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愛しのハンバーグ  作者: 七刻眞一
7/11

消えた浩太


次の日も、美代は『珈琲カフェたいら』にやって来た。珈琲だけを頼んで、夕方までいたが、一人とぼとぼと帰っていく。その次の日も、次の日も、珈琲だけを飲んで、夕方には帰っていく。

平も参っていたが、それ以上に美代も参っていた。あれから、『小松食堂』へ戻って、浩太がいなくなっていることを知って、呆然とした。浩太へ電話を何回もしているが、お決まりの『電源が入っていないか…』というアナウンスが流れ、毎日のようにしているが、全く通じない。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』にも電話はしてみたが、当然、誰も出ない。『帝新ホテル』にも、電話はしたが、そんな人はいませんといわれる始末。美代は陽輔や日高教授のことよりも浩太のことが一番の気がかりになっていた。しかし、何をして良いのかも分からずにただ、毎日、『珈琲カフェたいら』に通っていた。美代が屍のように、ただ、やって来て帰るの繰り返しを三日続けた日のこと。平忠文は根をあげた。とうとう、平の爺さんは、電話機を取って、ダイヤルを押した。

「とうとう、教えるの?」おばさんが訊いた。

「あぁ、もう無理だよ。誉士夫に電話して、材料揃えさすようにいうよ」

「よかったぁ、わたし、お父さんのこと嫌いになりそうだった。もっと早くそうしてやったらよかったのに…、『レジデンス』かなんかしらないけど、そんな個人的なことに口出してくる奴なんて、ろくな奴じゃないよ。人間のくずだよ…」

「仕方ないだろう。あいつらは、『焼いてみて屋』の株を持っているんだから、言うことを聞かないと会社があいつらの思うままになっちまう」

「お父さん、料理人でしょう」

「あぁ、昔はな…」

「今もよ…」

平忠文は柄の反り返った帽子を被ると茶色の腕の出る上着をまとって、「『御来屋』に行ってくる…」と言って、出かけた。



次の日も、美代は『珈琲カフェたいら』にやって来た。

「今日は珈琲を頼まなくていいわよ」と囁くおばさんに、美代は目をきょろきょろさせた。「どういうことですか?」すると、奥から、平誉士夫が現れた。

「あれ、平のお爺さんは?」困惑する美代に誉士夫は、相変らずの馴れ馴れしい口調で声をかけた。

「今日は、美代ちゃんを連れて行く様に言われたんだ」

「えっ、どこへ?」

「『究極のハンバーグ』が食べられる場所だよ。俺も、君を連れてきた責任をとれって言われてね。今日は、逆に君をここで、待ち伏せてた訳だ」美代は何が起きたかわからないままに、平誉士夫に、『焼いてみて屋』のミニバンに乗せられ、例の市場に連れて来られた。そう、ここは、肉の仕入れ、あの『御来屋』だ。

きょろきょろする美代に誉士夫は、背の高いのをいいことに遠くを覘いた。

「もう、全員来てるみたいだな。当然、集合場所は『御来屋』さ」当たり前のように、誉士夫は言った。

「知ってますよ。『小松食堂』もご用達ですから…」

「ここで、『小松良明のハンバーグ』を食べられる」誉士夫が感慨深く話した。

「ハンバーグ…食べれるんですか?」美代は聞き返した。

とにかく行こうという、誉士夫に連れられて、美代は御来屋へ到着した。

そこには、いかにも肉屋の『御来屋』主人、『岡坂』と、白髪の『平忠文』、それにもう一人の老人が座って待っていた。

「待ってたよ」平の爺さんが声をかけた。

「どうして、今になって食べさせてくれるの?」

「負けだよ。俺の負け」平の爺さんが伐が悪そうに言った。

『御来屋』主人の岡坂の横に、平の爺さんより肌とツヤのいい、老人がニカっと笑って座っている。「小松の孫娘だな。やんちゃな子だ」そういうと、岡坂が紹介した。「俺の親父さ、先代の御来屋大将。岡坂健造だ。小松の爺さんとやり取りしていた張本人さ」

「は、はじめまして…」美代は緊張した面持ちで挨拶をした。

「俺にとっては、美代ちゃんははじめてじゃないぞ…」

「あ、はい、…」美代は、お爺ちゃんを知る人に会えて、少し感動していた。

「今日は、美代ちゃんのために、皆で、亡くなったお爺ちゃんのハンバーグを作ろうと集まったんだ」

「ありがとうございます」美代は皆に頭を下げた。

「でも、勘弁してくれな、俺達だって作るのは初めてなんだ」平忠文が告白した。

「えっ、…作ったことがないんですか?」美代は当然、作ったことがあると考えた。

「そうだよ、今日作るのは、俺のところで出してるマネものじゃない。本物の『小松良明のハンバーグ』だ。残念ながら、俺は実際に作ったことなんてない、俺と健造は、美代ちゃんと同じだ。食べたことがある二人なんだよ。でも作ったことはない」平のじいさんが説明した。

「食べたことがある二人?」

「そう、この二人と美代ちゃん、それと、後は、美和子さんだ」平の爺さんが言った。

「あの小松の『究極のハンバーグ』は、秘密のハンバーグなんで、限られた人間しか食べたことがない」御来屋の健造爺さんが言った。

「俺は、小松が修行に来て、美味しいハンバーグの作り方を教えたって言われてるが、不思議なことに、どうやって教えたのか覚えてない。多分、あの時に雇った料理人の誰かが作ったんだろう。しかし、どういう訳か、小松が、そのハンバーグに魅せられて、盾涌食堂を辞めて、うちにやって来たんだ。あいつは、そのハンバーグを格段に進化させちまった。俺がしたことといえば、鉄板を提供したくらいだ!」平の爺さんは、懐かしく思い出していた。

