帝新ホテルの厨房をかけて
『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の一同は荷物を纏め、すごすごと店の外に出て行った。浩太が鍵を閉め、その鍵を知子が預かるのを、そのまま見つめるしかなかった。粕谷知子と高橋昇治は、乗ってきた高級外車でそのまま走り去った。
皆は、公園の片隅のベンチにそのまま集合し、呆然としながら、さっきまで、自分達の店だった『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を見つめ返した。ただ、見つめることしか出来なかった。
「こんなことってありかよ」雅人が怒りをぶちまけた。
「浩太、なんとか言えよ」雅人は、浩太に掴みかかった。浩太は雅人より背が十センチほど高い、少々掴みかかったぐらいではびくともしなかった。それでも、雅人の揺さぶりは、浩太に精神的ダメージを十分に与えた。浩太は、皆の仕事場までも失わせたのだ。貴士は、冷静に雅人の手を浩太の襟元から話すと、ゆっくりと浩太に話しかけた。
「これからどうするよ。浩太」
黙っていた浩太は、自分の言葉に期待する仲間たちの視線が痛かった。浩太にとって、叔父さんへの信頼が全てだったのだ―。それを裏切られた以上、どうしたらいいのか浩太にも分からなかった。
「叔父さんが決めたのなら、正直、俺にどうすることもできない…」とだけ呟いた。
「いきなり締め出しって酷くないかい…」雅人は、未だに納得いかない気持ちをぶつける。
「給料一か月分払うって、浩太のお母さんが言ったけど…そういう問題じゃないよ」美代も怒っていた。「これから、どこでハンバーグを焼けばいいのよ」
「…ハンバーグも問題だけど…、俺達の店がいきなりなくなるってのはどういうもんだよ。これって、許されるのか!」雅人と美代が浩太の気持ちを察せず口々に文句を言う。
「権利書がどうとか言ってたな、浩太、叔父さんが帰って来てるのか?」貴士は冷静だった。
「あぁ、昨日夜、八坂大学病院に入院した。大学のほうで倒れているのを運ばれたそうだ」
「相変わらずだな、…でも、今回は、なぜ、ここに現れないんだ。いつも、お前の料理を楽しみにしていたじゃないか?」
「まだ、病院で寝ていると思ってるが…なにせ、昨日は、薬で眠っていたから話しも出来なかったし…」
「叔父さんに真意を訊くしかないな。とにかく、俺達は浩太の叔父さんの店に働かせてもらってたんだ。浩太の言うとおり、叔父さんがそう決めたのなら、それ以上どうすることもできない。皆、一旦帰ろう」貴士が提案をして、浩太の肩に手を置いた。「お前は、叔父さんに話しをしてくれ…」
「…そうだな…病院に電話をしてみる」浩太は携帯を取り出した。
「病院へ行くなら、私も行く」「俺も行くぞ」雅人と美代は一斉に声を出した。
浩太は病院へ電話をかけた。
「叔父さん、携帯は持ってないの?」美代が訊く。
「浩太の叔父さんは携帯電話を持たない主義なのさ」貴士が知った風に話した。
浩太は、病院の受け付けと電話越しに話しをした。「…はい、日高馨は退院したんですか…はい、そうですか、何処へ行ったかしりませんか?はい、いえ、結構です。…わかりました」浩太は携帯電話を切った。どうだったと詰め寄る仲間に「叔父さんは、昼前に退院したそうだ」と浩太は残念そうに言った。
「一歩遅かったか…」貴士が呟いた。
その時、浩太の携帯電話が鳴った。
ジリリリリィン
ジリリリリィン
「叔父さんからか?」雅人が食いつくように携帯を覗き込む。浩太がディスプレイに表示される文字を見る。
「いや、違う。…帝新ホテルからだ」浩太は、自身のイタリアンの腕前を上げるために、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を運営しながら、帝新ホテルの厨房にも努めている。その帝新ホテルからの電話だった。
「もしもし、粕谷です。はい、はい、分かりました。え、はい、いますけど…はい、わかりました」
電話を切って、皆を見た。
「御免、帝新ホテルに行かないといけなくなった」浩太が皆に頭を下げた。
「この一大事に、どうするんだよ…」雅人が浩太を責める。
「…雅人、そう言うな。それぞれに事情はある。仕方ないだろう。とにかく、叔父さんには連絡を何としても取ってくれ」貴士は浩太にそういうと、荷物を片手に去ろうとした。
「いや、貴士、待ってくれ」浩太の言葉に、貴士は足を止めた。
「なんだ…。俺は家で寝る」貴士も堪えているのはわかっている。
「帝新ホテルからは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の料理人を連れてきてくれといわれている」
「ちょっと待て、ということは、貴士のことか、どういうことだ?」雅人が複雑な顔をした。
「浩太、それはどういうことだ?」
「俺にもさっぱり判らない。…貴士、とにかく来てくれるか…」浩太が訊く。
「店がやれないんなら、暇だしな。家で寝るだけだ、別に構わないが…」
「それじゃ、頼む、進藤さんが呼んでるんだ。一緒に来てくれ」
浩太は振り返って、自分を見つめている皆に威勢を振り絞った。「悪かった。皆、叔父さんに連絡を取ってみる。これからのことは、絶対連絡するから…」
「あぁ、頼むぜ…」雅人は鞄を片手に、いち早くその場を去った。
浩太と貴士の二人も、帝新ホテルへと、コックコートの姿のまま去って行った。
その場には、亜理紗と美代の二人だけが残った。
「亜理紗…どうする」
「まあ、皆、大変そうだし、私は日溜保育所に顔を出して、帰るわ」
「分かった」
亜理紗も、その場を去った。亜理紗は、もともと『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のメンバーではない。彼女が残る理由は何もなかった。美代は、ただ一人残され、じっと店を眺めていたが、一人ムキになって歩きだした。
帝新ホテルは、三ツ星に数えられる有名なホテルだ。客室250室を数える大阪でも最も大きなホテルの部類である。特に『大阪城』に近いホテルの中では最大クラスの大きさで格式の高さがある。国内は始め、海外からもVIPを含め沢山のお客様が来られる。当然、その厨房は、料理人の憧れでもある。
帝新ホテルで、厨房を牛耳るのは『進藤勝義』フランスで腕を鳴らしたフレンチシェフだ。アメリカにあるピスタリアクライベルホテルの料理長も歴任した一流シェフである。浩太は、叔父さんのコネでこのシェフの元、料理の下拵えを任されていた。浩太が貴士と、一五階にある厨房にやって来たとき、進藤料理長は、腕組みして入り口で待っていた。
「早かったな」いつになくトーンが低く、ぶしつけだ。
「今先ほど、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が閉鎖されたところなんで、すぐそこ…眼と鼻の先に居てたところです…」
「そうか…やはり本当なんだな…店が閉鎖されたのは…」進藤料理長に驚きはない。おそらく、そのことも知っているのだろう。
「それより、料理長、いったいどういうことですか?」
「俺も、いきなり電話をもらったばかりだ。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の料理人を一人なんとかしてやってくれとな…」
「誰からですか?」
「日高だよ…」
浩太は合点がいった。日高はやはり、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が閉鎖したことを知っている。あの委任状は偽物ではなかったのだ。となれば、日高本人が母、知子に書いたものであるのは間違いないということ。そして、行き場のなくなる貴士を心配して、この帝新ホテルに連絡してくれたんだと―。
「山上貴士くん、君に今からここで料理を作ってもらいたい」進藤料理長は静かに言った。
「…」貴士は、進藤を見つめながら納得いかない顔をしている。
「材料は、この奥の厨房にあるものを使ってもられえばいい。出来栄えもさることながら、その手際と料理に対する姿勢を見させてもらう。悪いが、料理長として、日高の推薦でも、その腕前を見ない訳にはいかないからな」
