第七十五話
第七十五話です。
全力で繰り出したパンチは邪龍の胸部に突き刺さった。
実は僕自身も自分の本気の一撃がどれだけの威力があるかは把握していない。だけど、手加減無しのパンチでゾンビの肩が吹っ飛ぶくらいの拳だ。普通の人間相手では絶対に使えないものであることは確かだろう。
だが―――、
「……っ硬いなぁ……ッ!」
拳から伝わる手応えは驚くほどに無かった。
まるで、固く厚いゴムを殴りつけた様な感触。ネアが魔術をかけた鎧とは違う、衝撃がそのまま受け止められ、どこかへ逃がされるように消えていく感覚。
拳が効かない―――、そんな言葉が頭の中をよぎった瞬間、懐にある手帳の一文が頭の中に思い浮かぶ。
【その攻撃は邪龍の強力な鱗の前には意味を成さなかった】
忘れていた訳じゃない。
だけど、数百年前の生き物が劣化していない訳がない、そんな楽観的な考えがあった。事実、劣化しているのだろう。だが、それでも僕の拳では貫けない程に、邪龍の体は硬かった。
「……ん?」
不覚にも動揺してしまった僕だが、ネアが回復する前に下がろうと思い拳を引き抜こうとすると、ドクンッと拳を伝わって鼓動の様なものが伝わって来た。
気のせいかと、と思いつつ、もう一度確かめようとすると、不意に僕を照らしている月明かりが”何か”に遮られた。
……未だにネアは苦悶の声を上げ、呻いている。
彼女が操っているはずのゾンビが勝手に動く訳がない。
何故か自分にそう言い聞かせるように、拳を握りながら月の光を遮っている何かがあるであろう上を見上げる。
「……っ」
目が、合ってしまった。
顔を横に向け、潰されていない方の目で上から覗き込むようにしている邪龍と、顔を上げた僕の視線が交錯した。
乾いて罅割れている眼球には確かな意思が感じられ、そして口の端から漏れる吐息には不快な程の死臭と腐臭があり、大きく裂けた口の端は歪な形に斬りきざまれ、まるで僕を嘲笑っているような錯覚に陥らせる。
「……」
やばい。
なんだかよく分からないけど、ヤバイ。
あの蛇以上にこいつは、僕の想像していたよりも危険な生き物―――、いいや生物と表現するのさえおこがましい。語彙力が無い僕ではこいつをどう言い表したらいいか分からない。
だけど、蛇に睨まれたカエルとはよく言ったものだと思う。
だって今の僕がまさにそうだ。この悍ましい目で見下ろされているだけで、金縛りにかけられたかのように体が動かない。
このままではマズい、完全に吞まれてしまっている。こいつに意思があるないに関わらず、ネアが起き上がれば目の前にいる僕は成す術無く邪龍に叩きつぶされてしまう。
「う、ぐ……フンッ!!」
突き刺したままの拳を引き抜き、額に拳をぶつける。
ガツンと一瞬だけ意識が飛んだが、強張っていた体も心も一先ず元には戻った。
「よしッ!!」
荒療治だったせいか、額から鮮血が流れ、眉間から顎にかけて真赤に染まってしまったが、治癒魔法で治せば問題ない。
血を手で拭い払い、微動だにせずに僕を見ている邪龍から距離を取る。
「さて、どうするか」
毒もやばいし、爪もやばいし、恐らく尻尾も痛そうだ。
肝心の拳も効果を成さないみたいだし、僕としてはこいつを倒すのは絶望的と言ってもいい。
―――、ならネアを倒すか。
彼女の言う通り、こいつが本当に”ゾンビとして彼女の支配下にいる場合”は本元を叩いてこの戦いを終わらせることができるだろう。
それにアルクさんの時とは違って、こいつは攻撃の威力こそ苛烈だが、速さはそれほどない。ネアを攻撃しようとしても妨害されることはないだろう。
そう考え、戦い方を邪龍とのタイマンから、ネアを丁度良い程度に懲らしめる、という方向にシフトさせようとしていると、僕を注視していた邪龍が不自然に首を大きく別の方へ向けた。
「ヴ、ハ、ァイ―――チ、ニ、ク……、ミンラ、ホオ、ボ、ヴ、ヴヴッヴヴ」
「はあい、ちにく……、みんら、ほろぼぶ? 何を言っているんだこいつは」
単なるゾンビ特有の呻き声か分からないけど、こいつは僕の後ろ斜め、洋館に通じる道がある方向を向いている。
……帰巣本能? それとも勇者との因縁の場所がある方を向いているのか?
