どっちが大事なのか?
山本家では、シャワーを浴びてパジャマに着替えた美代が、机に『究極のハンバーグ』のレシピを想像して書きなぐったまま、そのレシピの上に顔を伏せてよだれを垂らしながら寝ていた。部屋のとびらを叩く音で、目を覚ます。
「ねえちゃん、ねえちゃん」つぶっている目を少しだけ開けた。
「…なによ、夜中にうるさいわね」部屋の鍵を開けて、ゆっくりと扉を開けた。
「そんな口の訊き方しないほうがいいと思うよ、ねえちゃん」
美代は開けた扉から顔を出して、弟が扉の前で立っているのをみた。
「どうしたの!」
「寝てたでしょう」
「うるさいな、どうでもいいだろう!」
「だって、顔に服の皺が付いてる」
「それで…なに!」美代は、顔をおさえた。
良一は含み笑いをしながら、懐から一枚のはがきを取り出して、美代の前に差し出した。
「なにこれ?」
「何だと思う、見てみなよ」
美代はナツメ球で赤く照らされた廊下で、そのはがきを眺めた。『盾涌工場同窓会の案内』とハガキには、書かれていた。「どうしたのよ、同窓会って、私宛じゃないじゃない…」
小松食堂宛になっていた。
「間違って出してきたのかなぁ。それとも、お爺ちゃんが亡くなったのを知らずにだしたのか…これがどうしたって言うのよ」
「鈍いなぁ、お爺ちゃんのハンバーグが知りたいんだろう」
「そうだけど…」
「それに行けばいいじゃないか。もしかしたら、お爺ちゃんのハンバーグを知っている人がいるかもしれないよ」
「ふうん、なるほど…」
「当時のお爺ちゃんを知る人が大勢いるんじゃない?手っ取り早いんじゃない。同窓会だよ、お爺ちゃんのど・う・そ・う・か・い」
美代ははがきをもう一度じっと見た。あの工場の写真がある。お爺ちゃんが写っているあの集合写真が印刷されている。肩に腕を回す小松良明がいる。日にちは、明日の昼からだ。
「でかした、弟よ」そういうと、美代は扉を閉めて、携帯電話を手にした。
良一は扉の前に立ち尽くして、「もう…ま、いいか」と自分の部屋へ戻っていった。
部屋の中では、携帯電話を手にして、美代が浩太に電話をしていた。
次の日、二人は高知駅前の『中央ホテル』、盾涌工場の同窓会会場へやってきた。結構大きめなホテルだ。「さすが、盾涌工場の同窓会…、会場も大きそうだ」浩太はホテルの入り口の看板に、同窓会の告知を見て、美代を呼んだ。
美代も間違いないと頷き、鞄の中からはがきを取り出して、念のため会場を確認した。
二人は会場である三階にエスカレータで昇った。エスカレータ上は多少混雑していた。会場の入り口は解放されており、受付のテーブルが両サイドに並んでいて、中は400坪ぐらいの広さで、会場内は沢山の人でひしめいていた。会場には、三十から九十歳ぐらいまでの幅の広い年齢層が見てとれた。浩太は気付いた。どうみても、二人は若い―あまり気にしてない美代と違い、それを知った浩太はうずうずした。「俺達、若すぎないか?」
美代も気付いた。「そうね、どう見ても若すぎね…」分が悪そうに、二人は見つめ合った。
「どうする?」浩太が入り口へ進むのを躊躇った。
「そうね、いいんじゃない…気にしない、気にしない、ここまで来て辞める訳ないじゃない。とにかく、当たって砕けろよ、行きましょう」美代は足取りを進めた。
「正面突破か?…」
「他に入り口はないでしょ」浩太は、美代に続いて受付にやって来た。はがきを握り締めた美代は、受付へ差し出す。受付の男性はホテルの従業員だろうか、黒いタキシードに赤い蝶ネクタイを付けている。男性ははがきを受け取って、不思議な顔で二人の様子を見つめた。男は、はがきを見て名前を確認した。
「小松良明の孫、山本美代です」
「お孫さんですか…」受付の男はじっと二人を見つめた。
「そちらは?」男は、浩太に訊いた。
「…あぁ、お、弟です」美代は強引に言い切った。
「はぁ…」受付の男は、信じたのか信じなかったのか…何か納得いかないように、首を捻った。
浩太は、―おい―と美代を肘でつついた。―訊いてないぞ―。美代はその肘をかわした。「お爺ちゃんの同窓会に孫が来たら喜ぶ人が多いでしょう。私も会いたい人が沢山いるし」
その言葉に男は、困った顔をした。おそらく、そういう、参加者はいなかったのだろう。周りをきょろきょろし、後ろに別の担当を見つけて走っていった。しばらくやり取りが続き、別の担当が、無線のような機械で誰かに確認を取っていたが、しばらくして、その男が戻ってきた。「よろしいです。主催者の方からオッケーがいただけましたから。こちらに、名前を書いてください。ネームプレートになっていますから、くびから下げてもらえれば結構です。あと、二人で入られるんでしたら、二人分の会費で、1万円になります」
「あっ、やっぱり二人分取るのね」美代は黙って、財布からお札を取り出し渡した。
「はい、ありがとうございます」
美代はネームプレートに名前を書いた。しかし、浩太は書けない。「あっ、そうそう、お爺さんの名前を書いていただけますかね。下を少し開けてそこに自分の名前を書いてください…」浩太が何かを無理に書こうとしている。美代は「いいから」と言って、マジックを奪うと、そこに弟の名前を書いた。浩太は何も言わずに、ネームプレートにそれを差し込んで、首から提げた。お辞儀をする受付の男が差し出す、式次第を手にして、さっさと二人は会場へはいった。
「危ない、危ない…。良一の名前、忘れてたでしょう…」
「忘れるさ、打ち合わせにないことはできないよ。それに、俺がお前の弟に見えるか?」
「仕方ないでしょう。無関係だと分かったら、会場に入れないかもしれないでしょう。これぐらいいでしょう。とにかく、お爺さんを知っている人を探しまょう」
「…まあ、いい」浩太は、それ以上言わずに美代の後に続いた。「…で、この後、どうする?」
「そうね、この次のことを考えてなかったわ…」相変らず行き当たりばったりだ。
浩太は溜息を吐いて、会場を見渡した。「うーん。それにしても広いぞ…」浩太は呟いた。
会場は大きく二つ、大きな広間と、外のテラスに分かれており、テラスの方はかなり広そうだ。広間の中央には、料理が置かれているテーブルがあり、シェフがそれぞれのお客に直接料理を盛り付けている場面も見られる。各客人は、それぞれのテーブルに分かれて、話しこんでいる。浩太は式次第を見て、時計を見た。時計は十二時三十分を回っている。
「これ、見てみろ。はがきには書いてなかったけど、もう、十二時三十分だ、十三時から開会式がはじまるぞ、万が一、式典のようだと、自由に動けないかもしれない。そうなると、聞き出すタイミングがなくなるかもしれない」
「まずいね…」
「とにかく、手分けして探そう。俺はテラスのほうを聞き込んで見る。美代は広間で訊いてみてくれ。『小松良明』のことを知っている人、『究極のハンバーグ』を知っている人、場合によっては、『日高馨』や『例のライバルであるイタリア料理人』のことを知っている人を探そう」
「急ごう」
二人は頷くと、二手に分かれて会場を歩き回った。美代は、何人かに訊いたところで、お爺ちゃんの写真を持ってきたら良かったと後悔した。
「すいません。ちょっといいですか?小松良明をご存知ですか?」
「知らないね」
「失礼しました」美代は、次に立食でたたずんでいる女性二人連れに声をかけた。
「小松良明ってご存知ですか?」
二人の様子を、少し離れたところからゆっくりと眺めている男がいた。スパゲッティをクルクルとフォークでまわして食べている。美代がその男の方へ歩いてきた。
「小松良明をご存知ですか?」いきなりの質問に男は戸惑った。
「さぁ」口一杯のスパゲッティを頬張って答えた。スパゲッティを頬張っているのは、例の『ピクティ』の丸山だ。美代は、何か見たことのあるような気がしながら首を少し傾げて、「どうも、すいません」と次に回った。
丸山は、スパゲッティを口にしながら、「バレたかと思ったぞ。あいつ、全然気付いてないんだな」スパゲッティの皿を返して、「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の方が百倍美味い」と呟いた。丸山は、遠目に、訊き続ける美代を眺めた。
全く反応がない、盾涌工場の人は、みんな『小松良明』を知っていると思っていたが、以外と知らない人が多かった。残念だった。「一部の人しかしらないのだろうか」美代は考えた。今更、考えてみたら、長い盾涌工場の歴史の中で、小松良明が居たのは、ほんの一瞬のことなのだろう。そう、ならば、お爺ちゃんが工場に勤務していた頃の人々に訊かないといけないんだ。そうだ、かなり前の人たちに訊くべきではないのだろうか―。若い人は判らないんだ。中途半端な年代の人も駄目だ。年配の―もっとお年寄りの人に訊かないといけない。お爺ちゃんと同世代。
美代は辺りを見渡して、年配の人を探した。そうすると、入り口の近くに、何人かのお爺ちゃんやお婆ちゃんが座っているテーブルを見つけた。―あそこだ―。美代は一目散に素早く、そのテーブルへ向かった。テーブルに到着するやいなや、いきなり声をかけた。
「突然、すいません。私『小松食堂』の者なんですけど、皆さん、『小松良明』をご存知ですか?」
