浩太との再会
美代たちがやって来る、もっと、もっと前に、浩太は来ていた。
浩太は初め、暗闇に包まれていた。
どのくらいじっとしていたのだろう。浩太は深い闇の中に寝そべっていた。しばらくして、匂いから、そこが土の上であることに気付いた。瞼が閉じられていたことを思い出して、目を開いた。そして、今が夜であることに気付いた。見上げた空に、無数の星々が瞬いて見えた。いつもの空ではこうは見えないだろう。ふと、立ち上がって、いつもの空とは何だろうと考えた。そして、自分が着の身着のままであることに気付いた。何一つ、手にしていない。
「ここは、どこだ」辺りを見渡して、自分がどこにいるのかが分からない。
「帰らないと…」浩太は、頭を押さえた。
「帰る…いったいどこへ…」そう考えて、浩太は絶望に似た感覚をえた。
「…俺は誰なんだ。…思い出せない。どういうことだ…」
物凄い勢いで、光がこちらに向かってくる。「ひかり…」自転車のブレーキ音がして、暗闇を急停車する車輪のきしむ音が暗闇に響き渡った。
「おい、誰だ!危ないだろう!こんな夜中にこんなところで、寝てるんじゃない!」浩太は寝ていたようだ。そこへいきなり自転車がやって来たのだった。
「お父さまー、大丈夫ですか?」女性の声と自転車の音が遠くから聴こえる。
「おい、何しているんだ」自転車の男の声が響く。
「…すいません、ここは…どこですか?」
「何言ってるんだ、ここは盾涌工場だ」
「盾涌工場…?」見上げた脇には、確かに、工場の跡地がある…いや、跡地ではない。油の匂いが漂ってくる。跡地どころか、さっきまで動いていた機械の油と金属の削れた匂いが鼻をつんとさせる。僅かな隙間から、工場内の機械のランプが赤に緑に自己主張しているのが光って見える。機械は動いている―。
「おまえ、誰だ」暗闇の中、男が浩太に近づいた。
「…すいません、分からないんです。自分のこと、何も思い出せないんです」
「何、馬鹿なこと言ってるんだ」自転車の男は、自転車立てを起こして、自転車を自立させると、すたすたと浩太の元へやって来た。
「おまえ、ふざけてるんか」男が浩太の側まで近寄ってきた。しかし、浩太の茫然とした顔、生気を失った青白い顔を見て、男の様子は一変した。浩太が真剣だということを悟ったのだ。「おい、本当か、おまえ、自分が何者かわからんのか?」
「…、」浩太は、無表情のまま、悲しい顔で首を振った。
「おいおい、ちょっと待て、今、警察を呼んでやるよ。記憶喪失ってやつか?おい、体は大丈夫なのか?」
男は崩れる浩太を抱えるようにして、声を掛けた。
「俺は、盾涌正だ。この工場の責任者だ。おまえ、見た事のない顔だな。この工場の人間じゃないな。とにかく、警察に行こう。おーい、美和子、美和子!」
「はい、」後ろから自転車に乗って、やって来た女性が、浩太の横に自転車を停めた。
自転車から降りた美和子は、見たこともない長髪の男を覗き込んで「大丈夫?」と声をかけた。浩太は、振り返ったその瞳に、美和子の顔を映した。喉まで出かけた名前が頭で言葉に構築出来ず、喉を振るわせた。
その顔は美代にそっくりだったのだ。
しかし、浩太には―美代―という名前すら言葉として思いだせなかった。
浩太は、警察で事情聴取を取られただけで、そのあとすぐに病院に連れて行かれた。医者は、頭や体をいろいろ調べた。打ち所が悪かったのか?と訊きたかったようだが、頭に裂傷等は見当たらなかったし、レントゲンには全く異常は見当たらなかった。
盾涌正は、娘の美和子が付き添った病院まで、後からやって来た。工場の仕事があって、一旦、警察で別れたのだが、その後、やって来たのだ。しかも、工場内で真っ赤なおかしな鞄を見つけていた。引っ張ると取ってが飛び出す便利な車輪まで付いている家具のような鞄だ。見たこともないぐらい、おそろしく真っ赤でつるつるな形をしていて、しかも頑丈だ。こんなものは今まで見たことも無い。おそらく、この男の持ち物であることは間違いないと思ったから、それを持ってきた。
病院の診察では、全く異常なし、正常であると判断された浩太は、深夜の病院から早々に追い出された。盾涌親子と浩太は病院の前に立ち尽くした。
「まあ、なんだ、そのうち、思い出すさ」正は浩太に声をかけた。
「は…い…、どうもありがとうございました」浩太はよくしてもらったことに頭を下げて礼をすることしか出来なかった。自分が何者かもわからない。それ以上の何もしようがなかった。ここまでしていただいた上に何も頼むことはなかった。
