二つのハンバーグ
次の日、臨時閉店したことは、平忠文を大いに怒らせた。
「馬鹿野朗、俺がどんどん仕入れを強化しているのに、沢山の客を帰したらしいな!誰が好意で住まわせてやって、仕事まで与えてやってると思ってるんだ」
二人は、平忠文が仕入れを済ませて帰ってきて叫ぶのを見て、ただ、じっと厨房の椅子に座っていた。
「わたし、パス、丸ちゃん、任せる…」そう言って、美代は、一人、椅子の上で足を抱えた。
「おい、聴いてるのか!」美代の態度は平を至極怒らせた。掴みかかろうとする平に丸山が落ち着いて声をかけた。
「まぁまぁ、」丸山が平をなだめた。
「稼ぎ時だったんだ!いったい、どうしてくれるんだ」平はあくまで譲らなかった。
丸山は、そのでかい図体で平と美代の間に立った。
「あのぉー、平さん!俺達、ここで働くときに約束をしたはずだよな。俺達は、別に住処も仕事も要らないんだ。もともと、そんなことを目的に来たんじゃない。それなのに、俺達は、朝から晩までハンバーグを作っている。『盾涌食堂』に『粕谷浩太』本人がいることも判っているのに!だから、俺達、もうハンバーグ作るのを辞めようかと思う…」
平忠文は、二人がそういう態度にでるとは思ってもいなかったようで―。拾ってやったという恩着せがましい思いが強かったのに、二人は、そんなことがどうでもいいように言い出す。平忠文は慌てだした。
「…ちょっと、おい、待ってくれ、辞められると困る。ここまで繁盛して、放り出すっていうのかい、勘弁してくれ、仕入れも決めてきた。頼む、これで辞めるなんて殺生だ」平忠文が先ほどの強気の態度から、一変して丸山にしがみ付いた。
「平さん、俺達がここに来てる意味話したよね。まさか、忘れたとは言わさないけど…」
「…」平は、二人の話しをマトモには訊いていなかった。「…あぁ、…粕谷浩太を探しているといってたな」その程度でしか考えてなかった。
「そうだよ。チラシを見せて、あんたに頼んだよな。会えるようにしてくれって…」
「あ、あぁ…」平の生返事に丸山が―様子がおかしい―と勘ぐった。
「平さん、昨日、そのシェフが、うちの店にやって来たよ。その『粕谷浩太』本人が…。平さん、あんた、本当は、盾涌食堂に声懸けてくれてないんじゃないかい…」
「いや、そんなことはない…」
「俺達、もう一度、直接行くぜ」
美代は二人のやり取りを聞きながら、ずっと、浩太と知らない女性の姿が頭にこびりついていた。そして、日高馨が消える間際に言った言葉を思い出していた。
―浩太が戻りたくないから、戻れない―そうだったら、どうするの?
―浩太は、私を必要としていない―。
―日高馨は、私を必要としている―。
―私だけの問題じゃない、丸山さんもこのまま、ここに居るわけにはいかない。
―私も丸山さんも帰らないといけない。
―浩太がここに居たいなら、仕方ないじゃない。そのままにしておくしかないし。
―私は、陽輔くんも助けないといけない。
―そのためには、最終的には、日高馨と交渉するしかないのかもしれない。
―浩太のことは諦める。
丸山は平への追及を続けた。「盾涌食堂なんて、歩いて行っても知れてる。あんた本気で俺達のこと、心配なんてしていないだろう。俺達をただの料理を作るロボットぐらいにしか見てないんだろう。俺達は本来の目的を果すことにするよ。それに、いいことを思い付いた」
「え、いいこと?」平は首を傾げた。
「十分、俺達のハンバーグは有名になったみたいだから、このまま、二人で、盾涌食堂に雇ってもらおうと思うよ。そのほうが、俺達の目的も達せられるんだけど…」
平は、丸山の顔をじっと見ていたが、しばらくして、床に手を付いた。
「すまなかった。実は、盾涌さんには、まだ言っていない」
「はぁ」丸山は呆れた。
「あそこに、粕谷浩太がいることは…前から知っていた。でも、それを言うと二人は居なくなるだろう。それでは困ると思ったんだ。もう、『洋食屋たいら』は君達のハンバーグがないとやっていけないんだ。頼む。出て行かないでくれ」
「約束が違うよー平さん」
「…すまない。すまない。…そうか、やっぱり駄目か…。出て行くのか…」
「平さん、初めからそれが約束だったじゃないか!だから、俺達、手抜きせずにあの時のハンバーグをそのまま出してきたんだよ。粕谷浩太に会いに来たのが俺達の目的なんだから…それを奪うんだったら、もうここには居れないよ…」
平は手をついたまま、うな垂れた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「悪かった…。実は、粕谷浩太は、半年以上前にこちらにやって来たんだ。君達と同じように突然だった。君達と違うのは、彼が以前の記憶を失っているということだ…」
「きおく…記憶喪失なのか…」丸山が問いかけた。
