小松食堂の秘密
『盾涌食堂』の跡地は『小松食堂』から二十分ほど歩いた場所にあった。『小松食堂』へ来た時の道を途中で北に折れて、路面電車が通る道、といっても古い家屋が並んでいる郊外の住宅地なのだが―、真っ直ぐ山に向かって歩いていった。しばらく歩くと、大きな川が見えてきた。河川と寄り添うように大きな工場跡地が見えてくる。
「あれが、『盾涌工場』よ」
河川敷から遠めに見える工場は、壁がくすんで、古びた感じがした。
「壁がくすんでいる気がする」浩太は目を細めて、更によく見ようとした。
「そうね、五十年以上前だからね…大分古くなってる…」川の対岸にも、工場地帯が見えた。そちらの方は煙が上がっている。「『盾涌工場』自体は、川の反対側に移ってから、こちらは使わなくなったの…」
『盾涌工場』の目の前までやって来た。そこは、フェンス越しに雑草が茂る、廃屋と工場跡地になっていた。道だったところにフェンスが張られているのだろう。二人はそれ以上は奥にいけなかった。フェンスにへばりつきながら、工場をじっと見つめた。工場の中の様子までは見ることが出来ない。三階建ての大きな建物だ。道路の両脇に奥まで続いている。この様子だと、中も荒れ放題に違いない。この道路にフェンスが引かれているということは、奥は行き止まりということだ。『盾涌工場』以外に先は何もないということだろう。
「この中に何かあると思うか?」
「ううん、小さい時に、中を良一と探検したことがあるけど、中はがらんどうよ。この先は行き止まりだし、ここには何もないと思う。あるとしたら、工場ではなく『盾涌食堂』のほうね…」
「『盾涌食堂』はここから近いのかい?」
「あそこら辺よ…」美代は行き返す道を山手に登る場所に幾つかの建物が集まっている場所を指差した。二人はそこを目指した。
二人は工場の近くに古い建物が並んでいるのところを歩いた。
少し後ろを彼らに気付かないようにつけている男がいる。
「あいつら、足早いな…」丸山だ。しつこく、彼らを追いかけている。
二人は、そんなことも知らずに、古い建物が集まるところまでやって来た。遣われなくなった納屋や、古い住宅、少し大きめの倉庫といった建物が並んでいる。
「『盾涌食堂』はあそこよ、看板が見えるでしょう」美代が指差した。
看板といっても、小さい出っ張りぐらいにしか見えない赤っぽい色をしたものだ。近づくとそれがレストランの看板であることが分かった。
「なるほど、ここなら、工場と近い。しかし、街並みからは少し遠いな…」浩太が工場と先ほど歩いてきた河川敷や遠くの街並みを眺めた。
「ここら辺は、もうすっかり寂れて、あの写真のように繁盛していた頃があると思うと不思議。この道を真っ直ぐいくと、先ほどの道路に出るの、車なら、以外と近いのよ」
二人は、『盾涌食堂』の崩れた壁や周りの様子を眺めた。誰もいない、何もない『盾涌食堂』の周りをぐるぐると見て周った。『盾涌食堂』はレストラン部分が一階になっていて、三階建てになっている。三階の上には、屋根のないテラスの部分が見える。
コンクリの破片が散乱して、誰が捨てたか判らない食べ物や小さなゴミ、なぜか箪笥や、冷蔵庫、テレビといった粗大ゴミが捨てられている。足元に気をつけて、浩太が建物に近づいて覗いてみた。曇りガラスのように曇ったガラスからは、ほとんど中が見えない。かろうじて、様子が伺えても、まるでひと気がない。中は真っ暗でお化け屋敷には丁度いい状態だ。美代も瓦礫の反対方向から建物に近づいて、中を覗きこんでいる。窓が割れていて中が見える部分があった。美代は中が見えると浩太を呼んだ。浩太は近づいて、中を覗きこむ。『盾涌食堂』の内装は調度品が綺麗に並べられていて、外の荒れ果てた様子とは違って整っていた。今でも使えそうなものもありそうだ。
外が荒れ果てていながら、中が以外に綺麗なのは備え付けの家具類や調度品が多いからだろう―と浩太は覘きながら想像した。ホコリやゴミ、ガラクタを撤去すれば、営業できそうなぐらい、中だけは立派だ。
浩太が割れた窓から中を覗いていると、美代が近く入り口の扉を開けてみた。カツンカツンと、錆びたカウベルが頭上で音を鳴らしている。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』についているのと全く同じ奴だ。錆びていて音が響かない。
美代が指差して、開いていると仕草で説明してる。別に声をだしたらいいのに―、美代はそのまま奥へ入っていった。
「おいおい、まずくないか…」浩太は窓から覗きながら声をかけた。
「凄い、これ高そう」美代がテーブルをコンコンと叩いた。
「誰か来たらまずいだろう」と浩太は、しばらく窓から、中を徘徊する美代に声をかけたが、美代は気にする様子はない。しばらく様子を眺めていた。
「平気だって、歩いて来た時、誰かすれ違った?誰もいなかったでしょう。私が小さいころから、ここら辺は空き家だったから大丈夫よ」そう言って、更に奥へ入っていく。「凄い、鉄板があるわ」美代の声が響く。
浩太も耐え切れなくなって、美代の後に続いて、錆びたカウベルを鳴らして中へ入った。外からさす夕日に照らされて、細かい埃が、ふわっと宙に舞って浮かび上がる。咳き込んだ。服の首元を引っ張って口にあてて、浩太は周りをざっと見た。
思ったとおりだ。モダンシックのいい体裁だ。写真で見るのと、実物を見るのとでは大きな違いだ。奥に進むと美代がカウンターを見つめている。
「不謹慎だが、この店、俺、好きだな。なにか安心する作りだ…」
「そうね。私も好き。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に似ている」とカウンターを越えて、奥の厨房へ歩いていった。浩太も確かめるように周りを見ながら、厨房へ移動した。鉄板が大きくカウンターの奥に座している。
「どう、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』にそっくりでしょう?」
「そうだな」浩太は驚いて眺めた。似ているのでない、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に瓜二つだ。厨房のつくりがまるで同じだ。
「びっくりした。同じだ、同じ作りだ」
「この大きさから、スペース、厨房の取り回しも全く一緒…」店全体の作りは、明らかにこちらの方が大きいが、厨房のスペースと配置関係は全く同じだ。
「関係があるんじゃないか…。全く別の物とは思えないぐらいそっくりだ。年代からして、こっちが先、叔父さんは、これを見て、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の内装を作ったのかも知れないな…」浩太は不思議そうに見つめた。
「この手の厨房ってこんなに似てるものなの…」
「いや、これは…この違和感は、やっぱり拭えない。意図的な可能性が高いよ。設計したのは誰なんだろう?」
二人は、じっと周りを眺めていた。
カラーン、外で大きな音がした。二人はびくっとお互いに体を震わせた。浩太は音がしたあたりを咄嗟に見つめた。何か人影がスッと消えた。
「誰かいるの?」美代が訊いた。
「わからない。人影が見えた…気がする」
「本当に?大丈夫?」少し動揺している美代を尻目に、浩太はそぉっと窓に近づいた。気配はする。浩太は窓まで近づいていき、そぉっと窓から外を覘いた。しかし、そこには誰もいない。
「おかしい…、確かに誰かいた気がしたんだけど…」更に、近くの扉を開けて、外に出てみた。そこは、店の裏側に通じており、そのまま裏山に通じている。草や落ち葉、おが屑を踏みながら、周りを一周して確認したが、誰もいなかった。
実は、建物一つ過ぎたところの壁と壁の隙間に『ピクティ』の丸山が体を突っ込んで隠れていた。
浩太はそのぎりぎりのところまで近づいたが、それ以上、丸山の方は調べずに、また、廃屋となった『盾涌食堂』に戻っていった。
丸山は後をつけて、『盾涌食堂』の跡地へ入っていく二人を外からずっと眺めていた。
「ふー、」浩太が執拗に辺りを確認したので、緊張で汗が噴出した。浩太が、丸山に気付かずに、建物の中に戻ると、その緊張から解かれ、丸山は息を吐いた。
「見つかりそうだったなぁ。やばい、やばい」壁と壁の隙間から手を突っ張って出ようとして、踏ん張った。
「ふん」抜けない。
「ふん」やっぱり抜けない。
腹がつっかえている。「あれ、あれれ」びくともしない。
「おかしいなぁ、入るのは簡単に入ったのに、」必死でもがく
「ふん」
「ふん」やっぱり抜けない。
「あれ、本当に出れないや、参ったな」
