メシの不味い定食屋
鈍足更新予定。
気長にやります。
「雨上がりの森林の匂いって、もわっとするよねー」
フライパンから手を離し、ふっと一息つきながら何気なく呟いた言葉は、我が最愛の父の深く刻まれた眉間のしわをよりしわくちゃにしただけだった。
悪意はないんだけど。
「クリス、おまえってやつは」
「その先は聞きたくない、わかってるから」
「いや、いわせてもらう。そうじゃないと俺の溜飲が下がらない」
「…ならどうぞ、お好きに」
肩をすくめて、わなわなと震える父から視線を逸らした。
四捨五入すれば30にもなる独身女が、これからいわれるであろう言葉は、わが身でありながら居たたまれない。
「本当に俺の娘か」
「そのはずですけど」
「ならばそのフライパンの中身は、少なくとも黄色くてしかるべきだ」
「黒ずみですね」
首を捻ってみせると、父は深く溜息をついた。
「おまえ、王都に帰れ。ここにおまえのすべきことはない」
「そんなひどい」
父の足元をちらりとみる。
昔の頼もしかった筋肉隆々の足は、この数日動かしていないだけでまるで棒のように細くなり真っ白な包帯に包まれている。
まともに動けるまで、しばらくかかる。
動けるようになったって、また同じようなことがおこらない保証もない。
この町から届けられた手紙を見てから数日間の生きた心地がしなかった気分が忘れられなくて、どんな悪たれをつけられても今は気持ちは動かない。
「もう王都いったって仕事なんかないよ、辞めちゃったんだから」
ないこともないかもしれないが、あえて言わずフライパンを水にひたすと父は不機嫌そうに唸る。
「別に帰ってくることなんかなかったんだ。おまえの兄貴みたいに、おまえも」
「兄さんにも連絡よこしたんだよねぇ?」
「近所の連中がな」
余計なことを、と忌々しそうに顔を歪める父は、今でもこの家を出るときに兄が告げた『こんな田舎で朽ち果てるくらいなら死んだほうがましだ』といった言葉が許せないのだろう。
自分が弱ったとなど、知られたくなかったらしい。
父が足を怪我したことを、心配して私や父に連絡してくれたのは私が小さい頃からよくしてくれた近所のおじさんだった。
そのことで随分と近所のおじさんを詰ったと聞いた。
近所のおじさんは父の親友で、父の気持ちを知っていたから、寛容に許してくれたけれど、我が父ながらとんだ偏屈親父だ。友達なくさなくってよかったね。
「今頃なにしてんだろ?研究者になったって聞いたけど」
「おまえ王都で会わなかったのか」
「片や王都の研究員、片やお貴族様の家庭教師、ふつーに暮らしてて接点なんかないよ。生活圏内かぶんないかぎり」
頬杖をついて告げると、そんなもんか、と父は首を捻る。そりゃあ、この町じゃどこの誰が今何をしてるかなんてちょっとそこらをつつけば出てくるから、そう思うだろうけども。ここと王都じゃ、土地も、人も段違いなんだからさぁ。
なんていった日には、父から皮肉のひとつやふたつが飛び出ることが察せられるので、口を噤む。
「しかし、ここは変わんないよね」
「そうでもないぞ」
何気なく話題を変えただけなのに、父の口から出た意外な言葉に視線を向けると、ドアについたベルが店の中に鳴り響き、来客を告げる。
「いらっしゃい」
「…いらっしゃいませー」
反射的に父とともにお出迎えの口上をあげると、ドアにはどこか知ってる面影のオッサンが野菜を抱えて立っていた。
「おう、ご苦労さん」
「あ、いつもありがとーございます」
父に愛想笑いをしながら野菜をカウンターに乗せるその男は、私を見るなり戸惑いがちに私の名を口にした。
「クリス?」
「もしかしなくても、シグ」
久しぶり、と苦笑いするとやや驚いたようにシグは笑った。
「帰ってるって聞いたけど、本当だったんだ」
「うん」
「元気だったか?」
「うん」
「あのな、おじさんから聞いたかもしれないけど」
「うん?」
「エド、結婚するから」
え、今の流れおかしくない?と思って瞬きひとつして視線を彷徨わせると、焦点をあわせて、改めてシグを見る。
「あ、そうなんだ」