盾涌にとっても同じだった。警察と病院まで面倒見てやった。これ以上義理はない、二人の間に気まずい雰囲気が流れる。盾涌正は、この沈んだ青年を見た。この若者を放っておけない気がした。それぐらいの甲斐性がなくもなかったし、困った者を放り出すことも自分の人間性を試されている気がして、この後どうするべきか考えていた。
盾涌正は、思い出したように先ほど、拾ってきた赤い鞄のことを訊いた。「それで、その鞄の中にはなにが入っていた。家の事とか、そうそう、電話番号とかなかったのか?よくよく調べればいい。電話番号があれば、すぐ、俺んちに来て電話すればいい」
「それが…」浩太は、鞄を見つめた。「電話番号らしいものはあったんですが、090で始まっていて…美和子さんに聞いたんですが、外国かもって、日本じゃないと言われました」
「君は外国から来たのか?」
「すいません、それも分かりません。後は、着替えばかり入っていて、中にはノートと調理器具が少し…」
「調理器具?」盾涌は驚いた声を上げた。「料理をするのか?君は料理ができるのか?その調理器具、見てもいいか?」盾涌は一気に同情心から、興味へと心が動きだした。
「あ、はい、どうぞ」浩太は、いきなり興味を持ち出した盾涌に少々驚いたが、親切にしていただいたお礼もできない、調理器具を見せるぐらいなんでもなかった。鞄の留め金を開けて、大きく開いて見せた。盾涌は覗き込む。美和子も少し離れたところにいたが、やって来て、興味津々で覗き込む。美和子は、盾涌正が来るまでは、警察も病院もずっと親身になって付き添ってくれたのだが、父親が来てからは、少し離れていた。浩太が開いた鞄の中を病院の入り口の明かりが当たるように動かして見せる。中には、確かに着替えが沢山入っている。浩太が鞄の下の方にある調理器具を見せるために、鞄に入っている着替えを取り出し、そして、ノートを取り出した。置き場所がなく、美和子がノートを浩太から受け取る。赤い布に巻かれたノートは、表紙に粕谷浩太と書かれている。
「かすたに…」美和子が読む。
「…これが、おまえの名前か」盾涌正が聞き返した。
「わかりません…」
「何て読むんだ。かすたに…かすがい、こうた、か」
「すいません。わかりません…多分、そうだと思います」浩太は悲しそうに首を振った。自分の名前らしいし、響きも悪い気はしない。でも全く思い出せないのである。
「いいさ」と盾涌は浩太の肩に手を置き励ました。そして、隣で渡されたノートをぱらぱらと捲る美和子の横からノートを覗いた。そこには、料理の細かいレシピやその盛り付け方法の記載、店の作り方、美味しい料理とはの問いかけに関する答え、浩太が調べ上げた、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』や『小松食堂』、『イタリアン』や『小松食堂のレシピ』がびっしりとノートの枠外にまで浩太の文字で書かれていた。そこには、料理の情熱が見て取れた。
「凄い…これは、凄い」盾涌正は、美和子からノートを取り上げ、そのページをゆっくりと読み漁った。「凄い、こんなにびっしりと…」盾涌正は、かぶりつく様に、そのノートを読んだ。「あんた食堂かレストランの経営者か!レシピだけじゃない、経営の仕方まで、凄いな…」
「すいません。よくわかりません」浩太は同じ言葉を繰り返すしかない、自分がふがいなく思い。情けなさのあまり、少し笑みを浮かべるのがやっとだった。
「それも覚えてないのか。でもこれは、あんたが書いたんだろう」
「そうだと思います。調理器具もここにあります」浩太は、鞄の中のビニール袋に包まれている器具を盾涌に見せた。
「なんだ、これは、見たこともない器具ばかりだな…これが、調理器具か?」
「そうです。調理器具です。どう使うかは覚えています。このことは覚えています。どうも、私は料理をしていたみたいです」
盾涌正と美和子は顔を見合わせた。「はは、そうか、そうか、それは良かった」
喜ぶ盾涌に対し、浩太は不思議な顔をした。
「はははh、そうか、料理人か!それなら、うちに来ればよい。はは、記憶が戻るまで…内に居ればいいわ」盾涌正が大きな声で笑いだした。
「あなたは、料理をされるのですか?」美和子は浩太に関心を寄せはじめていた。
「はい、どうも、そのようです」
「とにかく、今日は、遅い、家に泊まっていけ」盾涌は、機嫌が良くなっていた。
「滅相もないと言いたいところなんですが、是非お願いします。これから、一体、どうしたらよいのか、何も分からず、自分が何者かも分からず戸惑っています。正直、怖いんです。是非、お願いします…」浩太の手は震えていた。美和子はその手を横から、きつく握った。それを見て、盾涌正は、見てみぬ振りもできずに、スクッと立ち上がった。