貴士は、進藤の話を黙って聞いていたが、進藤がしゃべり終わると口を開いた。
「日高さんが、ここで働けというならここで働きます。こんな大きなホテルでやりたい気持ちもあります。しかし、当の本人から何も聞かないいうちに、『はい、そうですか』と訊くわけにはいきません。私も一人の料理人である前に、一人の人間です。納得いかないことは納得いかないし、大人の事情だっていうなら、それもありでしょうけど、理由もなにもわからないまま、黙って従うほど我慢強くはないです」
「そうか、なるほどな…でも、悪いが日高は来ない。いや、来れないと言っていた。また、すぐに出かけないといけないらしい」進藤は丁寧に説明した。
「そうですか…理由はもう一つあります。このホテルで、本当に自分の作りたい料理が作れるとは、到底思えません。いや、作れないでしょう。自分は大きなところで枠に填ってやるのか、小さいところでやりたいようにやるのか、まだ、考えたいことが多すぎます、気持ちの整理が付いていません」
進藤料理長は、少し笑みを浮かべた。「はは、さすが、浩太の友人。日高の推薦する男だ。普通なら、是非、受けさせてくださいと懇願するところを、大した自信の持ち主だ。このチャンスよりも自分の料理感をとるとはな!」
進藤料理長は、じっと貴士を見つめたが、「とにかく、こちらへ来てくれ」と厨房へと案内した。
美代は、こっそりと浩太と貴士の後をつけていた。帝新ホテルのロビーに入っていく二人を追いかけて、エレベータに乗るところまで見ていた。エレベータが十五階で止まったのを見て、降りてきたエレベータに乗ると、同じく十五階を押して、目的の場所にたどり着いた。そこは、夕食前のダイニングルームだった。入り口には、『洋食ダイニング 雅』と書かれた看板がある。名のある書道家に書いていただいたのか、雅の文字が立派に見える。美代はゴクリと唾を飲み込んだ。ひっそりとした雰囲気の中、奥の厨房に何やら人の気配がした。入り口が開いているのをいいことに、美代は周りを見て、身をかがめた。テーブルより低くなってダイニングルームを通りこし厨房の方へこそこそと走った。声の聞こえる厨房の入り口にやってきて、中をそおっと覗き込む。
そこには、浩太と貴士がいた。もう一人コックコートを着た年配の男が立っている。
―どうなってるのかな―。―何が始まるんだろう―
美代は興味本位でそのまま、覗き込んだ。その後ろに美代に気付いた男がいた。
厨房の中に三人はやって来た。厨房では、更に一波乱が起きた。進藤料理長が厨房のレストルームをノックした。帝新ホテルの厨房は三つある。そして、全ての厨房にレストルームと呼ばれる休憩室がある。そこには、仮眠ベッドから、くつろげるテーブル席、料理人が休息ができる、いろいろな安眠グッズや休息グッズが置かれている。しかし、レストルームをノックしたのは、一人の男に二人が来たことを知らせる為だった。
レストルームから出てきたのは、今先ほどまで、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』にいた、あの高橋昇治だった。オールバックの頭を固めた紺のダブルスーツ、先ほどと同じ出で立ちだった。
「奇遇だね。またお会いするとは思ってなかったけど…あぁ、お母さんは次の場所へ向かわれたよ。本当に忙しい人だね…」先ほど会ったばかりなのに、どうして、見るだけで毛嫌いできるほど、この男は気分を害させる能力を標準装備しているのだろう。浩太と貴士は、あからさまに嫌な顔をした。
嫌悪感のレベルを振り切れたのは貴士が先だった。「悪い、俺帰るわ」貴士がそういうと、背中を見せて帰り始めた。浩太自身は、それよりもなぜ、高橋がここにいるのかが不思議だった。
「その様子じゃあ、山上貴士くんは、帝新ホテルの料理人じゃあ、満足しなかったみたいだね」「いえ…」進藤料理長は、言葉を遮ろうとして、高橋の鋭い視線にねじ伏せられた。
「君は話さなくて良い。じゃあ、こうしよう、無条件とは言えないが、君の腕前を見て、それ相応だと私が認めたら、コース長になってもらおう。さしずめ、この洋食ダイニング『雅』のブレックファストのコース担当から始めたらどうだ」
「それは…」進藤が言葉を詰まらせた。
貴士の足が止まった。史上みない好待遇だ。誰もが、皿洗いや、下拵え、単品料理からメインディッシュ、そして何年も時間を掛けてコースを貰うところを、一気にコース担当をさせてやるというのだ。しかも、ブレックファストコース担当とは、帝新ホテルの朝食担当である。厨房が三つに朝、昼、夜、三回、つまり、九つしかない内の一つである。これで、自分の作りたい料理が作れないとはいえない。コース担当というのは、一歩間違えば信用問題にもかかわる大事な仕事。それを、さっき会ったばかりの若造に、やらせてやるというのである。
貴士はゆっくり振り返った。「なぜ、そこまでするのですか…」
「なあに、簡単なことだよ。日高が推薦するんだ。コースぐらい任せてもいいだろう」
「日高さん…か…」貴士はこぼしながらも、帰ろうとした足を戻してこちらを向いた。貴士は、今いる帝新ホテルの厨房を見渡した。恐ろしく広い厨房だ。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の店全体が何十個も入るぐらいのスペースに、たくさんの調理机が組まれ、天井からは、様々な調理道具が吊るされている。改めて、じっくり観察した。「さすがに凄い…」貴士は感嘆の声を漏らした。
「その机でやってくれて、構わない。ちなみにその横の冷蔵庫に、余った食材が入っているから、自由に使って構わない」
「ただ、料理を作ってもらうのを見るだけでは、面白くない、料理は常に戦いだ。真剣勝負だ。粕谷浩太、君にも料理を作ってもらおう」高橋昇治はニヤリと笑って語りかけた。
浩太はドキリとした。しかし、その前に確認すべきことがある。なぜ、お前は、ここにいる!俺達に命令できる!浩太は激しい嫌悪感に、疑問が勝り、我慢できずに言葉を発した。
「それより、お前は、なんでこんなところにいるんだ」
くく、と苦笑しながら、高橋は自慢げに胸を反り返しながら説明した。
「この帝新ホテルは、私のプロデュースの一つ。『レジデンス』はプロデュース事業を手がけている。君のお母さんのように施設全体をプロデュースするのとは違うが、主に食を通しての場所作りを提案する。このホテルだけではない、私のプロデュースしたホテルやレストランは日本、世界にいくつもあるぞ」自慢の仕方が嫌味っぽい、母と同じ人種だ。
「知らなかった。帝新ホテルは、貴様のプロデュースだというのか…」浩太が問い返した。
「そうさ、今、通ってきたダイニングルームからこの調理場も、私の自信作の一つだ。優れた芸術家や演出家は、形あるものが崩れるのを知っている。出来上がったものが崩れないようにその維持に全力を尽くす。私もたまにこうやって、自分のプロデュースした物が崩れないように補修していく。当然、人事においても私がプロデュースしている」高橋は、ゆっくりと近づきながら、調理場の緩やかなカーブを描いたシンクを指でなぞった。
「余興のつもりはないが、山上くんの実力を知るのに、ただ料理を作ってもらって、素晴らしく美しいものが出来るとは思えない。やはり、コンペが必要でしょう。真剣勝負が一番だ。帝新ホテルのブレックファストを任すのに、真剣勝負があっても良いでしょう。山上くん、先ほどは失礼したが、ここで、そこの粕谷浩太と勝負しなさい、その勝負に勝ったなら、君を喜んでコース長として採用しよう。それとも、真剣勝負の相手が粕谷浩太じゃ、役不足かい?それとも既に降参かい?」
貴士は高橋昇治を見つめた。
「たった一回の料理を作るだけで、帝新ホテルのコース担当だ。光栄と思うことですね。朝食の責任者になったら、全てのお客様の胃袋を満足させるために、毎日真剣勝負の連続なのですから…」
貴士は、許せない高橋の提案でありながら、胸の奥が高揚していくのがわかった。そして、浩太をゆっくりと見つめた。貴士にとって、浩太はいつも自分の先をいく存在。その男との、真剣勝負という言葉を叩き付けられて、そのチャンスを放りだすことなんて出来はしなかった。それも、懸けられているものが、大きすぎる。貴士は自分の手を見つめて、おもむろに浩太に向き直った。