「そう、自分が誰なのか、何処から来たのかを、何も覚えていない。盾涌食堂のチラシに顔写真を載せたのも、それが理由だ。誰か知っている人間が名乗りでないのかどうか…」
美代がそれを聞いて、ゆっくりと床に伏せる平に近づいた。
「記憶喪失って、何も覚えてないってことなの…」と訊いた。
「そうだ。半年前にやってきてから、未だに記憶は戻っていない…盾涌のいうには、『粕谷浩太』は恐ろしいほどの料理の腕前らしい、あの『小松良明』が太刀打ちできないというのだから、そんな、凄い人間を盾涌が手に入れたんだ。俺だって、俺だって、そんな中、君達が来たんだ。俺だって、店を繁盛させたかったんだ。盾涌ばっかり良い思いしてさ、そんなのずるいじゃないか!」
途中から、愚痴になっていた。平は鼻水を流しながら、大の大人が泣いていた。
美代は、少し落ち着いていた。―記憶がなくなっているんだ―。
「平さん、お願いします。私達は、彼に会うために来たのです。なんとか、盾涌食堂に声をかけて、もらえませんか…話しをさせてください…」美代は静かに言った。
「分かった。盾涌に話ししてみる」
丸山は美代を見た。「きちんと話をするんだ。大丈夫、記憶が戻れば絶対に大丈夫だ…」
「…うん、でも…」
「浩太を取り戻すんだよ」
「…うん」美代は自信無げに頷いた。
間が悪いタイミングとは有ったものだ。折角、平忠文が電話しようとしているのに、当の盾涌正は電話を受けるどころでは無くなっていた。
盾涌食堂をオープンして、大繁盛だったところへ大問題が持ち上がったのである。
『小松良明』が、退職願いを持ってやって来たのだ。盾涌と小松はテーブルに向かい合っていた。
「良明くん、なんとか、考え直してもらいたい…」盾涌正は、それまでの良明への対応と、粕谷浩太がやってきてからの対応を思い出していた。良明の才能を決して軽んじたわけではない。ただ、粕谷浩太が凄すぎるだけだ―。盾涌は、このような事態になるまで、良明のことを気付いてやれなかったことを後悔した。
「ここには、二人の料理人は要りませんよ。社長…」
「いや、それは困る。もともと、この食堂は君のために作ったようなものじゃないか、頼むから考え直してくれ…」盾涌は頭を下げた。
「社長、勘弁してください。社長がそう言ってくださるのは有り難いです。でも、それは、粕谷浩太が来るまでのこと、社長は、私よりもあの男を買ってらっしゃるでしょう。当たり前です。あいつの方が優れているのだから…」
「このとおりだ。考え直せないか!」盾涌は以前として、頭を下げていた。
「もう、決めました。私は、彼のように苦労をしてないんだと思うんです。私が彼に劣るのは料理に対する情熱です」
「いや、君の情熱は分かってるぞ」
良明は無言になった。その時、店の扉を開けて、美和子が入ってきた。すぐに只ならぬ雰囲気に気付いて、出て行こうとした。
「美和子、丁度よかった。美和子もここへ来て良明くんが辞めるというのを止めてくれ」
美和子は父の言葉に声を失った。「辞めるのですか…」
「美和子さんは、私でなく、もう一人を選んだんですよ。お父さん…」
「ど、どういうことだ。美和子、なんとかいいなさい」
「食堂は二人でもできる。しかし、美和子さんの相手は一人きりですよ…。僕の情熱が消えた理由です。ただし、それでは、『小松良明』ではなくなってしまうんですよ。だから、それを探しにいくんです」
「良明くん、辞めないでくれ!」
「社長、今まで、お世話になりました…」小松良明は、テーブルを立つと、深々と礼をして、しばらく、頭を下げたまま微動だにしなかった。その時間が、盾涌への感謝を物語っていた。良明は、そして、振り返りもせずに食堂を出て行った。
小松良明は、盾涌食堂を辞めた。
そんな時に、平は電話をしてきた。鳴り止まない電話のベルに美和子は受話器に手を伸ばした。
「お父さん、平さんから電話ですよ」
「後にしてくれ、今、誰とも話ししたくない…」盾涌正は、一人息子を亡くしたかのように、がっくりと肩を落としていた。
「そうですか、大事な話しがあるって言うんですけど…」
「こっちは、一大事が起きたところだ、落ち着くまで待ってくれ…『小松良明』が辞めたんだ!」
その声は電話先でも聴こえていた。
平は、受話器を持つ自分をじっと見つめる、二人に向かって声を掛けた。「あちらさん、取り込んでいるらしくてさ…ちょっと、今は無理そうだ…」平の声が震えていた。
丸山と美代はじっと平を見つめる。
「それってどういうことだよ」平の目の前で丸山が問いかけた。
「…『小松良明』が…盾涌食堂を辞めたらしい…」
美代が、持っていたタナーを落とした。「小松良明が、盾涌食堂を辞めた…」美代が知っている過去に繋がって来た。
「山本、おまえ、知ってるのか、この後どうなるか?」丸山は訊いた。