四人は突然の客人をじっと見つめた。
「さて、小松食堂とな…」
「小松ですか、さぁね」二人の老人がぬべもなく知らない様子を示した。
「…あれだよ、清さん。社員食堂やってた、小松さんじゃないかな…」
「そ、そうです。社員食堂やってました!」美代が大きな声で訊き返した。
「えっ、あのコックの小松さんかい、もしかして、あんたは、小松さんとこのお嬢さんかな…」細い眼に眼がねの老人、清という人が、美代を見つめた。プレートには盾涌清と書かれている。
「いや、若すぎだろう」おばあさんがつっこんだ。
「あのぉ、実は孫なんです」
「ほう、そうか、そうか、よく似てる」清さんが声をあげた。
「似てる似てる」二人のお婆ちゃんが声をあげた。
「可愛いお嬢さん、こんなジジババのところへどうしたんだい、何か訊きたいのかい?…」清という老人が世話っぽく訊いてきた。
「実は、祖父の料理で、どうしても再現したい料理があるんですけど、分からなくて知っている人がいるか聞いてるんです」
「料理?」
「そうなんです。実はハンバーグなんです…」
「ハンバーグかい、そんなら、私が作ってあげようかい」お婆ちゃんが応えた。
「礼さんや、あんたが作ったってしゃあないでしょう。小松さんが作るハンバーグってことでしょう。なら、そんじゃそこらのハンバーグじゃ、だめだよ。あれだろう。小松くんは、肉団子をつくるのに、一ヶ月ぐらい、平さんところで修行してたんじゃないか」
「肉団子?肉団子ってハンバーグのことを言ってるのかい?」礼さんが訊いた。
「しりゃあせんよ。肉団子さ、あの挽き肉を焼いた肉の塊だろう」
「へぇ、小松くんは、平らのところに修行にいってたのかい…」
「ちょっと、修行ってなんですか、ハンバーグを作るのに修行してたんですか?」美代が訊いた。
「あぁ、だから、盾涌食堂は…たしか、誰だったかな?もう一人の料理人…名前が思いださんけど…小松くんがいなくなって、必死で二人分、働いてたよ」
「そのもう一人の料理人って誰か知ってる人いますか?」美代はそれも訊いた。
しかし、一同は首を振るばかりで、そのことを知る者はいなかった。―やはり、この部分は誰も覚えていないのだろう―。
「清さん、なんで、あんた、そんなこと知ってるのよ」礼さんが、訊いた。
「知ってるも何も、修行に出て行くのを見たからな。盾涌正の叔父さんが『絶対黙ってろ、秘密だって』言ってたからな…」
「清さん、今しゃべってるよ」
「あかん、言うてしもた」清爺さんは、口を押さえて、シマッタという顔をした。
「駄目だ。もうしゃべらんぞ、男の約束じゃからな」
美代は、小松良明のハンバーグ修行をした店のことが気になった。「あのぉ、その平さんって、誰なんですか?」
「平かぁ、いまはなぁ、『焼いてみて屋』っていう食い物やが、あるだろう。そこのオーナーや。昔、『洋食屋たいら』いうて、看板出しとってな、あそこの肉団子…いや、お嬢ちゃんの言う、ハンバーグが最高に旨いと評判やったんや」
「小松くんは、美味しいものには目がなかったからなぁ、自分で食べたんとちゃうか、それが作れへんのが悔しかったんだと思うな」
「その『焼いてみて屋』ですか、そこで、お爺ちゃんが、ハンバーグの練習をしていたのですか?」
「『焼いてみて屋』ではないよ。『洋食屋たいら』のほうだけど」
「平忠文じゃ、奴が小松良明のハンバーグの師匠だ」清爺さんが応えた。
「駅前に大きくオープンしとるぞ、もしかしたら、平はそこに居るかも知れん。ハイカラな店やから、わしら、ジジババは、あの店には行かんからな」
「ありがとうございます」美代は、一気に手繰り寄せた気がした。『究極のハンバーグ』の謎を解決できそうな気がしてきた。
一ヵ月の修行、お爺ちゃんをそこまで本気にさせたハンバーグ、そして、何より『絶対黙ってるという秘密』、全てが秘密であることは、間違いない。もう一人の料理人の話しもでてきた。美代は今一度、お爺ちゃんの言葉を思い出した。『絶対、誰にも、このハンバーグを食べたことを言ってはならんぞ。黙ってるんだぞ』―、いつも、ハンバーグは秘密に包まれていたんだ。それこそが、お爺ちゃんの『究極のハンバーグ』。
美代は、浩太に話そうとテラスの方を眺めた。浩太も美代を探しているらしく、すぐに見つかった。浩太が血相を変えて、走ってきた。浩太のほうでも何か収穫があったらしい。「びっくりした」
「どうしたの、なに焦ってるの…」
「焦るよ、ほら、あそこ見てごらん」浩太が指示した先を美代はゆっくりと見つめた。それは、テラス側の端、テーブル席がいくつか置かれたところだった。お年寄りに数人の会場関係者らしい人、そしてスーツ姿の人物が数人集まっている。
「誰?」美代は目を細めて、遠目にじっと見た。
皆の中心に座っているのは、小松美和子―お婆ちゃんだった。「お婆ちゃん…」美代は目を丸くさせた。
「それよりも、お婆ちゃんと話ししている奴、あそこにいるの誰だと思う?」
「誰?」眼を細めるがわからない。浩太が、いらいらして、自分から話した。
「あいつだよ。『レジデンス』の高橋だ。ほら、今、話しこんでる…お婆ちゃんに何を言ってるんだろう。あいつが、混ざってくると大変だ…」
美代の目にも確認できた。「なんで、あいつがいるの?叔父さんもいるのかな…」
「どうする、陽輔くんや、叔父さんのことを訊くか?」
「お婆ちゃんと一緒にいるというのが問題ね。私たちが、勝手に入っていることを問題にされたら厄介…」
「うーん。それはそうと、そっちはどうだったんだ?」
美代は、「そうそう」と言って、浩太に先ほどの話をした。
「お爺ちゃんが修行していた店が分かった」
「そりゃ凄い。じゃあ、高橋は危険も伴うし、まずは、そこへ行こう」
「うん…」美代はお婆ちゃんと高橋が話込んでいる様子を見ながら、「『焼いてみて屋』って店のオーナーらしいんだけど…駅前にあるらしい…」
「…今、『焼いてみて屋』って言ったよな、確か、駅前になかったかい?」
美代は浩太に言われ、頭の中で駅の様子を思い出してみた。確かに、そんな店があった。
「あった、駅前に、大きいのが…」
「あぁ、あるぞ。ここから近いぞ…」
二人は合点すると、慌しく開会しようと準備が始められた会場を二人で抜け出した。
しかし、お婆ちゃんと高橋が何を話ししているのだろうか―気になりながら後にした。
二人は、その足で、すぐに駅前まで走った。やはり、駅前にある赤茶色の看板、『焼いてみて屋』という焼肉のお店が見えた。駅から良一の車まで歩いた時に見た店に間違いなかった。
「やっぱりここだよ」美代は、あの時から気になっていた。
「オーナーって、社長のことだろう。店に行って、いきなり社長にあわせろって言っても駄目だろうな」浩太は大きな店を見上げて途方にくれた。「とにかく、行ってみよう」今日の美代は強引だ。いつもの猪突猛進さに輪をかけている。感覚的に、『究極のハンバーグ』に近づいているのが判っているのかもしれない。
「ハンバーグを食べてみるのか?」
「お爺ちゃんが修行した店のハンバーグよ。美味しくないわけないじゃない…」
「そうだな、これで、『究極のハンバーグ』が解ければ、陽輔も叔父さんも助かるのかな…」
「叔父さんが言ってたんじゃない。浩太が信用しなくてどうするの…」二人は店の階段を登った。一階は駐車場になっているピロティ方式店舗だ。
「そういえば…駅に着いた時に良一もハンバーグが美味しいって…確かこの店のことを言ってた気がする」
「そうだな…案外、メニューに『究極のハンバーグ』があったりして…」
「それも複雑な気持ちね…」二人はハンバーグの話で盛り上がりながら―階段を登りきった。入り口は石釜のデザインをあしらった形になっている。
「すごいね、石釜かぁ、どういうモチーフなんだろう」美代が口をあけて入り口を見た。
「趣向は違うけど、楽しませるって言う点で、『小松良明』派だといえるな」浩太は変な関心をして進んだ。
美代と浩太は、自動扉を開けて中に入った。中は、釜の中を表現したようになっている。薄いクリーム色の壁に橙の電球が各テーブルを照らしている。入り口で、男性ウエイターが直立で元気に声を掛けた。「いらっしゃいませ、当店は、焼肉とハンバーグのお店『焼いてみて屋』です。お客様は、焼肉コースにされますか、ハンバーグ定食ですか?どちらも専用のテーブルをご案内させて頂きます」
「ハンバーグを食べたいんですけど…」美代が応える。
「それでは、ハンバーグ定食のほうですね…あいにく、鉄板がある席が混んでまして、鉄板の付いていないお席でしたら、すぐにご案内できますが、宜しいですか?」
「鉄板って、目の前で焼くんですか?」
「そうです。当店では、セルフを基本にしておりますので、お客様に焼いていただくシステムとなっております。ご希望のお客様には、厨房で焼いてからお持ちすることもいたしますが、ただし、申し訳ございません。ただいま、鉄板の席は、満席となっております」