「浩太…、やってくれるか?」
突然、貴士の乗り気な姿を見て浩太は躊躇した。「いいのか、貴士…」
「当たり前だ。自分の心に嘘はいえない。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』ほど魅力的とはいえないが、俺にとって十分すぎる提案だ。その真剣勝負の相手がお前なら、張り合いがあるってもんだ」もしかしたら、貴士は自分と真剣勝負がしたいのかもしれないと浩太は思った。
浩太は無言で頷いて口元を上げた。そして、脇の蛇口を捻って手を洗い出した。浩太にとっては、貴士にチャンスを与えることは、自分に与えられた使命のような気がした。
「時間は三十分だ。一分でも過ぎて仕上がらなかったら、その時点で負け。それでは、今、十七時丁度だ。十七時三十分まで、私達はここで、君達の腕前を拝見しよう。それでは、初めてくれたまえ!」高橋が音頭をとり、拍子をパンと打った。
浩太と貴士は心地よく荒ぶる気持ちでお互いに一瞥した。貴士は腕まくりをし、頬を叩き、気合を見せた。浩太も顔を冷水で洗い、眼を開いた。浩太は先に冷蔵庫をガチャリと開けて、ゆっくりと中を覗きこんだ。自らの店が閉められても、二人はやはり料理人である。その度量を確かめてやると言われ、気が乗らない訳がない。しかも、お互いに親友であり、ライバルである二人が争う真剣勝負である。貴士はなんとしても浩太を越えたいという思いが常に心にある。浩太にとっても、貴士は自分の下で、いつも不満も言わずに淡々と仕事をこなす姿に感謝し、唯一の理解者だと思っている。その貴士の高揚している顔を見て、男として、料理人として、それを迎え撃たない訳にはいかない。
二人は心地よさと自信の表れを見せ、てきぱきと動き出した。浩太は、冷蔵庫の食材を見た。―卵、ゆず、アンチョビ、痩せた蟹、香味野菜、トマトピューレ―、浩太はメニューを決めた。短時間勝負だ。一番ベストな物が心に過ぎったが敢えて止めた。その食材を一瞬手にしてそのまま戻した。高橋は、冷蔵庫の扉越しに、その微妙な仕草を見逃していなかった。貴士は、冷蔵庫を開けて、一瞬見渡すと迷うことなく痩せた蟹を手にした。
浩太はアンチョビーを手にした。ペースト状に、アンチョビを崩していく浩太。蟹をワインで炊きながら、オリーブオイルでにんにくを炒め始める貴士。
進藤は、二人の手際良さを頷きながら見つめていた。浩太の凄さは既に認めているところである。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』と掛け持ちでなければ、コースを任せてもよいと思っていた。今回の高橋の提案は実は、浩太に与えるつもりで進藤は取っていた。しかし、高橋はそれを貴士に与えようとする。彼には逆らえない。だから、進藤の視線は、どちらかというと貴士の手の動きをじっくりと見つめている。振動は貴士の腕前を知らない。―この若者にコースがやれるのか―疑念の視線が貴士に向けられる。
高橋は、入り口からボーイがやって来るのを見て、ニヤリと笑いながら二人に近づいた。「ここに私と、進藤くんがいる。これで、二票だ。二人がお互いに片方ずつに入れたら、票が割れる。つまり引き分け。そこで、もう一人審査員を入れようじゃないか!」
厨房の外から、影に隠れてじっと見つめていた美代がドキリとした。
「そう、そこに隠れているお嬢さんに、もう一票の味の判定をお任せしよう」
美代は、いつの間にか、後ろに立っている二人のボーイに両脇を掴まれ彼らの目の前に放り出された。
「痛いな!もっと優しくしなさいよ!痛いって」美代は、四人の目の前の床に転げた。
「いらっしゃい、山本美代さん。貴方なら味の審判にふさわしい」高橋はククッと笑った。
「美代、何で、ここに居るんだ」浩太が驚いて美代を見つめた。
「へへ、後を付いてきちゃったんだ。まさか、見つかってるとは思わなかったけど…」と口を尖らせている。
「さっさと家へ帰ればいいものを…」浩太は美代を見て溜息を吐いた。
「はは、いいじゃないか、どちらを選んでもわだかまりを生むぞ、絶妙のシュチエーションだな、友情にヒビが入らないよう選んでやってくれ」高橋がいやらしい笑いを浮かべた。
「冗談じゃない、私はそんなことしないよ」
高橋が美代の前に立った。「あなたが選ばないなら、この勝負はなしだ」高橋は笑みを浮べ続ける。
「なしって、ちょっと待ってよ。私、よく聴こえていなかった。何の勝負がなしになるの?」
「山上くんの帝新ホテル、コース担当としての内定だよ」
「え、」美代は、―どういうことか―訊こうとしたが、二人の真剣な取り組みを見て言葉を飲み込んだ。美代が望もうと望まないと二人は、真剣な眼差しで料理に打ち込んでいる。美代が選ばないことが、二人に申しわけないような気がした。美代は黙りこんで、その姿を見つめる。高橋も美代の観念した様子を見て、二人の真剣勝負をにやにやと再度楽しみだしだ。
イタリアンシェフの二人が三十分でつむぎだそうとしている料理はどちらもパスタだった。両者とも、パスタの下茹での準備に入った。こうなると、ペースト勝負になる。
浩太は、茄子を剥いで細く四角い形状に切り、水にさらす。細かく叩いてつぶしたアンチョビーにロースハムの角切りを投入する。生クリームをやや固めに泡立てて、アンチョビーのペーストを半分混ぜた。そして、なぜか、もう一つの鍋を用意しベースを二つ作り出した。もうひとつの鍋には、にんにくを切り、水と牛乳を足して茹で続けていた。
貴士のほうは、茹で上がった蟹の煮汁に、更にワインを足して味を調え、卵黄に牛乳、味噌少々を加え、醤油、胡椒で味を調える。トマトピューレと生のトマトを利用して、先ほどのニンニクを炒めた別の鍋で煮詰めだした。味を調えた蟹の煮汁に蟹身を投入し、水溶き片栗粉を利用してとろみを付けた。材料の少なさを二人とも、下味の調味料や隠し味をなけなしの冷蔵庫から探し出し少量取り出しては味を確認して投入していった。二人のシェフは、流れるような動作で、てきぱきと料理を勧めていく。
浩太は、ペーストと茹で上がったパスタを素早く氷で絞め、マヨネーズ風のアンチョビーペーストとオリーブ油で煮詰めたアンチョビーを利用したバーニャカウダ風ディップの冷パスタをを作り上げた。茹で野菜や茄子の角細切りを同じく氷で絞めて、パスタにトッピングした。二つのアンチョビーソースが別皿で用意されており、着け麺風に食べる冷パスタだ。
貴士は、蟹身と蟹味噌を上手に生クリームで味を膨らませ、トマトピューレと煮込んだ。トマトが勝たないように、味噌とガラを煮込んだ出汁を上手に利用して、蟹とトマトのクリームパスタを作り上げた。芳醇な蟹の味を多いに膨らませながら、トマトの酸味で味を広げている。
どちらも、五分以上時間を残して仕上がった。進藤は若い二人の料理人を関心した様子で見つめていた。どちらも素晴らしい出来だ。創作性から、見た目までコース担当に相応しい。
「それでは、まず、山本美代さんから味見をしてもらいましょうか」
二人の顔をちらちらと見ながら、美代はフォークとスプーンを渡され、まず浩太の冷パスタを食べた。―程よい塩辛さでパスタの食感と相まって味わい深い―。―しかも、同じ酸味でありながら、違う二種類の味を両方楽しめる。冷パスタということで、どちらかというとアンチョビーの美味しさを際立たせている。「美味しい」思わず美代は声を出した。
次に貴士の蟹クリームと完熟トマトのパスタを食べた。―濃厚な蟹の味とトマトの酸味が豊かにパスタの食感を生かしている―素材の味とパスタが絡んでいる。素材を引き立たせているという点では同じだが、単品が生きる料理と総合的に完成している違い。味の違いは段違いだ。これは、どちらかというと、選択した料理の問題だ。「…」美代は食べた瞬間に貴士の顔を見た。真剣な眼差しが美代を射抜く。
「さあ、山本さんどちらですか?選んでください」美代はチラリと浩太を見て申し訳なさそうに呟いた。「…こっちの蟹クリームパスタの方が美味しい。濃厚な味わいがパスタとペースト本来の性質をよく引き出している。本当に蟹の味とトマトの味が広がっている、よく出来ている。パスタに絡めば絡むほど美味しい」
