愛しのハンバーグ
『ベストグルメ』、最終三次予選がスタートした。全一六チームは、素人のオリジナルハンバーグ、飲食店の料理人、本格シェフまで、書類審査で勝ち残ったチームが集合した。その会場には、浩太と美代が『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のコックコートに身を纏って立ち向かっていた。
「貴士、残念だったな。ハンバーグがお題で…」雅人が予選会場の大きな調理場の外に集合した貴士に声をかけた。
「イタリアンなら、俺と浩太で出させてもらうよ。ハンバーグなら、美代ちゃんの腕には誰も勝てないよ。不思議なんだよな…」
「え、なにがさ」
「あの皆が集まって食べたハンバーグ。同じハンバーグのはずなのに、格段に上手かった」
「そうだな、更にレベルアップしてたな。何があったんだろう」雅人も気付いていた。
「ハンバーグ娘ですから」亜理紗が一言で片づけた。
予選は一時間のクッキングバトル。出来上がったハンバーグは見た目、味、で判断される。一時間の戦いは、あっという間に終わり、浩太も美代も皿に全ての力をこめた。満足した顔で終えていた。
貴士や雅人が考えたように、二人の料理が格段にレベルアップしてるのは間違いなかった。『洋食屋たいら』で考えられないくらいの沢山のハンバーグを焼くことで、今まで気付かなかった美味しい焼き方を会得した美代。盾涌工場、盾涌食堂の料理を全て作り上げたことで、料理の腕前が格段に上がった浩太。それに、貴士や雅人、全員で作った沢山のソース、その中で一番に選ばれた貴士のハンバーグソースが加わり、格段に進化していた。
「優勝は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』」名前が呼ばれ、二人は、皆が見守る中、ガッツポーズを取った。なんと、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は、一次、二次を通して、四十八チームの中、唯一、予選を満点で勝ち進んだ。
「さすがだぜ、あの二人」雅人が貴士と手を取って喜んだ。調理場から出てきた二人に三人が駆け寄った。
「次だぞ、頼むぞ。浩太」貴士が浩太をハイタッチで迎えた。
「あぁ」
「浩太、新『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に続くように!」
「あぁ、いよいよ決勝だ」
予選を通って、決して浮れた状態ではなかった。二人は更に決意をもっていた。
予選会場に日高馨はいなかった。となると、勝負は、決勝。
「皆にプレゼントがあるの」亜理紗が、ペンダントを五つ持ってきた。
「なんだい?」
「どうぞ」亜理紗は一人ずつに渡した。
浩太が、ペンダントを見た。「看板?」閉店した『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の木彫の看板。その破片が入っていた。皆、それを強く握った。
「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の看板の一部分よ!」亜理紗が言った。
五人はそのペンダントを見つめた。
グランプリ当日。テレビ局に入った『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の面々は、そのスタジオの凄さに圧倒された。華やかなステージ、広い観客席、開放的なキッチン、カメラが何台も向けられている。こんなところで調理をしたことなど一度もない。美代はゴクリと唾を飲み込んだ。さっさと打合せは終ってしまい、あっという間に本番になった。打ち合わせでは居なかった観客がびっしり入ると、恐ろしい程の圧倒感が漂い、足が、がくがく震えてきた。浩太は、美代の腕をギュッと握った。美代が見つめる浩太の足も、震えていた。
「浩太、この試合…が勝負…」
「あぁ、そう考えるのが普通だな…」
「私、これが最後になるのはいやよ」
「大丈夫だ、俺がいる。絶対に優勝する…」
会場の裾に、予選を勝ち抜いた三組が集まっていたのだが、離れて待機していたため、美代たちは、他の二チームを見ることが出来なかった。浩太と美代は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のコックコートを着て、大きく息を吸い込んだ。観客席には、店を応援してくれる常連のお客さんや、保育所の子供達、なぜか小松食堂の面々、御来屋の主人がいた。