「俺は、小松に美味しいハンバーグの材料をいろいろ提案したんだが、あいつは、それを見事に全部、却下して、別の注文をしやがった。でもな、市場の協力があったから、パン粉から、淡路のたまねぎから、調味料から、俺んちの特上の肉まで、全て揃ったんだ。だから、小松のハンバーグは、俺達なしには、作れなかったんだ…」健造爺さんも懐かしく語った。

「二人はな、小松の試食会に呼ばれたんだ」平の爺さんが自慢げに言った。

「試食会ですか?」

「そうだ、小松の爺さんが作ったハンバーグが、その役目を果すかどうかを、俺達が試食したんだ。その時に、食べた。そして、レシピも知っている」

「役目、試食…?」

美代はその話しを聞いて、どうも自分の紙芝居に似ていると思った。グルメ大王の自分の紙芝居を聞いているような気分になった。皆が力を合わして『ハンバーグ』を作る。そう、なら、誰かグルメ王がいるはずだ―。―役目?―。


「まぁとにかく作ってみよう。材料は全てここに用意してある」御来屋の若大将?岡坂が大きな声を上げた。平誉士夫が腕まくりをする。そして、奥の調理場へ皆を誘った。誘われるままに美代は奥へ進んだ。

「手順は教わった。では、作り始めるとしようか!」平誉士夫と岡坂が、爺さん二人と美代に見つめられて、手際よく、ハンバーグ製作を開始した。

「但馬牛と禁華豚の粗挽きミンチだ。贅沢だぞ!それに、但馬牛だけのモモ肉100%のパティを組み合わせる。まず、パティを作る」岡坂が、機械に肉をかけて挽き始めた。

「大豆の茹で汁と鶏がらスープ、サラダ油、ローストオニオン少々、ワイン、これが出汁だ。それぞれのパティには、それぞれの味つけが入る。卵、細かく刻んで炒めた玉ねぎ、パン粉、ナツメグ、ハーブ、塩、胡椒、十分に混ぜ合わせたら、さっきの出汁をいれて、再度混ぜ合わせる。パティの元は完成する」誉士夫がパティをコネ始める。ペタン、ペタンという空気を抜きながら形を整える作業は悦に入っていた。上手だ。少なくとも、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』には、これほど上手にパティを作れる人間はいない。美代は関心した。

「次に100%パティを細くペースト状にする。そして、こっちのパティをもとにして、外側に絡めていく」

「包むのですか?」

「そうだ、うすく、うすく包む。これで、外がカリッとなるんだ」

岡坂は、熱していたフライパンに油を入れた。

「ソースを作る。ガーリックの細かく削ったものと、たまねぎのみじん切り、にんじんを細かく刻んだもの、本しめじのぶつ切り少量をこんがりするまで焼き、そして冷ます」岡坂が熱しているフライパンに誉士夫が調味料を入れていく。もう片一方で更にフライパンを熱し始めた。しばらくして、オリーブオイルがはじき出す。

「パティを焼くぞ」誉士夫は空気穴を押して真中をへこますと、温められたフライパンにその面が上になるように滑らせた。

ジューと肉が油に弾く音がして、いい匂い漂い始めた。誉士夫は濡れタオルを被せておいた蓋をそっとパティに被せた。蓋の中が蒸気で一気に真っ白になる。

「この細く絡めるビーフが、焼きを演出するんだ。これが、究極のハンバーグの見た目と食感だ。そして、こげを確実にコントロールすることで、カリカリ感がでている」

「そう、そうよ。外がカリカリなの…確かに、お爺ちゃんのハンバーグだ…」美代はうっすらと涙目で焼けるハンバーグを覗いた。

「そして、外はパリッと牛肉100%、ガツンと来る肉の美味しさ。中はジューシーで、肉汁たっぷりな状態に保つ。出汁が肉と絡んで、美味しい肉汁をたっぷり中に閉じ込めて、完成だ」

「ソースも完成にもっていくぞ。ソースはチーズを主体としたフォンデュと濃厚なデミグラスソースの二種類だ。しかし、フォンデュは、風味だけを残して味は飛ばす。そのとろとろさは、実際、呑めてしまうぐらいに溶かせてある。それに、先ほどの味が染みたソースの元を使ってじっくり煮込んだデミグラスソースを使って、文字をかく」

美代はわくわくしていた。「そう、お爺ちゃんのハンバーグにはウサギが書かれていた」

蓋を開けられたハンバーグは、一度ひっくり返されて、パティが狐色に焦げていい味を見せた。しっかりと表面がカリカリに上がっている。少しして、誉士夫がターナーで鉄板から持ち上げて、皿に盛り付けた。ハンバーグはソースを待ち焦がれている。岡坂が、そこにとろとろのフォンデュを被さるようにかけた。二回ほどかけると、肉の温度で、上部だけにチーズのキャンバスが出来上がった。デミグラソースで文字を書く。

「なんて書いたらいいですか?」岡坂が訊いた。

「I LOVE YOUだ」健造爺さんが、柄にもなく応えた。

「え、どういう意味ですか?」美代は訊き返した。

「当然だ、これは『小松良明』が、『盾涌美和子』のために考案したハンバーグ、美和子さんに食べていただくためだけに、作り出した。他の誰にもたべさせない『究極のハンバーグ』なんだからな」

「え、」美代は動揺した。いったい、どういうことだろう。「ちょっと、『小松良明のハンバーグ』は、お婆ちゃんに関係があるんですか…」美代は狼狽した。このハンバーグの『秘密』とは…。「そのお婆ちゃんのためのハンバーグって一体…」美代は健造爺さんに問い返した。。

「…美和子さんは工場でも人気だったそうだ。本人の希望で、食堂に配置転換になってからは、皆が美和子さん見たさに食堂に行ったらしい」平の爺さんが応えた。

「…お婆ちゃんって、人気…だったんだ」

「美代ちゃんも当時の美和子さんに似てるよ。美和子さんにそっくりだ」

「あんまりモテないですけど…」美代は受け流した。

「美和子さんは、食堂で働いたのは偶然じゃなかったんだ。小松と、もう一人の料理人がいたからだったんだ。美和子さんは、食堂でも、この二人と特に仲がよかった。事実上、美和子さん争奪戦は、小松と、その料理人の一騎打ちになったんだよ」