「とにかく、行こう」この可愛そうな若者を、面倒を見てやることを盾涌正は決めた。美和子は父親の声に、自分が、この若者の手を握り締めていることに気付いて、、驚いて手をさっと引っ込めた。「すいません」美和子は浩太に詫びた。
「行くぞ」浩太は、その掛け声とともに、盾涌正の運転する車で彼の自宅へと消えていった。
浩太が盾涌正に連れられて行った翌日のことだった。食堂のテレビでは、世界体操競技選手権団体で日本が優勝したことで、持ち切りになっていた。いつも食堂に人が集まらないのに、この日だけは違ったのだ。盾涌工場の人たちにとって、今日はそれだけで済まない良い一日となったのである。
盾涌家に世話になった翌日の早朝から、浩太は工場の食堂に立った。食堂には既に、将来レストランシェフになることを夢見る若者がいた。若者の名前は『小松良明』。
「今日から、ここで働いてもらうことになった。カスガイ コウタくんだ」盾涌正の紹介は、美和子を伴ってのものだった。美和子は、工場の事務をやっていたが、本人の希望もあって、食堂に勤務することが決まっていた。食堂には何度か入っていたが、美和子がこんな朝早くに食堂に入ることは、これまで一度もなかった。小松良明には、朝から自分の料理の腕前を美和子に見せられることは非常に喜ばしいことだった。しかし、この長髪の女みたいな男が盾涌正、それに美和子を伴って、ここにいるのが納得できなかった。それでも、厨房で『小松良明』に敵うものなどいるはずもない。良明は自分でそう思っていた。この食堂は彼の仕事場で、彼の思うがまま、彼が王様だった。
「良明だ。よろしく」髭を蓄えた、精悍な顔立ちの良明はそういうと浩太に握手を求めた。「料理はやっていたのかい?」「…」二人はお互いに固い握手をした。
「そのことだが、良明くん、彼は、記憶喪失なんだ。自分の記憶がない。自分がどこの誰だかわからないんだ。しかし、自分が料理人だったことは判っている」
料理人と言う言葉に、良明の眉がピクリと動いた。「記憶喪失の料理人か…それは苦労だな。でも、ここの食堂は嵐のような忙しさだから、どこの料理人だったか知らないが、それだけで腰を抜かさないことだな、ははは」良明はどちらが上かはっきり態度で示した。
「よろしくお願いします」浩太は丁寧にお辞儀をした。
「ここでは、朝食まで食わせる。朝食と同時に、昼の仕込みをやる、昼が過ぎると夕食の仕込み、夕食になれば同時に朝食の準備…一日中が戦いだ。早速だけど手伝ってくれるか」良明は、疑心暗鬼に具材の裁断を浩太にやらせてみた。盾涌正は、浩太の腕前を早く知りたくてわくわくしていた。あのノートを見てから、昨夜もなかなか寝付けなかった。盾涌正は料理にうるさい。工場の従業員に美味しい料理を食べさせるために、わざわざ良明という料理人を探してきたぐらいだ。盾涌自身、工場と並行して、将来に料亭かレストランを主にした事業をやりたいと思っていた。その盾涌にとって、浩太の出現は渡りに船である。いくら優れた料理人でも一人きりでは、運営できない。浩太の才能次第ではあるが、盾涌に二人の料理人が揃えば、事業として本気になれる。
浩太は、あっというまに、白菜や人参、たまねぎを刻み終えると、下茹でを申し出て、良明の望む味つけを聞き取るとそのようにあっという間に実戦してみせ、良明を驚かせた。当然、盾涌正は唖然として、その様子をみていた。予想以上だ。
「参ったな。あんた、プロ級だな…じゃあ、遠慮なくお願いすることにしよう」良明は少々舌を巻いた。ぼろを出させて、恥をかかせてやれと思ったが、そうはいかなかった。
浩太の調理は、スピードと完成度があった。更に、加えて具材の特製を引き出すことをよく知っていた。美和子は、盛り付けを手伝いながら、その包丁さばきや、出汁を味見する小指をさっと潜らせる仕草をうっとりして見つめていた。良明はその姿を漫然と見つめながら、浩太に、だんだんと厳しい注文を出していった。―どこまで、こなせるか、どこかで、ぼろがでるだろう―しかし、浩太は、良明の指示を確実にこなしていく。浩太にも不思議でならなかった。良明の指示は自分の想像の範囲内だったからだ。なぜか、同じことを過去にしたことがあるように思った。まるで、もっと厳しい注文をもっと厳しいレベルで要求されたことがあったかのように―。
昼には、さすがの良明も負けを認めた。潔さからも良明も一人前の男であり、一人前の料理人であった。良明は料理人として、この男の本気の料理を見てみたいと思った。良明の提案で、夕食には、オリジナル日替わりを作ることを勧められた。