美代はゆっくり頷いた。そして、思いだした。
そうだった。―お爺ちゃんは、盾涌食堂を辞めて―、―『洋食屋たいら』へハンバーグの修行へくる―。
ゴクリと唾を飲み込んだ。お爺ちゃんがやってくる。ハンバーグの修行のやって来る。
―と、いうことは、『究極のハンバーグ』は、私がお爺ちゃんに教えるということになる―。
もしかして、この話―過去からずれてない―。
浩太が、謎のライバル―。小松良明が一度も勝ったことがない―。
小松良明が、『洋食屋たいら』でハンバーグの修行―。
ここは、私の知っている過去だ。何も変わろうとしていない―。
その日の夜。早速に、小松良明が『洋食屋たいら』の前に現れた。
客じゃないのは直にわかった。
「たのもー」
いきなり、―たのもぉ―はないだろう、美代はお爺ちゃんらしい―と店のテーブルに座って少し笑った。三人は、小松良明が来るのを待っていたのだった。
平忠文は、美代たちから話しを訊いていたが、あの『小松良明』がやってくるという話しをにわかに信じることができなかった。以前もそうだったが、二人が話す未来の出来事を疑っていた。
平忠文は、目の前に『小松良明』を迎えて、目を丸くして「本物…」と驚いた。
小松良明は、美代の印象とは違って、激しい気性の男らしい性格だった。しかし、仕草や口癖はお爺ちゃんそのものだった。テーブルには丸山と美代が座っている。小松良明は店に入るやいなや、丸山の前にやって来ていきなり、土下座した。そして、すぐに、
「俺に、その肉団子…いや、ハンバーグを教えてくれ…、俺は越えないといけない奴がいるんだ。このままじゃ、負けっぱなしなんだ」美代は、こんな緊張しているおじいちゃんを見るのは初めてだった。丸山は、困った顔をして、美代を見つめた。美代が少しニヤケタ顔をしてたので、丸山は小松良明の肩を叩いた。
「あのさ、ハンバーグなら俺じゃない。俺はイタリアンシェフなんだ」
良明はびっくりした顔をして丸山を見上げた。「また、イタリア料理か…やっぱり、イタリア料理とはそんなに凄いのか…」
「またって、それ、浩太のことだろう」丸山がぼそりと答えた。
「…浩太…、あんたは、あいつのことを知っているのかい…」
「あぁ、知ってるよ。俺達は、浩太を探してやって来たんだ。あいつは…まぁ、俺の知り合いみたいなもんだ。そして、こっちがその彼女だ。まあ、付き合ってる女性だ。それに、ハンバーグは、こっちの担当だ。俺はその補佐にすぎない」
良明がその奥に座っている女性に視線を移して驚いた。
「ま、まさか…」それ以上は声が詰まった。「…美和子…」それほど、似ていた。
「あんた、知り合いじゃないでしょう。知っているでしょう。それに私は、付き合ってはないわ。友達よ…。はじめまして、『小松良明さん』山本美代です」美代は、若いお爺ちゃんに堂々と、言葉を交わした。自分でも口調が滑らかで驚いている。
「美代さん、美代さんですか…名前も似てる…」
「誰に似てるんですか…」
「いや、こっちの話しです。まさか、ハンバーグを作っているのは…この女性…いや、美代さんですか…。それに、二人は浩太の知り合いだなんて…浩太は、それを知ってるんですか、すぐ教えてやらないと!浩太の記憶が戻るかもしれない!あいつ、喜ぶぞ。あいつ、記憶がなくて、いつも、いつも寂しそうにしてるんだ。あいつの知り合いか、そりゃ良かった…」小松良明は、心底喜んでいるようだった。美代は浩太のことを自分のことのように、喜ぶお爺ちゃんを嬉しく見つめた。
丸山が小松良明に声をかけた。
「あんたが、盾涌食堂を辞めるとかいうから、俺達、浩太に名乗り出るタイミングを逃したんだよ。『小松良明』さん、俺達二人を粕谷浩太に会いに行かせてくれ頼むよ…」
小松は顔を見上げて更に驚いた。「なんで、俺の名前を知っているだい…」
「それはな…こっちの山本は、実は…」
「丸ちゃん!」美代は止めようとしたが、「山本、ちゃんと言ったほうがいい。そうした方が、全て上手くいくよ。黙ってるからおかしくなるんだ」
「でも…信じてもらえないわ…」
「小松さん、あんた、びっくりせずに聞いてくれよ…」
「何をだ…」小松は訳がわからない顔をしていた。
次の日から、盾涌食堂では、粕谷浩太と盾涌美和子が店を切り盛りし始めた。浩太は、あまり人とは話さなかった。唯一口を開くのが、良明と美和子だった。しかし、良明が辞めてから、浩太は、そのショックで誰とも話さなくなった。美和子にもよそよそしさだけが感じられた。自分が他の人を不幸にする。浩太は、盾涌正のために食堂を一人で切り盛りする決心をしていた。
盾涌正と平忠文が現れたのは、夕食の仕込み前だった。浩太は、いきなりの訪問に驚いた。あの美和子に似た女性が一緒にいたのだ。自分が何者かが分かる―、そんな期待と不安が入り混じったものを感じた。美和子は、その様子を近くで見て、とうとう、来るべきものが来たと感じた。