「それが、どうハンバーグと関係があるんですか?」美代は前かがみになって訊いた。

「美和子さんは、うちの『洋食屋たいら』のハンバーグが大好きだったんだ。だから、小松良明は、美和子さんのために、『洋食屋たいら』を越えるハンバーグを作ることを決めたんじゃ」平の爺さんは説明した。

「もしかして、お爺ちゃんは、そのために、修行して、このハンバーグを考案して、作ったんですか?」美代は目の前に置かれているハンバーグを見つめた。

「馬鹿だろう。あの男の、『愛しのハンバーグ』なんだよ」

「愛しのハンバーグ…」

「知らなかったんだ…。天性の料理人『小松良明』は妥協がない。その小松が『洋食屋たいら』のハンバーグを食べて、おそらく一大決心をしたんだろう。生半可なことで、これを越えることはできないと、だから、盾涌食堂をやめて真剣に取り組まないと無理だと考えたんだ」

「その後、すぐ美和子さんも責任を感じて辞めたんだ。一人の男前と一人の美人が盾涌食堂からいなくなった…」

「だから、盾涌食堂は人気がなくなったんだよな…」岡坂が言った。

「だから、この愛しのハンバーグは、『小松良明』が『盾涌美和子』さんにした、自分の料理全てをかけた、愛のハンバーグなんだ」健造爺さんが美代に丁寧に話した。

「その凄腕の料理人も、お婆ちゃんにハンバーグを作ったんですか?」

「いいや、作ったのは『小松良明』だけだと訊いている。なんたって、俺達は試食をしただけで、本番には参加しちゃいないからな…」

「そう、なんだ…」美代は、どうして、お爺ちゃんだけが作ったのかと思った。

「美和子さんは、小松のプロポーズを受けた。だから、このハンバーグは二人にとって、特別なハンバーグだったんだ。だから、食堂では出されないんだと思う…」

「そんな…」美代は理解した。『秘密』ってこれなのか、これが『秘密の意味』なのかと―なぜ、お婆ちゃんは教えてくれないのか、なぜ、皆がここまでして、自分に教えてくれなかったのか―。

「お婆ちゃんだけのハンバーグだった。だから、俺達も作り方は知っていても、作ったことはない。小松との約束だった。絶対に秘密にしておくことがね。今回初めてそれを、破った」

「だから、初めはびっくりしたよ。秘密のハンバーグを美代ちゃんは食べたことがあるっていうんだからね」健造爺さんがじっとハンバーグを見つめて応えた。

「小松が、お婆ちゃん以外に、最初で最後に作ったハンバーグなんだろうな」

美代は感無量になって、ハンバーグを見つめた。「そこまで、言われると食べられなくなってしまう」

「駄目だよ、食べないともったいないし、なぜ、お爺ちゃんは孫娘に食べさせたのか、答えをださないとね」

美代は、ハンバーグを食べた。

美味しかった。

そうだ、この味だ。

これが、『小松良明』の『究極のハンバーグ』…懐かしさと入り混じって美味しくて、泣き出しそうだった。

昔食べた味と同じだった。

―『究極のハンバーグ』は手に入れた―。

でも、美代は、浩太の気持ちにも自分の気持ちにも気付いて、そして、取り返せないものを失った。これを食べて、陽輔や日高先生がどうなるものでもなかった。やっぱり違うんだ。浩太の言っていたことが正しかったのだ。

―『究極のハンバーグ』のレシピを手に入れることが解決ではない―。

代償を払って手に入れた『究極のハンバーグ』、そして、そのレシピも、お婆ちゃんの大事な思い出の一品として、自分が利用することすら憚れた。

私は『究極のハンバーグ』を手に入れては駄目だったの―間違ってたの―?お爺ちゃん、どうして、私にハンバーグを食べさせたの―。美味しいものを食べたのが、こんなにイケナイことだと思うのは、初めてだった。

『美味しいものは、沢山の人にたべさせないといけないんだよ』小松良明の言葉が胸に蘇る。―お爺ちゃんのうそつき―。


最後に平の爺さんが気になることをいった。

「一つ気になることがある。美代ちゃんは、『レジデンス』というレストラングループをしっているかい?」

「はい…知ってはいますが…」美代は、どうして、ここで『レジデンス』が出てくるのか不思議に思った。

「実はな、レジデンスの男が、『珈琲カフェたいら』にやってきて、絶対に誰にも『小松良明のハンバーグ』のことを教えるなといってたんだ」

「レジデンスの男?高橋ですか?」

「多分、名前は覚えていない。そうだったのかな…。意味が分からなくてな、実は、『焼いてみて屋』の大株主が『レジデンス』なんだ。俺には逆らうことが出来なかった。ごめん、美代ちゃん。許してくれ!」

「平さん…、そんな…、じゃあ、これで、『焼いてみて屋』はどうなるんですか?」

「わからん、約束を破ったからな、だが、こんな、個人的なことで、どうこうするようなことはしないじゃろう。そんなことをやっておったら会社がもたんと思うが…」

美代は、高橋なら、やりかねないと思った。浩太から『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を奪って、帝新ホテルの厨房を首にし、仕事場を簡単に奪っていく男だ。焼いてみて屋に何かすることぐらい何とも思ってないかもしれない。彼からしてみれば対したことでもないだろう。