「ふん、ふん」押し殺すような必死な声だけが続いた。
また、浩太が扉を開けて、外をうかがった。
「今、声がしたような…」体を引っ込める丸山に対して、浩太は今度は確認せずに扉を閉めた。
丸山は目を丸くして、踏ん張っていた。
今度は、必死の形相で声を出さずにもがいた。
手を外の壁にかけて、力を思いっきりかけた。
その時、いきなり、その手を引っ張られた。丸山はスポッと隙間から脱出した。
「助かった…ありがとうございます」丸山は肩で息をしながら、膝に手をついて息を整えた。
「おまえ、あの二人の後をずっとつけてるな。何が目的だ?」丸山の前に現れた男が訊いた。
「え、あんたは一体、誰?」
「何を探している。まさか、『究極のハンバーグ』か?」その男は丸山に訊いた。
「なぜ、それを知ってるんだ?」
「やっぱりそうか、じゃあな、お前、俺に協力しろ!」その男は、丸山に近づいた。
「俺は、ある男を追っている。おそらくそいつは、あの二人に接触するだろう。それを阻止しろ、そうしたら教えてやる」
「知ってるんですか『究極のハンバーグ』を?」
「直接は知らないが、知る方法を知っている。おまえ、今から俺の言うとおりにしろ…」丸山の手を引いた男は、丸山に耳打ちした。
「そんなことで、良いんですか?本当ですか?」
「あぁ、本当だ。だから頼むぞ…」
「わ、わかった」丸山は頷いた。
その男は、そのまま建物の周りを足音を鳴らさずに徘徊しだした。丸山はその姿を見つめて、首をひねった。
「あいつ、どこかで見たような気がする…」
丸山は、その男に何をいわれたのか、さっさと来た道を引き返し始めた。
その男は、外の砂利を踏みしめながら、『盾涌食堂』を調査する浩太と美代を日が落ちて二人が帰るまで眺めていた。
九時を少し回ったところで、山本家では晩餐になった。粕谷浩太を客人として、父と母が迎えた。父は初めは余り機嫌がよくなかったが、浩太が彼氏でなく、レストランの店長として、食堂を見に来たことを知り、酒も手伝ってか機嫌がよくなった。何度も浩太に日本酒を継いでは飲まそうとして、自分もほろ酔いになるとさっさと寝床へ帰った。浩太は飲みなれない酒で、酔いつぶれ、テーブルで寝てしまっていた。十一時を越えても、お婆ちゃんは現れず。美代は心配した。『小松食堂』の営業は九時までである。実際、良一は九時前に帰ってきていたが、お婆ちゃんは一体、何時まで食堂を見ているのだろう。
「まだ、お婆ちゃんは、店のこと、全部自分一人でやっているの?」
「そうなのよ…」幸子も祖母の体調を心配をしていた。
小松美和子の一人娘が、母、幸子である。必然的に、『小松食堂』を継ぐということを姉と弟の間で話ししたことはなかったが、美代は良一が大きくなると、食堂のホールを手伝うようになり、飲み込みが早い弟に譲るべきだろうという気持ちが大きくなっていった。
美代は、昔は食堂に入り浸っていたが、中学から高校に上がる頃には、だんだんとその場所を良一に譲っていったのだった。
「…良一にやらせればいいのに…お母さんでも、代わって上げなよ…」美代は母に言った。
「完全にお婆ちゃんが牛耳っているのよ。口出しできないわよ…」
「例えば、夜だけでも良一が見るとかさ…」
「良一かい、あれは、本気じゃないよ…自分の店を持ちたいみたいよ…」幸子が溜息を吐いた。
「えぇ、そんな勝手な…『小松食堂』はどうするのよ…誰が継ぐのよ…」美代は良一の態度が許せなかった。
「そんなところを、お婆ちゃんに見透かされてるんじゃないのかな、実際、厨房にも混んだ時しか入れてもらえてないし…」
「まさか、あの厨房をまだ、お婆ちゃん一人でやってるの…私が、大阪に行った意味ないじゃない…」
幸子は溜息を吐いた。「あんた、そんなこと考えてたの…」
「…だって、私がいないほうがいいでしょう。やっぱり良一が継ぐのがいいのかなって…」
幸子は自分の娘に呆れるのだった。
「身内の中で、『小松食堂』の厨房に躊躇なく入っていくのはあんたぐらいなもんよ…良一だって、ホールが中心よ。中には昔からほとんど入ったことがないのよ…」
「そんな、私だけって…」
「昔、小さいときは、良く食堂で働きたいって言ってたじゃない。今も、そちらの粕谷さんところで働いているんでしょう。大学が終わるまで待たずに、お婆ちゃんに直談判したら…」
「でも、ハンバーグをやらせてもらえないもの…」
「まだ、そのことを根に持ってるの…」
美代はお婆ちゃんの心配をすることが、結局、自分のせいになるのが釈然としなかった。
「いっそのこと、粕谷さんもこっちでやればいいんじゃない」
「…何言ってるの…」美代は浩太をチラリと見た。
「いいじゃない、今、寝てるんだし、あんたの本心はどうなのよ…」
浩太は起きていたが、顔を起こすタイミングを逃して、美代と幸子の話しを訊いていた。ただ黙るしかなかった。
美代は答えをはぐらかして、とうとう、お婆ちゃんはやってこなかった。美代は、『小松食堂』まで、浩太を送ることにした。「それじゃあ、私、お店まで送ってくる」
「そうね、お婆ちゃん、まだいるのかも、それにしても、帰って来ないわね。こんなんじゃ、こっちに泊まってもらったほうがいいのに」
「そうしようか…」美代が浩太に訊いた。
「いやあ、いいよ。荷物があっちにあるし…」
「…そうだね」結局、当初の予定通り、『小松食堂』に戻ることにして、山本家をおいとますることにした。
一人で戻れるという浩太に対し、美代は母の自転車を拝借して出かけた。
「お母さん、自転車借りるね」
「はーい」という母の声が聴こえた。
『小松食堂』までは、バス亭三つ分を歩くことになる。美代は自転車を押して、浩太と歩いた。
「何か、騒がしいばかりで御免なさいね、余計に疲れたよね」
「楽しいよ。俺んところの家族とはえらい違いだ。俺の母さんも父さんも家にはいたことはないし。いつも叔父さんだけだった」
「そう?賑やかなだけよ」
「それが良いよ」
話は、自然に今日見た『盾涌食堂』に及んだ。何も掴めはしなかったが、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』との関係性が気になった。やはり、謎のライバルのことが、関係しているのは間違いないと思える。
―あのライバルは、日高馨に違いない―。
何らかの手段で『盾涌食堂』のレイアウトに噛んでいるのか、もしくは、レイアウトを知っていて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が真似たのかのどちらかだ。
「明日は、『小松食堂』の昔からの仕入れ関係を廻ろうと思う」美代が唐突に話した。
「仕入れか、なるほど!それはいいな」
「もしかしたら、『究極のハンバーグ』の秘密を知ってるところがあるかもと思うの…『究極のハンバーグ』を解けば、解決するなら、ひとつの手でしょ」
「あぁ、」
「陽輔くん、叔父さんを助けないと…」
「そうだな、今頃、どうしてるのかな…」浩太と美代は夜空を見上げた。
あっという間に、二人はバス亭三つ分を歩いて、食堂にやって来た。
『小松食堂』の前まで自転車で送ってもらった浩太は、食堂の明かりが消えて、真っ暗になっているのを見た。
「もう、お婆ちゃん、店閉めて寝てるし…」
暖簾が下がっていて、明かりはついていない―美代はぼやいた。
「お婆ちゃんの部屋は、一番奥なのよ。ほら、薄明かりが点いてるでしょう。もう、寝てるわ」美代は安心すると同時に、ちょっと腹がたった。
「じゃあ、これ、店の鍵よ。お婆ちゃんに渡すように言われてるの…」
「鍵か、俺なんかが預かっていいのかよ」
「だって、お婆ちゃんがそう言うから、良いんじゃない。じゃあ、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
美代は手を振ると、自転車を颯爽と漕ぐと闇に消えて行った。
浩太はそれを見送った。
美代がお婆ちゃんを心配していたのと同時に、美代は『小松食堂』を大事に思っている。それは、お爺ちゃんの店だからだ。
美代のハンバーグ好きの理由が分かった気がした。
美代はハンバーグが好きというより、お爺ちゃんが好きなんだろう。
ハンバーグを作ることで、お爺ちゃんと一緒に料理をしているのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
そして、今も、『究極のハンバーグ』を調べることで、お爺ちゃんに近づこうとしている。美代の行動パターンはお爺ちゃんのことを思い出す行動で回っている―。
