驚いて起き上がった。落ちた場所が砂場であったことも私を充分に驚かせたが、私をひどく慌てさせたのは、辺りに木が一本も見当たらなかったことだ。
どうやらここは公園のようだ。遠くのほうまで見渡せば葉を失った枯れ木が見つかるが、私の周囲には砂があるだけで朽木も見られない。あれだけ立ち並んでいた枯れ木林は、まるでそれ自体が幻だったかのように消え失せて、急いで頭上を見上げるとそこには暗雲が広がっていて、先程までそこにあったはずの急な崖もなくなっていた。
どうして……。
さっきまであったものが突然なくなっている。この不思議な現象に私は戸惑った。こんなことが普通起きるものだろうか。
やはりこの町はおかしい。
以前は人が住んでいたのに人のいる気配がしない。そうかと思えば突然人が現れて、次に会ったときには死んでいる。明らかに他者の手によって殺されていた。
ここでは私が遭遇した人間は皆、二度目に会うときには惨殺死体になっているのかと思ったが、私が見かけた子どもたちはその後には忽然と姿を消して、今度は声だけは聞こえるものの、女子生徒がいたはずの場所に行ってみてもその姿はどこにもない。
さらに、いなくなった子どもたちを捜しに地下に下りたら知らない校舎の傍にいて、さっき崖から落ちたはずなのに、目を開けてみたらこの公園にいた。
人が消失し私が異なる場所に移動している現象、自然には起こりえない事態がこの町では起きている。自分の身に起きている異常に、私は不安と恐怖を感じた。そして、まだ何か起きるのではないかという憶測が私の頭の中で絶えずちらついた。
私の予想は正しかった。
公園で、私は人の姿を見つけた。その人は公衆便所の中へと姿を消した。私は妙にその人が気になって後を追いかけた。しかしトイレの中には誰もいなかった。全くの無人で、私と入れ違いになったわけでもないのに、先程の人間はどこにも見当たらなかった。
諦めて私が外へと出ると、そこは公園ではなくてどこかの建物の中だった。またさっきまでとは違う場所に私はいたのだ。
私が不可思議な事態に戸惑っていると、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。私は廊下の脇に並んだ部屋をしらみつぶしに探したが、一番端の部屋に行っても人の姿はついに見つからなかった。念のために窓の外も見てみたが、やはり誰もいない。窓の外からは目に見えてかなりの高さがあったので、私は下まで下りようとはしなかった。
私が元来た場所まで戻ろうと振り返ると、再度違う建物の中にいた。内部の様子から、そこが教会であることはすぐにわかった。そこでも、人の姿を見かけたのだが、後を追ってみるともうどこにもいない。そして気付いたときには全く関係のないところにいたのだ。
そんなことが何十回も続いた。最初のうちこそ私自身に起こる異常な現象に不安を感じもしたが、だんだんと今度はどこに行くのかを楽しみにしている自分がいた。不安に駆られた私の精神が限界を超えたのか、すでに恐怖はなく、ある種の諦めのような感情が生まれ始めていた。慣れてきたとは思いたくないが、これが淘汰というものなのだろうか。もはや胸を締め付けるような痛みもなく、吐き気すら感じられなくなってた。
次第に私の心にも余裕が生まれた。人が突然消えていく異常事態ではあったが、最初のときのように人の死を直接見ることがなくなっただけ、心境的には幾分楽だった。まるで誰かに導かれるように流れる景色や人の声、私は私自身に起きている出来事の一つ一つを掬い上げるように感受していった。
私はあることに気がついた。私はこの町を知っている。今まで見てきた場所に見覚えがあった。もしかしたら、私が目にした人々や、私が耳にした声の主たちに、私は以前にどこかで会ったことがあるのかもしれない。
予告なく変化する景色を、私は注意深く観察するようになった。だれもこの町のことを教えてくれない。教えてもらいたくても、直接事情を話せる相手が見つからないのではどうしようもない。もしも私がこの町を知っていて、今の私がただ忘れているだけなら、私はそのことを思い出す必要がある。
思い出さなければいけない。どこかに見覚えはないだろうか。町の様子、私の意思に関係なく変化する景色、そして消えてしまう人々にも。
心当たりはないか。この場所に、ここにいることに、この不思議な町のことに、私の記憶が少しでも残ってはいないか。
私は公園のベンチに腰掛けた。遠くのほうで人の声が聞こえたが、私は声のしたほうに向かおうとはしなかった。