「それは残念…」二人は、仕方なく鉄板のない席を選んで、案内されるままにソファに座った。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルを押してくださいませ」ウエイターの案内が終わると、二人は目の前に置かれたメニューを穴が開くぐらいに、じっと見つめた。しかし、メニューに載っているハンバーグはいたってシンプルだった。
「これが『究極のハンバーグ』『小松良明のハンバーグ』か?違うんじゃないか?」浩太がメニューを捲る手は慎重でゆっくりで、その眼は少しでもおかしな物を見抜きそうだった。
「うん、違う気がする…とにかく、注文して食べてみましょう」美代はベルを押した。デラックスハンバーグとハンバーグを頼んだ。ライス、パンを注文するかと訊かれたが、ハンバーグのみを注文した。一五分ほど経って、二人の前に焼きあがった小さな鉄板ごとハンバーグが運ばれてきた。二人は期待と不安を交錯させながら、ナイフとフォークをもって、「いただきます」と試食を開始した。一口食べて、美代がナイフをおいた。浩太もナイフとフォークを置いた。
初めに口を開いたのは、浩太だった。「残念だけど、これなら、美代のハンバーグの方が数段上だ」
「これはこれで美味しいんだけど…違う味ね。平たく、完全に空気を抜いてる。同時に脂も抜けちゃって、ジューシーさが足りない。味もソースが勝っていて、ハンバーグの肉としての味わいを生かしてない…これは別の料理ね…」
「そう、素材も普通の粗挽きで、ただ普通に美味しい、一つのハンバーグとしての形だとは思うが…。あの『御来屋』に書かれていた肉を使っているわけでもない、あくまで普通だ」
「そうよね…」美代は、改めて、フォークを手にすると、寂しそうに口に運んだ。
「『小松良明』のハンバーグなら、工夫があるはずだけど、それがない。鉄板で目の前で焼ければ、少々楽しさもあるけどな。なるほど、素人でも焼けるように、素人が焼いても味が変わらないようにしてあるんだ…」
「だから、焼き加減で美味しさを出すことを抜いてるんだ…」美代も頷いた。
それでも、普通には美味しい、近くで子供が美味しそうに食べている。しかし、二人が求めているのは、このハンバーグではなかった。
「このお店なのか!違うんじゃないかい?」
「…違うのかもしれない。…そういえば、『洋食屋たいら』て言ってた。平忠文社長…『焼いてみて屋』の社長。お爺ちゃんが、修行に行ってたのは、『洋食屋たいら』。つまり、今のこのチェーン店のことじゃないんじゃない。『洋食屋たいら』!そこに行かないといけない…」
「その『洋食屋たいら』はどこにあるんだろう。場所は、どこなんだ」浩太が訊く。
「わからない…。私、お店の人に訊いてくる」美代は、そういうと、レストランの厨房の方へ走っていった。ホールの人間を捕まえて訊いた。
「すいません。私、『小松食堂』っていうところの者なんですけど、昔、うちのお爺ちゃんが世話になった平さんを探してるんですけど、そのぉ『洋食屋たいら』の場所を教えてもらえませんか?」
「『洋食屋たいら』ですか。うーん。確か創業店がそういう名前だった…」
「教えてください、どうしても、行きたいんです。お願いです!」美代はウエイターに掴みかからんばかりに迫った。
「…申しわけありません。お客様、私も場所は分かりかねます。お教えすることが出来ません」丁寧な言葉で断れた。
「なんとか、誰か知らないですか、訊いてもらえませんか?」あまりの熱心さに店員が折れて、厨房の奥へ訊きに行ってくれた。しばらくして、少し背の高い男がホールのウエイターと一緒に現れた。
「えぇと、お客さまですか、『洋食屋たいら』へ行きたいと仰っているのは…」
「はい」美代はじっと眼差しを向けてその男を見つめた。
「やけに若い人ですね。もっと、年配の方を想像したんですけど…まぁ、いいか、実は、ちょっと言いにくいんですけど、『洋食屋たいら』は、もうないんですよ」
「え、ないんですか…」美代は気力を失ったように、パタンと尻餅をついた。「ない…」折角つかみかかった『究極のハンバーグ』がここで途絶えてしまった。
その男は近くに寄って声をかけた。
「あぁ、ごめんなさい、がっかりさせてしまったのなら、申しわけない。なくなったとは言っても、社長が昔やっていた店ですから、店としては、まだあります。ただし、今は『洋食屋たいら』ではなくて、『珈琲カフェたいら』になっています。二十年前に、道楽の珈琲カフェに変えたんです。今では、珈琲がメインです。料理は簡単なものしか出さないですよ」美代が情けない顔で見上げた。「珈琲カフェ…たいら?」
その様子を座席から見ていた浩太は、すぐにやって来て、へたり込んでいる美代を引っ張り上げた。
「失礼しました。いきなり、変な申し出をして…、私、粕谷浩太といいます。こちら、『小松食堂』小松良明の孫娘で、そのぉ…お爺さんが、御宅の平忠文さんのお店で修行したことがあると訊いて、その時のことを伺いたかったんです」
「修行?」その男は目を丸くして、じっと美代を見つめた。「『小松食堂』って、あの路面電車の脇にある、あの『小松食堂』ですよね?」
「知ってるんですか?」美代が男に訊いた。
「知ってるに決まってるじゃないですか?料理人『小松良明』を知らなかったらもぐりですよ。それに『小松食堂』は、たまに利用させてもらってます。この前も…」そう言って、男は、粕谷浩太を見つめた。「そういえば、君、見たことがあるねぇ、あれだ!噂の弟子。そうだ、『小松食堂』の跡取り!」
浩太と美代は顔を見合わせた。
「違います!何か変な噂が出ているみたいですが、俺は弟子でもないし、跡取りでもないです。お手伝いしているだけです」
「へぇ、そうなのか…でも、凄いな。あそこで料理が学べるなら、今からでも、俺はここを飛び出していくぜ。凄い幸運だな」
「そうですね。感謝してます」
「ええと、それで、あの『小松良明』がうちの社長のところで、昔修行してたってか?それは嘘だろう。まさかね。あの社長が…小松良明を…それはない…」
「是非、教えてください場所を、俺達行かないと行けないんです。そして訊かないといけないことがあるんです」
「なにかわからないが…迫力だけは分かる。大事な用件なんだな…」男は顎に手をあてて、少し考えて、「うーん。…いいですよ。修行とかはわからないけど…お目当ての場所でなかっても知りませんよ。教えるというより、今から私が案内しましょう」
「えっ本当ですか」浩太が身を乗り出した。「やった」美代がガッツポーズをした。
「偶然ですが、ここ『焼いてみて屋』高知本店で扱っている珈琲豆を今からそこへ、持って行くところなんです。社長は、ここの本店で、仕入れを全部扱ってるんで、私がそこまえ運ばないといけないんです」
「是非、是非、お願いします」さっきまでへたっていた美代が立ち上がって男に迫った。
「いいです。大丈夫ですよ。下に停めてあるで車で行きますから、準備にしばらく掛かりますので、もう少し店内で待っていてください」
「ありがとうございます」
「それでは、準備してきますね」男はそう言って、厨房のほうに戻って行った。
「美代、でも珈琲カフェじゃあ、ハンバーグはないんじゃないか?その社長って言う人が当時のことを覚えてくれることを祈るしかないな…」
「そうね、レシピを知っていることを祈るわ。それに、お爺ちゃんが、なぜ、秘密にしていたのか、それに、新しい事実、…『盾涌食堂』を一ヶ月空けてまで、ハンバーグの修行に行っていたこと…なんで、そんなにハンバーグのことを気にしていたんだろう」
「そこの部分だけは、そっくり、そのまま美代に訊いてみたいんだけどさ…」
「う…」美代は黙った。
「近づいてきているのよ。間違いなく『究極のハンバーグ』に近づいてる…」
「でも、陽輔のことも叔父さんのことも何一つ解けやしないぞ。叔父さんのいうことを真に受けてやってるけど、本当に『究極のハンバーグ』を解くことが、陽輔くんや叔父さんのことを解決することになるのかな」
「私はあると思ってる。だって、日高教授は、お爺ちゃんとの写真を持っていた。陽輔もハンバーグは好きだった。馬鹿げているけど、関連していると思うし、日高先生は、『究極のハンバーグ』の謎を解いたとき、全てが分かると言ってたんだから…」
浩太がじっと美代を見つめていた。
「実はな、ずっと考えていることがある。叔父さんの話し、それはレシピを解けということと、違うんじゃないかと思ってるんだ」
「違う?」
「叔父さんは、『究極のハンバーグ』を解けといったが、レシピを解けと言った訳ではない。それ自体に隠された意味があるんじゃないかと思うんだ」
「それ自体の意味?」
「『小松良明』のノート…あれに秘密がある…。行方不明のノート…。あのノートは料理人の間では有名なんだろう。それを、叔父さんは持っていた…」
「赤いノート…確かに研究室にあったわ」
「あれに秘密がある…、お婆ちゃんに訊いたんだ…実は、そのノートに、俺が『小松食堂』に来ることが書いてあったらしい」
「ノートに…浩太来ることがかいてあった?」
「そうだ。今まで、料理人の特別なノートとだけ考えていたが…あのノートは、そんなノートではないということだ。高橋昇治が手に入れたがるのは、つまり、未来が分かるノート、そういうことが書かれているノートだからなのではないかと…。だから、叔父さんは高橋から取り返した。『究極のハンバーグ』には、そういう、秘密があるんじゃないのだろうか?」