『小松食堂』のメニューにハンバーグがあったら、美代はどうしたのだろう。美代は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で働くことはなかったのではないか―そうすれば、浩太と出会うこともなく、浩太もこんなところに居てなかったかもしれない。
逆に、美代は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』という場所を得て、ハンバーグを作る機会を得たとも、考えられる。
浩太は思った。もしかしたら、美代は俺と同じで、今回の件で、居場所を無くしたのかもしれない。
美代から預かった鍵で扉を開けて『小松食堂』に入った。扉を閉めて鍵を掛ける。小松食堂に泊めて貰えるのは有り難い限りだ。同時にどれだけ異例なことか、昼間に良一や美代に訊かされた。娘のバイト先の人間を大事な場所に泊める。これが自分だったらどうだろう、自分のレストランに果たして他人を泊めるだろうか…。
応えはノーだ。
美代のおかげと思うしかない。それだけ、彼女が信頼されているから、自分も信頼されたのだ。何か厄介なことがあっては大変だ。自分が鍵のかけ忘れで不審者が入ったりしては、たまったものではない。浩太は鍵がしっかり閉まっているかを何度も確認した。
―大丈夫だ。鍵は閉まっている。
安心して、後ろを振り返った。暗くなった食堂、その広さと暗さが浩太を襲う。ごくりと唾を飲み込みゆっくりと眺めた。
広い。帝新ホテルのダイニングほどではないが、あれが異例なだけだ。ただじっと見つめて、ここが『小松良明』が作り出した世界であることを実感した。
足を踏み込んだ。
ギシッと音がする。浩太は目をつぶってみた。夕方のお客が沢山いる食堂を瞼に浮かべた。自分のレストランとは明らかに違う。当然、店が違うのだから、根本的に同じではない。しかし、明らかに違うところがある。
―この食堂のお客は楽しんでいる―自然とそのことがわかった。
暗闇に目が慣れてきて、テーブルの模様、色が見えてきた。椅子の背もたれの形が見えてきた。今日の昼、ここに来たときには気付かなかったことがいきなり見えてきた。
『小松良明』が凄いと、あのテレビ番組の司会の男も言っていた。
何をそれほど、凄いというのか分からなかったが、その意味が、じわりじわりと浩太の胸に染み込んできた。
『小松良明の食堂』
壁の明かりを見つけて店内の照明を点けた。どうしてもじっくりと、見ておきたかった―見る必要が自分にはある。
店内を一周して、一つのテーブルの椅子に座ってみた。目をつぶる。ここにやって来たイメージを自分に伴ってみたりした。
厨房を見るのははばかれたが、どうしても見ておきたかった。意を決して暖簾をくぐった。
「失礼します」
浩太は一言だけ断って、厨房へ入った。とても丁寧に使われているのがわかる。浩太のレストランの三倍ほどの広さだ。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の作りは、厨房をお客に見せるスタイルだ。だから、自分の料理スタイルも、魅せる事に注意を払っている。しかし、この食堂は一切、厨房を見せていない。魅せる事に、勝手に優劣をつけていた自分を見つけた。浩太は、料理人として、『小松食堂』を堪能した。
じっくりとみることで、『小松良明』を正しく理解していた。
数々の料理人が彼をただ凄い人物としてあがめたり、その料理だけを取り出して、絶賛しているのとは、本質的に違う。
浩太は、『小松良明』は、、目につくもの全てに料理を美味しく食べてもらう。料理を楽しんでもらうことに情熱をかけていることを理解した
。
テーブル毎に違う花のレリーフや、模様が複雑に入った椅子、壁にかかった木彫りの品書き、一段高くされた通路、活けられた花一本…隅々にまで神経が通っている。
「まちがいない、叔父さんは、『小松良明』に会いに行ったんだ」浩太は笑った。叔父さん、それじゃ、ただのミーハーなだけじゃないか、だから―写真までとったんだな―。
浩太には、今まで料理にこめた情熱を記した手帳があった。肌身は出さずに持ち歩いている。ポケットから手帳を取り出して、今、気付いたことを必死にメモし始めた。自分が料理だけに集中していたことを取り返すために、レストランの細部を見て、メモを続けた、それは、一時すぎまで続いた。浩太は目をこすり、手帳を閉じると電気を消した。
二階へ上がり、用意だててもらった部屋でジャージに着替えると、布団に入った。広間は暑すぎず、涼しすぎず丁度よかった。布団は小さく足が出た。
疲れからか、浩太はぐっすりと眠った。
夜はしずしずと過ぎていった。
浩太は夢を見た。日高の夢―。叔父さんの出てくる夢―。
「…迫っている。早く…逃げろ…俺の次は、お前を消そうとしている。浩太…逃げろ…浩太」日高は、ずっとそれだけを言い続けていた。おかしな夢だった。
まだ、すずめも鳴かない早朝。ガタガタという音で浩太は目を覚ました。窓の外はまだ暗い。
音は一階のほうから聴こえた。
―誰かが入ってきたのか?
―夢に見た日高のことを思い出した。「俺に逃げろって言ってたな…」頭を掻いた浩太は、一階のほうの音がどうしても気になった。
―まさか、良一や美代が言ってた、お化けではないだろう。
耳をそばだてる。気のせいではない。確かに一階で、今も何か音がしている。
「まさか、ここで逃げるわけに、行かないだろう。不審者が入ってでもいたら大変だ」
―さぁ、どうする―。
浩太は自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がった。
足音が鳴らないように、そぉっと階段を降りて行った。階段上から一階の明かりがついているのが分かる。どうも厨房の明かりのようだ。と同時に、いい匂いが漂ってくる?
―出汁の匂い―
昆布の匂いだ。厨房に下りた浩太は、明かりが、厨房でも、厨房の奥から漏れているのを確認した。確かめるようにゆっくりと足を向ける。ギイィと配膳板周りの板を踏んで音がした。焦った浩太に、厨房奥から声がかけられた。
「起きてきたかい…」しわがれた女性の声。
「お婆ちゃん…?」浩太は声をだした
厨房の奥には、包丁の刻む音が響きだす。
―美代のお婆ちゃんだ―。
不審者ではなかった。安心すると同時に、気付いた。
―仕込みをしてるんだ―。
朝早くから、お客を迎える準備をしているのだ。あんなに遅くまでやっていたのに、今度はこんなに早く始めている。浩太は関心すると同時に、「お早うございます」と声を掛けた。
包丁の音が止まった。
「一応、料理人だね、朝は早く起きれるんだ…」
「美代のお婆ちゃん…ですね…すいません、昨日は挨拶もなしで、ここで、寝泊りさせてもらって、有難うございます…」
「いいさ、挨拶しなかったのはお互いさまだし、本当に料理人なら、あんな家に泊まるより、こっちの方がわくわくするだろう。昨日も寝るまでやけに熱心だったようだしね…」「気が付いてましたか、すいませんでした。勝手に明かりを点けたりして…、どうしても気になって…」
「いいさ、半分、そのつもりで、コッチに泊まってもらったんだ」と話かけながら、お婆ちゃんと目が合う。
その瞬間、時間が止まった。
いや、浩太を見つめる、お婆ちゃんの動きが止まったのだ。
「あんた…」お婆ちゃんが、持っていた包丁を置いて、無言で浩太を見つめた。
「どうかしましたか?」
あきらかにお婆ちゃんは、浩太の顔を見つめて、何かを言おうとした。
「…いや、なんでもない…知っている人に、似ていた…だけだ」
「知っている人ですか…」
―日高だ―。
浩太と日高は似ていると、よく言われた。実際母のいうように他人らしいが―多分、皆がそういうので似ているのだろう―。
「日高馨ですか、お婆ちゃんが知っている人というのは?」
「いや、そんな名前は知らない。勘違いだ。気にしないでくれ」
浩太は釈然としなかったが、すぐにこの匂い、料理のほうに眼がいった。
「いつも、こんな朝早くから仕込みをしてらっしゃるんですか」浩太は興味をそのまま口にした。
「たいがいだね」
「そっちに行ってもいいですか?」
「…ちょっと待ちな」
浩太は、立ち止まった。お婆ちゃんは、少し考えたような素振りの後、「…そこで…、手と顔…、洗いな」とぎこちなく応えた。
「はい」浩太は笑顔で頷いた。厳しいやら、厨房に入れさせてもらえないという話しからもっと別な感じを持っていた浩太にとって、お婆ちゃんは、全く嫌な感じを受けなかった。逆に気を使ってくれているような感覚を受ける。