私はこの町のことが知りたい。どうして自分がこの町にいるのか。どうしてこの町には誰もいないのか。どうして人の姿が消えてしまうのか。そこに意味はあるのか。
……………………。
私は考えた。そしてようやくその意味を知った。
私は立ち上がって空を見上げた。町を覆い尽くす曇天のせいで、今は昼の時間帯だろうに、とても暗い。
私は目を閉じて、ゆっくりと目を開ける。目の前にはもう公園はなくなって、また違う場所に私はいた。
ああ、やはり。
私は歩き出した。
ここは、死者の町だ。
ここは私が殺した者たちの暮らす町だ。
私は沢山の人間を殺してきた。ようやくそのことを思い出した。どうして今までそのことを思い出せなかったのか、不思議なくらいだ。
この町であった人間は全て、私自身で殺した。声だけしか聞いていない者たちも、私がその人たちを殺した場所に間違いはない。やっと思い出した。
最初に会った老人は、彼の自宅にある倉庫の中の柱に彼を括りつけて、あまり騒ぐものだから口も塞いで、それでも静かにならなかったので、倉庫の中にあった大きめの刃物で老人の口を二つに切った。
次に会った母親とその娘は、まず娘のほうを床に押さえつけてから、私が携帯していた鉈で右腕、左腕、右足、左足の順に切断していき、最後に首を切り落とした。胴体は邪魔だったので娘の部屋の窓に向かって投げつけた覚えがある。首は部屋を出るときに蹴飛ばしてしまったのだろう。母親はダイニングで首を絞めて、そのまま吊るした。
三番目の子どもたちは、マンホールのあったところで全員を斬殺か撲殺してマンホールの下に全ての死体を投げ込んだ。
四番目の女子生徒は、壁の向こう側に突き落とした。女子生徒が死んだことは殺した次の日に騒ぎがあったので、そこで知った。
それ以外の出来事にも覚えがある。皆、私が殺した。
殺害する前から、私は彼らに面識があった。老人や女性が私の名前を知っていたのも、親しげに声をかけてきたのも、彼らが私を知っていたからだ。私を呼ぶ名前が二人で異なっていたのは、単に私が同じ名前を二度使わなかったからだ。町中で人に名前を名乗らなければいけないときはもちろん、学校のときも、仕事に就いたときも、さまざまな場所で私は偽名を使い続けた。もう誰にどんな名前を使ったのかは、さすがに覚えていない。
偽名が役に立ったのかどうかは知らないが、私が捕まることはなかった。基本的に、同じ場所に長く留まることをしなかったので、多くの人には私という存在は気付かれていないと思う。寝る場所も毎回変えて、仕事だってその日限りの職に就くことが多くて、学校も行くことが日常になっていなかったので、私のことを気にかける人なんていなかったに違いない。
そんな数少ない私を知るものを、私は殺していった。偽名を知られたから殺したわけではない。私の殺人行為は、必要だから実行したのだ。私が殺害した人々は必要がないから、あるいは邪魔になるから殺した。
あなたのために。
皆あなたのためにやった。
誰も知っている者などいない、頼れるものなど誰もいない、孤独しか知らなかった私に、あなたという存在が現れた。私の前にあなたが現れた。
唯一、私が本名を名乗った相手。
私に無償で場所を与えてくれた存在。
あなたに会って、私は初めて世界に光を見つけた。あなたといる時間がどれだけ私を幸福にしてくれたことか。
でも私にはその喜びをあなたに伝えることができなかった。わからなかった。私はあなたのような知性を持ち合わせてはいなかった。あなたほどの学力を身につけてはいなかった。自分の抱いている感情も、本当はよくわかっていなかった。喜びという言葉の意味も、最初の頃の私は知らなかった。
ただあなたの傍にいたい。あなたと一緒にいて、話ができて、あなたの顔が見れるだけで、それだけでいいのだ。他には何も望まない。私は何も望んでいない。あなたの近くにいるだけで、私は充分だった。
あなたの望みが知りたい。あなたはどういうときが幸せなの。どんなときが一番幸せなの。何をすればあなたは喜んでくれるの。
あなたの望みを叶えてあげたい。あなたを喜ばせてあげたい。あなたを幸せにしてあげたい。それだけが、私の願いです。
あなたと同じ時間を過ごしているのはとても楽しかった。けれどあなたと会わないときの時間はとても苦しかった。
どうすればあなたが喜ぶだろうか、私は必死に考えた。あなたと会えないときの時間、私はずっとそのことばかりを考えていた。
あるとき、あなたはとても暗い顔をしていた。
どうしたの?