「どういうこと?」
「『小松良明のノート』と『究極のハンバーグ』は、関連しているのではないかと…高橋昇治が先ほど、お婆ちゃんと話しをしていた。…もしかしたら、ノートのことだけじゃなく、『究極のハンバーグ』のことを訊いているんじゃないかと…」
「高橋が、『究極のハンバーグ』を…まさか?」美代が不思議に思う
「お爺ちゃんや、その周りの皆『究極のハンバーグ』を秘密にし続けるのは、それが危険だからじゃないのか、秘密にしておかないといけない危険…。叔父さんは、その謎を解けっていってるんじゃないのか?」
「危険って…」
「美代、おれは、高橋がやっていることが気に入らない。自分の店や仕事を取られたからもあるけど…。陽輔や叔父さんをなんとも思わずに、自分の手に入れたいものを手に入れる」
「ちょっと、どういう意味よ。『ノート』と『ハンバーグ』を一緒だって言うの?一緒にしないで」美代は浩太の発言に怒った。
「…ごめん、ちょっと、そんなふうに考えてただけなんだ…」
「ここまで来て、それはない。レシピを手にしたらいけないみたいに言わないで。浩太も食べれば分かる。絶対、手に入れたくなる…。それで、解決するんだ」
「…そうだな」
美代は、浩太の突き放した言い方に、なんともいえない違和感を覚えた。
「『珈琲カフェたいら』で、食後の珈琲にならないといいけどな」浩太は、ふぅーと溜息を吐いた。
「駄目よ!最後まで諦めちゃ」
「そうだな、それは、俺のセリフだ。最後まで諦めちゃ駄目だ」美代も浩太も自分自身に言い聞かせるように、心に繰り返した。
平誉士夫と名乗った男は、平忠文の甥っ子だと説明してくれた。誉士夫は約束どおり、『焼いてみて屋』のミニバンで、『珈琲カフェたいら』へ二人を連れてきてくれた。道中三十分ほどの道のりだった。ミニバンは、店の前に停められ、浩太と美代は、目的の店の前に立った。窓が大きく、明らかに洋装のつくりだ。店内の様子は外からでも伺える。どこにでもありそうな普通の喫茶店だ。
「普通の喫茶店だな」浩太が率直な感想を漏らした。
「普通の喫茶店ね」美代も頷く。
「すいませんね。本当に、ただの喫茶店なんですよ。だから、言ったでしょう。あの小松良明が修行に来る様な店とは違うって…」誉士夫は、「どうぞ」と言って、喫茶店の扉を開けた。
「叔父さーん。豆持ってきたよ」誉士夫は、ダンボールを担いで、そのままカウンターまで運んだ。
「叔父さあーん」奥にわざと通る声で、ダンボールをカウンターに置いて、奥に顔を向けて叫ぶ。カウンター周りには数組のお客が座っているが、お構いなしである。多分、そういう、寄り合い的な感じの店なんだろう。
「誉士夫ちゃん、こんにちは」年配の叔母さんが声をかける。
「こんにちは!」カウンターの上に無造作に置かれたダンボールを明らかにお客の叔母さんが開けて、袋に入ったコーヒー豆を並べ出した。奥から、腰を曲げながら白髪の老人がゆっくりと出てきた。
「そこへ、置いたらええ。あぁ、早百合さん、片づけてくれて、ありがとう」老人は、ゆっくりとカウンターにやってくると、『客側』に座った。
「叔父さん、お客さんをつれてきたよ」ゆっくりと振り返る、白髪の老人に、「お邪魔します」と美代と浩太が頭を下げた。
「誰だい?」目を細めて、首に掛けた老眼鏡を持ち上げて二人を見あげた。間違いなく、この老人が平忠文であることは間違いない。とうとう、出会えた。
「叔父さん、あの『小松食堂』の人だよ」
「誰だって?小松、小松は亡くなったよ。俺より先に逝きやがって…」
「すいません。私、その孫なんですけど…」美代が肩をすくめて挨拶をした。
「孫?」眼鏡越しに、じぃっと目を細めて見つめた。「ほう、美和子さんに、よう似とる。その孫が何しに来たんだ…」
「いや、あのぉ」場を作ってくれた誉士夫は、返事に困った。
「いきなり、すいません。私のお爺ちゃんの小松良明は『究極のハンバーグ』を作るために、『洋食屋たいら』で修行をしたと訊いたんです」
平忠文の眉がかすかに動いた。
「そのことを詳しく知りたくて来たんです。その『洋食屋たいら』ってここのことですよね?」美代の質問に、明らかに平忠文の周りの空気が変わった。
「あぁ、ここだ」爺さんは一言だけ発した。
浩太と美代は顔を見合わせた。
「お爺ちゃんは、その『究極のハンバーグ』をここの修行で作ったはずなんです。私、それを食べさせてもらったことがあるんです。そのハンバーグの味も形も覚えてませんが、どうしてもそのハンバーグを知りたくて、辿って、辿って、やっと、ここまで来たんです。そのハンバーグの作り方を教えてください」
爺さんは、美代の目の奥を見つめるようにして、近寄った。
「…、ハンバーグか、それを教えてもらってどうするんだ」
「お爺ちゃんのレシピを再現して、ハンバーグを作ってみたいんです」美代は浩太をちらりと見た。
その偏屈爺さんはじっと二人を見つめた。「あれは、教えられん。『小松良明』と約束したんだ。誰にも教えんとな…。それに、あんたら、同業者だろう。如何に、小松の孫娘だとしても、同業者にレシピを教えるのは、ご法度だ。しかも、うちは、『焼いてみて屋』というチェーン店をやっている。だから、十八番のハンバーグレシピは教えることはできん」
「違うんです。あのチェーン店で出しているようなハンバーグじゃないんです。素人が焼けるようにしたものでない、本格的なハンバーグなんです」
「よりによって、『焼いてみて屋』のケチまでつけるか!どちらにしても、あかん。帰れ、帰れ」
車から、珈琲豆のケースをもう一箱とって戻ってきた誉士夫は、そのやり取りに首を突っ込んできた。「素人用にしているとは、的確な言葉だな。でも誰が焼いても美味しいハンバーグも難しいんだよ。よく、それが分かるな…叔父さん、その二人は真剣だよ。いいじゃない、教えてあげたら…」
「馬鹿やろう!お前がそんなことだから、チェーン店もいまいちなんだ。この前も、『レジデンス』とか言う奴が店を売れって着やがった。きちんとやるこった!そうでなくても、お前が副社長になってからは、経営がいまいちなんだから」
「『レジデンス』…」浩太が眼を鋭くさせた。
「教えてもらえないんですか?」美代は真っ直ぐな目で平忠文に訴える。
「駄目だったら駄目だ!」
「叔父さん!けちけちしないでさ…」誉士夫が援護してくれる。
「お前は、まったく関係ない!口出しするな!お前も帰れ帰れ!」偏屈爺さんは立ち上がると、誉士夫に杖を向けて怒鳴りだした。
「そんなに、怒らなくたって良いじゃないですか…言われなくたって帰りますよ」そういって、誉士夫は、チラッと、美代を見ると、上を見上げて、ウインクをした。
浩太は少しむっとした。美代は意味も分からずドキリとしたが、誉士夫の見上げた先を眼で追った。『ハンバーグランチ 1,200円』そこには、メニューが貼ってあった。
美代は、浩太を突いた。「浩太、あれ、」美代の声に気付いて、浩太も壁を見上げた。
「あっ、あるじゃん」浩太が口をポカンと開けた。
美代はにやっと笑って、偏屈爺さんに向き直った。「注文するのは、いいでしょう?」
「注文?」
「あれ!食べます!あれ!注文します!ハンバーグランチ!」美代は右手を大きく上げて品書きを指さした。爺さんの顔が歪んだ。「くそ、誉士夫!お前、今、教えただろう」
「さぁ」誉士夫は首を傾げる。
「あぁ、あれはもうやってない!」偏屈爺さんは口を一文字に結んだ。
「それは、卑怯ですよ。作ってください」美代が食って掛かる。
「叔父さん、負けだよ。作ってやりなよ」帰り支度をしている誉士夫が、再度口を挟んだ。
爺さんが杖をふりあげたので、「はいはい、」と誉士夫は外へ急いで出て行った。
「作ってください!私はお客ですよ!」美代は、爺さんの前に歩み寄って、ずいと顔を近づけた。
「無駄だ、どうせ、あれは『小松良明のハンバーグ』でもない」
「なら作って!」
「嫌だ!」「作って!」美代は更に一歩前に歩を進め、偏屈叔父さんに顔が擦り寄らんばかりに突き合わせて、唸った。「駄目だ!」「作って!」ガタンと偏屈爺さんは立ち上がって、そのまま奥へ消えようとした。
「何処行くのよ」美代が吼える。
「今日は、もう店を閉める」
「駄目よ、そんなお客さんも一杯いるし、勝手にそんなことしちゃ」
「うるさい、閉めるったら閉める」
「美味しいものをお客に出さないでどうするの!」小松良明のセリフを口にする。
「ここは、俺の気まぐれでやっている珈琲カフェだ。俺が閉めるっていったら、閉める…ほら、出てってくれ」
他に座っているお客も立ち上がった。「平さん、また来るわ」
「あぁ」二、三人いたお客はそれぞれに出ていった。とうとう、二人だけが取り残されたが、お爺さんの気迫に負けて、二人とも、とうとう追い出されてしまった。
外には、平誉士夫が待っていた。「気悪くしたかなぁ、ごめんよ」誉士夫はそういうと、ミニバンから降りてきた。
「ごめんなさい、私達のせいで、怒られちゃって…」美代が誉士夫に謝った。