「…ほら…」と手ぬぐいを手渡された。浩太はそれを受け取った。皺皺の手…料理人の手だ。何年も朝から晩まで料理を作り続けている手…浩太は、心がじんと波打たれるのを感じた。この人は、『小松良明』の奥さんなのだ。やはり、只者じゃない―お婆ちゃんは、乙女のように、さっとその手を引っ込めて、手を隠した。そして、再度、包丁を手にした。浩太はゆっくりと周りを眺めて、厨房を注視した。お婆ちゃんは、途中まで刻んだ白菜とねぎ、油揚げを指差した。「それを切ってくれ」浩太は頷いて、包丁を手にして、「ぶつ切りですか、1センチ…8ミリぐらいでいいですか?」
「あぁ、そこにあるぐらいだ…」
お婆ちゃんは、足下の冷蔵庫から発砲スチロールにのった小鰺を取り出した。
「次に小鰺を焼く。それを切れたら、この小鰺のぜこと小骨を取って、串で差してくれ、炭火で塩焼きにする」そういうと、脇に掛かっている割烹着と三角巾を一つ、浩太に渡した。
「あ、はい」浩太は受け取ると、藍色と白色の『小松食堂』の割烹着を翻して着た。そして、昨日みた店員のように、三角巾を縛った。
お婆ちゃんは、浩太のその姿をじっと見つめていた。浩太は、準備ができると包丁を手にした。
「どうしました?」
「…いや、爺ちゃんが戻ってきたような気分だ…」
浩太は自分が『小松良明』に例えられて、照れて良いのかどうしていいのかわからず、ただ微笑んで、当たり前のように野菜たちを刻みだした。それを見て、お婆ちゃんも小鰺の処置をし、一匹一匹、串に差し出した。
ぱちぱちという、音がしだして、お婆ちゃんは、手前の火鉢に奥にある種火をスコップで拾って入れた。長いトングのようなもので、炭火をいらうと、いきなりカッと厨房が暑くなった。炭の匂いが漂い始め、浩太も額にぶわっと汗が滲んだ。手伝っているというよりは、一緒に料理をしているという感じを浩太は受けた。今まで、やったことのない料理、次々にお婆ちゃんの指示が飛び出した。強引ではなく、優しく、丁寧な内容だった。浩太はそれに従いながら、全く新しい料理を手に入れようとしていた。全てが新鮮で感じたことのないような楽しさ。浩太にとって、こんなふうに料理を教えてもらったことは過去に一度もなかった。自分がこなしていく事が、次々に結合されていき、食堂の準備がどんどんと完遂していく…いつしか、空は白んで、朝日が昇った。
小鰺はいまにも焼けるように串が入れられている。一本だけが炭火にさらされた。浩太は、汗を拭きながら炭火の銅釜でご飯を炊き上げた。
お婆ちゃんは、「ほら、美味しそうに焼けた」とこんがり焼けた小鰺を一匹皿に盛り付けて、浩太に差し出した。「食べてみ」
「いいんですか?」
「客に出す物を味見せんと、出せんだろう。わしは、昔から味見しとる…」浩太は、その香ばしい匂いもさながら、コントラストに感動した。薄茶色の紋様が付いた皿には、山椒と三つ葉が添えられ、鮮やかな銀に緑と赤が目を楽しませる。串ごとささった小鰺が浮き上がって見える。芸術作品のようだ。―食べるのがもったいないな―と思いながらも、じっと見るお婆ちゃんの視線に後押しされて試食することにする。トレビス、チコリを小さくきざんでワインで味付けた酢橘のソースをつけて食べる。串を持って、ソースの小皿に付けて、かぶりついた。ソースはあくまで、塩の風味を引き立てるもの―小鰺本来のくせがさっぱりした味わいに変化し、ぎゅーと口の中に押し寄せる。また、皮の部分から染み出した油が表面をカリッと焼き揚げており、その食感が嬉しい。
「香ばしい…本当に美味しいです」といいながら、お婆ちゃんの顔を見た。
「『香ばしい』って、漢字で『芳ばしい』とも書く。良い、面白い、美しいという意味だ」
「へえ…」
「いきなりだが、『小松食堂』の料理の本質は何だと思う?」浩太に突然に質問した。
「…味…ですか…いや、それに見た目も、匂いも…五感ですか…五感に訴えること」
お婆ちゃんは、鋭い目つきながら、何か優しい感じが漂っていた。「あんた、やっぱりただ者じゃないな。さすがだ…美代にはもったいない…」
「ぶっ」と口にした、小鰺を吹きそうになった。
お婆ちゃんは、小さい椅子に腰掛けた。「答えは、それだけじゃないけどね。あんたのレストラン…なんで放ってここに来てるんだい?」
確信に触れるお婆ちゃんに浩太は、どこまで話すべきか悩んだ。「あのぉ、レストランのこと知っているんですか?」
「少しな、孫娘の働いているレストランだと訊いてる。レストランなぞ、どこも同じものばかりを出しよるがな、わしらから言えば料理と呼べるものはあまりない。それが、…美代は、この食堂で育った娘…、爺の味をよく知ってる。『小松食堂』の料理で育った娘だからな…舌が肥えとる。その孫娘を満足させるレストラン、それが、あんたのレストランだ。…それぐらいは分かる…」
「…」浩太はどう、応えて良いか分からなかった。
「うちの孫娘が、働いているレストランなんだから、料理そのものは悪くないはず。もし、問題があるとしたら、それは味以外の別のことなんだろうな…」
「!」浩太は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』でもんもんと感じていた迷いが吹っ切れた気がした。自分の料理の腕が上がれば、客が来ると、料理の腕を磨くことばかりを考えていた。心の迷いが吹っ切れた。『小松良明』が時間を越えて、お婆ちゃんの口を借りたのか―いや、お爺ちゃんと一緒にいた彼女だからこそ、自分にそれを伝えたのだろう。雷を浴びたような感覚を受けた。他人でいて、他人でない、突き放すようで、突き放していない。初対面であるはずの浩太に、心底心配してくれているような、居心地の良さ。まるで身内のように扱ってくれるお婆ちゃんに、暖かさを感じた。
そして、昨日の夜から感じていた、この食堂の凄さ―自分のノートに書きとめたこと―ノートには書いたこと。浩太は自然にそれを口にしていた。
「味を引き立てること、それが食材や、盛り付けであったりするのと同じように、食べる楽しみを引き立てること、それがこの食堂ではできている。そんなことを昨日から感じてました」
「…判っているなら、話は早い、あんたは、早く帰ってそれを自分の店でやることだ。ここに来た目的がそれなんだろう…」
「すいません。美代がどう話しているかですけど、私の店は、もともと、私の持ち物でなかったので、閉店してしまったんです。現在、私は店のない料理人なんです…」
「…そうなのか、…なら、」お婆ちゃんは何か言おうとして辞めた。「…もう、店はやらないのかい…」
「いえ、絶対にもう一度、やります。一からになりますけど…自分が、どんな店にしたいのか、どうしたいのかを本気で考えて、一からやり直します」浩太は、もやもやしていた自分への気持ちの整理がこの時点で出来た気がして、自信をもって答えた。
―居場所はなくてもいいじゃないか、作ればいい―。
「あんたは、分かろうとしている。小松食堂も、盾涌食堂という、いいライバルがあったからこそ、こんなに繁盛店になることができた。料理の味はもちろん、楽しさをも競い合った。『小松良明』自身もライバルとの腕を磨いた。それは、より美味しい料理を作るという腕だけではない、より楽しくなる料理や、感動したり、思いを届けたりする料理を、工夫に工夫を凝らしたんじゃ」
「…ライバル…そのライバルって誰なんですか?教えてもらえませんか?」
「さあな、覚えておらん」
「覚えていない…」
「実は、そのライバルのことも知りたいんです…」
「残念じゃが、本当に覚えてない。そんなことより、あんたも、身が張り裂けるほどの思いを料理で沢山することじゃ、それが多くなれば、なるほど、料理に対する思いが強くなる。早く戻るべきところへ戻って、あんたにとっての『盾涌食堂』と戦ったほうがいい、それを探した方がいい」
お婆ちゃんは椅子に座りなおした。
「でも、あの娘はわかっていない。何度、この食堂へ来ても…うわべだけを見て、何も分かっておらん」
美代に関することは、お婆ちゃんと見解の相違があった。浩太は不躾に切り出した。
「お婆ちゃん、美代は、分かっていないんじゃないと思うんです。多分、分かりすぎているんだと思うんです」
「分かりすぎている?」
「僕の店で…美代はハンバーグを作っていました。はっきりいって最高のハンバーグです。凄く美味しい。それこそ眼や匂い、食感、焼き方から、見せること、楽しませることが出来ている。美代が競っているのは、お爺ちゃんなんじゃないかと思うんです。美代は、分かっていますよ。美代は記憶にある『小松良明』の『究極のハンバーグ』と競い合っているんです。お爺ちゃんを目指しているんですよ…美代はお爺ちゃんを知っているから、常にお爺ちゃんと戦ってるんですよ。課題が難しすぎるんです。いきなり第一問が『究極のハンバーグ』なんですから、ずっとその問題の下にいるんですよ。だから、彼女はハンバーグしか作らないんです。僕の店にいても、料理はそれしかしない。お爺さんの魔法にかけられているんです」