私は訊いてみた。けれどあなたは何でもないと言うばかりだった。
何でもないはずがないのに。あなたはいつもと違う顔をしているのに。とても暗い顔をしているのに。毎日のようにあなたに会っていたから、あなたが辛い思いをしていることに私はすぐに気付いてあげられた。
でもあなたは決して私に理由を教えてはくれなかった。話してくれればいいのに。言ってくれればいいのに。私はあなたのために何でもやってあげられるのだから。
外であなたを見かけた。そこにはいつものあなたがいた。
けれど、ある人にあったとき、あなたの様子が変わった。その人と話しているときは笑っていたけれど、それは無理に笑っているように私には見えた。その人と別れた後で、あなたはとても辛そうな顔をしていた。
次にあなたと会ったときに、私はあなたにあの人は誰かと訊ねた。するとあなたは驚いて、そして悲しそうな顔で言った。
「あの人は新しい学校の先輩で、いつも嫌がらせをしてくるんです」
あなたは私に人並みの知性がないことを知っていたから、包み隠さず話してくれた。あなたは何とか笑顔で話をしようとしていたけれど、あなたの笑顔はいつもと違ってとても淋しそうなことに私は気付いていた。どんなに私が言葉を知らなくても、あなたの気持ちはすぐにわかった。
あの人があなたを暗くしているのか。
私はその人に近づいた。同じ場所に長く留まらない生活のおかげで、私は多くの知識を得ていた。加えて、あなたとの会話のおかげで、私は人に喜ばれる話の術を身につけていた。その人に怪しまれない存在になった上で、私はその人を殺した。
あなたを苦しめるものは、二度とあなたに近づけないようにしなければならない。その決断に迷いはなかった。
その人を殺して次にあなたと会ったときには、あなたはすぐに元気になっていた。いつものようにとても楽しげに私と一緒の時間を過ごした。
しかし、その幸福な時間も永遠ではなかった。再びあなたの顔は暗くなっていた。私が訊ねると、今度は私に理由を教えてくれた。誰があなたの顔を暗くしているのかを。
私は迷いなく決断した。あなたに辛い思いをさせる人は、二度とあなたに会ってはいけない。あなたを悲しませるような人は、もうあなたに近づいてはいけない。あなたに嫌な思いをさせるなら、そんな人はこの世界に必要ない。
その人と親しくなった上で、私はその人も殺した。
私はあなたを不幸にする人たちを殺し続けた。あなたの暗い表情を私は見たくなかった。あなたは笑っているほうが好きだ。あなたが幸せに思っているときが私の幸せだ。あなたが喜んでくれるなら私は何でもしよう。
あなたの傍にいたい。あなたと一緒にいるだけでいい。他には何も望まない。あなただけが私の希望なのだから。私はあなたのためだけに生きている。だから何でも言ってください。あなたの望みを私はすぐに叶えてあげられる。
ああ、それなのに。
世界が暗くなる日が来た。
あなたは突然私に言った。
「もう、ここへ来ないでください」
私はショックだった。あなたからそんな言葉が出てくるなんて、考えたこともなかったからだ。
どうして。
私が何かあなたの気分を害するようなことをやってしまったのか。あなたに辛い思いをさせるようなことを言ってしまったのか。あなたが悲しむようなことをしてしまったのか。
けれどあなたは私に教えてはくれなかった。
「もう、会いたくないんです」
それしか言ってはくれなかった。
その日、私はすぐにあなたの家を出た。それはあなたの言葉を納得して出て行ったわけでは決してない。私には状況がうまく飲み込めなかった。
どうしてだ。どういうことだ。どうしてあなたは、もう私と会いたくないと言ったのだろうか。わけを知りたい。理由を知りたい。
私はフラフラと町の中を歩いた。町の中を歩いても、私が知っている人はいない。私を知っている人間もまた、誰一人としているわけがない。私が知っているのはあなただけ、あなたしか頼れる人がいないんだ。