「頑固なんだよ。もう歳だしね…食べれなくて悪かったね。折角だから、送っていくよ」
「えっ、良いんですか?」美代が訊いた。
「あぁ、ここで放っておくのも、気が引けるしね。それに、ついでだし…」
「路面電車の駅で、いいです。小松食堂まで戻るので…」
「そうか、あの食堂の娘さんと、跡継ぎのシェフ…だったね」分かって言っている。浩太はどうも、この男にいい気がしない。多分、あの偏屈爺さんも、若い頃こうだったのだろうか…、敢えて文句は言わずにいた。
「いいって、ことよ。ほら、彼氏もどうぞ…」浩太は否定もせずにそのままミニバンに「失礼します」と乗り込んだ。近くの路面電車の駅まで、送ってもらった二人は路面電車で『小松食堂』まで戻ってきた。
その夜も、浩太は、食堂で働いた。『ノート』や『ハンバーグ』のことは、気になったが、『小松良明』自体を理解することが、近道のような気がしてならなかった。更に、料理人としての本能が、理解しろと彼をせかすのでもあった。
お婆ちゃんに直訴して、厨房でなく、ホールを手伝わせてもらった。浩太の手帳には、『小松食堂』のことが既にびっしりと書きこまれていた。それは、この食堂が、どのようなメニューを提供しているか、どのような作りでどのように料理を引き立てているか、材料や作り方、魅せ方など、浩太の感じたことまで、事細かく記載されていた。ただし、ホールの事については、まだまだだったからである。
閉店間際になって、浩太の後ろから、声が掛かった。「お婆ちゃんが呼んでるわ」美代の母、幸子が呼んだ。
「はい」浩太は、暖簾をくぐって、厨房に顔を出した。
「ホールの方はどうだった?」お婆ちゃんは皺皺の手を組んで、浩太に尋ねた。
浩太は、微笑んで応えた。
「こんな店みたことないです。思ったとおり、厨房だけじゃなく、ホールにも美味しく食べてもらう工夫が沢山ありました。普通、ここまでしたら、大変なんだけど、それが自然に、皆も楽しくできてる。だから、お客も楽しんでるのが分かりました」
「たった三日やそこらで、良くそこまで気が付いた。この食堂を、爺がずっとつぶさずにやって来た理由は、単純なんだ。どうしたら、喜んでくれるかだけなんだよ。ここで、楽しくなってもらいたいんだ。美味しくて、綺麗で、楽しくて、味や匂いや、眼で楽しんで、音で楽しんで、食感もたのしんで、雰囲気を楽しむ」
「あれですね。『美味しい料理はお客に出さないでどうする』それには、これが関係してくるんですね。本当に凄いです」浩太は、しみじみと言った。
「料理が大好きだったんだろう。ある意味、頑固者だよ。孫の美代は頑固なところが、爺にそっくりだ。娘の幸子は似なかったんだがなぁ。爺も美代を特に可愛がっていた。爺さん子だったのさ」
「そうですね。見てたら分かります。お爺さんのことを話すときは眼が輝いてますよ。だから、ハンバーグが大好きなんですよ」浩太が嬉しそうに応えた。
「それに、あんたも頑固だ。あれに付き合っているぐらいだからな…」
浩太は少し照れて、「お爺さんの食堂、楽しませてもらいました。ありがとうございます」と応えた。
「頑固はいいことだ。それぐらいじゃないと料理人はやっていけん」美和子が差し出した手に、固い握手をした。なぜ、お婆ちゃんが握手を求めたのか分からなかった。これが最後のような感じがした。
「浩太さん…」お婆ちゃんが声をかけた。
「わたしはあんたに会うのが、初めてな気が全くしない…」
「えっ、どういうことですか?」
「…」お婆ちゃんは無言になった。浩太はたまらなくなって、昼のことを思い出した。あの同窓会会場でのことだ。お婆ちゃんと高橋昇治が会っていたこと―。
「今日、盾湧工場の同窓会へ行きました」
「あぁ、知っている」意外に素直に肯定された。お婆ちゃんは知っていたのだ。「わしが、良一に電話して、美代に教えたからな」
「え、あれはお婆ちゃんが教えてくれたんですか?」
「そうじゃ、そのこともノートに書かれていたからな」
「ノートに…、お婆ちゃん、まだノートに書かれていたことをいろいろ覚えてるんですか?」浩太は動揺した。それなら、これからのことが書かれているかもしれない。
「それ以上は覚えてない…」お婆ちゃんは、俯いた。
「それじゃ、同窓会会場で、お婆ちゃんは、僕がこの前言っていた、あの高橋昇治に会っているのを見ました。あの男は、お婆ちゃんと知り合いなんですか?教えてください」
「それより、『究極のハンバーグ』は手に入れたかい?平は教えてくれたかい?」
「なんで、それを…」
「手に入れたのか?」
「いえ、まだです」
「そうか…実はな、高橋昇治は、あんたを『粕谷浩太』を探してる。あの男は、普通じゃない。あんたは見つからないようにしなさい。もう、明日から店には出なくていい…。いや、出ない方がいい…」
「僕を探している?どういうことですか?教えてください。お婆ちゃん」
「なぜ、探しているのかは、分からん。とにかく、普通の人間の眼をしておらん。欲望むき出しの面だ。…実はあの同窓会自体が、奴が企画したもの…わたしと会う口実だったのだ。わしは、ノートのことを話してしまった。取り返しの付かないことをした…」
さっさと厨房に消えたお婆ちゃんの前に浩太は残された。会話は強制的に終了された。
その日、お婆ちゃんは、店を自分で閉めずに幸子に頼んで、何処かへ消えた。
結局、浩太は店の後始末をするのに追われ、お婆ちゃんの行き先がわからなかった。
次の日、『小松食堂』は臨時休業した。朝、浩太が起きてきても、お婆ちゃんは居なかった。昨日出て行ったきり帰ってこなかったのだ。早くに幸子が一人やって来て、「今日は休業よ」と言った。なんでも、お婆ちゃんから連絡が入ったらしい。幸子がいうには、こんなことは初めてらしい。たまに、お婆ちゃんが体調を壊した時に、休業にしたことはあったがそれ以来だという。浩太と美代は、昨日訪れた『珈琲カフェたいら』へ、路面電車を乗り継いで、オープン前にやって来た。
朝から、目をぎらぎらさせて、美代は店が開くのを首を長くして待っていた。九時半過ぎにパートのおばさんらしい人がやってきて、店を開けてくれた。
「どうぞ」と二人は誘われるままに、店内に入った。大きな声で美代が叫んだ。「あー、剥がしてやがる!」昨日まで、ハンバーグランチと書かれたメニューが貼られていたところは、紙の黄ばんだ後が壁に残るだけで、綺麗さっぱり剥がされていた。
「くそー。絶対作ってもらってやる」美代は大声を出した。
「大きな、声を出すな」
「なんでよ。ひどいじゃない。剥がしてるんだよ」
「静かにしろ。ここは店だ。楽しく食事をする場所。俺達が『究極のハンバーグ』を手に入れたい気持ちはあるが、他人がどうなってもいいというのは、あいつと同じだ。そんなんじゃ、お爺ちゃんは喜ばないと思う」浩太は美代に自制を促した。
「…、なんか、お爺ちゃんみたいなこと、いう」美代はふて腐れた。しばらくして、平忠文が扉をくぐってやって来た。腰を抑えながら、ゆっくりとした動作で入ってきた。美代を見つけると、逆に声をかけてきた。「おう、また、来たのか。孫娘。帰れ、帰れ」
キッと睨みつけて、美代も負けていない。「嫌です。今日こそ作ってもらいますよ」
「ふふん、残念だなぁ、昨日でそのメニューは終了したんだ。ほら、見てごらん、品書きもないだろう」
「見ました。駄目ですよ。昨日、食べれなくて、今日来たんです。絶対出してください」
「駄目だな、なくなったものは出せない。あんまり、うるさいと、今日も店を閉めないといけなくなるぞ」
浩太は、偏屈爺さんの前にスクッと立ち上がると、前まで歩いてきた。
「なんだ、やるってのかい」
浩太は、真っ直ぐに頭を下げた。「迷惑をかけるつもりはありません。ただ、食べてみたいんです。『小松良明のハンバーグ』でなくても、食べてみたいんです。『美味しい料理は、お客に食べてもらうべきでしょう』平さん、お願いします」
平忠文、偏屈爺さんは、言葉を失って浩太を見つめた。浩太は、まだ頭を下げている。
「小松の爺さんの台詞だな」平は、口を尖らせた
浩太は、顔を上げて、「そうです」と笑顔を見せた。
「お兄ちゃん、駄目なんだ。これは、『秘密の料理』なんだ。男と男の約束は破れない。なんだ、だから、どうしても作れないんだ」
「どうしてもですか?」
「どうしてもだ」
「…レシピを教えてもらうことは、昨日も仰ってましたが、当然駄目ですね」
「駄目だ。これも約束だ」
浩太は平の爺さんを見つめた。その目の奥に約束を守ろうとする何かを感じた。浩太は頷くと、平の爺さんは、それ以上は何も言わずに奥の別室へ消えていった。美代が何か言いたそうにしたが、浩太が遮った。浩太は、美代に振り向いて声をかけた。
「レシピを手に入れるのは、諦めよう」
美代の顔からサーと血の気が引いた。「なんでよ。嫌よ」
「他のお客様に迷惑がかかる。俺達の我儘で、楽しい食事を奪っちゃいけない」
「でも、あの偏屈爺さん、絶対知っている…。お爺ちゃん『究極のハンバーグ』ここまで来たのに…後一歩よ…」