ゾンビでもそういうのはあるのか?
でも手帳によると、やつが最後に死んだ場所はサマリアールだ。方角的にはそっちは真逆、あるのはテトラさんが住んでいる村だけだ。
「まあ、いい。こいつは無視していこう。どうせ何もできないだろうし」
その場から軽く走りだし、半壊状態の洋館へと走り出す。
一応、邪龍ゾンビの方を警戒しながら隣を横切る。
特に何も反応しないことから、本当にネアの命令通りに動いていると考えてもいいかもしれないな。心なしか安堵しながら、洋館の二階に一気に上がる為に、助走をつけ跳びあがる。
その瞬間―――、
「ギヒッ」
しわがれた笑い声が聞こえると同時に、邪龍の喉が大きく膨れ上がった。
「っ、しまった……ッ」
罠だったか!?
近くであの腐食させるヘドロを吐き出そうとしたのか、そう勘繰りその場から離れようとするが、どうしてか邪龍はこちらを向いてはいなかった。
僕なんて眼中にないかのように喉を大きく膨らませ、空気を吸っている。
邪龍の周囲で風が荒れ狂い、それに晒されながら僕は訳が分からずに、上った二階のへりにつかまりながらひたすらに困惑するしかなかった。
そんな僕に、離れたところに避難させておいたアマコの声が聞こえた。
彼女の声が聞こえた方を見れば、瘴気が一際薄いブルリンとアルクさんの居る場所で、必死に何かを伝えようとしている彼女の姿が見える。
「―――!! ―――!!」
「……っ、何だ、風が強くて……」
風切音で何を言っているか分からない。
僕も目に砂が入らないように腕で守りながら、彼女の口の動きを注視する。
む、ら……どく………お、ちる……村、毒、落ち……る?
……、嘘だろ!?
「この、させるかよッ!!」
彼女の言葉を理解した瞬間には、壁を蹴り邪龍の顔目掛けて突っ込んでいた。
荒れ狂う風に晒されながらも、左拳を握りしめた僕は、先程の拳とは違う明らかな敵意を籠めて、邪龍の潰れた目がある方の下あごを強く殴りつけた。
ドグワァ、という音と共に下あごが左にずれた邪龍の口からは、紫色の瘴気が漏れ出し僕を包み込む。
「う……」
毒に犯されながらも治癒魔法を行使し、地面に着地する。
しかしすぐに治る訳も無く、そのまましりもちをついてしまう。喉をやられたのか、咳と共に出る血を地面に吐き捨て、口を拭う
「っ、慣れているとはいえ、やっぱり毒は辛いな……」
毒に侵された体、傷ついた部分を治しながら愚痴をこぼした僕は、座ったまま殴り飛ばした邪龍を見る。
下あごを殴り飛ばされた邪龍は腕で口を押さえ、暴れまわりながら背後の洋館へ激突し地面へ倒れた。
倒せてはいない。ただ、顎を殴って頭を揺らしただけ、すぐに起き上がる。
「僕も、早く起き上がらなくちゃ……」
奴を野放しにするわけにはいかなくなった。
ここで、何があろうとも倒さなくてはならなくなった。
毒を治し立ち上がる。すると、ブルリンから離れたアマコが血相を変えてこちらへ走り寄って来た。
「伝わって良かった……!」
「ああ、ありがとう。君がいなければ危うく僕は見逃していた。……にしてもあの野郎ォ……」
僕がいるにも関わらず奴は―――テトラさんや村長さんのいる村を狙いやがった。
さっき僕の後ろ斜めを見ていたのも、暗闇の中明るい光が灯った村が奴には見えていたからだ。
どうして狙ったのかは分からない。だがネアの仕業じゃない事は確かだ。
彼女がなんの理由も無く利用している村の人々を殺そうなんて考えるはずがない。というより、彼女は自分の欲しいものに強い執着を見せる以外はただの残念な子だ。
「悪の道を往く邪龍、僕は奴を甘く見過ぎていたみたいだ。なあ、アマコ、さっき奴が何を言っていたのかようやく理解できたよ」
村を見ながらヤツが口にした言葉。
さっきの時点では分かっていなかったけど、この邪龍の性質の悪さを見て、完全にその意味を理解できた。
「破壊、血肉、皆、滅ぼす。つまり奴は破壊衝動の塊だ。今までは僕を遊び道具にできるだろうか観察していた。だけど、僕の後ろにもっと良い遊び道具を見つけたからそっちを狙った」
一向に攻撃に当たってくれない僕はどうやら奴のお眼鏡に適わなかったらしい。
「とんでもない奴をネアは生き返らせたようだ……幸か不幸か、彼女はまだ顔を押さえてもんどりうって状況を理解できていないようだけどね」
ホント、余計なことを仕出かしてくれたな。