「爺の魔法…か…、確かにあの娘の味覚の鋭さは、爺さん譲り。爺もそれは凄い味覚をしてた…とにかく、あんたが、そこまで孫娘の心配をしてくれるのは以外だな。それとも、心配しないといけない理由があるなら、別だがな…」
「な、」浩太は、自分がなぜ、そんなことを話したのか分からなくなった。
「…」お婆ちゃんは無言になって、厨房から店のほうへ歩いていった。しばらくして、店内に明かりが点いた。ステージに明かりが灯ったように、店内が光り出す。しずかな音が流れ出す。浩太は追いかけて、店内にでて、自分が『小松食堂』にいることを改めて感じた。お婆ちゃんは、開店準備を始めた。
しばらくして、入り口の扉が開いて、幸子と美代が現れた。
「あら、浩太」美代が浩太が割烹着に三角巾姿で立っているのをみて唖然とした。
「お婆ちゃん!浩太はお客さんなんだから、手伝ってもらっちゃ…」
お婆ちゃんは、そそくさと厨房に戻ろうとする。
「お婆ちゃん…」
暖簾の手前で足を停めた。「料理の腕前は、そこそこだぞ…」お婆ちゃんが遮った。
「へ」美代は面食らって浩太の顔を見返した。
「ははは、ありがとうございます」浩太が、とりあえず礼を言った。
母、幸子と美代はお互いに顔を見合した。「お婆ちゃんが、人を褒めてる…」
それから、朝の『小松食堂』はパートのおばさん四人を加えて、営業が始まった。お客は続々と増えてきて、あっという間に席は満席になった。行きがかり上、割烹着を着た浩太はそのまま手伝う羽目になった。ふて腐れながら、そのつもりのない美代も手伝った。
『小松食堂』の一員となって働く浩太に、店の人間は驚いていた。そう、浩太は、厨房でお婆ちゃんと息のあった感じで、初めての料理を次々と仕上げていくのである。従業員たちは、初めてこの店で働く人間とは思えないほどの手際の良さと料理の質の高さに驚いていた。驚いたのは従業員だけでは、なかった。常連のお客も見えない厨房から、威勢のいい若い男の声が聴こえるのをびっくりしていた。「良一はクビになったのか?」と言う声が響くぐらいだった。
ひと段落経ったのは、九時を回った頃だった。
「お腹ぺこぺこよ」美代がそいういうと、幸子が、適当に作ったあり合わせのメニューを持ってきた。
「いつもは、あっちで食べるんだけど、今日はいいってお婆ちゃんが…」そう言って、幸子は仕込んだ料理の余りを持ってきた。どれも、浩太がお婆ちゃんに言われて、作ったものだった。テーブルに並べられた朝ごはんを見て、浩太は、嬉しくなっていた。まだ、お客はまばらにはいたが、気にせずに、美代と浩太は頂くことにした。
「お婆ちゃんが、料理で人を褒めるのは初めてね」幸子が浩太と美代に言った。
「私、びっくりした」美代は目を丸くして浩太を見た。
「私も美代も褒めてもらったことないしね」幸子は嫌味っぽく、ひがんだ顔をした。
「ないよ、だって、私が厨房に入ったら、文句ばっかりよ。しまいに出て行けっていわれる始末なんだから…」
「それが、浩太くんはずっと厨房に入って、今まで一緒にやってたんだから、凄いじゃない。良かった。なんか、お婆ちゃんも気に入ってもらっているみたいで…」幸子は、普通に喜んでいた。
「でも、当たり前っていったら、当たり前だよね。浩太の腕は確かだし。本物のイタリアンを出したら、絶対にお婆ちゃんより上よ、ここの料理より美味しいわよ」
「そんなこと、今まで、美代に言われたこともないな」浩太は嬉しい顔で笑った。
「…だって、そうでしょう、自分の店の店長に『あんたの腕は確かだね』っていう、アルバイトがいるわけないでしょう。普通、言わないし…」
「はは…、そりゃそうだ」浩太は、それを訊いて再度笑った。
「美代、今日は、観光するんでしょう。今日こそ、浩太さんを案内してあげなさいよ」幸子はどうも、、まだわかっていないようだ。
「良一と同じ事言ってる、観光のために来たんじゃないの!私たちが、何しに来たのか、散々いったじゃないの!今日は、肉の仕入れを確認に『御来屋』に行くわ、あそこの市場にはいろいろ、お爺ちゃんの仕入れ先があるでしょう」
「『御来屋』?あんなところ、肉しかないじゃない…肉を見る観光なんかないわよ」幸子は怒った顔をした。
「…その肉を見に行くの…肉を仕入れるのよ!」
幸子は首を捻って、「ちゃんと案内するのよ」とまだ、理解せずに、他のお客のために、暖簾の奥に消えた。
「どうして、お母さんはあぁも天然なんだろう。いつも、話しの半分も良くわかっていない」美代はご飯を食べながら、「なんか手伝わせて、ごめんね」と浩太に謝った。
浩太は、口元をあげながら楽しそうな顔をした。
「どうしたの?」
「いやさぁ、いいよな、なんか、あのペース見てると、美代が出来たわけがわかってきた」
「あぁ、なんか、腹立つこと言ってる!」
「違うよ。羨ましいんだけだよ」
「うーん」ぱくっとご飯を口にして唸った。
浩太は、お茶を飲むと、改めて話した。「実は、お婆ちゃんに、戻って、もう一度レストランを始めた方がいいと言われたんだ」
「えぇ、そんなこと言ったの…」
「朝お婆ちゃんと一緒に仕事をして思ったんだ。この食堂で感じることを、自分のレストランで感じることが必要なんだってね。なんとなくだけど、お婆ちゃんの言っていることがわかった。それに、ハンバーグのことも話したよ。お婆ちゃん、ハンバーグのことは本当に知らないみたいだな…」
「教えたくないからじゃないの、厄介払いしたいのよ…」
「そんな風な感じじゃなかった…あの様子は本当に知らないよ」
「そうかな…」
「とにかく、叔父さんが写真をとりにわざわざ会いに行くぐらい、『小松良明』って凄い人だってのが分かった。この食堂に随所にある、楽しく料理を食べてもらいたいという『こだわり』の凄さを感じるよ。お婆ちゃんはそれを受け継いで、守っている。今日、手伝って改めて分かったよ」
「それ、わかる?さすが、浩太ね」
美代は嬉しそうに笑う。「なんか、照れるな。お爺ちゃんのことを褒められると嬉しい。お爺ちゃんは大好き。お爺ちゃんの作るものは何だって美味しかった。それに、食べると嬉しくなって来る」
「本末転倒かもしれないけど、俺、お爺ちゃんのことを、もっと知りたいと思う欲がでてきた。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が閉店したのは、確かに、あの高橋や叔父さんのせいかもしれないけど…結局、いずれかは、こうなったのかも知れない。叔父さんが、『究極のハンバーグ』に僕達が向くようにしたのも、この『小松良明』を知る必要があるためなのかもしれないとか、勝手に思った。陽輔くんのことも、叔父さんのことも、お爺ちゃんの『究極のハンバーグ』を解き明かせば、全て解決するなら、こんな素晴らしいことはない。不謹慎かも知れないけど、『小松良明』の『究極のハンバーグ』を食べてみたくなった。この食堂の料理を食べてた美代が『考えられないくらい美味しい』っていうんだからな。それは、どんなに美味しいんだろう。多分、美味しいだけでは済まない、いろんな要素があるんだろうな。どんなことが仕組まれているんだろう。純粋に食べたくなった…」
「ご飯たべたら、さっそく行くわよ、『御来屋』へ!」
「『みくりや』?」
「お肉屋さん、お爺ちゃんが贔屓にしてた肉の仕入れ先なの、お爺ちゃんは昔からそこからしか、肉を仕入れてないの」
「昨日の夜、言ってたあれだな。食べたら直に行こう」
たった一日、この食堂を共有しただけで、二人に共通認識が出来た。お爺ちゃんの凄さを認め、そして、究極のハンバーグを絶対に解くという認識。
しかし、ここに決意だけは、同じ料理人が、もう一人いた。『小松食堂』の隅に、丸山が座っていた。「俺も、『究極のハンバーグ』を作りたいぞ」小鰺を口に頬張りながら、「うめぇ」と目を剥いて、二人の会話に聞き耳を立てていた。
路面電車に乗って、四〇分ほど掛けて、市内の市場へやって来た。市場は活気があっていい。 浩太は、市場に並ぶ、魚や貝を見定めながら、溜息を着いた。
「『小松食堂』の美味さの秘密はここにもあるんだなぁ」
「そうよ、土佐湾から獲れる魚介類が豊富なの、この市場もどちらかというと、魚市場的だしね。ただし、私たちが行きたいのは、ここじゃないのよ」浩太は地図を片手の美代に連れられて、市場から少し離れたところへやって来た。