―しかし、なぜ、『レジデンス』が『究極のハンバーグ』を秘密にするのだろう―。



 美代は、自宅に戻って自分の部屋に閉籠もっていた。昨夜までの満身創痍の美代ではなかった。今までに起こった不思議な事柄を思い出すように、順を追って整理していた。

母の幸子が美代の部屋の前で声を上げた。

「もう、戻ってきたのなら、昼ごはんを食べなさい。遅いけど、用意してあげるから…美代、出てきなさい」

「いらない!」ドア越しに返事だけが聴こえる。

「毎日、毎日、どこへ行ってるのだろう。一人で帰ってきて、一人で出て行って…」幸子は、ぼそぼそと一人言を言って階段を降りて行った。


 部屋の中では、足を引き寄せて、縮こまっている美代の姿があった。足を抱え込んで、座り込んでいる。目の前には、スケッチブックが転がっていた。目は赤く腫れ上がり、目の下には隈がある。少し痩せたような感じで、ただじっとスケッチブックを見つめている。

スケッチブックには、大きくバツが書かれている。そのバツの下には、ハンバーグのレシピが書かれていた。

―何も解決してない、これじゃ、浩太の言ったとおりだ。やっぱり間違ってたのか―このまま、めそめそしていても拉致があかない―。

「大阪に戻ろう」

美代は決意した。多分、浩太も戻っているに違いない。

浩太の携帯は、未だに電波がつながらない。再度、電話をしてみるが変わりはしなかった。躊躇いながらも、美代は亜理紗に電話してみた。

ベルの音が響く、電話が繋がった。亜理紗の声が懐かしかった。

「亜理紗!あれから、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に行ってみた?どうなったか、心配なの、実は、浩太が携帯電話にでないの…」美代は訊いた。

「え、何のこと、何それ?」

予想しない言葉が返ってきた。「え、何言ってるの、私、浩太と『小松食堂』に行くって…」

「ちょっと待って、誰、その浩太って、秘密の彼氏なの?聞いてないよ。しばらく田舎に帰ってないから戻るって言ってたんじゃなかった?」亜理紗はトンチンカンなことを言う。

「そんなこと、浩太の叔父さんの『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が閉鎖されたじゃない?だから、こっちの食堂に浩太と一緒に…」

「そのレストランって何のこと言ってるか判らないわよ。悪い、美代がいなくて、大変なのよ。早く保育所のバイトに戻ってきてよ。あ、お遊戯の時間始まるし、又後でね…」

「あ、亜理紗…」電話は切れた。

いったいどういうことだ。

亜理紗が、浩太のことを覚えていない。

―まさか―

狐に包まれたようだ。嫌な胸騒ぎがしだした。あってはならないことが起きている気がした。美代は部屋を見渡して、鞄を探した。急いで戻らないといけない―。早く大阪に戻らないといけない。

―浩太が消えた―。

それだけは、絶対に嫌だ。絶対にそんなことになってない。大丈夫。まだ、間に合う。

良一が仕事場、『小松食堂』に行くのに階段を降りて来て、外へ出ようとしていた。

ガタガタ、ドターン

「なんだ。なんだ」物凄い大きな音が二階の美代の部屋からした。良一が急いで、音がした二階の美代の部屋へ昇って来た。

「姉ちゃん、どうした、大丈夫か!」

良一は、扉を叩いたが、返事がないので、勢いよく扉を開けて中を覗いた。

部屋に頭を下に、荷物に埋もれている姉が見えた。

「痛たたた」たんすの上に上げた鞄を取ろうとして、倒れたようだ。鞄やら何やら、たんすの上にあったものが一斉に美代の上に落ちてきている。

「姉ちゃん?何してるの、大丈夫かよ」

「あぁ、良一。悪いけど、今から市内へ直ぐに連れて行って、仕入れするから、夕方には大阪に帰るわよ!」

倒れこんでいる姉を見ながら、良一は笑い出した。

「…ははは…いや、俺、『小松食堂』行かないと…」

「何、言ってるの、どうせ対したことしてないのに…早く準備しなさい、行くわよ」美代が大声を張り上げた。


良一は、姉を連れて高知駅までやって来ていた。美代が岡坂に仕入れの件で電話したら、この前の『究極のハンバーグ』仕入れが少々残っていると言ったので、そのまま駅で合流することになっていた。しかし、そこには、なぜか、平誉士夫がそれを持って、高知駅にやってきていた。

「荷物もったろう」良一がキャリーバックを転がしている姉の荷物を奪って引き出した。

「とうとう、戻るんだな。岡坂が言ってたものは、全部ここに入ってある。大阪で作るのか!」駅の改札口へ向かう途中で、平誉士夫が話しかけた。

「判らない。でも、これを食べさせたい人がいるんだ」

「ははぁ、なるほどな。じゃあ、俺は失恋するわけだ」

「姉ちゃん、どういうことだよ」良一が興味を持って訊いてきた。

「でも、それじゃあ、多すぎないかい、一応十人前ぐらいは、しっかり入っているぞ」

「いいの。食べてもらいたい人は沢山いるから…わざわざ、持ってきてもらって、有難う」

「かまへんけど、なんか、今生の別れみたいやな、さびしくなるな、また珈琲のみに来いよ」誉士夫は、訳の分からないことを言って別れを惜しんだ。

「きっと戻って来るわ。あ、もうこんな時間。ありがとう、良一、誉士夫さん、ありがとう」美代は頭を下げた。

「おいおい、これ忘れるなよ、持って行ってくれよ」平誉士夫がカバンを美代に渡した。肩に既にカバンを下げて、背中にリュックを背負っている。反対側の肩にもらったカバンを掛けた。そして、良一からキャリーバックを受け取ると、手荷物の山で本人の姿は見えないほどだった。その荷物の山は改札口に向かって行った。

風に吹かれて、どこからか、帽子が飛んできた。浩太の帽子だ。まさか。

―その帽子は、拾ってほしそうに美代の目の前に落ちた―。

一度見過ごしたが、どうしても気になって、美代は引き返して、帽子を拾った。帽子にはイニシャルのKKが記載されている。「間違いない、浩太の帽子だ…」胸騒ぎが停まらない。勘違いであって欲しい。出ている答えを、美代は考えないようにして、その帽子を深く被った。



