消える日高
振り出した雨を交わす術を持たない二人は、大学前のバス亭で雨宿りするしかなかった。かなりの大振りから、しばらくして少々雨が小降りになったのを見計らって、大学構内へ向かった。わき目を振らずに二人は、教授錬のある校舎にたどり着くと、エレベータで五階へ向かった。
浩太は真剣な表情の美代を前に頷いて『日高馨』の研究室を叩いた。
返事がない。
浩太は強く叩いた。
同じだ。返事がない。
「留守?」美代が怪訝な顔をした。「そんな、折角ここまで来たのに…」
浩太がノブに手をかけた。鍵が閉まっている。肩を落とす美代に、浩太はポケットから鍵を取り出した。
「鍵は持っている」驚く美代を尻目に浩太は鍵を差し込んで回したカチッと音がして、浩太はノブを回して扉をあけた。浩太がゆっくりと中に進む。
「いいの?」美代はそう訊きながら、「当たり前だろう。陽輔くんのこともある。叔父さんがいないなら、いないで、調べさせてもらおう」浩太の後ろに続いて研究室へ入り込んだ。昼間の日の光が窓から差し込んで、窓際は明るいが、日の届かないところは真っ暗だ。室内は明暗がはっきりしている。
「日高教授…」美代が少し申しわけない声で名前を呼ぶが、やはり誰もいない。浩太が積まれた本を掻き分けながら、奥へ進む。昨日は気付かなかったホワイトボードが見える。7月13日と書かれて○印で囲まれている。矢印がそのまま伸びており、7月13日から始まって7月31日まで引っ張られている。7月31日に、『立花陽輔』と書かれている!
「どういうこと…。日高教授は、陽輔くんのことを知っている…」
「やっぱり、叔父さんは全てを知ってるんじゃないか?」
窓の近くに日高の机がある。机の中央には赤い本のようなものが置かれている。
ゆっくりと近づく二人。
美代が足が止まった。
「どうした?」
「あの本、いえ、ノート…あれ、お爺ちゃんのよ。お爺ちゃんがいつも、肌身離さず持っていた料理のことを書いた…お爺ちゃんの大事なノート…」
浩太は、美代の顔を見て、そしてその赤いノートを見つめた。
「小松良明のノート…」浩太は、昨日の日高の言葉を思い出していた…
―写真、写真と一緒に本がなかったか、手帳のような赤い本―
「叔父さんは、俺に写真と一緒に赤いノートがなかったか、と訊いていた。あいつが盗んだんじゃないかって、多分、あいつというのは高橋昇治…」
「でも、それは、ここにある…」美代は、机に近づいて、自分の鞄と、陽輔の上着の入った鞄の二つを床に置くと、そのノートを手にしてページを捲った。
「どういうことだ、取り返したってことか…。結局…高橋昇治が盗んではいなかったのか」
「これはお爺ちゃんのものよ。結局、日高教授のものではないわ…」
美代は、一番後ろのページを捲った。美代の脳裏にどうしてもはずせないキーワードがそこに現れる。
『究極のハンバーグ、レシピ』そして、そこに秘密のレシピが書かれている。
「『究極のハンバーグ』のレシピが書いてある…お爺ちゃんのノート…」美代はゴクリと唾を飲み込む。浩太もどうして良いか分からずに複雑な顔をしてノートの近くに寄った。
その時、扉がガチャ、と音を立てて開いた。
二人は、ノートを閉じて、振り返った。
大学前のバス亭に停まっているバスを強引に抜きさる黒で塗り固められた高級車があった。車は大学前で停まった。運転座席から降りるサングラスの男。
「すぐ終わらせる。出る前に電話するから、そうしたら、ここへ車を回せ…」助手席から降りた男は頷いた。、本来運転手であろうその男は運転席に変わりに乗り込んで、車を走らせた。サングラスの男は、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、雨に打たれながら校内に入って行った。
研究室には、扉を開けた日高馨と視線を交わす二人がいた。
一瞬のうちに状況を悟った日高が二人を睨む。
「そのノートには触るな!すぐに机に置いて、離れろ!」日高の第一声はそれだった。
二人は、言われるがままにノートを置いて後ろに下がった。日高は、昼ごはんを買いに行っていたのか、コンビニの袋を持ったまま、ホワイトボードの前に立ち尽くす二人の目の前を通っていった。奥の自分の机に向かって歩いていき、椅子を引き、どしっと座った。コンビニの袋は机に無造作に置かれ、中からサンドイッチが転がった。