「こっち、こっち」市場の地図を見ながら、店の名前を確かめて、角を曲がる。実際、美代自身も小さい時に連れられて来た記憶を辿っているのである。だから、地図がないと案内ができないぐらい、自ら歩き回るのは初めてだ。何度か道を間違いながらも、市場の人に訊きながらやっとの思いで『御来屋』に着いた。
表には、肉の切り身が少々並んでいるだけで、食肉の類は、少なかった。美代は奥へ入っていった。
「すいませーん。『小松食堂』のものですけどー」こういう時は、職権乱用だ。
「すいませーん、誰かいますかー」美代は浩太を入り口に待たして、そのまま奥を覗き込んだ。
「すいませーん」何度か声をかけると奥から、いかにも肉屋の主人という、恰幅のいい図体の男がひょっこり現れた。時間的には、朝一の仕事が終わって、一眠りしていた感がある。「はいはーいぃ…今日、捌いた分は、ほとんど売り切れたよぉ…」バリトンの低い良い声に眠たさのビブラートを響かせた。
「電話してた、山本ですが…」
「山本?」肉屋の主人は美代をじろじろと見つめた。山本…って、もしかして、美代ちゃん!美代ちゃんだったのか?」巨漢の男は懐かしそうな顔をして、抱きつかんばかりに迫ってきた。
困った美代が手を目の前でぶんぶんと振りながら、迫る巨漢を押しとめた。
「ははは、そうか、そうか、覚えてないか」低い声が響く。「…そりゃそうだよな。ははは、小松の爺さんとこの美代ちゃんだー、懐かしいな」男は一人で懐かしがっている。「小松の爺さんが良くつれて来てた、ちびっ子が大きくなったなぁ。こーんな、ちっちゃかったのになぁ」腰ぐらいの高さで手をやって、感慨深そうに、何度も懐かしそうに頷いた。
美代も怪しい人ではないのをすぐ分かって。警戒心を説いた。「へぇ、それで私、ここの記憶が結構あるんだ。私って、お爺ちゃんに連れて来られてたんだ」
「まぁ、よくって事はないが、たまにな。俺は、ここの主人をやってる岡坂っていうんだ。よろしく」岡坂はにこにこしている。「よく、食材を握り締めて、『御爺ちゃんに、料理してもらうの』って笑顔だったぞ」と思い出話を始めた。
浩太が美代の側にやって来てつついた。「訊くんだろう」ふたり思い出に浸っているのを現実に戻した。
「おじさんが御来屋の主人なんだね」浩太が問いかけた。
「そうだ。先代は隠居。今は私だけ…」
美代は咳払いをして「おじさん、ごめん。小松食堂っていったけど、今日は、あそことは直接関係ないんだ。実は今日来たのは、…仕入れの話じゃないの…」美代はぶちまけた。
「久しぶりに美代ちゃんに会ったのにね。仕事の話って感じでもないしな。それはそうと、そちらにいるのは彼氏かい?」
美代は振り返って浩太を見てから、岡坂のほうを振り向いた。「違う違う。実は、こっちは、大阪のレストランの店長…」
「へぇ、そりゃまた、若いのに凄いね。で、店長さんが、どうして」
「実は、話すと長くなるんだけど、私がお爺ちゃんに食べさせてもらった『究極のハンバーグ』を作りたいの。ここにくれば、レシピが分かるかと思ってね」
「ははぁ、『小松食堂』のレシピを盗みに来たってことだなぁ」岡坂が意地悪そうな眼をした。
「まぁ、そんなところよ。それで、お爺ちゃんのレシピ、分かる?」
「ははは、そりゃ無理だ。ここは肉を卸す専門だから、作る専門じゃないし分からんよ」
「そうか…」がっくりと二人は肩を落とした。「そうか、無理か…」
恐ろしく落胆する二人に岡坂は少々戸惑った様子で「それって…うーん『究極のハンバーグ』って、、うちの肉を使ってたのは、間違いないのかい?」
「爺ちゃんが作ってるんだもん。ここ以外から肉を仕入れることは考えられないでしょう」
「そりゃ、そうだな」岡坂は、じーっと天井を眺めていたが、それから、手をうつと、二人を手招きした。「ちょっと二人ともおいで…」二人は岡坂に導かれるままに、店の奥へ進んでいった。
外に、丸い影が横切る。
丸山だ。
奥へ入っていく二人に対して、「くそ、奥だと話が効けないじゃないか」と舌打ちをした。
「あわてるな、チャンスはある」丸山の側には、『盾涌食堂』で出会った男がいた。
「確かに、アンタの言うとおり、ここへ来たな」
「彼らの足取りは全て把握している…」
「おれでさえ、びったり張り付いてやっとわかるのに…あんた何者だ」
「詮索する必要はない…。俺の言うとおりにやってくれれば万事上手くいく」
「あぁ、わかったよ」
奥にはテーブルがあって、岡阪は、二人をそこで待つように言った。岡坂は、脚立を持ってきて二人の目の前に置いた。
「何をするんですか?」浩太が岡坂の持ってきた脚立を見つめた。
「この上だよ」岡坂は、いきなり脚立に登りはじめた。巨漢が眼の前で脚立を登っていくのに恐怖を感じる。二人は緊張した面持ちで見上げるとそこには、壁一面に資料が五段組みの棚になって並べられていた。全てがなにやら伝票を閉じたファイルの束になっているのがわかる。良く見ると、ファイルは、『あいうえお順』に並べられている。その上のほうを巨漢の岡坂が脚立に登って探り始めた。脚立はギシギシと音を立てる。浩太は、―大丈夫か―と不安顔で、美代をちらりと見つめた。
「これでもないな、これかな…いや違うなぁ、」上のほうで、岡坂はいろいろな資料を出しては直して、直しては出した。主人は、「こ」の段を探っている。「あった!あった!」そういうと、一冊のファイルを持って、ギシギシと脚立をきしませて大きな巨体を揺らして降りてきた。
「ほら、あったぞ」パンパンとホコリをはたいて、ファイルをテーブルの上に置いた。舞ったほこりに岡坂本人も二人もむせかえした。
「何ですかそれ」浩太が訊いた。
「レシピはないが、仕入れ特有のレシピみたいなものだよ」
「何なのですか?」浩太は分かったような判らないような顔をした。
「爺さんは、うちから肉を買っていた。だから、その『究極のハンバーグ』とやらの材料も間違いなく、ここに載っていると思うんだけど…」
岡坂が卸してきたファイルを浩太と美代が覗き込む。
「見てごらん」岡坂の言葉に浩太が手を伸ばして、言われるがままに、ページをめくった。。ページを少し戻してまた捲った。「そうか」意図をくみ取った浩太は、更にめくり始めた。
「出荷台帳ですね」浩太が訊いた。岡坂が満足そうな笑みを浮かべた。
「出荷台帳?」美代が頭を捻った。
「そうか、仕入れが分かれば、材料が分かる」浩太は頷いた。
「そのとおり、お爺ちゃんが肉を買った日がわかるか?ここに日付があるだろう、その日を見れば、仕入れた肉が分かる。つまりレシピに該当する肉が分かる」岡坂がファイルに挟まれている用紙の上の部分。日付の部分を指さした。
「日付?」美代は困った顔で天を見上げた。「わからない…食べたのが小学校四年だったからなぁ、今、小学四年といったら、十歳、十一年前よ…」
「月はわかるか?」浩太が訊く。
「そう、私の誕生日の一日後だった…一〇月五日…間違いない。一〇月五日よ」
「なるほど、とにかく、十三年前の一〇月五日より前を見ればいいんだ。ならこの辺りからだな」岡坂は太い指でページを捲りながら、日付を指で辿りだした。身を乗り出した浩太が、その数字の羅列を見る。
「これが一番ちかいんじゃないかい…九月二八日だ」
「ちょっと前すぎないかい?」
「でも、次は、一〇月七日だ。これでは美代が食べた後だ。料理の仕入れを食べた後に出来るわけがないからな…後の仕入れはこの際、関係ないだろう」浩太が日付を見て指さした。
「確かに、それなら九月二八日か!これ、挽き肉を注文しているな」
「このKB、KKBってなに?」
「神戸牛だね。但馬牛ってことさ。それと金華豚だね」
「ひき肉の割合が…これ、どうなってるの?」
「この挽き肉の配合でいいのかな」
「とにかく、可能性として、これをメモするしかないな。どうも違う気がするが…」浩太は、手帳に書き記した。美代は頷いた。
「でも、なぜ、但馬牛の部位を二種類確保しているんだろう」
「部位を増やして…わからん。トリプルで作る。それとも全部ミンチにして混ぜるのかな…」
「実は、ここから仕入れてなかったとか…別の幻の肉とか…」浩太が呟いた。
「それは心外だね。うちの親父とは、盾涌の頃からの付き合いだ。ずっーとやってたんだ。他から仕入れてたらショックだよ…」
「そうよね。爺ちゃんって、そういうの凄い気にしてたから、食材は信用だってね」
浩太がパンと手を叩いた。「それだよ」
「えっどういうこと」
「ご主人、親父さんがどうこうって、」
「そうさ、俺は小松の爺さんと直接やり取りしたことはねぇからな。基本は、俺の親父さ」
「あれだよ。秘密だよ。このキーワードは好きじゃないけど…『究極のハンバーグ』は秘密のハンバーグなんだろう」浩太が美代に言った。