 大阪のごみごみした街並みが近づくにつれ、今までにない緊張感に包まれていた。すっかり日は落ちて、夜中になってしまった。美代にとって、つい、この前まで過ごしていた何気ない街並みの明かり、良く乗る電車の路線でもあった。しかし、実家に戻っていたせいなのか、浩太のせいなのか、今日はなぜか、いつもと違う緊張に包まれていた。

浩太のことを知らない。亜理紗が、覚えていない。そして、浩太の帽子がある。

この不思議な現象をよくよく思い出してみた。

お爺ちゃんと日高先生の写真。陽輔が消えた。

デニムの上着があった。日高先生が消えた。

そして、浩太が―。

ここに浩太の帽子がある―同じ感じがする。

否定したい気持ちが心に大きくなっていきながら、考えない訳にはいかない。

―絶対に浩太は大阪にいる。

―絶対に浩太に会える。

美代ははっきりと自分の気持ちに自覚していた。―浩太に会いたい―。このまま、会えなくなるなんて、絶対に嫌だ。

 大阪駅から、環状線に乗り変えて、迷わずに『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を目指した。大阪城の見える、いつもの場所。美代は夜の大阪城周りを走る。一生懸命に走る。路地裏を抜けて、いつものように走る。急いで、テナントの並びにやって来た。

顔を赤らめて、初めての面接に来たときのように、不安を打ち消す為に走った。


そして着いた。


店の前にやって来たが、雰囲気や様相が違った。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の大きな看板がない。周りの様子が少しずつ違う。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のあった場所には、『貸し店舗』という札が貼られている。違う。閉店しているからではない、雰囲気、たたずまいが、全く違う別ものになっている。

―『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が存在しない―。

がっくりと肩を落として、美代はひざを付いた。

「そんな…、店自体が存在してない…」鞄とリュック、キャリーバックが主の支えをなくして、地面に零れ落ちた。美代は、荷物を放置したまま、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』であった場所にゆっくりと近づいた。そして、窓越しに店の中を覗いてみた。ガラスにぴったりと頬を寄せた。全く違う店内が見える。

「違う、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』以外の何かがここにあって、しかも、その店も閉店した。なら、浩太はどこに居るんだろう?」美代は、携帯を取り出して、再度、浩太に電話した。「ただいま、電波のつながらないところにいるか、電源が…」同じアナウンスだ。つながらない。

やっぱり、浩太も消えた。

再度、店を覗く、厨房があるが、イタリアンでもない、誰の店か判らないこの店があるだけだ。

目の前の公園に荷物を持って移動した。ここだと、店の全体が見える。ブランコが丁度いいぐらいにテナントに向かって垂直に立っている。ブランコの脇に荷物を置くと、風に揺れているブランコに腰掛けた。寂しくなったが、泣くもんかと歯を食いしばって、店ではない、ただの空きテナントを見つめた。

―自覚しよう―。

浩太は居なくなった。

陽輔くんや、日高先生と同じ。浩太の記憶も皆から、なくなった。皆と違うのは、また、私だけは記憶があるということだ。

そうなると、誰がやったのだろう。浩太は、高橋を探すと言っていた。高橋昇治―。『珈琲カフェたいら』にも来ていたという、同窓会でお婆ちゃんと話しをしていたとも言っている。高橋が、それをやったのか?

雨がぽつぽつと、降り始める。外灯の明かりがスポットライトのように濡れた地面を照らし、きらきらと光りだした。そこに、見た人影が浮かび上がる。ちょうど、公園とテナントの間の道路に小さい人影が現れた。

陽輔だ。

「陽輔くん…」美代が声を掛ける。陽輔が美代を見て、公園の反対へ走り出す。美代はブランコから飛び降りて、走り出した。

公園の脇を越えて道路に飛び出した。走る美代。「陽輔くん!」陽輔がこちらを見る。道路の真中に走りこんで、陽輔を捕まえようとする。何かが勢いよく走りこんでくる。光が眩しい。

「お姉ちゃん?」

凄い勢いで、二つのヘッドライトが二人を包み込むように雨の中近づいてくる。トラックだ。


―シマッタ―。


キィー、耳を劈くスキール音がなる。トラックのフロントが大きく、美代の前に迫ってくる。美代の目の前に、スローモーションのように迫る。

―迫る。迫ってくる。

―もう駄目だ―

―いや、来ない!

停まっている!

美代はペタンと地面に腰を落とした。目の前に停まったトラックは、ハンドルを大きく切ったのか、タイヤが大きく左に交差するように曲がっている。

美代はゆっくりと、立ち上がって、トラックから離れた。運転手が必死の形相で、ハンドルを目一杯に左に切っている。全てが停まっている。何もかもが―美代は不思議に思いながら、陽輔のほうを見た。さっきまで、陽輔が居たはずのところには誰もいない。

美代は引き寄せられるように、店を見つめて歩みだした。店を覘いてみた。

真っ暗だ、でも、誰かが中にいるのは判った。

ゆっくりと、停まったままのトラックを振り返りながら、店の扉を押してみた。

扉はすぅーと開いた。

美代は、店の中に入った。店内は真っ暗だ。奥にいるのは誰だ!美代は、暗闇の中、目を凝らしてじっと見つめた。黒に塗り固められたような真っ暗な店内は無音で、無色で、吸い込まれるような漆黒だけに包まれている。

「陽輔く…ん…よね。そこにいるの…戻って来れたの?…」

全く返事がない。自分の気配が吸い込まれそうになり、踏ん張るように、ゆっくりと足を地面に強く力を入れた。

「陽輔くん、心配したわ。本当に心配したのよ。お姉ちゃんさっき、そこで見たわよ。そこに居るんでしょう…」

美代は、視線を泳がせて、暗闇の中を探した。美代の先に、椅子が一つ置かれているのが判った。その椅子に誰かが座っている。―子供じゃない―。一瞬、美代は後ずさりして、身構えた。