二人の後について現れたのは美代と丸山だった。
試作料理を試している浩太に、盾涌正が、寂しそうな顔で声をかけた。
「浩太くん、話がある…。俺にとっては非常に残念な話しだが、君にとっては良い知らせだ」浩太は手を止めずに仕込みを続けた。丸山が側にやって来た。
「何もかも忘れたか?」丸山は、厨房に入ると浩太に声を掛けた。狭い、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』と同じ大きさの厨房を縦横無尽に動いている浩太を見て、丸山は頭を掻いた。
「浩太…」丸山の後ろからゆっくりと美代が姿を現した。
「…、君は…」浩太は動揺して、仕込み途中の料理と試作の料理の前に動けなくなった。―何かが思い出せるかもしれない―と浩太は思った。あの時の彼女だ。確か、あの時、名前を思い出したはず―。「俺は、君達を知っている…何か、思い出せそうな気がする。君の名前は?」浩太は、声を掛けた。
「私は…山本美代よ。貴方に自己紹介するのは、これが二回目…本当に忘れてしまってるのね」他の誰よりも悲しそうな眼をしている。浩太はその眼に吸い込まれるように美代に近づいた。浩太はじっと、その顔を見つめて、何かを思い出そうとしたが、苦笑いをするしかなかった。
「悲しいね…」浩太は、その美代の言葉に心が詰まりそうになった。
「俺は誰なんだ…」浩太の質問に美代は応えようとして、浩太の手元を見て、あきかけた口を閉じた。
浩太の手元には、手語ねされたハンバーグパティが山のように転がっていたのだ。
「浩太…ハンバーグを作っていたの…?」
「あ、あぁ、この前、君達の食堂、いや、レストラン『洋食屋たいら』で食べた、あのハンバーグが忘れられないんだ。そうしたら、何か頭の中に、ハンバーグのことをいろいろと思い出してきたんだ…俺は、ハンバーグのことが凄く大事で、大好きだと思っている。この盾涌食堂でそれを出してみたいと思った。そして、自分で作ろうとしてみてる…」
美代は、それを見て涙を浮かべた。「何も浩太が作らなくても…」
「え、…」浩太は美代の涙を見て、動揺した。「いや、何でもできると思ってた俺なんだけど、おかしいんだ。他の料理は結構、記憶してる。自分でも作れるんだけど…ハンバーグだけが器用にできない…」
涙を浮かべながら美代は答えた。「そりゃ、そうだよ。ハンバーグは私が作ってたんだから…、浩太は焼いてただけ…、パティはすべて私が作ってたんだから…」美代は作りかけのパティを見て、一つ手で捏ねた。
「えっ…」浩太は、呆然とした。私服の彼女に、色が付き始める。黒い服にオレンジの腰下前掛けのエプロンをつけて、黄色いスカーフを付けた彼女が二重に写った。どこかで見た風景が重なる。俺は彼女とここで料理をしていた。―いや違う、似ているが、ここではない―別の場所。
美代は、浩太の手をとった。浩太はどきりとした。
「来週の日曜十七時に…『洋食屋たいら』に来て頂戴。浩太に私のハンバーグを食べてもらいたいの…」
「君のハンバーグを…」
「そうよ」
その姿を見て、美和子は耐えられなくなって、外へ飛び出して行った。
しかし、浩太は美代の視線をはずせなくなっていた。魔法にかけられたように、その場から動けなくなっていた。
丸山は、盾涌正と平忠文の二人に声をかけた。「あんた達が証人だよ。必ず、粕谷浩太を連れてくるんだ」
「わかった…」盾涌正はしぶしぶ頷いた。
「社長、でもそれじゃ、店が…」浩太は、我を取り戻して盾涌に訊いた。
「いいじゃないか、君が本来戻るべきところに戻るべき時が来たんだ。嬉しいことだと思うよ…」やせ我慢なのは間違いなかった。盾涌正は、いつかこうなることが分かっていた。でも、このタイミングで来るのは最悪だった―、でもそれもすべて受け入れようとしていた。
「でも、それじゃ…この店はどうするんですか…この店は…」
「それは、君の考えることじゃない…、浩太くん、君はいつも自分が借り物だというが、本当の借り物はこの店、本当に借りていたのは私なんだ。君は本来の場所に戻るべきだし、そのチャンスを逃してはならない」
盾涌食堂の外には、美和子が走り出した先に『小松良明』がいた。
「美和子さん!」
美和子は、良明を目の前にして、再び走り出そうとした。良明は、その腕を握って引きとめた。
「!」
「ごめん、美和子さん、お願いがあるんです」
「お願い?」美和子は突然の良明の言葉に戸惑った。
「何をしても浩太には叶わない。俺は、今まで井の中の蛙だった。でも、悩むのは辞めた。俺は俺の道を突き進むことにした。誰にも負けない料理人になる。当然、浩太にも負けない。そのために、自分の全てをかけて、美和子さんのために洋食を作る。来週の日曜十七時に…『洋食屋たいら』に来てもらいたい。美和子さんに俺の料理を食べてもらいたい」