「秘密?」岡坂が聞き返す。
「お爺ちゃんは秘密だって言ったんだろう。当然、肉の正体も秘密…そして、違うところから仕入れた肉を孫娘に食べさせたりしない…おそらくそれも事実だろう。なら、それは、秘密だったんだよ」
「秘密…ようするに、この台帳に書いてないってことかい…、そうかなぁ、ここに書かない仕入れなんてないと思うんだけど…」
「とにかく、『小松良明』の仕入れを直接頼まれてた親父さんに聞いてみてくれませんか?」
「うーん、難しいと思うけどなぁ…」岡坂は難儀な顔をして首をひねった。
「難しい?」
「かなりボケてきてるからな、昔のことを聞いてもわかるかなぁ」
「そうなの?」美代が聞き返した。岡坂は少し悲しげな顔をして頷いた。
岡坂はファイルを再度捲ってみた。「このファイルを参考にするなら、やはり、先ほどのひき肉だと思うけどなぁ…」ファイルを捲る手を止めて、岡坂は美代を見つめた。「そういえば、小松の爺ちゃんの食堂には、俺も昔よく行ったけど、ハンバーグ自身がメニューになかったね…」
「そう」美代は岡坂の言葉を繰り返した。「ハンバーグは食堂のメニューにないの、その…理由、おじさんも知らないよね?」
「さぁ、知らん」
「おじさん、それも、親父さんに聞いてもらえないですか?」
浩太は、美代の顔を見た。
「美代は何所で、『究極のハンバーグ』を何所で食べたんだい?」
「食堂で食べたんだけど…私は小さいかったから、メニューにあるとか、ないとかは考えたこともなかった。大きくなって、あの時のハンバーグが、メニューにないのを知って驚いたの…お爺ちゃんは秘密だって言って私に作ってくれた。あのときに、『これが最後』だって言ってた。なぜ最後なんだろうって、どうして、美味しい料理を皆に出さないのか、分からなかった」
岡坂が首を捻りながら台帳をじっと見た。
「とにかく、そんなことなら、何か訳ありな感じだな。…なんでメニューに載せないんだろうな。まぁ、親父に明日にでも訊いてみるよ。思い出したら電話でもしようかい。万が一、台帳に書いてないんだったら、訊かないとわからないしさ」
「助かります。お願いします」浩太は礼を言った。
「まぁ、それより、折角来たんだから、向いの主人にも挨拶して言ってやってくれよ。多分喜ぶよ。美代ちゃんが来たって言ったらさぁ…」
「…そうですか…」ちょっと、戸惑いながら、美代は浩太を見た。浩太も仕方ないなと頷いた。二人は立ち上がる岡坂に従った。
「ほら、ほら、ちょっと、こっちからよ…」岡坂に引っ張られて、二人は店を後にして、隣の店舗に入って行った。
がやがやとうるさい声がその場から隣の店に移った。
その瞬間!入り口の方から、物凄いスピードでテーブルに置かれたファイル目掛けて走ってくる丸い男がいた。丸山だ。ファイルを手にすると、ぱらぱらと捲った。
「これは、これは、あの食堂の仕入れ台帳じゃないか!メニューの参考になるな」そう言って、開いている部分を折ると、辺りを見回して屈みながら、ファイルを手にして、きょろきょろと見渡し、駆け足でその場を去っていった。
結局、昼をはさんで、店巡りを夕方まで続けた。思わず、時間を食った二人だった。『小松良明』を知っている人たちには会えたが、『究極のハンバーグ』を知っている人には会えなかった。『小松良明のノート』も『謎のライバル』のことも収穫はなかった。
「なんで、そこまでおいしいのにあの食堂にはハンバーグがないのかな。そもそも『究極のハンバーグ』どころか、普通のハンバーグすらないんだね」浩太は美代に不思議に思って訊いた。
「そうなの、そうそう、思い出したわ…私がハンバーグを出そうと、昔、お婆ちゃんに言ったことがあるんだけど、すごく怒ってたわ。あんな、どこでも作れるようなものは出しませんって」
「お婆ちゃん、知らないって言ってたけど、本当のところはどうなんだろう。どうも、俺には知ってるようにはみえなかったんだがなぁ」
「浩太、私、お婆ちゃんは知っていると思っている…お婆ちゃんは実は知っているんだけど、ハンバーグのことには触れたくないんだと思ってるの…」
「なんでさ…」そういいながらも、お婆ちゃんは『究極のハンバーグ』の何かを知っているという点においては、美代に同意できた。浩太は、お婆ちゃんの言葉を思い出していた。確かに、お婆ちゃんは、作り方を知らないといっていた。
『作り方…と…』。
「作り方は知らないが、他のことを知っているのかも…」
「引っ掛かるのよね。身内だから分かるというか、お婆ちゃんはハンバーグを知っている…それは間違いない」
浩太は、お婆ちゃんとそのハンバーグには、まだ何かあるのかと思った。なんとかして、それを聞き出さないといけない。
その晩も、食堂は繁盛していた。浩太は今度は計算ずくで、『小松食堂』を手伝っていた。今朝の噂は、瞬く間に風に乗った。―厨房に入れてもらっている若い男がいる―これが、小松食堂ファンには異例なことだった。玄人受けをするというだけあり、憧れでもある、その厨房に入っている、若い弟子を見ようと常連客が集まる。小松食堂の常連客は、妬みや嫉妬や憧れを混ぜ込んで課題を出すように、次々と注文をした。それを知ってか、お婆ちゃんは、『小松食堂』のフルコースを試すように浩太に教えた。
―神経を集中して、お婆ちゃんの意図する料理を作ろうと浩太は必死に答える―。
端から見ると、完全に師匠と弟子のコンビだ。美代はそれを見て、何やら、むっとした。自分が、そこで浩太と同じように料理ができないことと、浩太が、本当に楽しそうに、口の悪いお婆ちゃんの指図通りに動いていること。並居るパートのおばさんは、常連客に「婆ちゃんが孫の婿にスパルタ指導をしてるだの」あることないこと、囁き始めること。
自分が蚊帳の外のような感じに苛立ってた。
「私だって、中に入れてもらえれば、浩太以上に活躍するってのに…」
「ははは」と浩太の笑い声が厨房内から聴こえて、さらに機嫌の悪さは頂点に達した。
美代は、「つまらん」と言って、幸子が止めるのも気かずに、割烹着を脱ぎ捨てると、怒って、自宅へ帰って行った。
「何で、生き生きしてるのよ。『究極のハンバーグ』はどうするのよ。それに、なにその笑顔、お婆ちゃんとの仲の良さ…それなら、『究極のハンバーグ』のこと、もっと詳しく聞いてくれても良いじゃない!」と悪態をついて自宅の部屋に閉じこもった。
厨房では、お婆ちゃんと浩太が横一列に並んで、料理をしていた。
いきなり、「浩太さん…」とお婆ちゃんが、浩太を呼んだ。
「はい、なんでしょう」鍋に少し小指を突っ込んで下味を確認しながら返事をする。
「それは、いいよ、こっちでやる。上の冷蔵庫の食材は、お客に出せない分なんだけど、使えそうなものがあるか見てもらえるか…」
「中を開けて良いんですか?」
「あぁ、何か、残っている仕事連中に、まかないを作ってくれないかい…」
「まかない?」まかないとは間に合わせで作る料理のこと、お客には出せないので身内用に有り合せの材料でつくる料理のことである。
「みんなの夕食だよ」浩太は、戸惑った。あきらかに、浩太の料理を見せてくれといってる。
「ほら、作るのかい、作らないのかい?早くしておくれ」お婆ちゃんは、オタマを浩太に向けて指図した。
浩太が冷蔵庫を開けると、そこにはイタリアンの材料がある程度、入っていた。あきらかに、有り合せの材料ではない、揃えられた材料。
「お婆ちゃん…」粋な計らいに浩太は感動した。自分の庭でやらせてもらえる。
「早くしな、たまには、私だって美味しいものを食べたいじゃないか。死んだ、爺はイタリアンが大好きだったんだ。実は、私も大好きだ」
「えっ、そうなんですか?」
「あぁ、爺のライバルはイタリアンシェフだったからな…」
―叔父さんだ―。浩太の脳裡をよぎる。お婆ちゃんはやっぱり、いろいろ知っているんじゃないのか!叔父さんのことを聴こうとしたがニコリと笑って、忙しく厨房を動き回るお婆ちゃんに声を失った。そうだな、とにかく、叔父さんの料理を食べたことがあるなら、真剣にやらないと、落胆させてしまうかもしれない。浩太は冷蔵庫の食材を並べながら、万一のために持ってきた自前の料理道具を取りに、自分の鞄を開けるため、二階にあがった。そして、準備ができると、イタリアンの調理に取り掛かった。
七時過ぎになって、店が落ち着いてきた。自宅で呆けていた美代が、結局つまらなくなって戻ってきた。美代は、厨房の配膳版に、イタリア料理が並んでいるのを見て驚いた。
「ちょっと、お婆ちゃん、どういうこと、浩太にイタリアン作らせたの!」
それを見た美代が、唖然とした。
「たまには、私も美味しいものを食べたいだけさ…」イタリア料理を食べながらお婆ちゃんはニコリとした。本当に嬉しそうだ。その笑顔に美代は何もいえなかった。