「誰、陽輔くんじゃない…あなたは誰?」

返事はない。美代は、その以上先へ行かず、その場に立ち止まった。

「あなたは誰?」美代は続けて質問をする。「さっきのトラック、止まっているのは貴方の仕業?…」

座っている姿、丁度頭、目のあたりに青い光が揺らいだ。閉じていた目を開けたのだ。目から青い光が揺らいでいる。身動きしなかった椅子の影が、ゆらりと動いた。

外から大きなタイヤがすべるスキール音が聞こえる。そのまま、外をトラックが通る。ヘッドライトの明かりが、一瞬、椅子の足元を照らす。男モノの革靴の先がチラッと見える。美代が身構えた。その時、男の口が開かれた。

「…何を訊いてるんだい?望んだ通りだろう…」若い男の声だ。

美代は眉をしかめた。

「の・ぞんだ?」

男は椅子に座っている足を組み替えた。「あなたは言った。『居なくなればいいのに』と…」

「え、何のこと、言ってるの?」

男は続ける。「だから、居なくなった。そのようにしてあげたんです。浩太はいなくなったでしょう。私にとって、彼は邪魔だった。私と美代さんの望みが一致したわけですから、待ち望んだ結果になったわけです。喜んで消してあげましたよ…」男は身を乗り出した。暗闇に青く光る目が異様さを醸し出す。

「…浩太を消したのはあなた…なのね…、陽輔や日高先生もあなたが消したの?」

「ちょっと違いますが、浩太を消したのは僕です。邪魔者はいなくなりました。…僕の想いを受け取っていただけますか?」

「…あなた、いったい誰?」美代が、男の顔をじっと見つめた。眼が慣れてきたからか、男の顔がぼんやりとわかった。考えても見ない顔が浮かび上がった。

―そんな、そんな馬鹿な―。

「まさか、日高先生…日高教授…でも若すぎる!」

男の顔は若作りしているように見えるが、間違いない。

―日高 馨 だ ―。

「…かなり若いと思っているのでしょう」

美代は、大学での三十歳前の日高先生の姿を思い出していた。たしか、教授で二十八歳、それでも十分に若かったが、今、目の前にいる日高先生は、あきらかに十八歳ほど…学生と云っても良いぐらいの姿だ。雰囲気や顔形、声のトーンが間違いない。

「私にとっては、久しぶりの再会なので、胸が高鳴って仕方ないです」若い日高は胸を手で押さえた。

「忠告しておきますが、美代さんの知っている日高馨、日高教授と言った方がいいのかもしれませんが、彼は、もう存在しません。貴方にとって対した男ではなかったはずです。ある男が、私の未来を教えに来てくれて助かりました。だから、あの情けない自分を変えることができたのです…」若い声は自信に満ち溢れているようだ。異様な張りがあり、自分自身で自重しているように見える。

「ある男…、まさか…『レジデンス』の高橋!」

「ご存知でしたか、そう、高橋昇治です。彼には感謝してます。まさか、自分がそんなつまらない男になっているとは思ってもみませんでした。大好きな美代さんを目の前にして、想いを伝えられないような、駄目男になっているとはね…」

美代は一瞬、声を失った。人の心は判らないものとはいうが―。

まさか―「日高先生が、私を好きだったっていうの?」

「そうです。あ、毛嫌いしていただくのも当然です。あんな、つまらない男は嫌ですよね。だから、ぼくは変わったんです。同じ日高馨でも、自らこの力を積極的に使うことを選んだ。だから、研究室で、ちまちまやっている日高馨はもういない。私は自分の能力で、日高馨であることを積極的にアピールして、今、ここにいます。物理学者、日高馨は存在しなくなった。変わりに、18歳にして、『レジデンスグループ』相談役として富と名声を手に入れた日高馨がここにいます。行く行くは、この会社を率いて世界の富と力を手に入れます。全て、貴方のために…私は変わったのです。失敗をすることなく、ここまでやって来た。道のりは長かった」

鼻で息をすぅーと吸い込んで、自身たっぷりに、声をあげた。

「…美代さん、待ち焦がれてました。長かった…。やっと巡りあうことができました。わたしはこの瞬間のために、今までやってきたといっても過言ではない」

美代は困惑した。この男は日高馨で、しかも前の日高馨ではない。高橋に会って変わったと―高橋は、幼い日高馨に会って、日高馨の進むべき道を変貌させたのか―日高馨はそれ以前に私に好意を持っていたと―。

いったい、いつから―?

「優しい美代さんは、浩太のことを心配しているのですか…。もう彼は戻って来ませんから…これで、僕にもチャンスをもらえませんか?」

「浩太をどうしたの…、甥でしょう。あなた、浩太の叔父さんでしょう。何をしたの?」

「知っているでしょう。本当は血がつながってないのは…、それに、浩太は、絶対会えない場所に『さよなら』していただきましたよ」

「どこ、どこにやったの、浩太を返して!」

「返す…。折角、『さよなら』できたのに…また返すんですか?あなたが望んだとおりにしたのに…我儘だな…」日高馨は少々不機嫌になった。

「本当にそんなことは望んでないわ」美代は対峙したまま、身動きがとれずにいた。「どこにやったの…」

「かなり遠いところにやったから…、正気だったら、今頃意識が崩壊してると思いますよ…」日高薫は美代の顔色を覗くようにニヤリと笑った。

その笑顔の無機質な感じが許せなく嫌に感じた。

「…あなた、過去にいけるのね。日高先生が言っていた話、本当だったのね…」美代は問いかけた。

「もともと、日高馨はそういう力を持ってたんです。積極的に使わなかっただけです。ぼくは、積極的に使っただけです。そこに違いがあるんですけどね」

「浩太を過去に連れて行ったのね?どこに連れて行ったの!元に戻しなさい!」と美代は恐怖を感じながら、詰め寄る。一歩、一歩、近寄る。

日高薫は、ふぅーと溜息をつくと、今度は口元を歪ませて笑った。「わかったよ。美代さん。どうして、そんなに浩太にこだわるのですかね…いいでしょう…連れて行けば良いんでしょう。でも、連れて行ってもいいけど、それには条件がありますよ」

「…条件…」

「そう、美代さんの我儘を訊くから、僕の我儘も訊いてもらいますよ」

「我儘…?」美代は日高薫の姿を見つめる。風が吹き出した。日高薫の目が青く光りだす。日高薫の姿が消えた。

「え…」美代は、何者かに髪の毛を触られた。すぐ左横に、日高薫が立っていた。

「きゃ、」跳ね除けるように、体を逸らして拒絶する美代。今まで、その椅子に座っていたのに、一瞬で移動して美代の左横に現れた。また、風だけが美代の周りを舞う。今まで居たはずのそこに姿がない!