「なるほど、さすが、山本美代さんだ。的確だね。これで、まず山上くんが一票ですね」貴士は、美代の言葉に眼が踊る。
そうして、進藤料理長と高橋が同時に味見をした。進藤は頷きながら二つを食した。高橋は、よくよく噛み締めもせずに二つを次々に口にした。
「では、進藤料理長、どちらが料理人としてふさわしい」
「…三十分という時間を考えて、メインデッシュに相応しい料理を作ったのは山上くんのほうだ。山本さんが、いったように、パスタ料理として考えたら、こちらを取る。浩太くんの料理は、完成されていて、美味しいが、パスタが必要とは思えない。なくてもいい…バーニャカウダとは恐れ入ったが、パスタである必要がなく、ソースを更にもう一つ加えることで、尚更にパスタである必要がなくなっている。無理やりに仕上げている」
浩太は高橋の票を待たずに負けが確定した。
高橋がケラケラと笑いながら、「私も山上くんの方にいれるとしよう」勝ち誇ったように言い放った。多数決は、三対〇で貴士が圧勝した。高橋が険しい顔になって、浩太を睨みつけた。
「私は、真剣勝負といったはずだが…」高橋は言い切った。
「何だと…」浩太は声にならない声をだした。
「悪いが、勝負を捨てる人間は、この帝新ホテルに必要ない!」高橋は貴士の調理場にある蟹の殻が残されたボウルを持ち上げた。
「粕谷浩太、君は初めに選んだメニューを友人に譲っただろう」
「え」貴士は浩太を見た。浩太は俯いた。
「君は初めに蟹を手にした。しかし、それを彼に譲って、自分はアンチョビを手にした。はっきり言って、君の冷パスタは素晴らしい出来だが、真剣勝負をしないやつはいらない。出来上がった料理だけ見たら、君に票を入れてもいいが、俺は真剣勝負をしろといったんだ。誰もが濃厚なものを好むわけでもない、だから、蟹を捨てた中で野菜ベースを咄嗟に判断した料理センスは素晴らしい。でも、君は勝てる勝負を譲ったんだ。私なら、二人が同じパスタになろうと、そこで味の勝負に持ち込んだ。それに、この冷パスタの発想があるなら、蟹とアンチョビーのダブルペーストもありだったろう…」
「そ、それは…」浩太は言葉がなかった。
「蟹を手にした時に、君は一人前分しかないと思ったんだろう。だから、冷蔵庫に戻した。勝負が始まったときから、真剣勝負を放棄した時点で勝敗は決まった。勝利を譲るだけの余裕が、勝敗の決着をつけたんだ。これが客商売の真剣勝負だったら、粕谷浩太!貴様は負けだ。あの時点で決めた。貴様は料理を止めた方がいい。貴様みたいな奴は、このホテルにいらない、出て行け!」
「!」浩太は、目を大きく見開いて睨み返そうとしたが、言い返す言葉もなく、すごすごと皆を後にして、厨房を出て行った。
「浩太」貴士は追いかけた。美代も追いかけた。
浩太の料理は駄目出しされた。浩太は、「放っておいてくれ」と言って、ロビーの隅で塞ぎこんだ。塞ぎこむ浩太に美代が声をかけた。
「ごめん、浩太。浩太のバーニャカウダ風のパスタも美味しかったよ」気を遣う美代に愚かさだけが感じられた。
「いや、美代は悪くない。悪いのは俺だ。ふと、貴士が真剣に作るパスタを見てみたいと思ったんだ。俺は、別の方法でも作れるって、あの、高橋の言うとおりだ。俺は真剣勝負をしなかったのかもしれない」
貴士は浩太の前に立ちはだかった。「俺は、自分だけ雇ってもらうつもりはないからな。料理人を大事にしない場所で、働く気なんかない」と口を結んだ。
浩太は、貴士を見上げた。「いや、お前はここで働け。店を閉めたら、俺にはお前を雇ってやれない。あいつらは、ここのブレックファスト担当という、とんでも条件をつけたんだ。これをモノにしない手はない。ここで働いている何十人という料理人が望んでも何十年も掛かるかもしれないものだ。そんな安っぽいものじゃない…」
貴士は、何も言えず浩太を見つめた。
三人が言葉を失っていた時、進藤料理長が周りをきょろきょろと見渡しながら、一人やって来た。「山上くん、高橋が呼んでいる」そう言って、貴士を呼んだ。貴士は、浩太を見つめ、何も言わずに、進藤と共に悲しそうに高橋の元に戻っていった。貴士が消えた後に、進藤料理長は再度、自分だけ戻ってきた。そして、浩太の横に座った。
「浩太、実は、初めからこうすることが決まってたんだ。すまない」
その言葉に、浩太は唖然とした。「…決まっていた?」浩太は進藤料理長を見つめた。
「あぁ、さっきの高橋の言葉は、こじ付けだ。気にするな」
「でも、事実でもあります…」浩太は俯いた。
「どうも、高橋は日高と、とことん争おうとしてるみたいだ。日高は何か高橋に弱みを持たれているのかも知れない。だから、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を含めて、日高の息のかかる店も人もを残しておくことに反対している気がする。日高の息のかかる、お前もだ」
「俺?」
「日高は、ああいう奴だから、自分で何とかするだろう。だが、お前はどうする?日高と高橋に何があったんだとしたら、これから厄介だぞ。…実際、浩太が帝新ホテルで仕事が出来るようになったのは日高の口利きだけど、口を訊いたのは高橋なんだからな…」
「なんだって、それは本当ですか?」浩太が事実を知って唖然とした。
「あぁ、日高と高橋は仲が悪かった訳じゃない。元々は親友のようだった。それが、ここ、数年の間におかしくなっている。何かあったのか?浩太、お前は知らないのか?」
「…高橋自体、今まであったこともない人でした。何があるかなんて、判りません」
「日高の奴、最近、戻ってきたらしいな。何か変わったことはなかったか!」
「日高の叔父さん…、変わったこと…、いつも変わっているが…」浩太はふと、思い出した。―会えてよかった―。「あ、そうだ。これを持っていた」浩太は、懐から写真を取り出した。「どうも、誰かに会ったらしい、その誰かに会ったことを喜んでいた。多分、この写真の人間だと思うんですが…」進藤は写真を受け取って、じっと見た。
「誰だ?この一緒に写っている男は?歳の頃は、二十代だな。三十にはなってない。結構若いんじゃないのか!」
「料理長も知りませんか?でも、叔父さんは写真を残さない。その叔父さんが写真を撮ったんだから、よっぽど嬉しかったんだと思います。記念にしたいぐらいの人物…」
進藤も首を捻った。美代は隣で、進藤料理長から、その写真を受け取って見つめた。
「とにかく、日高と高橋のいざこざに巻き込まれたのは間違いない。早急に、日高に助けを請うべきだと思うぞ」
「…そうですね。俺には、料理界に、何もつてがないですから…高橋がどのくらい凄いか知らないけど、全く太刀打ち出来そうにないです…」
「うん。そうすべきだ」進藤は、大きく頷いて、「じゃあな、俺もこれ以上は、危険だ」
「まさか、進藤料理長をどうにかしないでしょう」浩太は笑ったが進藤の目は笑ってなかった。
「気をつけたほうがいい、あいつ、俺ぐらいなら、どうとも思ってないぞ」
「そんな…」浩太は厳しい目をして進藤を見つめた。進藤は振り返りもせずに、それだけ言うとさっさと、貴士が消えた扉へ急いで消えた。
浩太は、恐ろしさで身震いした。僅か一日の間に自分の働いている場所を全て奪われた。明日から一体、自分はどうしたら良いのだろう。高橋の力は絶大だ。この先、自分がどこかで料理をしていても、聞きつけてやって来るかもしれない。どうみても浩太一人で太刀打ちできるはずがなかった。
しばらく、呆然としていた浩太が、我を取り戻して周りにいるのが美代だけだと分かった。写真をじっと見ている美代に手を差し出した。
「写真、返してくれ」しかし、美代はその写真を返そうとしない、そればかりか、じっと、見つめ続けている。浩太は、美代が血相を変えたようになっているのに気付いた。
「どうした?その男知っているのか?」
「知っている…知っているよ」
浩太は、知っているという言葉に驚いた。これで、誰に会ったかが分かる。
「知ってるのか!手がかりになる。そいつ、一体、誰なんだ?教えてくれ!」
「知っているよ。絶対にあり得ないけど…知っている…」
「あり得ない?」
美代はごくりと唾を飲み込んで答えた。
「これは、お爺ちゃんよ。私のお爺ちゃんに間違いないわ」