「『究極のハンバーグ』を追うことと、『小松良明のノート』を追うことが、同じに感じられてきた。小松良明と平のお爺さんの約束を破らせてまで、作ってもらったハンバーグが楽しいとは思えない」浩太は、静かに決心していた。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』でも、こんな浩太は見たことがない。
「そんな、私はハンバーグを作りたいのよ。じゃあ、なんで、『秘密』なのよ。私になんで、お爺ちゃんは食べさせたのよ。秘密とか言って、美味しいハンバーグを食べさせて、作りたくさせたのはお爺ちゃんよ。知りたくさせたのは、お爺ちゃんよ!」
「美代に、考えさせるためじゃないかな。お爺ちゃんのハンバーグでなく、美代の『究極のハンバーグ』を作り出すために秘密にしたのかもしれない…、それに俺達が探しているのは、本当は、ハンバーグじゃなくて、陽輔や叔父さんのはずだ…」
「そんなの、初めからわかってるじゃない…」
「…」浩太は無言で美代を見つめた。二人は、なにやら、変な感じになってきていた。
「まぁまぁ」となだめるおばさんに、ふんと美代は顔を背けた。カウンター奥の自室引っ込んだ平の爺さんは出てこない。
おばさんは訊いた。
「そうそう、昨日、あれから、もう一人ハンバーグのことを訊きに来た人がいたわ」
「もう一人?」浩太が問い返した。
「そうよ」浩太の頭に一人の男の顔が浮んだ。「その人、藍色のスーツに髪の毛をオールバックで固めた。感じの悪そうなキザな野郎じゃなかったですか?」
「そうそう、凄い言い当ててるわ…そんな感じよ。知り合い?」
「いえ、知り合いじゃないんですが…最悪の男です。俺達、後をつけられてる…」
美代は浩太の問いに無視をした。
浩太は昨日のお婆ちゃんとの話しを思い出した。―高橋昇治は俺を探している―。
「お婆ちゃんが店を閉めたのは、それが原因か?昨日、お婆ちゃんが、言ってた、間に合わなくなるって…、夜から帰って来なかったというのは、何かあったのかも…」
「なんで、そうなるのよ」美代が訊きかえす。
「心配じゃないのか、昨日の夜から帰ってこなかったんだぞ」
「でも、その件なら大丈夫じゃない、だって、母さんに連絡があったし、もし、陽輔や日高教授のように、消されたのなら、お母さんの記憶もないはずよ。でも記憶があったし、多分、陽輔や日高先生のようになっているとは思わないわ」
「その男だけど、お爺さんと半端ないぐらい言い合ってたわよ」
「え、平さんと…」
「とにかく、嫌な予感がする。美代、今日は帰ろう」
「だめよ。ここまで来たんだ。私は絶対、食べて帰る。ちょっと言ってくる、平さんに…」浩太は、美代の腕を掴んだ。
「お婆ちゃんは普通じゃなかった。どっちにしても、俺は高橋を探す…」
「嫌よ!」大きな声に店内にいる人たちが二人を見つめた。美代の顔に近づいて、小声で囁いた。「とりあえず、外へ出よう。皆の迷惑になる」浩太はそういって、美代を連れて外へでた。二人は、店の前で大声で遣り合った。
「分かってくれ、美代。『小松良明』って言う人を知れば知るほど、凄い人だ。その人が『秘密』にしているんだ。何か理由があるんだ。美代、これ以上は調べるのは止めよう」
「えっ、何をいってるの?」美代は、浩太の言葉を切って捨てた。
「もし、お爺ちゃんの『究極のハンバーグ』が手に入って、平の叔父さんに約束を破らせて、何もなかったらどうするんだ。本当に知らないといけないのは、あの高橋が何をしたかだ!陽輔や日高の叔父さんに何をしたのか!」
「だから、そんなこと判ってるって言ってるじゃない。ここまで来て、もうそこに『究極のハンバーグ』があるのよ。後一歩なのよ!叔父さんが言ってたじゃない。ここまで来てそれはないじゃない!」
「『究極のハンバーグ』も『小松良明のノート』も同じなんだと思う。多分、秘密があるんだ。それ自身に何かあるのかもしれない。叔父さんが言ってたのは、その秘密を解けっていうことじゃないかと思うんだ?」
「違うよ。ノートと『究極のハンバーグ』は違う」
「もともと、日高の叔父さんは、これ以上首を突っ込むなと言ってたんだ。『小松良明のノート』を高橋が探しているのは間違いないだろう。叔父さんと一緒に消えた高橋だけが、俺達の前に現れている。ノートを探しているんだろうと思うが、お婆ちゃんは、俺を探していると言った。もしかしたら、お婆ちゃんは、俺のために何かをしてくれているんじゃないかと思う。高橋と話しをして解決してみたい」浩太は、美代の肩に手を置いた。「『究極のハンバーグ』はそのままにしておかないか…」
美代の顔が固まった。唇が震えている。「な、何言ってるのよ、そのために、そのために、ここまで来たんでしょう。浩太だって食べたいって言ってたじゃない」
「確かに食べたい。でもそれは…」美代の作るハンバーグで十分美味しいし、楽しい、自分は満たされていると言おうとして、浩太は言葉を濁した。「『究極のハンバーグ』でなく、自分達の料理を作るべきだ。他人の料理を自分の料理としたいわけじゃないんだ」
「究極のハンバーグを知りたくないって訳…?それと、これとは、ハンバーグを諦めるのと話が違う。お婆ちゃんは心配だけど、同じ問題なら、謎を解くほうが先よ。ハンバーグを諦めるのは絶対に嫌!」
「違う、究極のハンバーグを諦めるだけで、美代のハンバーグを諦めるわけじゃない」
美代の唇は一文字に結ばれていた。
「『究極のハンバーグ』を一緒に探すって言ったじゃない。ここまで調べたものが何もなくなってしまうのよ」
「何もなくはない」
「ないわ」
「…そうか、美代はないと思ってるんだな」浩太は、呆れたような声をだした。
「ないじゃない。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』もなくなって、『帝新ホテル』も止めさせられて、…、浩太には、もう何もないじゃん」
「…」浩太は、その言葉に凍りついた。
同時に、美代も口を押さえた。違う。そんなことを言いたいわけではない。浩太には、イタリアンの腕がある。浩太の料理は絶品だ。スパゲッティもラザニアも全部好き。美代は言葉を言い換えようとして、目の前に震える浩太に何もいえなく、二人はお互いに固まってしまった。
浩太は、俯いたままでいた。
撤回するなら、今のうちだ。美代は震える手を伸ばそうと勇気を振り絞った。
しかし、先に口を開いたのは浩太だった。
「そうか、そういう風に、思ってたのか、もういい、俺が馬鹿だった。一人でやるさ、陽輔も、叔父さんが消えたのも俺の問題だ。へんな写真を持って言ったところから、美代にも迷惑を掛けたみたいだからな」そういうと、浩太は荷物を抱えて、美代に背中を向けた。美代は付いて行こうとした。
「もう、全て、俺一人でやる。それに、金輪際、俺は、ハンバーグは作らない」浩太はそう言うと店の階段を降りて行った。
「えっ、そ、そんな…」
「帰る前にはっきりしておこうと思う。俺もいろいろ想っていることがある。これからのことを考えてはっきりしておきたい」
「…」美代は黙ったままだった。浩太は振り返って、美代の目をじっと見つめた。
「なによ」
「俺とハンバーグどっちが…」一度俯いて、浩太は美代を見つめて口を開いた。「どっちが…大事か、教えてくれ」浩太は、美代が想像だにしていない、質問を投げかけた。
美代にとって、その問いへの応えは用意されていなかった。
大事なことであるのは分かっていた。
どっちが大事か…。
今、手を伸ばすと届くところにある『究極のハンバーグ』これを逃したら、陽輔のこと、日高教授のことが、そして、ずっと自分の心に閉ざされている秘密のハンバーグが明らかになるのだ。このまま、離れると手に入らないかもしれない。手に入れないと、全部駄目になる。一番大事なのは…そう決まってる。
「そんなの決まってるじゃない」美代は大きな声でいった。
浩太は美代を見つめた。「そうだろう、なら、『究極のハンバーグ』を諦めよう」
美代は、カチンときた。
「何言ってんの、大事なのは『究極のハンバーグ』に決まってるじゃない」
その美代の言葉が最後になった。
「…」浩太は声を失うと、階段をすたすたと降りて行った。
「なによ、浩太の馬鹿!もう二度と顔なんか見たくない!」美代はむしゃくしゃして叫んでいた。
「なんで、分かってくれないの」頭が真っ白になった。何も考えられなかった。なぜ、浩太は怒っているのだろう。二人にとって、大事なのは『究極のハンバーグ』なはずだった。でも、浩太にとっては、ハンバーグは大事でなくなった。私は、それでもハンバーグが大事。
「浩太、諦めるの、『究極のハンバーグ』を諦めるの…もう、そこにあるんだよ」
私は、ハンバーグが大事。だって、陽輔くんや、日高の叔父さんを助けるためにも、謎を解くことが必要だったんじゃないの―。ずっと、それで、調べてきたじゃないの―。浩太の店、一緒に『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を盛り上げるには、私のハンバーグが必要だと思った―。だから、ハンバーグを試してみたかった。でも、店はなくなった…。いつしか、涙が流れて、美代は、その場に蹲って泣き続けた。
ハンバーグが本当に大事なの?