美代は恐ろしさに足が震えた。「あんた、人間なの、何者!」

「僕の我儘は簡単です。僕と一緒になってください。僕は昔からずっと、美代さんを視てきました。ぼくは浩太のような、わからずやと違う。あんな、半人前の料理人ではない。美味しい料理を作ってあげることができる。富と名声、そして、この力を持っています。自在に過去にいけますし、場所も自在です。すべて、美代さんのために、僕は努力してきました。そしてこれからも努力していきます。けな気でしょう。どうです?僕と一緒になってくれませんか?」

「何言ってるの!」美代は、日高薫に恐怖を感じていた。

「…いいですよ、別に僕の望みを訊いてもらえないなら、浩太は永遠に戻ってこれないし、どうせ、あんな男、もう死んでるかもしれないし…ただ、それだけ」片目をつぶってウインクをした。まるで、危ない武器を手にした子供のように、言うことを聴かないなら、浩太を戻さないと―はっきりと口にしている。これは脅しだ。しかも、まるで子供のような態度。刺激を与えると、もしかしたら、自分もどうなるかわからない。逃げ出すことも無意味。もし、逃げ出せたとして、浩太はどうするのだ。どうにかして浩太を助けないと―。

「いきなり、そんな…無理よ…」美代は何か、方法はないかを考えた。

「まぁ、いきなり答えを求めるのも失礼かもしれませんね。では、どのくらい、ぼくが凄いかをまず、見せてあげましょう。惚れ直すこと必見です」

身構える美代に日高は、自ら両手を上げて、何もしないというジェスチャーをして、後ずさりした。

「怖いんでしょう。僕も初めは恐ろしかった。でも、慣れれば、こんなに素晴らしいものはない」

「何をするの…」

風が徐々に起きる。びゅんびゅんという風切音がしている。

―あの時と一緒だ。陽輔、日高先生の時と―二人とも過去に飛んだんだ―。

部屋の中にも風が勢いよくまわり出しているが、この風切音は店の外からだ。店の外から恐ろしいほどの大きな音が聞こえる。日高の目が、よりいっそう青く光りはじめる。一瞬外が真っ暗になった。いや、自分の視界が黒になったのだ。

そして、次の瞬間、外が日の出のように、ぱぁあっと、明るくなった。美代は思わず振り返る。今度は、いきなり暗くなる。美代は慌てて扉へ駆け寄ってみた。すると、また外が明るくなる。

「太陽…が…」

太陽が、ぐんぐんと西から昇って東へ降りていく。また暗くなる。そして、また、昇ってくる。また…。美代はゆっくり日高に向き直った。「これは、どういうこと…」

「僕の力ですよ。他人を伴って行うのは二度目です。次は、趣向を変えましょう」続けて、また目が青く光りだす。風が凄い勢いで突風に変わる。美代と日高の体は、テナントの屋根をすり抜けて、大空へ高く、高く上がっていく。瞬く間に、数十メートル以上、上空に体がドンドン上昇していった。体の重さが全く感じない。街並みが小さくなり、数十メートルが数百メートルになった。夜景に光る大阪の姿が見下ろせるぐらいに、上空に上っていく。まだ、加速して上昇する。太陽が西から上がり、昼の大阪を見下ろす。そして、太陽は東へ沈んでいく。そして、どんどんと太陽の動きが恐ろしい早さになっていく。いつしか、瞬きするかのように空は明るさと暗さを交互に点滅するように光ったり暗くなったりを連続して繰り返した。

「やめてぇ」美代が頭を抱えた。恐ろしいほど高い場所まで二人は上がったところで、ぴたりと制止した。

日高は笑っている。

次の瞬間、今度は、真っ逆さまに落ちていく。地面へ急速落下していく。叫び声は全く声にならない。

「きゃー」美代は地面に落下する瞬間に―死んだ―と思った。しかし、しっかりと地面に立っていた。周りは、田圃だ。木や草の匂いが凄い。日高と美代の二人の距離は店の中と全く変わらずに立っていた。頭を抱えたままの美代はゆっくりと顔を上げると、日高薫を見つめた。

「ここは、どこなの?」恐怖を通り越して、怒りに近づいた美代の目は鋭く日高薫を睨んだ。

「怒らないでください。僕は普通の人とちょっと違うんですよ。この力を、僕は美代さんを幸せにするために使いたいんですよ。浩太に、こんなことができますか?僕にはできるんですよ」

「ここ、ここに浩太がいるの!」

「ふぅー」日高はやれやれという顔をして美代を見つめた。「美代さん、浩太のことは忘れてくださいよ。皆が、もう忘れているようにね」

「なぜ、私だけ覚えているの?貴方の仕業なら、なんで、記憶を消さないの?」

「ぼくの力ではないです。それが、よく分からないんです。これをすると、だいだい、その人の記憶が皆から無くなるんですよね。ま、というか、居なかったことになるんですが…」日高は平然と話した。「あ、当然ですけど、今、美代さんも、居なかったことになりましたから…これで、もう、僕と一緒になるしか、美代さんに道は残されてませんよ。さぁ、約束どおり浩太の居るところへ連れてきました。行きましょう。僕と…、どうです。野垂れ死んでいる浩太でも見に行きますか?」含み笑いをしながら、日高が手を差し伸べる。