「良いんですか?」浩太は、まだ半日しか働いていない厨房で、自分のオリジナルを作ることを望まれ、戸惑っていた。もう、良明は、恥をかかそうなどとは思っていなかった。浩太が手伝うことで、昼間で食堂は恐ろしいほど、快適にこなせた。いつもの嵐のような状況が嘘のようだった。決して客が少ない訳ではない。この恐ろしいほどの才能の持ち主が、良明の考えたレシピで作るのでなく、本人のレシピでどのような料理を作るのか興味が出てきたのである。浩太は、冷蔵庫や保冷庫を確認して、自分の必要な料理に足りない具材を確認した。
「トマト、生クリーム、オリーブオイル、パスタが欲しい、パスタはなければ、自分で作るが、それだと夕方まで間に合わないかもしれない…」
「パスタ?洋食か?浩太は、洋食料理人なのか?」良明が声を荒げた。良明は洋食を毛嫌いしている。和食こそ一番と思っているのだ。
「多分、そうだと思います」
「私、買ってきますわ」美和子が言った。
「でも、材料費は決まってる」良明がぼそりと答えた。
「いいわ、私がお父さんに言うから、無理なら、私の奢りでいいから」美和子はエプロンを置いて、返事を訊く前に走りだした。
良明が笑いながら声をあげた。「あの親子は料理に対しては目がないんだ。俺も料理で拾われた口なんだぜ」
「へぇ、まさか、小松さんも…」浩太は、もしかして同じ記憶喪失かと考えた。
「あぁ、俺は記憶喪失じゃないさ。浩太ほど、不自由してはいない。それに、小松と呼ばれるのは、他人行儀だ。良明でいい、俺も浩太と呼んでるしな」
「わかりました」
「よかったな、料理を忘れなくて、その腕が喪失してたらと思うと俺ならぞっとするぞ…」
「有難うございます」
「だが、譲るつもりはないからな。浩太!」
「譲る…なんですか?」
「料理の腕…、あんたの方が、俺より上でも、譲れるものと譲れないものがある…。悪いけど俺は同情はしないからな!」
「…」浩太は、何のことを言っているのか初め分からなかった。具材を買って帰ってきた美和子が、浩太に妙にべったりするのを、良明が良い想いをしていないことが、仕草で分かった。―そういうことか―浩太は一人頷いた。
その夜、浩太の日替わりは盾涌工場で噂になった。次の日からは、人気になり行列ができ始めた。
―粕谷浩太は、盾涌工場を変えた―。
それから、何日かが経った。盾涌工場内の食堂は、いつも行列が出来るようになった。それもそのはず、浩太の作り出す料理は、誰も見たこともなく斬新で、誰も食べたことがないほど美味しかったからである。工場には、食堂を利用しない弁当組みがいたが、この弁当組みはこぞって、食堂で食事をするようになった。週末の土曜日には、工場の従業員が家族や友人を連れてまで、工場の食堂に食べに来るようになった。僅か数週間で、この反響振りだった。
それは、粕谷浩太の料理の才能をみて、小松良明がフォローに撤したからだった。
盾涌はカメラを構えて、二人を見ていた。いまや、食堂は、浩太のオリジナル料理で溢れている。そして、あれだけ、洋食を毛嫌いしていた良明が、浩太の料理を貪欲に吸収して、更に自分の腕に磨きをかけていた。大盛況の食堂には、明らかに従業員以外が沢山いる。「この若者達は凄いぞ!この二人がいれば、夢が叶う。もう一山当てられる。これは、神様が私に与えてくれたチャンスかもしれんな」厨房で忙しく動き回る二人を見ながら、盾涌正は、カメラを構えた。そこには、二人のコック姿があった。
二人がやって来たのは、浩太が現れてから3ヶ月が経っていた。
『洋食屋たいら』の平忠文は簡単に彼らを雇うことを決めた。
あの夜、丸山と美代が『洋食屋たいら』の前で、忘れ物を取りに戻った平忠文に出会った。美代の青いキャリングケースには、『究極のハンバーグ』の材料が入っていた。二人は、宿を手に入れるために、平忠文に『究極のハンバーグ』を披露したのだった。その味は、平を唸らせた。、丸山と美代は、『洋食屋たいら』の料理人として迎えられ、宿と仕事を同時に手に入れた。二人は、平に約束をした。自分達は、『粕谷浩太』という男を探して、ここに来たのだということ。その人物を探して欲しい、もし、そういう人物がいたら、すぐに教えて欲しいということ。
二人は、宿さえ手に入れば良かったのだが、二人が作る『究極のハンバーグ』は『洋食屋たいら』をお客のたくさん来る店に変貌させてしまった。次第に、平は材料集めに忙しくなり、『粕谷浩太』を捜すことを止めた。そして、二人に店を任せるようになっていった。二人は忙しさに、てんてこ舞いしはじめていた。
何度か、『小松食堂』を探しにいったが、存在してなかった。美代は、盾涌食堂すらできていない、盾涌工場内に皆が居る時代であるのを理解した。計算では、五十年前にいることが分かった。『洋食屋たいら』が休みの日には、盾涌工場へ何度か尋ねた。
「この時代なら、ここに日高馨がいるはず」