口を開くタイミングを失っている二人に「それで、写真は持ってきたか!」日高は訊いた。浩太は、その声で平静と取り戻して、一言発した。「…なくなった」
「なくなった?」日高が大きな声で、驚いて聞き返す。
美代が一歩前に出た。
「日高先生!陽輔くんを知っているんですか?私のアルバイト先の保育所の…立花陽輔くんが消えたんです。その写真を手にした瞬間に…」
「立花…陽輔…」日高の顔つきが険しくなった。
「知らないなんて、言わせないですよ。ここに名前が書いてあります!」美代はホワイトボードを指差した。日高の眉が引くついた。
無言の空気が流れた。どのくらい時間が経っただろうか、二、三分なのだろうが…美代には十分程に感じられた。何を訊いて良いかお互いに分からなかった。日高は言葉を選んでいるようだった。
「…ということは、二人は立花陽輔のことを覚えているのかい?」
美代は、日高の質問に即答した。「覚えています」
この会話は、二人には確信になった。日高は何かを知っている。
「そうか…。不思議だな。そんなことは過去になかった…」日高が険しい表情をする。
二人は、唾を飲み込んだ。
「陽輔くんは何所へいったんですか、助けてください!」美代は懇願した。
「それは、難しい…君達では無理だ。諦めることだ!」
「ふざけないでください。人が一人消えてるんです。それも、存在しなかったことになってる。説明してください。これは、どういうことですか?日高先生は説明できるんでしょう…」美代が核心に触れた。
日高は椅子に座って口をつぐんでいる。口を開かない日高に対して美代が続ける。
「その赤いノート、それは、お爺ちゃんのノートです。小松良明のノートです。それに、あの写真、お爺ちゃんと一緒に写っている写真。先生は、時間を遡って、私のお爺ちゃんに会ったんでしょう。陽輔くんが消えたのはそれに関係しているんでしょう…」
日高は目に隈のある青白い表情を美代に向けた。「ふうん、するどいな…」
「先生の授業、一年前に聞いたことがあります。話が脱線した時、…タイムパラドックスや、時間旅行について、話してましたよね…それに、この本棚…判らないほど難しい本が並んでいるけど、おそらく、その関係の本ばかりですよね…」
「はは、それは僕の専門分野だからね…」
「なんで、そんな話しをしたか、それは自分が体験しているからじゃないんですか…」
「ははは、凄いことを平然というな。それが、どんなに馬鹿馬鹿しいことを言ってるか、わかってるのか?」
美代と浩太は、日高を睨みつけ、一瞬の動作も見逃さないかのように凝視した。
「そんな怖い顔をするな。参った。参った。そうさ、僕はタイムトラベラーだ」
―やっぱり―。美代は胸が熱くなった。そう、それなら、説明ができる。口を開こうとした美代に日高教授は話を続けた。
「君たち二人もタイムトラベラーだ…」
「えっ?」浩太が訊きかえす。
「そう、時間を未来に向かって旅行している。それぞれの時間の進み具合は同一ではないが、皆、同じ方向に向かって旅行している。僕達は全員、タイムトラベラーさ…」
「ふざけないでください」美代が怒る。
「いや、ふざけてない。もしかしたら、俺の最後の授業になるかもしれないから聴いていけ…浩太は特別サービスだ。授業料はいらない…」
「最後…?」美代が眉を吊り上げた。
日高は立ち上がって、壁際にある人の模型と亀の模型を取り出した。なぜ、そんなものがここにあるのか二人は不思議に思った。
「パラドックスって分かるか?」
「先生が言ってたじゃないですか!正しそうで間違っていることや、間違っていそうで正しいことだって…」美代が答える。
浩太は、よく分からず黙っている。
「そうだ、それがパラドックスだ。例えば、ある嘘つきの男が、『私は嘘つきです』と言ったという、有名なパラドックスがあるが、彼は、嘘つきなのか、嘘つきではないのか?」
日高は浩太を見つめる。
「嘘つきだから、嘘つきといったんだろう…いや、嘘つきなら、私は正直者というはずだから、…正直者なら、自分のことを嘘つきとは言わない…、意味が分からん。…叔父さん、それと、陽輔のことと、どう関係があるんだ」浩太は意味が分からず声をあげた。