「美代の婆ちゃんやお母さんも来ているじゃないか。それに『御来屋』のおっちゃんもいるぞ…」浩太が囁いた。
「そうね」美代は顔を上げて浩太を見つめた。「絶対勝つ!」自分に言い聞かせた
「あぁ、俺達の『究極のハンバーグ』を作ろう」
マイクのボリュームが入り、テーマ曲が鳴り響いた。
タラタララー、ダダー。
ステージ中央から、司会の神幸さんと女性アナウンサーの長谷部かおりが現れる。
番組が始まった。二人のアナウンサーがステージの両端から現れ、中央で合流する。
「それでは、皆さん、お待ちかねの、『ベストグルメ』の時間が始まりました」
「司会はわたくし神幸強と…」「アナウンサーの長谷部かおりがお送りします。はい、今日は、凄いですよ」
「今日は、なんの料理なんですか?」神幸さんが、わざとらしく訊く。
「神幸さん、なんと、今日はハンバーグなんです」
「ほぉ、ハンバーグですか、なんとも、我が家で作れそうな感じもしますが、そこはそれ、家庭にも並ぶこのハンバーグが、料理人の手にかかるとベストグルメになるわけですね。どう、ベストグルメになるのか、テレビの前の皆さんもわくわくですねぇ」
「まったくです」
「それでは、参加していただける予選を勝ち進んだ三チームを紹介しましょう」
「はい、お願いします」
浩太と美代は、ADに背中を叩かれた。「名前を呼ばれます。私がもう一度、背中を押したら、すぐステージ中央に上って下さいね」林と書かれたADが二人の後ろに迫った。
ステージでは、二人の司会が端に寄った。「初めのグループは、大阪から来ました『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のお二人でーす。どうぞ」
林に、背中を押された二人はステージに押し出されるように駆け上がった。
「はい、はじめまして、お名前をどうぞ」
美代は背中を押された瞬間に頭が真っ白になった。ステージに上がると、口をパクパクさせている。
「自己紹介ですよ」神幸さんがフォローする。
浩太は、顔を真っ赤にして、美代の変わりに話しだした。「お、大阪で、イタリアンレストランをやっていた『サラ・ドゥ・ピアンゾ』です。今回、店のメニューだったハンバーグを更にグレードアップして、皆さんに食べていただくためにやってきました」
「はい、人気のハンバーグは、山本さんがお店で出し始めたものと訊いていますが」
マイクを向けられた美代は、また、パクパクと口を動かす。「…は、はい」声にならない。
「緊張しますよね」マイクは直ぐに離され、美代は呆然とした。
「実は、お店は現在、閉店しているそうですが、このハンバーグで起死回生を狙っているそうです」
「なるほど、頑張ってくださいね」
「それでは、次のチーム…」
二人は、ADの手招きでステージの裾に再度下がっていった。
「頼みますよ、リハーサルどおりにお願いしますよ」
「ごめんなさい…」美代は頭を下げた。
その時、うぉーという声が後ろで響いた。
「これまた、凄い格好ですね」
司会の二人が声をかけているのは、『ピクティ』の八島社長と丸山だった。美代は、振り向いてステージを見た。ステージの丸山はピクティ人形の格好をしている。うけを狙っているのだろう。もともと、似た体系なので、ぴったりはまっている。がっちり、テレビうけに成功していた。どっと笑いが起きる。八島のオカマキャラもツボにはまっている。自己紹介は完全に持って行かれた格好だ。
「あの着ぐるみ男、俺を助けてくれた男だ…高橋に教われた時、俺を助けてくれたんだ…」浩太は、丸山を見て呟いた。
「訊いたわ、あれは、丸ちゃんよ。『ピクティ』の丸山さん。『洋食屋たいら』で、私と一緒にハンバーグを焼いた人よ。あの時はかなり助けてもらった。料理の腕は本物よ」
「なるほど…まったく関係ない人間ではないということだな…」浩太は、丸山の姿を見つめた。
「しかも、『究極のハンバーグ』を知っている…」
「あいつ自身の『究極の料理』があるということだな…」
じっと眺める浩太に美代が頭を下げた。「ごめんなさい。さっきは、あがっちゃって頭が真っ白になって、何も言えなくて」
「いいさ、あんなので受けても仕方がない。料理で勝負だ」浩太は、美代の肩に手を置いて励ました。美代と浩太は、調理場の方へ向かった。