「お爺ちゃん?」
「そう、私の死んだお爺ちゃん『小松良明』よ…」
浩太は眉間に皺を寄せ、困惑の顔を見せた。「小松良明…」
浩太は、帝新ホテルの更衣室で、自分の荷物を取り出すと同時に着替えをした。あまり見ない普段着姿で、美代の前に現れた。長い髪は束ねられ、どこかの野球チームかバスケットチームかの帽子を深く被った。
浩太は、美代の話しを冗談としか思えなかった。いや、そう思うしかなかった。美代は、写真の人物が、お爺ちゃんであることを信用しない浩太に対して、アルバムの写真を見せると言い張って、半場、無理やりに浩太を自分のマンションに連れてきた。
浩太も、美代のマンションに祖父の写真を見に行くことにした。美代は、八坂大学に通う学生である、日高馨の授業も履修している。―途中で行方不明になって、授業は飛んだが―。二人は共通して、日高を知っている。例の男を知らないのは、浩太だけだ。一〇年前に死んだ『小松良明』と叔父の日高馨が写真に並んで写っているなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
浩太は考える。写真に映っている『小松良明』は明らかに二十代。死んだ人間が、五十年以上若返って、生きかえったということに成る。そうでないなら、日高馨が五十年前に行って、『小松良明』に会ったということだ。
どちらにしてもそんな馬鹿なことはない。
美代の部屋は以外に整えられていた。がさつな感じがしていた浩太にとっては、意外だった。本棚をちらりと見ると、ハンバーグ関係の本が沢山、書棚においてある。
「おまえ、どういう趣味してんだ」浩太の声に「うるさいな、人の部屋をきょろきょろ見ないの!」と声を大にした。そうは言っても、部屋に入ってるのだから、見ない訳にもいかない。本棚から、アルバムを一つ取り出して、テーブルに置いた。美代がアルバムのページを捲る様子を見つめる。ページが停まった。
「五十年前の写真よ」
浩太にそれを見つめた。浩太の持っている写真を横に並べて見比べた。
そこには、間違いなく、写真と同じ男が写っていた。
「そんな…本当にお爺ちゃんなのか?」
「だから言ったじゃない。私、逆にこれが本当に叔父さんなのかどうかのほうを、疑いたくなる…浩太の持っている写真は、ほら、この服もお爺ちゃんと同じものよ。間違いない、『小松良明』お爺ちゃんよ」なんと、写真の男は、顔や姿だけでなく、服まで一致した。
「ちょっと待ってくれ、ということは…この男が、美代のお爺ちゃんで、小松良明に間違いないなら、逆に日高叔父さんだと思っている男が実は違うということか…」浩太はそういいながら、写真を見返した。何度その写真を見ても理解できない。
「それなんだけど、これ、どう見ても…日高教授じゃないの…」
そこには、いつも黒のVネックシャツにグレーのくたびれたスーツを着たつんつん頭の日高教授が立っている。笑っているお爺ちゃんが、肩を組んでいるのは間違いなく日高本人だ。どちらも二人の見立てでは本人以外にありえない。
「これ、合成写真?浩太が作ったんでしょう」美代が口元をゆるませながら、信じていない口調で訊いてきた。
「そんなものを作る意味があるのか?」
見つめる二人のまなざしにゴクリと浩太が唾を飲み込んだ。
「日高教授…浩太の叔父さんっていったいいくつなの?」美代が問いかけた。
「アメリカの大学卒業して、しばらくしてからやって来たから…四、五、六、二八歳ぐらいじゃないかな…三十は絶対いってない」
「絶対おかしい」
「当たり前だ!」浩太は声を荒げた。
「私のお爺ちゃんは、私が小学校五年生の時に無くなっているのよ。今から、10年前。日高教授が二八歳だとして、十年前なら、一八歳よ。これ、ついこの前見たいな写真じゃない…それに、その時のお爺ちゃんなら、もっと白髪で年寄りよ!だから、写真はお爺ちゃんの生前に撮られたものでは絶対にないってこと」
「一体全体どういうことだよ。お爺ちゃんがタイムスリップしてきたのか?」
美代が拍子を打った。「日高教授…よく行方不明になるって…日高教授のほうが会いにいったんじゃないの…」
「おいおい、時間旅行しているとか言うんじゃないだろうな」
「じゃあ、これどうやって説明するのよ」美代は浩太に写真を突き付けた。
「だって、そんなことありえないじゃないかい」
「だって、日高教授って、物理学教授だよ…研究室に置いてる本とか、思い出さない…」
浩太は、昔、美代と一度だけ、研究室へ行った時のことを思い出した。「タイムパラドックス…相対性理論…一般相対性…負のエネルギー…」美代は呟いた。
「馬鹿馬鹿しい…」浩太は馬鹿にした。
「あんた、自分の叔父さんのことでしょう、きちんと解決しなさいよ」
「…そりゃ、叔父さんは変人だよ。頭良すぎだし、なんだってできるし、でも、時間旅行ができるなんて、馬鹿なことあるはずない…」
「じゃあ、これ、どうやって説明するの?」
「…他人の空似、どちらかが偽物か、両方偽者だ…。そうだよ。あまりに似ているから面白くて写真を貰ったんだよ…ネタだよ…ネタ」説得力のない説明だったが、それが一番言い当てているというしかなかった。
浩太は、外が暗くなっているのを窓から確認すると、美代のマンションから離れることにした。
「今日は帰るよ。写真の問題よりも、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の事が気になるし、高橋昇治のほうが問題だ。写真のことで、どうこう考えている場合じゃない。明日になったら、叔父さんを探すよ…」
「そうね」美代も頷いた。浩太は美代のマンションを後にした。
しかし、浩太はマンションへ戻らなかった。浩太の行き先は決まっていた。
財布の中には、八坂大学の日高馨の研究室の鍵を持っているからだった。
八坂大学は、大阪北の閑静な住宅街を抱える北千里と呼ばれる場所の更に北にある。駅からはバスで三十分の道のりだ。浩太が着いた夜の八時過ぎでも、大学には沢山の学生が残っていた。柔道着を着た柔道部らしいクラブと活発に動き出す天体観測部がザワツイテいる。工学系に特化した大学であるが、近年、他校の文学部を併合し、文系の生徒も多い。生徒でない浩太が、大学の門を潜るのに少々時間が掛かったが、日高薫の親戚で名前が登録されていたのが幸いした。身寄りのない叔父さんが、身内として大学に申請していたのである。おかげで、彼の身分は保証され、門を通過することができた。このことは以前、日高薫から話を訊いていた。だから、浩太は万が一のために彼の研究室の鍵を預かっていたのだ。どこに行くにしても、ここに戻ってくるだろう。どうせ、店もホテルも行けなくなった。ここで、泊りこんで待ち伏せしてやってもいい。叔父さんの居場所は他に思いつかない。
七階建ての校舎を両側に、天体観測部が休憩している間を抜けて、浩太はまっすぐに教授煉に向かった。教授煉は同じ七階建の建物で、三階までが講義室として利用されている。地下には図書室もあったが、八時過ぎのこの時間では閉鎖されていた。
―もっと早く来るべきだった―。もしかしたら、叔父さんが来た後かもしれない。
教授煉の小さいエレベータに乗り込んで、五階まであがった。一見すると、マンションの一角のようにも見えなくもない。前に来たときと、そう変わっていなかったし、浩太の記憶も残っていた。浩太は案外迷うことなく、日高薫の研究室を見つけることができた。
扉のガラス部分から明かりが漏れている。
―よかった。居てるぞ―
浩太は、ほっとして、扉を叩いた。
「開いてるよ」叔父さんの声がして、浩太は扉を開けて研究室に入った。
「入るよ…」
明かりは、少し奥の照明だけがつけられており、そこから漏れている。入り口の照明は消されている。明かりのある場所までは、人の背丈ほど積み上げられた段ボールや書類や本が邪魔して、簡単に到達できそうにない。
「叔父さん、浩太です」
「…浩太か…」返事と同時に、ガサガサと作業していた手が止まったのが分かった。
「退院したんですね。体大丈夫ですか?」
「あぁ、何ともない、こっちから、退院させろと医者に言ったぐらいだ」いつもの叔父さんらしくない、声が疲れている。