「関係ある。我々は全てパラドックスの中にいるんだ。『嘘つきの男』が、正しいのか正しくないか判断できるか?次に過去にいけるかということを、もう一つ『ゼノンのパラドックス』で説明しよう。『アキレスと亀のパラドックス』と言った方が知ってるかな?」
「アキレスと亀、アキレスは永遠に亀を追い抜けないという話しですか?」美代が興味をもったようだ。
「そうだ。アキレスはいつまでたっても亀を追い越せないと言う話だ。ここに人と亀の模型がある。この人の模型はアキレス、アキレスは勇者だ。彼の足は常人よりも速い。亀は皆が知っているようにドン亀の亀だ。ここに亀がある。足は遅い。同時にスタートするとアキレスが先にゴールするのは分かりきっている。だから、亀にハンディをあげる。ゴールまでの丁度、真中、半分の位置から亀はスタートする。当然、アキレスはこのスタート位置からスタートする」そう言って、机の端にアキレスを模して人の模型を置き、机の真中に亀の置物を置いた。「よーいドンで、アキレスは亀のスタート地点まで進んでいく。その時、亀はアキレスより少し前にいる。わかるか」
「…わかります」浩太は納得できないまま、聞いている。
「それから、しばらくして、アキレスは今、亀が居た場所までやってくる。その時、亀はアキレスより少し先にいる。わかるか」
「…はい」
「そして、更にしばらくして、アキレスは、先ほど亀が居た場所までやってくる。その時、亀はアキレスよりほんの少し先にいる。どうだ、これが永遠に繰り返される。アキレスは亀を追い抜けない。これがゼノンのパラドックスだ」
「よくわからないけど、そのアキレスは亀を抜きますよ」浩太は反論した。
「…なぜだ、アキレスは亀の先ほどいた地点に来たときは、亀はそれより先に間違いなくいるはずだ。いつまでたっても、アキレスがさっき、亀が居た地点にたどり着いたときは、亀は絶対にそれより前にいるだろう」
また、浩太は訳が分からなくなる。
「でも、それは、現実ではありません。だって、亀がアキレスの目の前に来た時、次の瞬間はアキレスは亀を抜き去ります」美代が言い切る。
「そうだ、目の前にくることが判っているから、抜き去るのが当たり前だ。でも、今の科学では、これ、すなわち過去への壁が抜けないことになっている」
「どういうことですか」
「つまり、我々がアキレス、そして、時間つまり光が亀だ。時間を追い越す、つまり光の速度に近くなると時間の進み方が遅くなる。特殊相対論で簡単に説明がつくことだ。しかし、追い抜く論理は本当にないのか…。絶対追い越せないとなぜ言える?だから、追い越したときのことを計算できるが、事実追い越せないという」
「追い越せるんですか…」
「ここから、物理の話しになる」
「物理は苦手です」美代が応える。
「こういう実験が、ドイツで行われたことがある。マイクロ波をエバーネット領域に通過させるとき、この光子の速度が光の速度を越えることが確認されている。また、カシミール効果による負のエネルギーを使えば、キップソーンば、その莫大なエネルギーを作ることができるという」
「難しいことは、わかりません。過去へ戻ることも可能だということですか?」美代が訊く。
「現代の科学では不可能だ。銀河のサイズより大きな機械を作って、やっと数十秒前に情報を伝えることができるのが精いっぱい。それも実際に仮説でしかないから、本当にそれを作ってもできるかは分からない」
「…しかし、それと、写真の関係は?」浩太がぼやいた。
「全く出来なかったと思っていたことが、出来ると分かってきた。思わないかい?人間の考えることに基本、不可能はないんだろうなって」
「その、発想は凄いんですけど…僕達の質問の答えにはなっていないです…」
「そんなに陽輔を助けたいのか!」
「当たり前だろう」浩太は叫んだ。
「じゃあ、浩太、時間を逆行できたとして、君ならどうする?」日高はまだ問いかける。
「いい加減にしてくれ!おれは、陽輔を助ける方法を訊いてるんだ!」
「まだ、講義の途中だ…時間を逆行できたとして、君達ならどうする?」日高は同じ質問を繰り返す。
「分からないです。俺達にはできないんだから…」浩太が応える。
「私は、お爺ちゃんにハンバーグのレシピを訊きに行くわ」美代が応える。
日高は頷いた。