私は急にあなたのことがわからなくなった。あなたの考えていることやあなたの思っていることが、突然黒雲に覆われて見えなくなってしまった。
もう一度会いたい。会って話をしたい。許されるなら、あなたと一緒にいさせて欲しい。
この不思議な町に放り出されて、淋しいと感じることはない。元々たった一人の身だ、もう孤独には慣れていた。
けれど、もしも私の願いが一つ叶うというのならば、あなたに会いたい。後はどうなってもかまわないから。
目的もなく歩いていた私だったが、私は一つの建物を目にして足を止めた。
その建物を前にして、私は目を見張った。見間違えるはずがない。ここはあなたが住んでいるところだ。この町のどんな建物に覚えがなくても、あなたとともに過ごした場所を忘れるわけがなかった。
……………………。
私の鼓動が早くなっていくのを感じる。胸を締め付けられるような痛みではなく、これはあなたともう一度会える喜びと期待の音だ。私は早足に建物の前に立った。以前と変わらない景色がそこにあった。
私は表の扉には向かわず、裏手のほうへと回った。普段からあなたに会いに行くときは玄関からではなく、裏口から入るようにしていた。それは初めてあなたが私を家に招いてくれたときに、あなたが裏から入るようにと言ったので、私は頑なにあなたの言いつけを守っていた。
裏路地は日の光が当たらず、普段からひんやりとしていて暗い。今も空には暗雲が広がっていて、路地裏はさらに明度が下がっているが、私の胸は喜びに満ちていた。
あなたに会える、その期待が今まで私にのしかかっていた不安を軽いものに変えていく。
私は扉の前に立った。この扉を開ければ、あなたのいる部屋まであと少しだ。
……………………。
私は取っ手に手を掛けてゆっくりと扉を空けた。
――ギイィィィィ……。
音を立てて扉が開く。どんなに重々しい音も、あなたに会えるのならば少しも不安には感じられない。私は建物の中を覗き込んだ。私の心臓は大きく高鳴った。
真っ暗だ。いつもあなたは私を向かい入れるために裏口のある部屋には明かりを点けてくれるのに、今私の目の前にある場所は夜のような漆黒に包まれている。
……………………。
私は建物の奥へと向かって声をかけようとしたが、それはしないでおいた。扉が開いているときは必ずあなたがいるから何も言わずに入ってくるようにと、あなたは言っていたので、私は黙って入ることにした。
――コツ、コツ、コツ、コツ、……。
石造りの床の上を歩くたびに、私の足音が乾いた音を返してくる。私は中に入るとすぐに裏口を閉めた。これもあなたに言われていたことだ。
――ギイィィィィ……。
扉の閉まる音が、今はとても不気味に思えてならない。
――バタン!
閉まると同時に、私の心臓も大きく脈打つ。
……………………。
部屋の中を異様な無音が押し寄せる。声を出したかったが、あなたの約束で口を開くことはできない。あなたが私に声をかけてくれるまで、私は一言も喋ることができない。
私の胸を妙な力が締め付ける。何も見えない闇と、誰も応えてはくれない静けさに、私は既視感を覚える。
――コツ。
私は歩き始めた。
――コツ。
静寂の中で、私の足音がよく響く。
――コツ。
まだあなたの声は聞こえないのか。
――コツ。
早く何かを言って欲しい。
――コツ。
私に声をかけて欲しい。
――コツ。
あなたに会いに来たんだ。
――コツ。
あなたの姿を見せて欲しい。
――ゴツ。
それは私の足音ではなかった。
私はすぐに振り向いた。私の首に衝撃が走る。私の目の前を赤いものが迸る。私は何度もそれを見たことがあったので、赤いものが何なのかはすぐにわかった。
私の前に黒い影が見える。視界が霞んで、影は闇の中に溶け込んで見えなくなる。私の首に深く食い込んでいるのは、包丁だろう。刺されたときの感触でわかる。私の手に長らく染み付いた感触だ。
そうか。
あなたにとって邪魔な存在は、皆殺さなければならない。
いらない人たちは、全員死ななければいけない。
最期にあなたに会えてよかった。ありがとう。