去って行く浩太の後ろを付けていく男がいた。美代は、その場に崩れ落ちていた。その男が動き出したのを気づいていなかった。
男が浩太を睨みつけた。浩太はその時、大きなめまいに見舞われた。
「地震?いや、めまいだ…疲れているのか…」ふらふらと路面電車の駅に向かって歩き出していた。浩太は、『小松食堂』によって、自分の荷物を纏めるとこっそりと食堂を後にしようとした。
駅までかなり遠かったが、すぐ路面電車はやって来た。乗り継いで、小松食堂に着いた。『臨時休業』の札を見て、鍵を開けた。二階へ昇ると荷物を赤いキャリングバックに纏めて降りてきた。厨房を最後にひと目見ておきたくて、厨房を覘いた。そこにお婆ちゃんが立っていた。
「お婆ちゃん、大丈夫だったんですか?心配してたんですよ…」浩太は安堵の気持ちとやるせない気持ちが混ざって声をかけた。
「なぜ、今、ここに来た。ここはいかん。すぐに逃げなさい。さっきまで、あんたを探して高橋昇治が来ていた…」
「えっ、本当ですか?」
「あぁ、あんたを探してた」
「僕、彼と話そうと思うんです。全ての秘密を知っているのは、多分、あいつだけだと思うから…」
「あんたが、そういうなら、止めないが、あの男は普通ではない。とにかく、一旦、ここから離れなさい…」店の裏口に浩太を連れて行き、そっと見送ろうとしたお婆ちゃんの目の前で、浩太のポケットから手帳が落ちた。手帳は、床に落ちる。お婆ちゃんがゆっくりと屈んだ。
「大事な手帳、落としたわよ…」ポケットからハンカチを取り出して、お婆ちゃんはハンカチに包みながらそれを拾った。
浩太は、自分にとって大事な手帳をお婆ちゃんから受け取った。お婆ちゃんは、赤いハンカチでクルリとそれを巻いて渡してくれた。
「なんで、手帳のことを知ってるんですか…」
お婆ちゃんは、無言で浩太を見つめた。
「お婆ちゃん!お婆ちゃんは、何を知ってるんですか?」
「知っていることは、あなたが、『小松良明』という人を一人前の料理人にしたということ。だから、高橋に、あんたを渡したくない…」
「俺が、小松良明を…一人前に…」
お婆ちゃんは、自然に浩太を抱きしめると背中をさすった。
「その手帳を大事にしてね…」
「お婆ちゃん、お婆ちゃんは何を…?」
「早く…」―早く逃げろ―。その声は夢の日高と同じように感じた。
「早く行きなさい」お婆ちゃんは、浩太を押し出すようにして、店の裏口から外に出した。そして、名残惜しそうに見つめると扉を閉めた。
浩太は、扉のしまった『小松食堂』を感慨深く見つめた。
ゆっくりと、小松食堂から、離れて振り返った。しかし、折角のお婆ちゃんの配慮にも関わらず、そこに、オールバックに髪を固めた、藍色のスーツの男が現れた。
―高橋昇治だ―。
「お別れは済んだかい…」
まっすぐ高橋は、浩太を見つめている。気のせいか、少しやつれているようにも見える。
「高橋!おまえ、陽輔や、叔父さんに何をした!お前は何を知ってるんだ!」
「ははっは、何をいってるんだ。俺は利用しただけ、全ての原因はお前じゃないか!」
「原因が俺だと、ふざけるな!おまえ、叔父さんを銃で打ったじゃないか!」
「ははは、あんなことに感情的になってるのか?だから、あれは、なかったことになるといっただろう。実際、なかったことになったじゃないか」
「なかったこと…皆が忘れても、俺は覚えている。お前は人殺しだ!あの後、叔父さんをどうしたんだ!」
「ふーん。やっぱり、おまえは変わってるな、なぜ、お前はそのことを覚えているんだろうな。実際に関わった俺以外に知る人間はいないんだがな。あいつが、俺を一緒に飛ばしたから、俺は、戻ってくるのに大変だったんだ」
「そんなことは俺にはわからない…とにかく、お前が人を消したことに変わりはない。この人殺しめ!次は誰だ!俺も消そうというのか!」
「冗談云ってもらっては困る。俺自身にそんな能力はありはしないからな」
「じゃあ、誰がやったというんだ」
「彼ら自身さ。特に、陽輔を見つけるのに骨がおれた。彼が過去へ行くのに便乗する必要があったからな…」
「どう…いうことだ…?」
「俺は、日高馨から打ち明けられた。彼の特殊な才能のことを…お人よしなんだな…あいつは、奴は俺を信じさせるために、俺を連れて一〇年前に行ったんだ。俺は、そこで『小松良明のノート』を手に入れた、そして全てが変わった。だから、あれを俺から奪った日高を消す必要があった。だから、陽輔を利用させてもらった」
「利用するとは、どういうことだ!」
「過去に行かせて貰ったのさ。しかし、日高は更に、俺の行った過去より昔、五十年前に行った。そして、おれより先にノートを抑えた。だから、ノートを手に入れたはずなのに、俺の手元からなくなった」
「おまえ、最後に日高からノートを奪ったんだろう!」
「ないさ、日高は俺からノートを判らないように隠しやがった。小松良明の女房に託したのかと思ったが、それもなかった。だから、方法を変えることにした」
「方法を変える?」
「貴様のノートを頂く…」
「俺の…?俺のノート?言ってる意味がわからん…」
高橋は、懐から黒い物体を取り出した。日高を打ち抜いたあの銃だ。「おまえは、殺したくはない、なかったことにできないからな。だから、おまえのノートをすぐ渡せ!」
「何を言ってる。俺のノートじゃ意味がないだろう?おまえは『小松良明のノート』が欲しいんじゃないのか?」
「めでたい奴だな。ノートが完成するのを待ってただけだ…」
浩太は、赤いスカーフで巻かれた自分の手帳を見つめた。
「渡すな!」どこからか声が聴こえた。
その瞬間、『小松食堂』の陰から、物凄い勢いで突進する大きな丸い影が見えた。一瞬のうちに高橋はその影に激突され、吹飛んだ。銃が宙を舞って、近くのゴミ箱の周りへ落ちて滑っていった。
その丸い男はピクティの丸山だった。
「粕谷浩太、逃げろ」丸山が大きな声を出す。
「おまえ!」浩太は、一瞬躊躇したがそのまま走り出した。路面電車の駅に電車が滑り込んでくる。
走りながら、振り返ると、丸山以外にもう一人の男が現れた。二人で高橋を囲んでいる。
丁度、路面電車は駅から出発するところに、浩太は、間一髪、乗り込んで扉がしまった。
ゆっくりと電車が動き出す。『小松食堂』のあたりが光輝く。
「まさか、あの光は…またか、さっきの男たちは…助けてくれたのか…なにが起こってる…」浩太は手が震えた。
「…叔父さん、俺はどうしたら良いんだ…」
『珈琲カフェたいら』では、店の入り口に美代が座り込んで塞ぎこんでいた。店のおばさんが、美代に優しく声をかけ、店の中に連れ戻した。美代は泣きはらした赤い目で、ずっと壁の黄色がかった場所を見つめていた。こうまでしたんだから、ハンバーグを食べないと気が済まないはずなのに、一向に食べたい気持ちが沸いてこない。
浩太がいなくなった。
初めて本気で喧嘩した。
どうしようもない形で、浩太がいなくなった。それも、ハンバーグのせいだ。大事だと思っていたことが、本当の本当に大事だったのか、判らなくなってきた。
いや、分からなくなったのではない、分かってしまったのだ。
大事だと思っていたことが、本当は大事でなかったこと。
本当だと思ってたことが、本当ではないことが、美代の頭の中で分かってきた。
「ハンバーグが大事じゃなかったんだ。浩太にハンバーグを食べてもらいたかった」
美代はしっかりとわかった。そうして、陽輔や日高先生のことが解決すると勝手に思っていた。自分がそうしたいだけだったのだ。