「じゃあ、例えば、山本が、過去に行ってハンバーグのレシピを知ろうとしたとしよう。山本が過去にいったことが原因で、『究極のハンバーグ』が食堂のメニューでなくなったり、最悪、『究極のハンバーグ』が秘密になったりしたらどうなる?」
「なんで、知ってるんですか?」
「過去に行くことで世界が変わる。もし、この世界がなんらかの秩序で総べられているとして、変わった世界がつじつまを合わそうとしたらどうなる?」
「わからないけど、『究極のハンバーグ』が、なかったことになるというなら、それ自体がなくなるってことですか?」美代は自分でそう言って、陽輔の存在を誰も知らないことを思い出した。
「陽輔くんも過去が変わったということですか?」
「つじつまを合わそうとする。だから、存在しなかったことになる」
「それは、変わってしまったから、もう戻せないと言ってるのか!」
「…私の最後の授業は終わりだ」日高教授はニヤリと笑った。
「終わりって、陽輔くんはどうなるんですか?それに、私たちは覚えてるんですよ。なかったことになってない!」美代は日高に迫った。
「叔父さん、悪いけど説明になってない。抽象的な話はいらないよ。具体的に叔父さんは何者で、何をしたんだ。それに高橋昇治は何者だ」浩太が追及する。
「じゃあ、はっきり言ってやるが、もう手遅れだ。全て、なかったことになっている。君達が、なぜ陽輔のことを覚えているかは、正直、俺には分からん」
「そんな!」美代が両手で口を抑えた。
「変わった世界は、それ自体が新しい現実。陽輔は陽輔でどこかで元気にやっているだろう。彼のことは忘れることだ!」
「それじゃ、解決にはならない」浩太が声をあげる。
「うるさい!どうしようもないんだ!」
二人は、いきなりの怒号に立ち尽くした。日高は、机から立ち上がって、ゆっくりと雨が降る外を窓越しに眺めた。無言になると、雨音が激しいのが聴こえる。
「悪いが、どうしようもない。君達は二人揃って、夢を見てたと思ってくれ…干渉すると、今以上に巻き込まれるぞ」日高はチラリと目線を外にやり何かを窓の外に見つけたようだ。険しい顔をすると、二人に向き直った。
「悪いが、急用を思い出した。君たちは、今すぐに帰りたまえ」日高は二人を外へ押し出そうとした。
「ちょっと、いきなり止めてください。陽輔くんを放ってはおけないです」
「君達がたまたま覚えているだけだ。君達以外に誰も心配なんてしていない」
「それに、写真のことを訊いていません。あれは、本物でしょう?」
「もう君達は持っていないのだろう。それも、存在しないものになった」
「ちょっと待ってください…」浩太は追い出されまいとして、日高に迫った。
「帰った、帰った」日高は手をパンパンと叩いて、「早く出て行け!」と美代のカバンを手に、二人を外へ追い出した。
「『究極のハンバーグ』のこと、なぜ、知ってたんですか?」
「山本さんも帰ってくださいね」日高は女性であろうと手加減もせずに押し出す。
「教えてください。その赤いノートにかいてあったんですね。それは、お爺ちゃんのノートですよね。なぜ、それがそこに在るんですか」
「すぐに、帰ってくれ、さもないと君たちも陽輔のように消えることになるぞ!」
「脅しですか!何も、解決しないじゃないですか?ずるいですよ。知っていることを教えてくださいよ」美代は力任せに日高を押し返した。
日高の姿が一瞬、ノイズが走ったように見えた。
美代は目を疑った。日高はその隙に渾身の力で二人を押し返す。
凄まじい力だ。
「知りたければ、自分達で動くことだ。そんな棚から牡丹餅な答えを要求する学生は、成長しない。知りたければ、自分で動き、答えを探せ」
「じゃあ、どうすれば、いいのですか?」
「…全ては、『究極のハンバーグ』が解ける頃には、答えがでる。山本美代、粕谷浩太、知りたいなら、『究極のハンバーグ』だ。そこに答えが詰まっている」浩太に美代の鞄を押し付けると日高は扉に手をかけた。
「すぐここから立ち去れ、もうすぐ、最悪の厄介事がやってくる。お前達は関わるんじゃない!逃げるんだ」
「逃げる?」
「そうだ、浩太、山本を連れて、すぐここから逃げろ」
ぴしゃりと扉は閉まった。
「ちょっと、陽輔くんを助けてください」美代は叫んだ。