「良明の料理…」美和子は、真剣な良明の目を見つめた。
盾涌食堂がオープンする夕方の時間になって皆は帰った。ホールを手伝う人々がやってきて、浩太は、いつもどおりにオープンした。
『洋食屋たいら』では、次の日から、小松良明は、山本美代を『先生』と呼んだ。
「先生、この『ぱてぃ』の後ろをへこませるのはどうしてなんですか?」
「それはね、空気を抜くためなの、実際焼きはこちらの面から焼くわけだからへこんでても見えないのよ」美代はできるだけ、丁寧に教えることにした。だって、お爺ちゃんにきちんと教えておかないと、お爺ちゃんの『究極のハンバーグ』が美味しくなくなるのだ。責任重大である。中途半端はできない。
「なるほど、へこますというのは、お客を騙すのですか?その分が儲けですか?洋食は、儲けまで考えるのか、恐れ入った!」へんな勘違いも直しておかないといけない。
「違うわよ!空気を抜かないと爆発することがあるのよ」
「爆発ですか?」
「ひび割れしたり、バラバラになるの」
「なるほど、見た目は肝心ですからね。ひび割れやバラバラか、あの美しい形を維持するのは難しいんだな」
小松良明は熱心だった。「焼けが甘いなぁ。先生、なんで、先生は一回しか、裏返さないんですか?なんで、一回でそんなに綺麗に焼きも蒸しも入るんですか?」
「パティを鉄板に載せたらそれで終わりよ。その後、パティに触るのは少ないほうがいい、だから一回にしてるの。裏返しは一度だけ、それ以上すると、肉汁を閉じ込めているこのカリカリの外側が破ける可能性がある」美代はターナーを上手に使って裏返して魅せた。
「なるほど、このカリカリで肉汁を閉じ込めることが味噌なんですね」
「そう。私のハンバーグは、カリカリ感とジューシー感を同時に手に入れないといけないの。分かった?」美代はちょっと偉そうかなと思いながらも必死だ。
「なるほど、素晴らしい、全てが理由に伴っている。奥が深い…『究極のハンバーグ』は…」
美代は、良明のハンバーグを真剣に学んでいる姿におかしくて大きな声を出して笑った。良明は、たまに笑う美代に、きょとんとした顔のままだった。
良明は真剣に料理に向き合っていた。彼の辞書にない、洋食に向き合っている。自分の自信を根底から揺らがせた『粕谷浩太』という存在。彼の手帳を見たときから、浩太を越えるには、自分の『殻』を破る必要があると感じていた。盾涌食堂を辞めたのは、情熱を失ったからだけではなかった。『粕谷浩太』の料理しか学べない自分ではなく、『粕谷浩太』を越えるための『小松良明』の行動、それが盾涌食堂を辞めることにつながったのだ。
『小松良明』は、空いた時間、丸山にイタリア料理を教わった。盾涌食堂に居る時は、浩太の指示どおりに作ることがやっとだった。更に、浩太に訊くのは、ライバル心からか自分では許されなかった。しかし、『殻』を破ると決意した『小松良明』にとって、丸山という別のイタリアンシェフから学ぶことは多かった。もともと、浩太の料理で磨かれた完成に、超味覚を持つ丸山と良明は、相性がよかった。小松良明は、どんどんと変貌していった。二人は、小松良明の飲み込みの速さに驚いた。
日中、美代、丸山、丸山、美代、―永遠に二人の空いた時間を寝る間も惜しんで没頭した。
美代が焼きを教えていたとき、バン、と大きな音がして、ハンバーグがはじけた。
「えぇ、なんで、良明さん…ちゃんと空気抜いた」美代が訊いた。
良明はバラバラになったハンバーグを見て、観察をしている。
「良明さん…?」
「先生、本当です。空気を抜かないと爆発しましたよ。本当に爆発するんですね」
「もう…」美代は、自分の目でそれを確かめる小松良明に関心していた。このように、ほとんどの場合、小松良明は、美代や丸山の言うことを鵜呑みにしない、必ずと言って良いほど、自分自身で確認する。―これが、小松良明流。美代のお爺ちゃんである―。美代が小さい時も彼はずっとそうして料理を試していた。
美代が少し離れて、バラバラになったハンバーグを観察する若いお爺ちゃんを見つめた。
「先生、ここ、爆発していないんですよ…。へこますのも良いんですが、他に爆発させない方法がないんですかね…」
「良明は、なんで、そんなに一生懸命なんだ…」丸山は訊いた。
「丸山先生、私は、わかったんですよ。人より少しばかり味が分かったり、少しばかり料理が上手かったりして、自分は天狗になってたんです」
「天狗…?」美代は不思議そうな顔で見つめた。
「あの『粕谷浩太』に比べれば、わしなんか、足元にも及ばない…」
「ふうん…」美代は、大好きなお爺ちゃんにべた褒めされる浩太を悪い気はしなかった。