「だから、折角帰ってきたんだし、結婚式出席しないか?」
「はぁ?」
「明日なんだけど」
父を見ると、父は「ああ、そういやそうだったなぁ」とのんびりと構えて、新聞を開いた。この足だし、出席はそもそもする気はなさそうだ。
「実は、ウチからは弟と妹も招待されていたんだけどな、弟が急な用事で隣の町にでてったんだ。席がひとつ余っちゃうから、これからエドの家に断りにいかなきゃならなくて、でも急だろ?心苦しくて」
そう、だろうか?別に、そんな豪華な結婚式ならともかく、町の小さな結婚式くらいなら一人くらい。
と昔の記憶を堀り出してみたが、過疎化の進んだ町の結婚式なぞとんと覚えがなくて、そういうものだったか全く想像がつかない。
しかし、この狭い世間の中で町のルールを破ることがどれだけリスキーかだけは覚えているので、シグの困り顔をみて、すぐに答えは出た。
「いいよ、でも服がないから」
「妹の服を借りればいい」
もうちょっと時間を頂戴、という前に間髪いれずにいわれて、もうノーとはいえなくなった。
「…わかった。ええっと、妹って、シア、だったね」
思い出の中の妹は、まだシグと手をつないで歩いていた幼い少女だったが、町を出て8年、確かシアだって今年で17になるはず。若々しいデザインだったら少し気恥ずかしいが、服のサイズが全く会わないことはないはずだ。
「エドにはそういっとくから」
外堀は完全に埋められて、どことなく断りづらい雰囲気になったので、観念した。
「じゃあお言葉に甘えて。あー、そっちは元気?弟、二人いたよね、今も皆いるの?」
気後れしていたので、話題を変えるとシグは少しだけ言葉に詰まったが苦笑した。
「上のほうの弟はいないんだけど、他は皆いるよ。ああ、でも親父は去年の夏に亡くなったんだけど」
「あ、そうだってね。昨日父さんから聞いた、ごめん、お葬式いけなくて」
「いやいや、電報飛ばしたってすぐにはこれないし、そもそも知らせてないし。いいんだよ、親父は家族みんなで看取れただけで、満足だからさ」
「そっか」
しんみりした気分で特別気に病んでもなさそうな幼馴染を眺めていると、頭上の階段が軋んだ。
「なんだ。聞いたことある声だと思ったら、シグ」
「ご子息?」
裏返ったような声で、シグが見上げると、二部屋しかない宿泊用の部屋の一部屋をここの一週間ほど借り切っている客は鷹揚と頷いて降りてくる。
「帰ってらしたんですか?南のほうに旅に出ていたってご令嬢から伺いましたが」
「うっ…姉上か。そうか、姉上がそうおっしゃっていたか」
「違うのですか」
「姉上がそうおっしゃっているのならば、そうだ。南のほうで少しバカンスをな」
ぎこちなく視線が泳いだ客は、最後には自信満々に頷く。
なんてわかりやすい嘘。
父のほうに身を寄せて小声で囁く。
「誰?」
「さぁ?」
父も知らないらしく、首を傾げるのでなんとなく眺める。
育ちのよさそうな仕立てのいい服と、無駄に整った顔、柔らかくウェーブのかかった金髪。
いずれのご子息かは知らないが、身分は無駄に高そうな雰囲気。
「何故ここに?ご令嬢はご存知なのですか」
「…それよりもシグ、結婚式があるそうじゃないか!!めでたいな、僕も出席するぞ」
無茶な話題の切り替えに、シグは顔色一つ変えずに告げる。
「急にそんなことをいわれても困ります」
「まぁ任せておけ、おまえに労をかけることはない、話は僕が付けに行く」
「ならばご自由に」
簡単にはねつけたかと思えば、野放しにする。シグの態度がいつものおっとりと優しい彼とはかけ離れていたので、少しだけ驚いて傍観していると、どうも話をうまく逸らしたつもりらしい育ちの良さそうな男は機嫌良さそうにこちらへ大きく手を振り上げた。
「兎にも角にも、飯だ!腹が減っては戦は出来ぬ」
「はいよろこんでー」
腕をまくる私の横で、父は心底疲れきった表情を見せながら新聞に没頭し、シグはいつの間にやら店の外へ出て行った。
かれこれ30分後、客のうめき声と、嘔吐と、トイレの占領で店の営業が妨げられたので、お客からは別料金を頂くことになったが、それはまた別の話。