美代はそう思った。『小松良明』はこの時代に、謎のライバルと共に、工場の食堂で一緒に仕事をしている。あの若い日高馨ではなく、日高教授がいれば、協力してもらえるかもしれない。しかし、中には関係者しか入れなかった。美代は工場の少し離れたところから、じっと眺めるしかなかった。
何日目だっただろう。盾涌工場で丸山が一枚の紙切れを手に入れた。丸山は工場から出てくる従業員から、その紙切れをもらったのだ。
紙切れには、『盾涌食堂』のオープンが書かれていた。丸山は、唖然とする。急いで、近くで、疲れて石の上で暇をつぶしている美代を呼んだ。
「おい、山本!これ、ちょっと見ろよ!」
丸山の声に美代は、その紙切れを確認した。「え、どれよ」紙切れはチラシだった。そのチラシを見た美代は、そこに、『盾涌食堂オープン、シェフ二人による、ご馳走のパレード』という文字を見つめた。
「とうとう、オープンするのね…」美代の知っている過去と重なっていく。とうとう、盾涌工場内の食堂が、盾涌食堂としてオープンするのである。これで、日高馨が工場から外に出てくる。彼に会うことができる。問題は、どう対峙すべきかだ。
丸山は、チラシの上の写真を指差した。「ここだ。ここを見てみろ」
「このシェフ二人っていうのは、『小松良明』:と『謎のライバル』だろう。この、写真みろよ」
美代は、そのチラシの下に二人のシェフの写真が印刷されていたのを見た。写真をマジマジと見て、それが日高馨でないことに気付いた。
「なんで…、日高馨じゃない…、ライバルの料理人って…」
「そうだよ、ライバルの料理人は、粕谷浩太だったんだ。日高とは違ったんだ。日高馨じゃなく浩太だったんだよ」
美代はチラシを持った手を震わせて、そのチラシをずっと見つめていた。
盾涌食堂がオープンしてからは、大変な盛況だった。店内では、坂本九の『上を向いて歩こう』が流れ、沢山の人々が店内に溢れた。丸山と美代は尋ねて行ったが、予約で一杯で、二人のシェフには会えなかった。大盛況とは訊いていたが、こんなに店が繁盛しているとは思わなかった。二人の料理人はチラシの効果で人気もあがり、その料理の美味しさに加えて女性ファンも集めていた。取り巻きを遮るためにも、盾涌正は、二人を人から遠ざける必要があった。だから、丸山と美代が外で待ち伏せしていても、良明と浩太は、裏口から車で帰っていくことが多く、声すらかけられなかった。
丸山と美代は、何度か直談判しに行ったが、聞き入れてももらえなかった。理由をつけて二人に接近しようとする輩が大勢いたからだった。丸山と美代は平忠文にも頼んだが、平からは、無理だの一点張りだった。『盾涌正』は、地元の有力者、自分なんかに会ってくれる訳などないとのことだった。丸山と美代は八方塞がりになった。
そんな中、小松良明を変える些細な事件が起こった。
ある時、『盾涌食堂』で、良明は仮眠を取っている浩太を横目に、ある手帳を食堂で見つけた。
「なんだ、これは?」良明が見つけたのは、赤い手帳だった。それを手にして驚いた。それは、いつも、浩太が料理の合間にちらりと確認する手帳だったのだ。
『美味しい料理は、皆に食べてもらわないといけない…』良明はページを捲った。
『料理は、五感で訴えろ。味だけでは駄目。眼で喜び、匂いでそそらせ、音で楽しませ、食感で感動させる。それには、料理を完成品としてステージに出す準備をしなければならない』ページを捲る。
「これは…、」良明は浩太を生まれながらの天才だと感じていたが、その考えは、このノートを見て、覆された。良明は寝息を立てる浩太を見つめた。
「天才は、作られたものだった。こいつは、恐ろしいほどの努力家…料理に対する情熱の男…。天才だと誤解していた。こいつの料理の腕前は、俺以上に努力した証だったんだ…こいつは、どうして是ほどまでに料理に情熱を向けているのか!俺は、ただ、こいつの料理の腕を盗むことだけを考えていた。しかし、こいつは、料理自体に対する自分の考えを持っている。俺なんかと根本的に違う」良明は、絶望のようなものを覚えて、店の天井を見上げて、無気力感に襲われた。同時に、それまでの自分が、如何にちっぽけな存在であったかを恥じるようになった。
盾涌食堂がオープンして二週間が経ったある水曜日の夕方、良明と浩太、美和子の三人は食事に出かけた。三人が同時に出かけるのは、『盾涌食堂』が定休日の水曜日しかなかった。良明と浩太は、大抵の休みも食材探しや新しい新作の料理を厨房で挑戦していた。まさしくライバルとしてお互いに高みへ登り詰めていた。