「私は、彼は天才だと思っていた。だけど、いつか、彼のノートを見たんですよ。彼の今までの料理に対する情熱がノートにぎっしりと記載されていた。私は、料理は才能と腕だと思っていたのに…、彼は私にかけていたものを教えてくれたんです」
「なに?」
「彼は、どうすればいいのかを考えているんです。料理は腕でなくて、努力や思いが必要だと、努力で作り出した料理は、美味しいと!『美味しい料理は、沢山の人に食べてもらわないといけない』と」
―お爺ちゃんの言葉だし、それ―。
「料理は、それを出す場面も同時に考えなければいけないと、待たせる間も食べてもらう瞬間も、食べてもらった後も…。そして楽しくないといけない。その人の想い、その人への想いが、いろいろな料理を生む」
―それも、お爺ちゃんが言ってた―。
「『究極の料理とは、一人の料理人が、たった一人の為だけに作る料理』そこには、その人への思いが全て詰まっていて、楽しくさせたり、暖かくさせたりする。それを読んだときに、思ったんだ。俺の料理も本当は、一人のために作り始めたってね。だから、原点に戻って作りたいんだ」小松良明は、この修行を原点に戻るために行っている。
「『究極の料理』…『一人の料理人が、一人の為だけに作る料理』…それが究極…浩太が…そんなことを…」
「…胸が張り裂けるほどの思いの詰まった料理を食べさせる…。料理は人を動かすってさ」
小松良明きは晴れ晴れした顔をしている。
「先生の友達、『粕谷浩太』の手帳を見て、自分の料理人としての浅はかさを知った。だから、俺の全身全霊を傾けた料理を、胸が張り裂けるほどの想いの詰まった料理を彼女に食べてもらいたい。だから、わしは迷わない。だた作る。ただ、彼女に食べてもらいだけの料理を…それで満足だから…」
美代は同じように、思いをもったことを思い出した。
―私はこれをあなたに食べてもらいたいだけ、ただ、それだけ―。
「私も同じ、ただ食べてもらいたいだけ…『究極のハンバーグ』は、そういう意味なんだ…」美代は、思い出した。お爺ちゃんが究極のハンバーグにこめた思いはそうだった。
―そう―愛しのハンバーグ―なんだ。
その話を訊いていた丸山が、ぼそりと呟いた「一人の料理人が一人のために。山本!『究極のハンバーグ』ってそういうことだ…その人のために作ること。それが究極の意味…八島社長が喜んでもらえるハンバーグを作ることだ!」
美代は、丸山を見て驚いた。「丸ちゃん、あなた、その体…」
「え、俺?」丸山も自分の体を見て驚いている。良明は呆然として、見つめた。
「丸ちゃん!」美代が丸山の手をとろうとした。手が擦り抜けて―掴めない―。
丸山の姿は、薄くなって、だんだんと透けていった。どんどん消えかかっている。
「山本、俺、消えてしまうみたい。俺、戻れるみたいだ…八島社長の元へ戻れるみたいだよ。ここまでしか手伝えないよ」
「どうして…止めてよ…」美代は丸山に寂しそうに訴えた。
「もしかしたら、俺、今、戻りたいって想ったからかも知れない…。俺、『究極のハンバーグ』のレシピを手に入れても疑ってたんだ。これが本当に一番なのかってさ。八島社長が昔、食べたという、究極のハンバーグを越えれたか分からなかった。…でも、俺が料理人として社長のために作って見れば良かったんだ。それが、今、分かった。だから、戻りたいって想った」丸山は満足そうな顔をした。
「ちょっと、私一人になるじゃない…早すぎるよ、もう少し居てよ…」
「山本!粕谷浩太をきちんと連れて帰ってくるんだ…」
「だめよ、待ちなさい…」
小松は、ただ呆然と消え行く丸山の姿を見つめていた。丸山は影形もなく、消えた。
山本は呆然と何もなくなった部分を見つめていた。
良明はゆっくりと近づくと、美代の側に来た。
「先生達の言ってたことは、すべて、本当なんだな…」
美代は、小松良明の顔を見て、ゆっくりと頷いた。
そして、とうとう日曜日を迎える。
『洋食屋たいら』に迎えられたのは、粕谷浩太と盾涌美和子だった。二人は、『貸切』とかかれた店を見て驚いた。日曜日の十七時、稼ぎ時に『貸切』である。
「貸切だよね」美和子が問いかけた。
「そうみたいだね」浩太は、美和子と共に、扉を開けて店に入った。金色に輝くカウベルがいい音を響かせる。そういえば、この前はこんなもの付いていなかった。
店の中には、『洋食屋たいら』のコックコートを着た二人が深くお辞儀をして向かえた。
「いらっしゃいませ」
小松良明と山本美代だ。
小松良明は、髭をすっかりそり落としており、短くそろえられた髪は全く別人の様相を呈していた。以前のワイルドなところから、清潔な控えめな印象を受けた。
山本美代は、コックコートに黄色のロングソムリエエプロンに黄色のスカーフを首に巻いていた。