ハンバーグが大事じゃない。ハンバーグを、あのお爺ちゃんの『究極のハンバーグ』を浩太に食べさせたかったということがわかった。それが、自分にとって大事だったんだとわかった。皆が美味しいといってくれて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で人気メニューになっていくこと。それが、浩太の目を引き、自分が必要だと思ってもらえること。ハンバーグがきっかけだったが、それを焼き続けるうちに、自分が変わっていったことを気付いた。勝手に、陽輔や日高先生のことを、ハンバーグを作ることと結び付けていただけだった。なぜ、気付かなかったんだろう。
浩太の言っていることは正しい―…どうして、こんなことに今まで気付かなかったんだろう。ハンバーグが大事なんじゃない。
浩太が大事だったんだ。なんで、そんなことが分からなかったんだろう。がっくりと肩を落として、威勢のよさがなくなった美代は、画面の写らないテレビのように存在意味をなくしていた。カウンターで、放心状態になっている美代に、奥から平の爺さんが出てきて声をかけた。
「おいおい、彼氏はいなくなったのかい…はは、とうとう、愛想つかされたか?」
「こら、お父さん!」おばさんが、平の爺さんに向かって叱るような目で訴えた。おばさんは、平の娘だったのだ―。
「…」美代は平の爺さんをチラリと見ただけで、すぐ俯いて、テーブルに涙をこぼし始めた。「なんで、私は、食べて欲しかっただけなのに、なんで、皆、素直に出してくれないのよぉ。なんで、秘密なの、なんで教えてくれないの。なんで隠すのよぉ」美代は大声で喚いた。
「ちょっと、泣くなよ」平の爺さんは困り果てた。
「泣いてないわよ!」いきなりガバッと起き上がると、真っ赤な目で睨みつけられ、爺さんはたじたじになった。
「今日は、もう帰りなさい」おばさんが優しく声をかけた。
美代は涙を拭くと立ち上がった。おばさんが声をかけようとしたが、そのままゆっくりと外へ出ていくと、とぼとぼと来た道を一人で帰っていった。その背中は寂しそうに落ち込んでいた。
「俺、悪いことしてるのかなぁ」平の爺さんがおばさんに訊いた。
「多分、相当悪いことをしたんじゃないですか?小松の爺さんとの約束とか言って、本当は自分があの『レジデンス』の男が怖いだけじゃないですか…小松の爺さんは、こんなことを望んでるんですかね?」
「それは…」そう言って、平の爺さんは悲しそうな顔をした。「そうなのかなぁ。相当悪いかぁ…」平の爺さんも、ショックを受けているようだった。ある意味、美代なみに威勢のよかった、平の爺さんもしょんぼりとしょげかえった様子を見せているのを見て、、「考えてあげたら、どれが一番なのか?」とおばさんが、壁の黄色い部分を見上げた
平の爺さんは唸った。
美代が『珈琲カフェたいら』を離れたころ―、浩太は一人路面電車に揺られて、高橋昇治の現れた『小松食堂』を離れていた。路面電車に揺られて、外の景色を眺めていた。
「俺だけが逃げるのか…」
遠くに盾涌工場が見える―。
「俺のノートを、高橋は欲しがった。どういうことだ…お婆ちゃんは、俺が来ることが小松良明のノートに書かれていたといっていた。それに、陽輔を利用したと…叔父さんは、ノートを奪った。そして、更に隠そうとした…。高橋は言っていた。ノートが完成するのを待っていたと…まさか、そんな…まさか…」浩太は赤いハンカチに包まれた手帳を見つめた。一番後ろのページを開けた。そこには何もかかれていない。そして、ページを捲る。そこには、小松食堂のことがびっしりと書かれている。
「最後の1ページ…。ノート。小松良明のノートの最後の1ページは、『究極のハンバーグ』のレシピだった。そうか、…」浩太は、背中に冷や汗が流れた。考えもしなかった理由が分かった。
「全ての原因は俺と、あいつは言った。なら、答えは一つしかない。このノートが『小松良明のノート』自身だということだ。でも、なぜ、そうなるんだ!研究所で見た最後のページは、『究極のハンバーグ』のレシピだったぞ。俺の手帳は、最後のページは空白のままだ。あいつは完成したと言っていたが、まだ完成していない…」
雨が振り出した街並みを路面電車は、悲しい色を発しながら進んでいく。そして、高知駅構内にゆっくりと吸い込まれていく。高地駅を見上げながら、浩太は呟いた。
「『究極のハンバーグ』の謎…。それは、俺の手帳だってことか、叔父さん、もっと分かりやすく言えよ!それが、謎を解くということか!なら、俺は、美代と『珈琲カフェたいら』で『究極のハンバーグ』を探し当てて、ここにレシピを書かなくてはいけなかったのか!美代、美代は大丈夫なのか!、俺は、こんな場所で何をしてるんだ!」ゴンと窓ガラスに頭をぶつけて、浩太は、黙ったまま俯いた。高知駅に路面電車は収まった。降りてくる人の中に浩太がいた。
―どうする。高橋はどうなったんだ。
―あいつらは、仲間か?
―このまま、どこへ逃げる?
―俺の周りに、おかしなことが起きようとしてる。
―美代は大丈夫なのか?
―叔父さんが夢の中で―逃げろ―といってたのはこのことなのか?
―逃げるとしてどこへ―。
浩太は、いきなりふらふらとして、視界が転がった。いや、浩太が地面に倒れた。
よろけて地面に倒れる。
大きな音、自分の体が地面に倒れる音を聞いた。
―平衡感覚がない。
頭に激痛が走る。
「なんだ、この痛みは…」いきなり頭がきしみだし、浩太は床に倒れながら、こめかみを抑える。視界がゆがんで、行き交う人が二重三重にブレだす。浩太は立ち上がろうとして、帽子を落とした。風がすぅーと吹き出し、帽子が踊るように滑り出す。
そのままうずくまる。近くを通りかかった年配の女性が気にかけてくれたようで、視線を投げかけ、近づいてきた。
―助けて。
女性は近づいて、声をかけた。「どうしたの、だいじょ…」言葉が途切れる。浩太が頭を押さえてゆっくりと女性を見上げた。
「助けて…」そう答えて見上げた女性は身動き一つしない様子で、固まっている。完全に動きが停止している。気のせいか、頭痛も治まっている。
映画の一部分のように見えて、何が起きているのか想像もできない。全てが、停まっている。浩太が、周りをきょろきょろと見渡す。何もかもが停止している。何もかもが動いていない。静かで物音ひとつしていない。
「どういうことだ、なんなんだこれは!まさか、これは!」皆が動いていないのではない、おそらく時間が停まっていることに気付いた。
音が響き出した。
カツーン カツーン
カツーン カツーン
静まり返ったその中を、ゆっくりと歩いてくる男がいる。先ほどの男だ。高橋昇治と、あの丸い男と一緒にいた。あいつが来た後、あの光が…あの光は多分、あの光だ。
思っていたとおり。その男の目が青く光り輝いている。風が浩太の周りに集まってくる。
「おまえ…誰だ。何をしようとしてる?…」浩太はそう、声をかけようとして、声を失った。
―そう、その男は、まるで、瓜二つのようにみえた。浩太には分かった。―そう、まるで、
「そんな、おまえ、まさか、よせ、そんな…」
その男と浩太の間に、物凄い風が吹き込んでくる。突風だ。
―動揺している浩太に更に追い打ちをかける。
停まっている全てが逆向きにスローで巻き戻されるように動き出した。全てが逆向きに動き出す。女性は声を掛けた瞬間から、ゆっくりと逆向きにフィルムを巻き戻すように後ろ向きに歩いて行き、あっという間に凄い速度になって、全てが高速で逆向きに動き出す。浩太は頭を押さえて、痛みのために叫んだ。
断末魔のように声を振り絞るが、誰も気にも留めない。
恐ろしい風が浩太の周りに吹き込んでくる。
その男は、浩太の近くまでやってきて、ニヤリと笑った。
知っている。この男を―。
風が吹き荒れて、浩太は気を失った。
発車を促す汽笛のベルと共に、扉は閉まり、路面電車がまた出発する。
声を掛けた女性は、目の前に落ちている帽子を見て、きょろきょろと先ほどまで、そこにいた人を探した。風がびゅっと吹き込んで、女性が手にしていた帽子が空中へ吹き上げられた。