この場合はネアとも言えるし、こんな厄介な奴を完全に葬り去らなかった先代勇者とも言える。とにかく僕がこいつから逃げるという選択肢は無くなった。
「僕の拳が完全に効かないって訳じゃない。見ろアマコ、奴の顎関節が外れて閉口できなくなっている。外殻こそ硬いけど、中の骨はそうでもない。僕でも砕けるレベルだ」
「……ウサト、逃げようよ」
「……は?」
拳を鳴らし、顎を抑え呻く邪龍へ行こうとする僕の団服の裾を引っ張り、止めるアマコ。
「逃げるってどういうことだよ。このまま奴を放っておけば大変なことになるかもしれないだろ。それに……僕達はあの野郎が吐き出したヘドロで出られない」
「奥の方の木がまだ腐りきっていないから、もしかしたら脱出できるかもしれないの。ウサト、私だって村の人達のことが心配だけど、全部が全部なんとかできる訳じゃないんだよ……」
「……」
「アレは普通じゃない。ウサトがいくら凄いからってどうにかできる相手じゃないよ……」
確かに邪龍の力は未知数だ。
相手をすること自体愚かしいことだと思う。だけど、あれを放っておくという考えは今の僕にはない。
見ただろアマコ、アイツ躊躇なく村に毒の塊を落とそうとしたんだぞ。僕でさえ一時は動けなくなるほどの毒だ、子供や女性が吸ってしまったらものの数分で命を落としてしまうだろう。
しかも、ヘドロにいたっては草木を腐らせるほど有害なものだ。
さっきは村に落とそうとしていたけど、アレがルクヴィスやリングル王国に落とされたらどうなる? 救命団があるリングル王国はともかく、子供の多いルクヴィスじゃどうにもできない。
「あんな毒を撒き散らすヤツが暴走して近くの国を襲ったらどうする。あの邪龍が僕の知っている存在と同じだったのならば、際限なく破壊をもたらすぞ。それこそ魔王軍なんて目じゃないほどに」
「……っ、でも、ウサトが死んじゃうよ……」
僕は死なない、という安易な言葉は口には出さなかった。というより、この状況で彼女を安心させるような言葉なんて見つからなかった。
その代わり、僕はせめてと思い、アマコの頭に手を一度置く。
―――特にこれといった意味はない。だけど、僕も少しだけあの邪龍への恐怖が和らいだ気がする。
「ここじゃ巻き込まれる」
表情を沈痛なものに変えた彼女はこくりと頷くとブルリンの居る方へ走っていった。
さてと、心も大分軽くなったし、やりますか。
「ん?」
邪龍の方へ向くと、不自然な状態で止まっている奴が見える。
僅かに体が震えている……何かに動きを阻害されているのか? 首を傾げていると、屋根の上に顔を真赤にして僕を睨むネアを見つけた。
彼女は鼻を抑えこちらに人差し指を突きつける。
「この、もう許さない!! 何度も何度も私ばっかり狙って、なんの恨みがあるの!?」
恨みしかないんだけどなぁ。
まあ、そう言いたい気持ちも分かるけど―――、と平静を取り戻したネアから邪龍に目を移せば、邪龍は身動きが取れないように見える。
なるほど、ネアが操れているってのは本当か。さっきのは僕が彼女を混乱させたことでゾンビとしての縛りが緩んだせいで、体の主導権が邪龍に移ってしまった感じか。
……なら、まだなんとか彼女を説得できればなんとかできるかもしれない。
「ネア、そいつは魂を持っている。君では扱いきれない化け物だ。君が命令できるうちにそいつを元の死体に戻したほうがいい」
かなり危うい状態だ。
彼女が動揺するだけで邪龍の意識が簡単に表に出るなら、下手にネアに攻撃する訳にもいかなくなってしまった。
もしかしたら、あれは最早彼女の操るゾンビから徐々に離れていっているかもしれない。
「そんな嘘に騙されると思う?」
「さっき、そいつは僕じゃなくて村に毒を打ち込もうとした。止めていなかったら今頃テトラさん達は毒に侵され死んでいたんだぞ」
「……そ、それが、本当だとしても私にはどうでもいい話よ。私は三百年の時を生きている魔物よ、なーんで人間の心配なんてしなくちゃならないの? というより、そんな言葉で私の動揺が誘えると思った?」
「はぁ……」
滅茶苦茶動揺してますけどね。
面倒臭い子だなぁ。とても遙か年上とは思えない。
「話は終わり? じゃあ、行きなさい」
「話にすらならなかったけどね……」
ネアの命令に従い、顎が外れたままこちらを睨みつける邪龍。
すると、奴は何を思ったのかその場で大きく息を吸いだし始めた。ブレスを吐こうにも顎が外れてできないはず、何をしようというのか?