粕谷浩太と盾涌美和子はお互いに顔を見合わせた。
「こっちよ浩太、美和子さんもどうぞ」美代が手招きした。良明は少し緊張の面持ちでいるのが分かる。
そこは、以前の『洋食屋たいら』とは全く違った様相であった。店内は、大きな観葉植物が通路のように並べられており、真っ直ぐ二人を中央のテーブルにつれていくように演出されていた。テーブルは、薄い赤色と薄いベージュのにそれぞれ、分けられたテーブルクロスがかけられていた。薄い赤い席には、『粕谷浩太』、薄いベージュには、『盾涌美和子』のプレートが掲げられていた。テーブルには水の入ったボウルとそれぞれに違う綺麗な花が生けられていた。それぞれ、二人の席は別々になっており、席に座ると、二人のコックがゆっくりとやって来た。
「盾涌美和子様のお料理を担当させていただきます。小松良明です。よろしくお願いします」小松良明は、すっきりした男前の顔を見せていた。いつもの野暮な様子はなりを潜めて、完全に洋食のシェフをこなしている。それはまるで、従事に全てを尽くす専属の執事のようにも見えた。美和子は、驚いていた。「どうしたの、その姿?」
「今日は、この料理のために全身全霊を振るいます」良明が宣誓のように誓った。
美代がゆっくりとやって来た。
「粕谷浩太様のお料理を担当させていただきます。山本美代です。よろしくお願いします」美代も、すっかり板についたコック服に、美代のトレードマークの黄色のスカーフが決意の現れのようにきつく縛られていた。浩太はその黄色に懐かしさを感じていた。
二人は一礼をして、それぞれ厨房へ引き上げた。
「なにが、出てくるのかしら…なんか、わくわくする。こんなの初めて…」美和子が浩太に隣の席から囁いた。
「そうだね…」二人とも、特別なことであることは理解していた。二人の料理人が真剣に取り組んでくる料理である、こちらも真剣に応じなければいけない。
まず、初めに運ばれてきたのは、軽いイタリアンだった。二人ともメニューが違った。
「かぶと鱈身の冷スープです」小松良明きは精一杯の洋食スープを用意した。
「解けるぐらいにかぶを煮込んだとろみのあるスープをしっかり冷やして、ウドとクレソンで食感を味わえるます。更に鱈の味で風味をつけています」
小松良明は、洋食に和をテイストした。簡単に出された一品であるが、何時間も煮込まれた味噌ベースかぶにとろみのあるスープは、しっかり冷やされており、キュッとしまった味がする。ウドと細く切ったクレソンが食感を醸し出している。そして、一度味つけして、焼いた鱈を細かく千切ってとろみのスープの上に浮かべている。味噌味をベースにしているのが小松らしかった。
スプーンですくって食べた美和子は、目を丸くした。味噌ベースと言ってもほんのりと味がするだけ。食材が口の中で味を醸し出した。
「美味しい」と声をあげた。良明は、美代さながらに、ニコリとした。
「グリーンピースと鱈身の冷スープです」
小松良明は、かぶを使ったが、美代はグリーンピースをミキサーでつぶして、中華風に味つけした冷スープに、こちらも同じく一度味つけして焼いた鱈身が千切って浮かべてある。
浩太もスプーンですくって食べた。グリーンピースの味が広がる。そこへコクのある鱈の味がガツンと来る。
「うん、美味しい!」浩太のこんなはっきりした意見を訊いたことがなかった。
美代も笑顔になった。
「ごゆっくりとお召し上がりください」二人はそういうと、また、厨房に下がっていった。厨房では、美代が親指を立てて、良明に「上手くいった」とアピールした。良明も、その仕草を真似た。そして、二人はメインデッシュに取り掛かる。美和子と浩太が食べおわるのを見計らうかのように、二人はそれぞれのメインディッシュを持ってやって来た。
「メインデッシュの『究極のハンバーグ』です」
二人が持ってきたのは、全く別々のハンバーグだった。
小松良明は、美代の知っている『究極のハンバーグ』のそれだった。
山本美代が、持ってきたのは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で自分が出していたハンバーグ、そのものだった。飾り付けのない、あの美味しさだけで勝負している―人参とジャガイモとインゲンで色を整えた。あのハンバーグ定食そのままだった。
美代にとって、浩太に出す。これが『究極のハンバーグ』。
それぞれに作られた、それぞれの究極のハンバーグが二人に振舞われた。
美和子がカリカリの表面にナイフを入れる。チーズがこぼれていき、ソースが交わる。そして、肉汁があふれるように零れ落ちる。フォークを刺して、口に運ぶ。
「美味しい」美和子が、頭の先から、足の先までで、味を堪能して、声をだした。良明の顔が良かったと微笑んだ。