浩太にとって、良明の料理への挑戦は大きな励みになっていた。。良明にとって、あれ以来、浩太への見方が代わっていた。浩太を影ながら、師として仰ぎ、浩太の腕から紡ぎだされる和洋中の料理。神がかり的なスピードと完成度、具材の一つ一つまで恐ろしいほどの技と知見、全てを吸収しようと飢えた獣のように、必死に喰らいついて学んだ。良明が浩太に見る料理人の姿は、浩太が日高馨に見た姿と似ていた。
この食事も、当初、良明と美和子の二人きりで行く予定だったが、美和子の「洋食なら、浩太さんも誘いましょう」という言葉に良明は断る言葉を持ち合わせていなかった。
屈辱だけを感じていた良明は、その日、決断をすることになった。
出かけた先は、美和子が美味しいという、最近、ハンバーグで有名な『洋食屋たいら』だった。
「ここのハンバーグが美味しいのよ」美和子が運転席から、後部座席の浩太に言った。
「楽しみだな、浩太以外の洋食を食べるのは俺は初めてだ」
「良明さん、つい、この前まで、洋食なんか食べるもんじゃないって言ってたじゃない」
「仕方ないだろう、浩太が来たからさ。身近にこんなに腕のいい洋食の料理人を見たら認めざるを得ないだろう」
「それって、俺の事言ってくれてる?」浩太は、良明に聞き返した。
「自惚れてるんじゃないぜ」良明はからかった。
「でも、その長髪を辞めたのはいい、ずっと長髪だったからな。やはり、料理人は短髪がいい」良明は浩太の髪を褒めた。
「そうかな。どうも判らないけど…おまえの髭も剃ったらどうだ?」浩太は逆に良明をからかった。
「浩太さん、似合ってるわよ」バックミラーを見る美和子の視線に浩太は少し照れた様子を見せた。『洋食屋たいら』に美和子の運転する車は到着した。三人は、和気藹々としながら、その店に入った。人気なのは、分かる。かなりのお客が入っている。子供までいる。
盾湧食堂と比べるとかなり値段のはるレストランだ。ハンバーグと言ってもコースで出てくる。
「贅沢な、…子供までこんな値の張る料理を食べるのか?」良明は子供が贅沢な料理を食べることをあまりよしとしない。自らの食材に対しても高価なものはあまり使わないようにしている。実は、洋食嫌いの一つにそれがある。
「そうみたいね」美和子にとっては珍しくもなかったが、良明にとっては、この店の値段が高いのを知っていたので、子供を見ると、少々、気に入らなかったようだ。
丸い顔の男が、案内した。手前のテーブルに三人を座らせて、オーダーを訊いた。
「ハンバーグがあるだろう。それを食べさせてくれ」良明が大きな声で言う。
「『究極のハンバーグ』でいいですか?」
「うん、それそれ、それと、飲み物をくれ」無粋な言い方で良明が催促した。
浩太が首を傾げた。耳に心地よいフレーズ…「究極のハンバーグ…」浩太は口の中で繰り返した。
「どうしたの」美和子が浩太に訊く。
「…いや、どうもしない、なんでもないさ」浩太は首を振った。
「へんなやつだな」良明は、何かを思い出そうとしている浩太に気付かなかった。
飲み物にワインを選んだ良明たち、三人は遅まきながら、、盾涌食堂の成功に乾杯をした。
しばらくして、『究極のハンバーグ』が三人分、テーブルに運ばれてきた。残念ながら、丸山の手によってである。これが、美代なら、髪を切った浩太にも気付いたかもしれない。
あまりの忙しさに、美代は、直接客先まで運ぶというポリシーが、疲労により欠落していた。折角の浩太との再会であったのに、二人はお互いの料理に真剣であった。
丸山は、三人の会話を訊いて、髪を短くそろえた男が気になった。確信はなかったが、もしかしたらと思った。厨房に戻ると、丸山は美代に声を掛けた。
「山本、山本!」丸山の声に美代は真剣な様子で、手のひらにパティを載せている。一つ、一つ、丹精に、味を損なわないように丁寧に捏ねている。
「なによ。忙しいんだから、あんたもちょっとは手伝いなさい」美代はパティに集中していた。
「いや、俺は、ホールをやってるんだぞ。俺も忙しいんだよ」
「静かにして、気が散る」
「いや、ちょっと…」
パン、パン、予定外のパティを追加作成していた。ハンバーグパティがまた、用意した量を超えて注文が入ってくる。『洋食屋たいら』は、二人だけで運営されており、美代がパティを作り、焼く。丸山がホールで注文を取って、盛り付ける。この連続作業が永遠に続いていた。
浩太が、ハンバーグにナイフを入れると肉汁が溢れ出てきた。フォンデュのカーテンがそのナイフの切れ間に吸い込まれていく。フォークをその一片に刺して、風味と匂いを醸し出すデミグラソースにからめて口へ運ぶ。
「美味しい」美和子が一口食べて、声をあげた。
良明も口へ運んだ。「凄い、これは、美味しいな」良明も声をあげる。
浩太も口へ運ぶ。不思議な感覚を感じた。とっても懐かしい味だと感じた。
「どうだい、浩太、美味しいだろう」