「叔父さん、訊きたいんです。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は閉鎖しました。それに、俺は、あの高橋という奴に帝新ホテルも追い出されてしまいました」
「…そうか…、やはり、お前を狙ってきたか…あいつは分かっているな…」返事と共に、ガサガサとまた作業を始めた。
浩太は、少々むっとして、唇をかみしめると、その山をかきのけて、叔父さんの顔を見てやろうと明かりの近くへ寄った。行く手を遮る段ボールと資料を除けると、頬がこけて、眼つきの悪い全く別人のような日高薫が現れた。叔父さんは、眉間に皺を寄せて、見たことのない難しい顔をしていた。むき出しの眼がぎょろっとこちらを向く。
「叔父さん…」その鬼のような顔をみて、浩太は一瞬ためらった。いつも明るく、悩み事などない楽天家、風来坊で他人の心配事もどこ吹く風の叔父さんが―悩んでいる?必至になっている、苦しんでいる、そんな顔がそこにあった。
「叔父さん、いったい、どうしたんだ。あの高橋とかいうやつと何があったんだ?」
「あぁ…奴は凄い野心家だ。俺を食らおうとしている。とにかく、奴から逃げないと…それにお前もな…その前に、早く…」
「逃げる?」
そういって、叔父さんは、部屋の隅から本をどかして、奥を覗き込んだりとおかしな行動をとり始めた。
「何してるんだ?」
「…探し物をしている…」
浩太は、山のように積まれた本や段ボールを見て、叔父さんが部屋中をひっくり返して探し物をしていることを知った。―まさか思った―。もしかしたら、あの写真ではないかと。浩太は、白状するのは今しかないと考えた。
「叔父さん、探してるのは、写真だろう」
叔父さんの手が止まった。ゆっくりと目を見開いて浩太に震える声で尋ねた。
「…なぜ、写真のことを知っている…」
浩太は、初めて叔父さんを恐ろしいと感じた。こんなに低い声で、睨まれたことなど過去に一度もなかった。自分のしたことに罪悪感を持った。
「…御免、叔父さん。病院で鞄からこぼれたのを拾った」
日高は立ち上がった。勢いで、近くに積んであった本が崩れ落ちた。「写真、写真と一緒に本がなかったか、手帳のような赤い本だ」日高はそのまま崩れ落ちるように浩太の首筋をつかんで、押し倒すように積んである本の山へ浩太を押し付けた。沢山の本がばらばらと崩れ落ちる。浩太は、恐ろしくなった。
「…赤い本?」本が崩れ落ち、浩太の肩にもあたる。
日高は、浩太に顔面を寄せて近づいた。「鞄に写真があったのか、本は見なかったんだな?」
「赤い本…見たような気がする…。でも、手にしてない。鞄に、赤い手帳のようなものがあったような気がします。確か赤かったかと…」
「鞄、そうか、そこに入れていたか…しまった。俺としたことが、そうか、朝だ。あの時に、奪われたのか!そうか、あいつが病院に来た時だな!」日高薫は、右手の書棚を思いっきり殴りつけた。棚がビンと震えて、いくつかの本が震え、地面に落ちて行った。「まさか、また、あれを無くす目になるとは思ってなかった。くそ、やはり、あいつか、あいつが手にいれたのか…」
「あいつって、高橋昇治のことか?」浩太がホコリも舞った部屋で服をはたく。
「どうして、そう思う」
「叔父さんと高橋昇治は、いざこざを起こしてるって、進藤さんが言ってたから…」
「進藤か、はぁー、いざこざ…か、そんな悠長なものじゃないけどな」
「その本、そんなに大事なものなのか…」浩太の質問に応えずに何かを考えている日高は、浩太が口にした写真のことを思い出し、再度、近づいた。
「そうだ、浩太、あの写真、早く返せ!」日高は浩太に迫った。
「あぁ、写真…。返すよ」浩太は懐を探った。おかしい、ポケットにない。―まさか―
「どこにある。あれは、お前らが持っちゃいけないものなんだ」
浩太は顔をぶんぶんと振った。
「持ってないのか、誰に渡した、高橋か!高橋に渡したのか!」
「いや、あいつには渡してない」
「なら、どうした。…」日高は照明の逆光の中、黒い顔の輪郭だけを浩太に見せて、大きな声で迫った。「誰に見せた!」
「…美代に見せた」
日高は頭を抱えて椅子に戻った。「よりによって、…よりによって山本美代に見せたのか!」
「叔父さん、あの隣に映っていたのは、誰なんだ?」
「お前の知るべきことじゃない」
浩太は、ホコリまみれになった体を何度もはたいて、立ち上がった。
「いや、知るべきことだね。おかしなことだらけだよ。叔父さんが戻ってから、俺はあの高橋っていうのに目のかたきのようにやられっぱなしだ。今じゃ料理を作る場所もない。叔父さんと高橋には何があるんだい。俺は十分に叔父さんの件に巻き込まれてる。僕にも知る権利があるはずだ!それにその慌てよう、赤いノートってなんだよ。あの写真に写ってるのは誰だよ」
日高は、力が抜けたように、ゆらりと立ち尽くしながら天を仰いだ。
「おまえには関係ないことだ」
「叔父さん、叔父さんは、『小松良明』に会いに行ってたのかい」
「…おまえ…どこまで知っているんだ」日高の顔が鬼のように見える。様子がおかしい。
日高薫は、いきなり、顔を振って、正気を取り戻そうとした。
「今日は、帰れ。とにかく、写真を持ってこい。すぐにだ。お前の言うとおり、高橋と俺はちょっと、ままならない状態にある。このままだと、お前は今以上に更に巻き込まれる。写真を持ってこい。俺がなんとかしてやる…」
「叔父さん、教えてくれ、どんなことでも聞く準備はあるよ。教えてくれよ。何があるんだ」浩太の質問に、日高は浩太に顔面が迫るほど迫った。浩太は後ずさりする。
「つべこべ言うな、写真を持ってこい。あの写真は、お前達が持っているべきものではない。写真の中身よりも、あれ自体が厄介なことを巻き起こすかもしれない。早く返せ。そうしたら教えてやる」
「返すまえに教えてくれよ」
「早く持って来い!」日高は怒号を浴びせた。
浩太はたじろいで下がった。こんな迫力のある叔父さんを見たことがない。浩太は唾を飲み込んで、呟いた。「分かった。写真だな。持ってくるよ。持ってきたら教えろよ」
「あぁ、早く行け、手遅れにならないように、早く持って来い」
浩太が扉を出ようとしたときだった。日高が扉まで駆けてきた。
「なんだい、叔父さん」
「おまえ、美代と…付き合っているのか?」
「え、なんだい、いきなり…」浩太は突然の質問に焦った。そんなことを訊いてくる人ではなかったからだ。
「いや、いい、忘れてくれ…」日高は浩太の前で扉を閉めた。ガチャリと鍵が閉められた。、明かりはついていた、そのあと、全く物音がしなくなった。
浩太は、首をひねって研究所を後にした。夜も更けており最終バスに乗って、自宅マンションに戻るのがやっとだった。
次の日、美代は保育士のアルバイトのため、日溜保育所に、やむを得ず出かけた。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』や『帝新ホテル』の件、おかしな写真の件で寝不足で参っていた。出来ることなら、家で一眠りするか、この問題に没頭しているべきだと思った。しかし、アルバイトの穴をあけるわけにはいかない。
携帯電話が震える。
亜理紗からの『今日は欠勤?大丈夫来れるの?』のメールを見て、美代は出勤する足を速めた。
少し曇りがちで、朝から天気が思わしくない。考え事が多すぎて、美代は傘を持って来るのを忘れた。不安は的中し、保育所に着く前に小ぶりの雨が降り始めた。早く保育所に着くように、早足になった。保育所では、既に亜理紗がエプロンをつけて待っていた。
「美代、昨日は大変だったね」
「うん…」美代は、あれかもいろいろと大変だったことや、浩太にとって不幸な出来事を話すのは辞めた。当然、日高教授とお爺さんが一緒に写っている写真の件など話ししようもなかった。
「今日も、紙芝居するでしょう」
美代は、家に置いたままの作り置きされた、手作り紙芝居を思い出した。
「あ、忘れた」
「…美代、本当に大変だったみたいね。自慢の紙芝居を家に忘れるなんて…」
「ごめん。皆、楽しみにしてるよね」
「昨日の奴やる?」
「そうね…、昨日のだとつまんないでしょう。もっと前の奴を引っ張ってきてやろうか…」
亜理紗は、美代の紙芝居コレクションをゆっくりと引っ張り出しながら、紙芝居を準備し始めた。