浩太もナイフを入れた。肉汁が溢れ出す。フォークを刺して、ゆっくりと口の中へ運んだ。噛み締める。
浩太の頭の中に懐かしい味と共に風景が浮かび上がる。誰かの言葉が浮んでくる。
―仕方ないな―
―美味しいものをお客に出すのが悪いことなの?―
この味だ。これを再現しようとしてたんだ。盾涌食堂でチャレンジしたのは、この味だ。
浩太は、目をつぶって味を確かめた。
舌が味を思い出すと共に、頭の中に記憶が蘇っていく。ハンバーグから醸し出される、美味しい匂いが鼻をも刺激する。
―仕方ない、メニュー用の写真を撮れよ―
―美代が右手を頭の上へ上げて、ガッツポーズをとる―。
美代、美代のハンバーグ―。
―『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の景色が眼に浮んだ。テーブル席で食事をするお客達、カウンターで食事をする、美代や雅人、そして貴士、亜理紗。
―『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の看板が見える。
そうだ、俺は、帰らないといけない…。ここに、いるべきじゃないんだ…。
―記憶が蘇った。
浩太は、薄めを開けて、立ち尽くしている、なんとも似合わないコック姿の美代を見つめた。
美代は言葉を待っている。
「美味しいよ。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』には、これがないと駄目なんだよ」浩太は、この味を待っていたことを伝えた。
美代の眼から涙が零れる。
「良かった」
次の瞬間、美代の姿が段々と、薄く、薄くなっていった。小松良明は、美代と浩太を見つめていて、その異変に気がついた。一緒だ。―丸山先生と一緒だ―。
小松良明が美代に叫ぶ。「そんな、まだ、コースは終わってないぞ、先生。まだ、消えたら駄目だ。先生!浩太に伝えるんだろう」
「御免なさい。美味しいという言葉を訊いて、満足しちゃったみたい…。どうも、私、このために、ここに来たみたい…」
小松良明は、唇を噛み締めた。
浩太は立ち上がり、姿形が薄くボンヤリとしている美代を見つめた。
「美代!」
「…浩太、思い出してくれたのね。良かった」
「俺を追いかけてきてくれたのか…」
「そうなんだけど、浩太を見つけるのに時間がかかっちゃった。見つけてもどうやって、連れて帰ったらいいのか判らなかった。…でも、浩太の『美味しい』と言う言葉を聞いたら、安心しちゃった…。ごめん。助けに来たのに…もうタイムリミットみたい…」
浩太は手を握ろうとして、その手がすり抜ける。
「美代、ごめん。俺、あの時に言えなかったことがあるんだ。俺にとっては、このハンバーグが、俺にとっては、これ自身が『究極のハンバーグ』なんだ。それを言おうとして、言えなかった。それなのに、俺は、美代の傷つけて、一人でこんな破目になって…」
「ありがとう…」
「俺は、『小松良明』の『究極のハンバーグ』を食べたいわけじゃなかった…。美代、お前のハンバーグが食べたかったんだ」浩太は、面と向かって美代に言いたかったことを伝えた。
「うれしい…」美代が囁く。
その言葉を聞いた浩太は、美代と同じように体が薄く、薄くなっていった。
「俺も…」
「浩太…」美代は浩太に手を伸ばした。擦り抜けていた手がしっかりと握られた。
消えかかる美代は、やって来た、小松良明を見つめた。
「あなたのお孫さんが一〇歳の誕生日にハンバーグを焼いて食べさせてください。その子がハンバーグが好きになるように魔法をかけてください。そうしてもらえたら、私は幸せになれるし、ここにこうやって、ハンバーグを教えに来られると思う。そして、私は、浩太を見つけ出せる…」
「先生…」小松良明は呟いた。
「…だから、お願いね。お爺ちゃん」
「お爺ちゃん…」小松良明は、消え行く二人を見つめた。
二人は薄れ行く姿のまま、手を取り合った。先ほどは掴めなかった手が触れ合っている。
浩太が両手を広げて美代を抱きしめる。美代はその胸に身を任せた。浩太がしっかりと抱きしめた。
「美代…」浩太はきつく抱きしめた。
「ごめんなさい。私…」
「俺のほうこそ、ごめん」
「私、浩太が好き」
「俺も美代が大好きだ」
美代は、浩太の腕の中でたまらなく幸せを感じていた。浩太はきつく美代を抱きしめた。
二人の姿は薄く消えていき、その場には、良明と美和子だけが残っていた。
美和子は消えていく二人を見て、ただ、驚いて口を大きくあけていた。
薄い赤いテーブルクロスの上には、浩太が大事にしていた浩太のノートが、赤いハンカチで縫われて、赤いノートとなって置かれている。小松良明は、そのノートを手に取った。
「おい、これを忘れていくんじゃない。お前の大切なノートじゃないか…わかった。しばらく、預かっておくぞ」