「あ、あぁ…」美味しいというより、知っている味に動揺した。
「なんだ、いまいちか、洋食料理人にとっては、このレベルは当たり前か?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど…美味しいんだけど、何か特別な感じがする…」
良明は、ハンバーグをぺろりとたいらげ、料理の話しに盛り上がった。今日の良明は滑舌よく、ワインを五杯、六杯と呑んで、話しに夢中になった。良明は、初め、好きな料理や、得意な料理を話したり、聞いたりして、盛り上がって楽しく飲んでいた。しかし、次第に、記憶のない浩太に、料理を始めたきっかけや、料理の思い出を話させるようになった。浩太は、記憶がないものに、答えようがなく、何度となく、言葉に詰まった。良明はすっかり酔いが回っていた。
「美和子さん、飲んでないでしょう」良明はとうとう、絡み口調になりだした。
「私、車だから、口をつけただけで、ごめんなさい」
「そんなこといってたら、駄目だ…飲みなさい!」
「良明!悪酔いしてるじゃないか?もう止めておけ。美和子さんに絡むんじゃない!」浩太は良明を諌めた。
「うるさいな、浩太、俺に命令するのか!お前、最近、偉そうだよな…」
「…」浩太は、黙った。浩太にとっては、良明とことを荒げたくはないし、これまで、そんなことは一度もなかった。常にそれを心がけてきた。
浩太にとって盾涌工場、盾涌食堂での自分自身はすべてが借り物だった。浩太の名声は自分の力で手に入れたものであるとは、これっぽちも思っていなかった。自分が受ける、賞賛は、本来、良明や、美和子が受けるものであって、ここにいる浩太自身が、頂くものではないと思っていた。自分がちやほやされれば、されるほど、良明に済まないという思いが、ふつふつと沸いていた。
「悪かった。俺が気に食わないなら謝るよ。そんなつもりは毛頭ない」浩太は立ち上がって頭を下げた。良明には、それが許せなかった。自分より、努力している男に、自分は嫌な奴にもさせてもらえない。こいつは、なんて、出来た奴なんだ。劣等感だけが、良明の心を満たしていく。
「御免、先に帰るよ」浩太は、自ら場の自粛を申し出た。
良明がいきなり、コップの水を浩太にぶちまけた。「それが、偉そうだって言うんだ!」
とっさに美和子が止めたが、水は浩太の顔から服を完全に濡らした。
「やめて、良明」美和子が叫んだ。ざわざわ、と店内は異様な雰囲気にざわつきだした。
「おまえ、美和子さんが、気になってるんだろう。なら、はっきり言えよ。俺だって、はっきり言ってやる」良明が大きな声で怒鳴りだした。
「ちょっと、やめてこんなところで…」
「お前、好きなら好きって言え。俺は言ってやる。俺は、盾涌美和子が好きだ。俺の料理に向ける情熱は間違いなく、それで動いている!」
美和子が呆然として、良明を見つめた。
「俺は、すべてを捨てても良いぐらい、美和子が好きだ。少しも彼女の前で格好のつくことなんてできない。お前が来てからというもの、俺の天下はなくなったんだ。お前は、俺の持っていないものを、ことごとく持っている。俺はお前が許せないぐらい憎いのに、お前を心の中で認めている」
「良明…」浩太は、良明を見つめた。彼の葛藤は自分のせいだ―。浩太は締め付けられるような思いをして、胸を押さえた。
「お前が出て行く必要はない。出て行くのは俺だ。盾涌食堂にも美和子さんにも必要なのは、俺じゃない!お前だ。」
良明は、コップを机に力強く置くと、一人、『洋食屋たいら』の入り口に歩いていった。
「良明!」浩太は呼びかけた。なんと声をかけて良いのか、言葉が浮ばなかった。
「悪酔いした、夜風にあたって、酔いを醒ましてから帰る。二人とも悪かったな」良明は、ゆっくりと扉を開けて店を出て行った。
美代は、パティを捏ねながら、なにやらざわついている店内が気になって、丸山に訊いた。
「痴話喧嘩みたい…。でも、片方が出て行ったので、収まったみたい」丸山はじっと店内を見ている。
「そう、ならいいわ」
「山本!」
「問題ないんなら、黙って!忙しいんだから」美代の手は肉まみれになっていた。
「いや、もう帰っちゃうみたいなんで、言うけど、あれ浩太じゃないかと…さっきから、言ってるんだけど…」丸山が指差す先を、美代が驚いて見つめる。壁が邪魔だ。
「浩太?」美代は手を止めて、厨房から、ひょいと顔を出して、ホールを見つめた。会計をしている女性の横に短髪の背の高い男がいる。じっと美代は眼を凝らした。
「髪の毛が短い…」美代は更にじっと見つめる。会計が終わって外に出て行く二人をじっと見つめる。眼から一滴の涙が零れる。