鍵は持っている。開けようと思えば開けられる。研究室の入り口を見つめながら、二人は呆然とした。エレベータの前まで来て、窓から下の景色が見えた。浩太は何気なく覗いた窓のしたの景色に、サングラスの男が足早にこの錬へ歩いてきているのが見えた。。浩太はその姿を知っていた。
―高橋昇治―だ。
立ち止まった浩太に美代が問いかける。
「どうしたの」
「しっ」口に指を当てて浩太が美代を近くに呼ぶ。浩太が指差す、窓の下には誰もいない。
黒い雲が外を覆い始め、雨足が早くなってきている。
「今、下に高橋を見た。例のレジデンスの男だ」浩太は、美代の手を引っ張った。
美代は無言で従って、二人は階段に隠れた。
「どうしたの」美代は訊く。
「叔父さん、逃げろって言ってただろう」
「それって、高橋…あの男から逃げろってことなの?」
「確か、叔父さんは、あのノートや写真を高橋に渡してないかって、凄い剣幕だった。高橋は、あのノートを手に入れようとしているのかも…」
「陽輔くんが消えた時もあの男がいたのよ。何らかの秘密を知っている。問いただしてみましょう」
「待て!」飛び出そうとする美代の手を再度、浩太が引っ張る。
「叔父さんは、最悪の厄介事と言ってた。彼が、ここへ来るということは、何かが起こるかもしれない。ここで待って、何が起こるか観察してみよう。俺達に何かがあったら、陽輔を助けるも何もない!」
「何が起こるの?」
「判らない。だが、危険があるかもしれない。もし、叔父さんが全ての元凶で、僕達を大変な目に会わせたり、危害を加えるつもりなら、さっき、それをしたはずだ、でもそうは、しなかった。ということは、事の元凶は、あの高橋なのかもしれない」
「高橋…?」美代は問いかけて、自分がもう一つの鞄をもっていないことを気付いた。
「私、陽輔の上着を研究室に置いてきたわ」
「それは、まずいな。間に合わない…」浩太が呟いて、美代に首を振った。二人はエレベータが八階に到着するのを確認して、身を潜めた。
エレベータからは、高橋昇治が現れた。周りを一瞥して、誰もいないのを確認する。浩太は階段の陰に隠れている。高橋昇治は、真っ直ぐに日高馨の研究室に向かった。
扉の前に立つと、ノックをした。
「入るぞ」返事がある前に、高橋は声をあげた。
「あぁ、開いている」日高の声だ。
高橋は中に入った。扉が閉まるのを確認して、「いくぞ」と二人は研究室の扉に近づき、耳を扉に当てて、聞き耳を立てた。
研究室には、ぴりぴりと緊張した空気が漂っていた。
「小松良明と直接話したんだろう。そして、俺が手に入れる前に先周りして、手に入れたもの、返してもらおうか!」
「馬鹿なことをいうな」日高が赤いノートに近くの本を被せて隠した。
「いまさら、隠しても無駄だ。返せ、お前にとっては対した価値もないだろう。俺は、それで、ここまで昇って来たんだ。『小松良明のノート』に書かれた料理哲学は俺にこそ必要なもの…」
「おまえ、粕谷浩太をどうするつもりだ…」日高が浩太の名前をだした。扉の外で浩太は耳を疑う。
「それは、まだ考えていない…別にノートが手に入れば、興味はない。早く、ノートを出せ」高橋昇治が強い言葉で迫る。
「高橋、もう十分じゃないか、やめてくれ。ただの料理人のお前が歴史を変えて、『レジデンス』の大きな地位を手に入れたんだ。もう、それでいいじゃないか…」
「俺は、お前と違う。お前こそやりたい放題じゃないか!大学の役職を手に入れ、世界を自由に飛びまわって、自分の力を使って…俺とお前とで何が違うというんだ!」
「俺は、やり直していない。パラドックスを生むようなことに手を出してはいない」
「そんなこと、わかったことじゃない」
日高の手にノイズが走る。日高が自分の体の異変に気付いた。
「おまえ、俺に何をした」日高が高橋を睨んだ。「おまえ、過去に行ってたな。どうやって行ったんだ!」
「俺だって、いろいろ考えてるのさ」
「そうか、陽輔か、陽輔を使ったな!俺を消すつもりか、何をした?」日高の体にノイズが走る。
「説明する必要はない…それを渡せ」
日高は、赤いノートを握り締めた。日高の体と共に『小松良明』のノートにもノイズが入る。
「なるほど、ノートは渡さないというところか、一緒に消えると言いたげだな」
日高の目が青白く光る。机の上の人の置物が揺れ始める。本のページが勝手に捲れ上がる。風が起きだした。
「そうは、させない」高橋は、懐から黒い塊をとりだした。間髪を言わせずに、号砲とともに、煙が上がった。