幸子が後片付けをする中、美代は、食事が終わったお婆ちゃんの前に座った。
「お婆ちゃん、話があるんだけど…」美代がこれから戦さでもするかのごとく前に座った。お婆ちゃんとその横に座っている浩太が振り向いた。よっこらしょと席に深く腰掛けて、浩太は、席をはずそうかという仕草をしたが、美代は首を振ったので、二人して、かしこまった。
「なんだ、籍でもいれるって報告かい?」
「な」美代が机をばんと叩いた。「違うわよ」美代は力を込めて否定した。
「お婆ちゃん、今日はとぼけないで、しっかり答えて頂戴!」
「なにをだよ」
「ハンバーグ。お爺ちゃんの『究極のハンバーグ』の作り方、本当は知ってるでしょう。教えてちょうだい」
「作り方は知らないよ」
「お婆ちゃん、嘘は言わないで、門外不出とか言って、浩太には作り方を知らないと言って、どうして、そんなに秘密にするの?教えてくれてもいいじゃない!私には、どうしても、そのハンバーグが必要なの…だから教えてよ」
お婆ちゃんは腕組みをした。浩太は明らかに悩んでいる素振りのお婆ちゃんを見つめた。
「浩太くん、あんたも知りたいのかい、『究極のハンバーグ』…『小松良明』のハンバーグのことを…」
浩太はごくりと唾を飲んだ。
「お婆ちゃん、僕たちには、他の料理じゃだめなんです。『小松良明』の『究極のハンバーグ』が必要なんです。このハンバーグには、何か隠された秘密があるんじゃないんですか?巧く言えないんですが、立花陽輔という子と、日高薫という僕の叔父さんを…その二人を救う可能性があるんです」
そう言って、浩太は、陽輔や叔父さん、そして、分かってきたライバルのことを話しだした。
お婆ちゃんは首をかしげながらも最後まで聞いた。
「『究極のハンバーグ』のこと、『小松良明』のライバルのこと、教えてください!」浩太は訊いた。
「不思議だと思うだろうが、思い出せないんだ。『究極のハンバーグ』は存在する。わたしの思い出の料理だ。爺が作ってくれた料理なんだが、不思議なことに、覚えていない。それに、爺のライバル、あの料理人のことも思い出せない…。不思議だけど顔も覚えてない。ただ、イタリアンの料理人だった…」
「本当に覚えてないんですか?」
お婆ちゃんは、浩太をじっと見た。
「私と一緒なんだ…、お婆ちゃん…」
「多分、食べたんだと思う。そして美味しかった。あれを超えるハンバーグは作れない」
「そうなの、どうやっても作れないの…」美代は悔しい思いをぶちまけた。
「だから、他のハンバーグは出せない。食堂の品書きにハンバーグはないし、出したくない…」
美代はがっくりと肩を落とした。
「だから、初めから駄目だといってるじゃろう…」
美代がうな垂れた。「だったら、そう言ってくれたらいいじゃない。…あー」頭を抱えた。
「あんたたちだって、今みたいな話、しなかったからだろう」お婆ちゃんは、少々、困惑したように厨房にいそいそと消えた。後片付けをするためのようだ。
二人は頭を抱えた。
「駄目だー」美代はテーブルにつぶれて伸びたひらめのように広がった。その横で浩太はあごに手をあてて、考え事をしていた。
「お婆ちゃんも美代と同じか…『ハンバーグ』を調べる手立ては他にないのか?」
「手ごわいなぁ」美代は呟いた。
「お婆ちゃん?でも、本当に知らないんだろう」浩太は美代を見た。
「違うわよ、このハンバーグよ。なんでこんなに手ごわいんだろう」
「確かにそうだな、手ごわいな…」
食堂の窓に人影が横切った。丸いシルエットが外灯の照らす光で浮かび上がる。
「あいつら、判らないんだな。…うししし」嫌らしい笑いを浮かべているのは、あの丸山だった。その手には例のファイルが握られており、折り目をつけたところを、再度、丸山は開いて見てみた。ページの裏面に鉛筆で走り書きされた文言がある。
『100%と合挽き肉の調合、二種手配。調合割合は…、小松の注文、秘密、―究極のハンバーグのため』とそこには書かれていた。
「ばかだぁ。あいつら、裏まで読んでないんだもんな…これを見落とすなんて、本当にばかだなぁ…それにしても、あいつは、なんで、ここにこれが記入されてるのを知っているんだろう。全くおかしなやつだな…」
後ろの交差点から、路面電車がゆっくりと動き出した。ガガガー。「あ、電車が…」丸山は待っていた路面バスが行き過ぎるのを追いかけた。「ちょ、ちょっと電車…あ、あああ」
店は閉店し、二日目の夜も終わった。浩太は、美代と別れると、食堂の二階へ登って行ってお婆ちゃんの部屋のふすまを叩いた。「すいませんでした」とお婆ちゃんに謝った。
「まぁ、座ってみなさい」お婆ちゃんは、浩太に座布団を出した。浩太はそこに座る。
扇風機が回っている。静かな夜だ。
「この食堂は、死んだ爺と一緒に切り盛りした食堂なんだ。爺の口癖は、美味しいものをお客に出さないでどうする?だった」
「それって、やっぱり『小松良明』の口癖なんですね」
「知ってるのかい?」
「美代のハンバーグをメニューに入れるかどうかを悩んだ時に、美代が言ったんですよ。美味しいものをお客に出さないのかってね」浩太が懐かしく話した。
「ふうん、さすが爺の孫じゃ。それにしても、浩太くんのイタリアンは美味しかったぞ」
「すいません、濃いものを出してしまいまして…」
「あるものだけで、あれだけのものを作る。流石じゃな」
「材料の準備が完璧でしたよ。全然まかないじゃないですよ」
お婆ちゃんの目つきが変わった。
「折角来たんで、美代には言わんかった話がある。聞くか?」
「どんなことですか?」
「『小松良明のノート』のこと、どれくらい知っている?」
「…どういうことですか…本当はあるんですか?本当はなくなってないとか…」
「いや、ここにはないさ…。昔、手元にあったときに、盗み見したことがある。爺が大事にもっていたからな…実は、私が、『粕谷浩太』を、この『小松食堂』に泊めたのは、そのノートのおかげだからさ」
「ノートのおかげ?」
「そこには、『究極のハンバーグ』のことも書かれていたが、実は、あんたのこと、『粕谷浩太』が、やってくることが記されていた」
「えっ、僕が…僕がやって来ることが…書いていた…」浩太は、お婆ちゃんから、その言葉を訊いて唖然とした。―『小松良明のノート』は、単なる料理のバイブルではない―。―どういうことだ!―。
浩太は、高橋―日高の叔父さん―このノートを欲しがっている意味を誤解していたのかもしれない―。
「…実は、僕の叔父さんが大学の教授をしているんですが、その叔父の研究室で、『小松良明のノート』を見たんです。『究極のハンバーグ』のことが書いてあるのはその時にちらって見たので知ってます。でも僕のことが…」
「そうじゃ、そして、あんたが、ここに泊まることが書いてあった。だから、わしは、迷わずに、あんたをここに泊めることに決めたんじゃ」お婆ちゃんが応えた。
「過去のノートに未来のことが書いてある…なぜ…」浩太は戸惑った。
「それは、わしにもわからん…」
「お婆ちゃん、あのノートには、何が書かれているんですか?いったい、どんな力があるんですか?僕の叔父さん、『日高馨』そして、もう一人、『高橋昇治』は、その力を知っていたんだと思います。だから、高橋昇治はそれを手に入れて、日高馨はそれを取り返した。だが、その後、どこに行ったんでしょう?」
「わからんな、わしの記憶では、爺が亡くなってからしばらくして、ノートを探したが、見つからんかった。その時に盗まれたと思っとる」
「お婆ちゃんは、僕の突拍子もない話を信じてくれるんですか?」
「そうだな、ノートの内容を全部覚えている訳じゃない。しかし、あんたが来たことは、その通りになっている。ということは、その、あんたが話ていることも、あながち嘘ではないだろう。どちらにしても、ノートが手元にない、今となっては、そのノートのかすかな記憶だけじゃ…」
浩太は礼を言って、自分の部屋へ去って行った。浩太の中で、ノートの存在が大きくなった。『小松良明のノート』は単なる料理人のノートではない。そうなると、小松良明の『究極のハンバーグ』も、単なる料理ではないのではないか―なにやら、得体の知れない感覚を覚えた。もしかして、本当は、浩太も美代も手に入れてはイケナイものを追いかけてるのではないか―そういう考えが頭に浮んできた。
浩太が戻ったあと、お婆ちゃんは一人、部屋で溜息を吐いた。
「ノートに書かれていた通りにしてやるほうがいいのかのぉ」
明日の定食の内容を書いた走り書きのよこに、紙切れが一枚置かれていた。それを剥がして、明かりに照らすと、電話の受話器を手にした。