「山本!、あれ、絶対に浩太だろう。だって、一緒にいる人も『浩太』って呼んでたしな」
「馬鹿!なんで、それ早く言わないのよ!」美代は手捏ね中のパティを丸山に預けると急いで、走り出した。「浩太、浩太…、やっと会えたわ」ホールに出たところで、小さい女の子にぶつかる。「危ない…」女の子が転んだ。
「御免なさい…」美代が、肉塗れの手で触れないように、そっと女の子に近づいた。「大丈夫?」女の子は、スクッと立ち上がった。「私は泣かないよ」母親らしい人が近寄ってきた。
「きをつけて頂戴、うちの子になにかあったらどうされるおつもり?」母親らしい女性がキッと睨みつけた。
「隆志、大丈夫?」
「大丈夫だよ。お姉さんは悪くないよ。僕がこけたのよ」
「…隆志…」美代は、女の子の格好をしている、子供を一瞬びっくりして見つめたが―今は、それどころではない。「ごめんね」美代は再度、頭を下げて、睨みつけている母親を無視して、外に走り出した。
浩太は、外をきょろきょろと探していた。
「御免、俺がのこのことついてきたから悪かったんだ。二人の邪魔をするつもりはないんだ」
美和子は浩太を見つめた。「私があなたを呼んだのよ。だから、来てくれて嬉しかった。なぜ、いつも、良明を気にするの…」美和子は浩太の心を知っていた。
「気にする…どういう意味…」浩太は、美和子に問いかけた。
「私は、公平に二人を見ているわよ…」美和子はじっと浩太を見つめた。無言が二人を包む。浩太は躊躇した。―駄目だ―。この役目は良明のものである―。
「辞めてください、俺は、どこの誰だか分からない人間で、みんなの善意で生きている人間です…、良明が出て行く必要は全くないんです。出て行くなら俺の方に決まっているんですから…どうあっても、出て行くのは俺です」
美代は、外に浩太を追いかけて扉を開けた。
「浩太…」
浩太はそこに居た。真っ直ぐ立っていた。その横に女性が居てる。その女性は、ゆっくりと背伸びをして、浩太に口付けを交わした。
「こ…う…た…」美代は金縛りにあったように固まった。
浩太は動けずに固まっている。
「美和子さん…」浩太は抱きしめようとした手を戻し、美和子の肩に手をかけて、俯いた。「帰りましょう。あなたの見ている俺は借り物です。居場所がなくて、借りているだけ、俺の姿に何かを見てるなら、それは俺ではなくて、良明だと思います」浩太は振り返った。そして、浩太も固まった。
そこに、もう一人の美和子がいた。いや、―美代がいた―。浩太の記憶に何かが流れ込もうとした。
「美代…」浩太が声をかける。
美代の頬を涙が流れる。美代は浩太に目線をあわさずに、そのまま、扉を開けて店内に入った。
浩太は、追いかけようとして、自分が何がしたいのか、判らなくなった。
美和子は、ゆっくりと車に乗った。
浩太は、どうして良いか分からずに、ただ、取り戻し切らない記憶の断片をそこにおいておくように、美和子の車に乗り込んだ。車は盾涌食堂へと去っていった。
丸山がパティを持って、店の入り口にやって来た。俯いている美代の前を見つめた。
「どうだった、浩太だっただろう」
美代は俯いたまま何もいわない。
「どうだったって訊いてるんだけど…」
「うるさいわね!」眼を真っ赤にした美代は、顔を上げると丸山を睨んだ。そのまま、どかどかと店内に戻り、厨房に入って行って、座り込んでしまった。丸山は美代の側へ走ってやって来た。椅子の上に膝を抱え込んで固まっている美代に対して、丸山は肩をもって揺すった。「おい、おい、壊れてるんじゃないよ。何があったんだよ」
「もう、何もしたくない!」
「おい、おい、この注文はどうするんだよ」丸山はずらっと並んだ、注文伝票を指差した。
「もう、勝手にやってちょうだい…もう、皆いらない…」美代は言い捨てると顔を埋めた。
「おい、いい加減にしろよ。俺一人で出来るわけないだろう…」
「もう、どうでもいい」顔を上げない美代に、丸山が詰め寄る。
「おまえ、浩太を追いかけて来たんじゃないのかよ。何があったか知らんが、すぐそこにいてたじゃないか」
「うるさいな、浩太は、こっちで、別の女の人と仲良くやってるみたいだし…もういい。もう、皆、どうでもよくなってきた…」
「ちょっと、待てよ。じゃあ、もう終わりか、それじゃ、あいつの願いどおりじゃないか。あの日高馨とかいうやつの思うままだろう。そんなのなしだぜ、俺は嫌だね」
「あんたの問題じゃないでしょう」美代が顔を埋めたままで、文句をいう。
「いんや、もう、俺の問題でもある。山本!おまえ、何しにここまで来たんだ!」
「…」
「こんな店でハンバーグ作るために来たのか!違うだろう。おまえがやらないなら、俺もやめる。こんな店、辞めてやる」
丸山は、外に閉店の看板を出した。