日高は胸を押さえて椅子をなぎ倒してよろけた。胸を押さえる。そこから赤黒いしみがひろがり、砕け散るように地面に倒れ床に転がった。美代の置き忘れた鞄の上に被さるように伏せた。赤い染みが床に広がっていく。
「た…か…は…し…、お…ま…え…」声にならない声で日高は手から、赤いノートをこぼした。
高橋は、ゆっくり歩み寄り、そのノートを手にする。
「残念だったな、どうせ、おまえはいなかったことになる。分かるか、この行為じたいもなかったことになるんだ」
号砲は聴こえた。そのやり取りも訊いていた浩太は居ても立っても居れなかった。美代が呆然とする前で、立ち上がると扉のノブに手をかけた。
ばんと扉を見開いて、研究室の入り口に立ちはだかった。
浩太は、研究室内の高橋を睨んだ。
高橋は、ノートを手に、研究室の中央にひょうひょうと立っていた。床には、身動きしない日高が倒れこんでいる。
「高橋!きさま!」
高橋は振り向くと「あぁ、これは、粕谷浩太じゃないか」とあっさりとしている。
「おまえ、叔父さんに何をした!」
「大丈夫、すべてなかったことになるから…。そこをどいてくれないかな。さもないとお前も同じようにするぞ」高橋は懐に手をいれると、ゆっくりと銃を浩太に向けた。
「そのノートを置いていけ」
「悪いが、これは俺のものだ」
研究室の前の廊下に風が流れる。そよ風のような流れだ。
「まさか、お前…そんなはずは…」高橋が浩太を見つめて動揺しだした。
浩太には何が起きているのかが分からない。僅かに、空気が動いて風が起こっている。それに、高橋が恐怖を覚えているのが分かる。美代は浩太の後ろに隠れながら、日高を見つめていた。鞄からはみ出した陽輔のデニムの上着と日高教授にノイズが走っている。空気の流れは、渦を巻いて研究室の扉を、勢いよく吸い込んだ。
バタン
風に吸い寄せられ、音を立てて扉は閉まった。
浩太は、何が起こったのか判らないが、美代は同じ状況を一度見ている。凄まじい風が自分達の体を全面に押し出そうとしている。高橋がよろめいて、足を踏ん張る。踏ん張った足を掴む手があった。
「日高!」日高の体全体にノイズが走る。そのノイズは、日高の腕を伝染して、高橋昇治の体全体に走る。「離せ、日高!」
日高の顔がゆっくりと高橋を見上げる。
「これは、陽輔の服だろう、写真と一緒だ、触媒があれば、俺は時間を曲げられる」
日高の目が青く光る。風が勢いを増す。浩太の帽子が今度は、風で開いた扉から外へ吹き飛ばされた。引き寄せていた風は、今度は押し出す突風に変わり、浩太と美代、二人を突き飛ばすように研究室の外へ放り出した。あっという間に研究室から外へ飛ばされ、二人は床にしがみつくように風から体を交わした。
「叔父さん!」
「日高先生!」二人が声を掛けたが、研究室から飛び出してくる本や書類の山に体のあちこちをぶつけた。
突風の中、美代が浩太に顔を近づける「陽輔くんのときと同じよ」
「なんだって…」
研究室の中では、必死でもがく高橋とその足を突かんで話さない日高が重なって青白く輝きだしている。光っているのが人でなければ、それは凄い幻想的な光景だ。後光がさすように光が大きくなっていった
「何が起きようとしてるんだ」
窓から見える外は、暗く黒い雲が校舎全体を包むようになり、土砂降りの雨が降り始めた。
しかし、明らかに天候のせいではない、この風がこの部屋を中心に外へ吹き出している。
雷の閃光が窓の外に走る。
同時に部屋の中が恐ろしいほどの光が解放された。
二人は目を手で覆った。
その瞬間、扉から一斉に研究室内の物が飛び出すほどの大きな爆風と共に、二人の体は、廊下の反対側に飛ばされ、うちつけられた。
美代が倒れこむ。浩太は踏ん張って、美代を庇う。
風は一瞬に収まり、すぐに静けさが襲った。
ゆっくりと起き上がった浩太が、近くに落ちていた帽子を拾って部屋を見つめる。
「そんな、…そんな…」
研究室の中は何もない空っぽの空間になっていた。
誰もいない…持ち主のもたない空家のようになっていた。
研究室の『日高馨』の札もなくなっている。
倒れたままの美代を見つめながら、浩太は研究室を再度眺める。
「どういうことだ、存在しないことになったのか…?陽輔の時と同じだというのか…」