迂闊に近づかないように身構えていると、邪龍が大きく首を掲げ上を向く。
「……っ、まさか!!」
ネアが下した命令は、僕への攻撃。
ならば最終的にこちらへの攻撃が通ればその過程で何がおきようとも問題は無い。
息を吸い込み、だらりと下顎を開いた奴が今から何をしようとしているのか、その意図を僕は理解できてしまった。
「ネア!! 今すぐそこから離れろ!!」
「え?」
全力の治癒魔法を纏うと同時に、その場を駆けだす。
瞬間、火山が噴火するように邪龍の口から紫色の瘴気が溢れだし、その周囲を包み込んだ。
敵だろうがなんだって構わない。
今、彼女に何かがあれば、あの邪龍を抑えている枷が外れてしまう。
彼女の所へ向かうべく、迷いなく瘴気の中へ突っ込む。
だが、瘴気に入ると同時に僕の体にとてつもない衝撃が叩きこまれた。
「―――が……っ!?」
見えたのは蛇のようにうごめく尻尾。
誘い込まれた……? 普通に捉えるのは無理だから、視界を狭めて僕を……ッ。
瘴気で視界が悪く、毒で侵されている中での痛烈な一撃に成す術無く吹っ飛ぶ。
さらに、続けざまに鞭のようにしなった尻尾が地面を転がる僕に再び叩きつけられる。
「痛……ッ、ってぇ!!」
クソ、なんとか防御は間に合ったものの毒と怪我でうまく集中できない……ッ!
ネアからの呪縛から逃れると同時に、僕への攻撃を合わせるなんて、こいつやっぱり普通じゃないぞ。早く奴の攻撃範囲から逃れなくちゃっ。
治癒魔法を掛け続けながら起き上がろうとするが、僕を見下ろせる位置にまで近づいて来た邪龍がその大きな腕で僕の体を押さえつける。
「く……」
「クッ、カカカ……カカカ」
顎が外れているせいかうまく声が出せない邪龍だが、なんとなくバカにされているのは分かる。
だが、うまく声が出せない事が気に入らなかったらしく、僕を押さえつけている方とは逆の腕で外れた顎を押さえつけると、ゴキュリという音と共に、顎が元の位置に嵌め込まれる。
「ゴロズ」
「……何だよ、喋れる頭があったのかよ、お前」
掠れるようなしわがれた声が邪龍の口から発せられる。
その声を不快に思いながらも皮肉を返すと、口の端を歪に歪めた邪龍がようやく捉えた僕の顔に顔を近づけて来る。
「―――ユウシャ、ハ、ゴロズ。ソノ血ノ、一滴モ、残ラズ」
は? 勇者? 先代勇者のこと、だよな?
何で僕に向かってそんなことを……? まさか、こいつ僕を勇者だと思ってる?
「……ちょ、違う……僕、勇者違う」
「オマエ、勇者、ジンガイ」
まさかの勘違いかよぉぉぉぉ!!
僕勇者じゃなくて巻き込まれただけの一般人なんですけどぉぉぉぉ!?
てかジンガイって人外!? その判断基準で勇者認定とか、救命団はみんな勇者だよぉぉぉぉ!?
邪龍が話せた事よりも理不尽過ぎる勘違いにショックを隠せない。
「ダカラ、ゴロス」
だけど、この状況はかなりマズすぎる。
さっきから僕を押し潰そうとしている前足を押さえつけながら、この状況をどう打開するか必死に考える。
だが、その前に僕を鷲掴みにし、持ち上げた邪龍が大きく腕を振り上げる体勢に移った事で悠長にしていられないことを悟った僕は、これから来るであろう衝撃に備える。
「あ、やばい死ぬかも―――」
次の瞬間、団長に殴られた時と同等以上の衝撃が全身に襲い掛かった。
床ドン(物理)からの壁ドン(物理)