「嫌よ、浩太を戻しなさい!、それに私も!」美代が後ろへ下がった。

その時、日高の後ろの方で音がした。ベシャ、ベシャ、田圃の中のほうから音がする。

「ぺ、ぺ、ぺ」泥を吐き出す音が聴こえる。日高が振り返って、暗闇をじっと覗き込んだ。

「おまえ、恐ろしい奴だったんだな、おまえの言うことなんか、聞かないほうがよかった」丸い黒い塊が、そういうと、ゆっくりと日高を見つめた。

「あらら、お邪魔虫を一匹、連れてきてしまいましたね」日高の視線の先には、丸い男。『ピクティ』の丸山が泥まみれになって立っていた。「うぉー」丸山は叫び声を揚げると、泥だらけのまま、日高に猛然と突っ込んできた。日高の目が青く光りだす。空気が生暖かくなって周りを包み込む。丸山は泥を日高の顔へ投げつけた。日高の青い眼が光を失う。そのまま日高は体をかがめたが、顔を手で拭って青い眼を光らせる。丸山の接近が一瞬早い。怯んだところを丸山は激突して日高を突き飛ばした。転げた日高に丸山は掴みかかった。掴みかかった勢いのまま、転げる二人、丸山は日高を渾身の一発で殴りつけた。日高の顔が歪む。

「こいつ…」日高は丸山から転がりながら離れた。よろけながら立ち上がると、口の中の泥か血を吐いた。

「あなた…」美代は丸山を見て唖然として、どうしていいか分からなくなっていた。

丸山は再度、、起き上がると、日高目掛けて再突進を開始した。「化け物めー」丸山が日高の体をすり抜けて、あぜ道に転がる。日高は手と服をはたいて、髪の毛を直した。

「やばい、やばい。意外と力あるんだね。さすが、高橋を吹き飛ばしただけある。僕は野蛮な戦いは苦手なんで、一旦、失礼するよ。予想外だね、そいつが来るとは…」日高の姿が薄くなっていく。

「日高薫、私と浩太を元に戻しなさい」美代は日高に怒鳴った。

「また、来るよ。あぁ、それまでに浩太にさよならを言っておくといいよ。大丈夫、美代さん、帰りたいと思ってたら帰れるからさ、心配はしないで、僕は必ず迎えにくるよ」

「どういうこと!」美代が訊く。

「そういうことだよ。浩太は帰りたいとは思っていないから、帰れないだけさ…」

「なによ、それ、どういうこと!」

「…」日高は何かしゃべっているようだが、声が聴こえない。もう、ほとんど姿が見えなくなっている。暗闇の中、道路の外灯の明かりに虫が群がっている。日高は消えていなくなった。静かな、そして暗い、田圃のあぜ道に、一人は立ち尽くして、一人は泥だらけになって転げたまま固まっていた。

美代は、寝そべっている丸山を見る。「あんた、『ピクティ』の人でしょう」

「…」丸山は応えない。

「黙ってても分かるわよ」美代も丸山の隣に座った。「大丈夫?助けてくれたんでしょう」

「あいつ、あの化け物は何者なんだ。知り合いか?」

「…分からない」美代は、しんとした夜空を見上げた。

「先生とか叔父さんとか言ってたな…」

「うん」

「化け物の叔父さんがいるのか?」

「私の叔父さんじゃないの…、浩太の、えーと、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の店長、イタリアンシェフっていったら分かる?」

「あぁ、分かるよ。粕谷浩太だろう。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』には、社長から、味を盗めって言われて、何回も言ってるしね」泥だらけの丸山は悪びれずにけろっとしてる。

「あんた、そんなことしてたの…」

「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は美味しいから好きだよ」丸山は、ゆっくりと立ち上がった。「それより、ここ、どこなんだ。あの化け物が戻ってくる前に、ここから離れないか?」

「うん、そうね…」そう呟いて、美代は田圃の中に埋もれている大きな四角い青い塊をみつけた。美代の鞄があるのに気付いた。

「私の鞄…がある」美代は指さした。

「俺のはないけどな」、丸山はそういうと、田圃に入って行って、さらに泥だらけになって、鞄を取ってきた。「ほれ、これでいいか」丸山は鞄を美代が手にとれるように畦道に寝かしてくれた。

「…ほかのはないみたいね…ありがとう、泥だらけだね」

「別にいいさ、これ以上、泥だらけになっても一緒さ、」

丸山は、靴の中が泥まみれになって、足を踏み込む度に、ガポ、ガポと音を鳴らした。

「どこかで、足洗いたいな」泥の匂いでまわりに広がる。

「そうね…」美代は、やっと少し笑顔になって頷いた。

二人は、ゆっくりと遠くに見える街の明かりを見つめ歩き出した。歩けど歩けど、田圃のあぜ道に変化はない。

「ここ、おかしくないか、大阪じゃないだろう」

「違うわね…」美代は、その景色に見覚えがあるのが分かった。ここは、美代と浩太が分かれた場所に非常に似ていた。分かる。そう、あれから、平の爺さんに会うために幾度もここを通ったから。しかし、美代の知っている景色と微妙に違っていた。それは、匂いである。木の匂い、田圃の匂い、自然の匂いが溢れている。

「とにかく、タクシーでも拾って、街まで行こう」丸山はぶっきらぼうに言った。「ちなみに、俺は、金はもってないから、当然、貸してくれ」

「借りても無駄かもしれない…」

「どういうことだ」

「ここ、違うのは、場所だけじゃないみたい…」見上げた美代の視線には『洋食屋たいら』の看板が上がっていた。珈琲ショップではない、そう、『洋食屋たいら』である。二十年前に珈琲ショップに変えたと訊いている。それが、明らかに少々くすんだ色でそこに建っている。

「まさか…」美代たちを追っていた丸山にも分かった。「ここは、高知…昔の高知だっていうのか…」

二人は、店舗を見上げて途方にくれていた。





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