遊技場には、いつものように椅子と机が用意され、紙芝居の準備が始まっていく。
外は、黒い雲が現れてきて、降り出した雨は大粒になってきた。
美代はふと、外を見つめた。そこに、傘をさした一人の男をいるのを見つけた。黒い傘に藍のダブルのスーツ。オールパックの頭。
―『レジデンス』のあいつだ―。
ゆっくりとこちらにやってくる。
美代は身構えた。この保育所にようがあるというなら、自分にしかないはずだ。勝手に解釈して、美代は飛び出した。
「亜理紗、ちょっと御免…」
「え」亜理紗が返事するより先に、美代は雨の校庭へ外靴を履いて、へ速足で駆けた。
男は、保育所の敷居に入ってきている。すぐ近くの屋根付き砂場では、陽輔くんが友達と遊んでいた。
「あら、山本美代さん。また会いましたね」オールバックの男はゆるりと声を掛けた。
「で、私に用があって来たんでしょう。こんなところに、来ないで欲しいわ」
「いや、あなたじゃない…」
「え、誰よ」
「立花陽輔…」
「陽輔くん?」と口に出し、咄嗟に校庭の屋根付きの場所で遊ぶ陽輔を見た。
「本当にあなたは、嘘がつけないようだ。ありがとう」
高橋昇治はゆっくりとそちらに歩いて行った。
美代は走って、高橋昇治と陽輔との間に立ちはだかった。
「部外者は帰ってください。園内は関係者以外は立ち入り禁止です」美代はきっぱりと言った。
「陽輔とは、無関係ではない…」
「え、」美代はいろいろなことを脳裏を巡った。この声だ。あの時の電話の声―。
「もしかして…あなた、保育所に電話してきた?」
「あなたが電話を取ってくれたんでしょう。ここにいるとすぐわかりました」
「…もしかして、陽輔くんのお父さん…?」美代は疑念の目で高橋を見た。
「いや、父親ではない…。そういう、感情的なな関係ではない…利害関係があるだけだ…」
亜理紗や周りがざわついたおかげで、園内からは園長を初め、数人の大人が美代の後ろからやって来た。
「あなたは誰ですか?」
「参ったな、目立つつもりないので、失礼するよ…」そういうと、高橋はそそくさと入り口から出て行った。
「今のは誰?」園長先生が尋ねた。
「さぁ、陽輔くんを探してました」
「どういうことかしら…」
「とにかく、親御さんには知らせたほうが良いと思います」
「そうね」園長先生は、「電話してくるわ。あなたは、陽輔くんを中にいれなさい」園長先生はそういうと、事務室の方へ向かった。
美代は気持ちを取り直して、陽輔を伴って遊技場へ向かった。遊技場には、少しばかりの園児が集まっていた。しかし、今日は誰も集まらない。
「皆、呼んでくる」
「いいのよ、陽輔くん、ここに居なさい」美代はそういうと、紙芝居の用意をし始めた。
たまりかねた亜理紗が、「始めるわよー、紙芝居!」と大声で叫ぶ。その声で、園児がはしゃいで集まってくる。美代は、紙芝居を組み立てて、準備をした。ふと、周りを見回した。
―陽輔がいない―。まさか―。
美代は、急いで、校庭を覘いた。あの男がまだ、門の向こうに立っている。
男の視線がやけに低い。誰かと話をしてる。―陽輔くんと話をしているのか!
美代は、校庭に走り出す。
「美代!」亜理紗が声をかける。血相を変えた美代が男の方へ走っていく。男は、門の向こうにいる。門の向こうが見える位置まできた。
―陽輔くん―。
男は、陽輔に何かを渡そうとしている。「陽輔くん。駄目よ、こっちに来なさい」
「大丈夫だ。すぐ終わる」男は短く断った。
美代の周りに風が吹き出す。
「なに…」つむじかせ風のように感じて、美代は顔を隠した。ちぎれた葉が舞って、美代の間をすり抜けていく。陽輔がこっちに走ってくる。また、突風が起こる。陽輔が美代の前までやってきた。
「よかった。駄目よ、知らない人のところにいっちゃ…」ほっと安心した、美代が微笑むとポケットから覗いた写真がヒラリと零れ落ちる。
そして、ひらひら、と地面に落ちた。
写真が地面に落ちる。
陽輔くんが、こぼれた写真をゆっくりと手に取った。
「お前が持っていたのか!」高橋が大きな声を出した。
「なーに、これ、」陽輔が拾い上げた。
陽輔に一瞬何かが起こったように見えた。陽輔は拾い上げた写真をじっと手にしている。写真と陽輔が、アナログテレビの画面ノイズのように、美代の視界の中で乱れる。まるで、トリック映像を見るかのような感覚。「えっ…」美代が目を擦る。再度見つめる美代の目に衝撃が走る。陽輔自身が、ほとんどノイズに消されて、何かわからないような姿になっている。
陽輔の後方から、高橋がその姿を見つめている。そして、ゆっくりと陽輔に近づく。
陽輔は自分自身の体の異変に感じていた。「お姉ちゃん…なにこれ、怖い。助けて」恐怖を感じている!陽輔が美代に助けを懇願している表情がノイズの中に、見え隠れする。
「陽輔くん!」美代が叫び、陽輔に触れようとした。突風が吹いて美代は吹き飛ばされる。数メートル飛ばされ、もんどりうって倒れた美代は、額を打ち付けて、青あざをつけながら、陽輔を見上げた。陽輔自身のノイズは消え、風が渦を巻いて陽輔を取り囲んでいる。陽輔の目が段々と青く光りだす。高橋が近づいている。
「どうしたの…助けて…お姉ちゃん…」陽輔が声を震わせている。風が起こる。突風は、陽輔中心に風が取り巻くように起き、台風の目のようになることにより、発声しているのが分かった。「キャー」美代が再度、吹き飛ばされて、ブロック塀に頭をぶつけた。美代は視界がゆがんで見えた。
依然、陽輔は風の中心にいた。
陽輔がその中心にしゃがみ込んでいる。
風は止まない。
今度は体が青白く光り輝く。
「陽輔…」美代は薄らいでいく意識の中で、手を伸ばした。陽輔も手を伸ばす。その姿が見えなくなるほど、光輝いて、一気に風とともに光が炸裂した。美代は今度は、五メートル以上吹き飛ばされた。朦朧とする中、陽輔の居た場所の地面が大きく抉れているのが見えた。―消えた―。「ようすけ…く…ん」美代の意識も消えた。
保育所のベッドで目を覚ました美代は、亜理紗が近くにいるのを見て、すぐさま、周りを見渡した。陽輔が同じようにベッドに寝ていないか確認したのだ。しかし、寝ているのは自分だけで周りのベッドには誰もいない。もともと、更衣室には大人用のベッドは一つしかなく、自分がその更衣室で横になっていることに気付いた。
「陽輔くんは、陽輔くんはどうなったの?」美代は飛び起きて、亜理紗につかみかかるように訊いた。
「大丈夫?やっと気付いたのね…」亜理紗が優しく気遣うように逆に問い返した。
「大丈夫よ。それより、陽輔くんは?ねえ、大丈夫だったの」
「何言ってるの美代。あなた、いきなり門の外に走って行って、帰ってこないから、見に行ったら倒れたのよ。びっくりしたんだから…」
「違う!私、あの怪しい男が門にいたから、まさかと思って、走ったのよ。そうしたら、案の定、陽輔くんがそこにいたのよ…それから…」
「ちょっと待ってよ。怪しい男?陽輔くんって誰のこと言ってるの?」
美代はたじろいだ。―私は何かおかしいことを言った?―
「亜理紗、何言ってるの、陽輔くんよ」
「だから、誰よ陽輔って…」
「陽輔くんよ、あのやんちゃ小僧よ。怪しい男が来たじゃない…園長先生も来て…」
「知らないな、どの子のこと言ってるの?その子、どんな子?」
美代は亜理紗がふざけているかと思ったが…口調に、そんな風はない。
「何言ってるの、あのワンパク陽輔くんじゃない、いつも子分を引き連れて、いつも私の紙芝居の前に陣取って…もう、冗談は止めてよ…」
亜理紗はきょとんとした顔をしている。「知らないなぁ。うちの保育所にそんな子いたかなぁ」
「ちょっと…」美代は血の気が引いた。「そんな、からかわないで、止めてよ亜理紗!」
「からかってないわよ。美代こそ、どうしたの、どこか頭打ったんじゃない」
「そんな訳ないでしょう。もう、自分で訊くわ!」
「まだ、寝ていたほうがいいよ」亜理紗の制止を聞かずに美代は更衣室を飛び出した。
美代は胸が締め付けられるような不快感を感じながら、遊技場の隅から校庭の隅まで歩き回った。いつも一緒にいる子供達にも訊いた。職員室で、正規の先生や、先ほどの高橋の対応をした園長先生にも訊いた。「もう、大丈夫なの…」と声をかけられるだけで、陽輔のことは誰もわからない。
義母の立花さんにも電話しようとしたが、立花陽輔、立花夫妻自身の連絡先が保育所のリストに存在しなかった。
―誰も、陽輔くんのことを知らない。―いや、陽輔くんが存在していない―。
美代は職員室にやってきて、椅子に座ってうな垂れた」
亜理紗が心配そうにやって来た。「ちょっと、美代!いったい、どうしたのよ」
「…陽輔くんがいない…」―亜理紗に言っても仕方ない―。
「わかったわ、探してあげるから、でも、美代、あなた、今訊いてきたと思うけど、その子は、日溜保育所の子じゃないと思うわ。あなた、疲れてるんじゃない…、なにかとごっちゃになってるのよ」
「そんなんじゃないんだ…」
「なら、何、夢と現実が混ざってるんじゃない…」
皆が知らなくて、私だけが知っている。陽輔がいなかったことになっている。いや、いた形跡が亡くなっている。私がそれを言っても、誰も信じない。嘘を言っているか、頭がおかしいと思われるだけだ。美代は、陽輔のこと、口を閉ざすことにした。
「多分…疲れている。亜理紗…ごめん。私、帰って、ゆっくりしてみる…」
「うん、それがいいわ。送るわ…」
「大丈夫。一人で帰れるわ…迷惑かけたわね。ごめん…」
マンションに戻った美代は、ベットに横たわりながら頭を抱えた。
―どうして、誰も覚えていないんだろう―
保育所の誰もが知らない。そして、結局、亜理紗も…心配して、マンションまで送ってくれたぐらいだ―。私が、ただ、門の外で倒れたことになっている。あの突風も異常現象も誰も覚えていない。
保育所にいる全員の記憶が全くない。事実すら消えている。―陽輔くんの存在自体、あの男と、あの突風の現象までが、全て私の幻想だったのだろうか、亜理紗の言うように本当に疲れているだけなのだろうか―。もしかして、世の中のそういう不思議な体験を語る人たちのほとんどは、私のように幻想を見ているのだろうか、私はただ、それが現実に引き戻されただけなのだろうか…。
「疲れているのかな…」美代はベットで頭を抱え、壁を見て眼をつぶった。
確かに、昨日は大変だった…どこかで、自分の頭の中がおかしくなったのかもしれない。幻や…夢とかが…全部がごっちゃになって…あの写真も幻なのだろうか…、そういえば、ポケットには写真がなくなっていた。
―写真、やっぱり、そんなものなかったのかな―。
―私、大丈夫かな―。
寝返りをうって、部屋を見渡した。
机の『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の皆が映っている写真を眺めた。
「よかった。お店まで幻だったら、私、もうおしまいかも…」そう、呟いて、視線を巡らす。クマのぬいぐるみが無表情で励ましてくれる。その奥に視線が向く。
服がハンガーにかけられている。「そうか、部屋干ししたんだ…」ハンガーに掛けられている服、デニムの小さな服―
―デニムの小さな服―
美代はがばっと立ち上がった。下の階の住人の気になどせずに、床を踏みつけて、ハンガーをむしり取るように、手元に引き寄せ、デニムの生地が破けるかというぐらいにぐっと手で伸ばして見つめた。
「違う、なんで、ここにこれがあるの…私が夢を見てるんじゃない…忘れているんだ。皆のほうが忘れているんだ。全部忘れている。なかったことになっている。ここにこれがあるということは、全部、本当のこと!」
どうする?
美代は一つ、考えが浮んだ。そうだ、昨日も不思議なことがあった。
―日高教授とお爺ちゃんが一緒に写った写真―。
美代は陽輔くんが消える瞬間を思い起こした。
―美代のポケットから写真がヒラリとこぼれ落ちた。そして、陽輔が写真を手に取った。陽輔の姿にノイズが走って、陽輔の助けを求める表情がまぶたに思い出される。
陽輔が叫び風が起こって、私は壁に激突した。陽輔が光輝いて、風が炸裂する。
そう、あの時、写真がポケットからヒラリと零れ落ちたのだ。写真を拾って―。
美代は、デニムの上着をぎゅっと握り締めた。
「そう、写真だ。多分、写真が原因なんだ…陽輔くん、絶対に助けるからね」
美代は勢いよく立ち上がった。
「亜理紗に話しよう」扉を開けて、亜理紗のところに…いや、さっきまで、私の言っていることを信じていなかったんだ。たとえ、このデニムの上着を見せたところで、私の言っていることを信じてくれるか分からない。
「浩太に訊く?…でも、どこにいるんだろう。…日高教授の方がいいかも直接…本人に訊こう」美代は決めた。鞄に陽輔の上着を詰め込むと、鏡も見ずにマンションを飛び出した。
「美代!」
エレベータを降りた時、美代は呼び止められた。偶然にも、そこに私服の粕谷浩太が居たのだ。似合わない私服に、よくわからないチームの帽子を被っている。
「浩太…」美代は浩太に相談したかったが、ここで、浩太に陽輔くんのことを話して信じてもらえなかったらと不安になった。下手をすると部屋に逆もどりだ。ゆっくり寝た方がいいなんていわれたら動けなくなる。
「美代、保育所に倒れたんだって大丈夫かい。亜理紗に電話をもらった」
「そう、私は大丈夫よ。ちょっと、出かけるところなの…ごめんね」
「大丈夫か、ゆっくりした方がよくないか…」
思ったとおりだ、保育所で倒れたんだ。普通、心配してくれるのは当たり前。どうせ、亜理紗と同じで、浩太も、陽輔のことなど覚えてるはずがない、話したところで理解してもらえないだろう。
「美代、悪いんだが、昨日の写真、持ってるだろう。返してくれないか?」
「写真?」
「昨日、あれから、叔父さんのところへ行ったんだ。あの写真があると厄介なことを巻き起こすかもしれないって言うんだ。だから、叔父さんのところへ返さないといけない。あるだろう。俺、どうも美代の部屋に忘れたみたいなんだ。叔父さんが厄介なことって言うし、美代が倒れたって訊いたから焦ったよ。良かったよ。美代が無事で…」
美代は悲しくて涙がこぼれた。
「どうしたんだ。何、泣いてるんだ」
「無事じゃない…浩太、陽輔くんが消えたの…」
「陽輔くんって、この前、ソフトクリームを食べていた子だろう。料理人になるとか偉そうなこと言ってた…消えたって、居なくなったのか?」
美代は、浩太の顔を見つめた。
「浩太、覚えてる…陽輔くんのこと…」
「あぁ、覚えてるさ、いなくなったなら大変だ。探さないと…」
「よかった。浩太、覚えてるんだ。よかった」美代は大きな声で叫んで、口を押さえた。亜理紗が出てくるとややこしいことになる。
「どうしたんだよ、いったい、何があったんだ?」
「訊いて浩太、消えたのよ、誰も覚えてないの。陽輔が存在しなくなったの!高橋昇治が現れて、陽輔に何か渡したの、その後、あの写真よ、あの写真を陽輔が手にしたの、それで信じられないんだけど、陽輔が光り輝いてその後、消えたの、存在しなくなったの…」
「そんな馬鹿な…」浩太が呆然として聞いた。
「本当よ。亜理紗も、保育所の誰も知らないの…陽輔くんのロッカーも、荷物いれもなくなった。園児のリストからも消えた。陽輔自身が存在しなくなったの…」
「もっとよく聞かせてくれ、写真と関係があるのか?」
「分からない…あの写真…あの写真を陽輔くんが手にしてから変になったの…、陽輔くんから凄い風が吹いて、物凄い光輝いて…私、飛ばされて、壁に頭を打ち付けて気を失った」
「写真…まさか、『叔父さんと小松良明』の写真がか…」
「そうよ」
「…厄介なことになるとは、このことか!叔父さんが言ってた。あれは、俺達が持っていてはいけないって、厄介なことになるって…俺、美代からその写真を取り返そうとしてここへ向かってたんだけど…、途中、亜理紗から美代が倒れたって訊いて、美代に何かが起きたと思った。厄介なことかと、心配で急いで来たんだ」
「浩太。私は大丈夫。陽輔くんを助けよう。陽輔くん、『助けてって』風にさらわれていなくなった。陽輔を助けよう」
「…あぁ、当然だ。陽輔を助けるんだ」
「写真、美代、写真はどこにある?」
「…ないわ…陽輔くんが最後まで手に持っていた…多分、そのまま消えたと思う」
「陽輔んはどこに行ったんだろう」
「私も、それを訊きたい…」美代は、自分が今からどうしようとしてたかを話した。浩太は大きく頷いた。浩太と美代は、八阪大学のある北千里へ、電車に乗って向かった。八阪大学の教授錬へ迎った。日高馨に会うために―。