ステージでは三チーム目が紹介された時、二人は、来るべき瞬間を目にした。
「次は、あの有名な『レジデンス』からやってきた。究極の料理人『日高馨』です。サポートはハンバーグ事業部の主任の『平誉士夫』です」
ステージに立ったのは、『レジデンス』の全体が濃いブルーに包まれたコックコートを着ている、若い姿のままの日高馨と平誉士夫だった。黒い色が締まって見える。
そう、やはり、勝負はこの会場なのだ。ここで、未来が決まる。
日高馨、本人は、神幸さんの質問を全く聞かずに、ただ、じっとこちらを見つめている。そして、横にいるのはイケメンの『焼いてみて屋』の社長、平誉士夫だ。
「平誉士夫は、私に『究極のハンバーグ』を焼いてみせたのよ。あの人は、小松良明の『究極のハンバーグ』を知っている」美代はじっと睨み返した。
「ああ、でも本当に恐ろしいのは、日高馨だ。もし、あの若い日高馨が、昔の叔父さんと同じ料理の才をもっているとしたら、侮れないぞ」
「しかし、考えうる限り最強のペアね。浩太、あの二人に勝てる気がしないんだけど…」
「…いや、勝てるさ。勝たないといけない」
美代は弱音を吐かずにはいられなかった。元の日高教授は一世一代の料理人。今の神幸さんの紹介からも、それは揺るがない。しかも、平誉士夫は、『究極のハンバーグ』を生み出した場所、『洋食屋たいら』のすべてを受け継いだ『焼いてみて屋』の社長である。
ステージ中央では、神幸さんの進行を遮るように、日高馨がマイクを奪って、浩太と美代を指差した。
「俺は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグに勝つためにここに来た。粕谷浩太、山本美代、ここで約束の勝負だ」
浩太は、美代の手を再度、ギュッと握った。
「よく考えろ、美代、お前は『小松良明』にハンバーグを教えたんだ。あいつらの寄って立つのはすべて『究極のハンバーグ』。それは、お前のハンバーグなんだ。お前のがほうが上だ。それに、日高馨が料理を始めたのも、日高馨、すなわち立花陽輔が、美代のハンバーグを食べたからだろう」
美代が、挑戦的な立ち振る舞いのレジデンスの二人を見た。司会の神幸さんが、観客席を紹介した。美代は観客席にある人を見つけ、浩太の耳元で囁いた。「浩太、レジデンスの応援席、あれ、お母さんじゃない」
「えっ」浩太が応援席を見つめると、レジデンスの応援席に、紫のスーツに腕組みをした淵の尖った眼がねをした女性が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「間違いない。母さんだ」
「なんで『レジデンス』側にいるんだろう…」
「まぁ、『レジデンス』を誘致するぐらいだから、応援席にいても不思議じゃないだろう」
「そうね…」
「どちらにしても、俺達は俺達がやるべきことをやるだけだ。今、出来る最高のハンバーグをここで作ろう」二人はコック帽を被った。それは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で浩太だけがつけていた帽子。ここで、浩太と美代は、同じ姿で、お互いに顔を見合わせて頷いた。ステージでは、三チームを紹介し終わった神幸さんが二人の様子をじっと見ていた。
三チームがお互いに中央で、握手を交わすために集まった。全員が全員知った仲である。美代は、チーム『ピクティ』の八島社長と握手を交わす
「とうとう、戦えますね。私は、貴方たちの店があるから、あそこに店を出したんです。私にとってもハンバーグは大事な料理です。今日は勝ちますよ」八島が握手を交わす。
「負けません」美代は応えた。その時に美代の脳裏に浮かんだ子供の姿があった。あの時の、子供、女の子だ。洋食屋たいらでハンバーグを食べた子供、生意気な女の子のような姿だった男の子―あれが、八島社長だったのだ。美代はとんでもない人にハンバーグを振舞ってしまったのかもしれない―。
次に丸山と握手を交わした。「山本の、ハンバーグに今日は勝ちに来たから!」
「一緒にハンバーグを作っていたのが懐かしいわ。私は、あの時の『究極のハンバーグ』の上をいくわよ…」美代が笑った。
「俺も、俺の『究極』に仕上げたよ…」
「丸ちゃんには、負けない!」美代と丸山は握手を深く交わした。
次にレジデンスの二人と対面した。
平誉士夫がニコっと笑う。「僕が勝ったら、デートしてくださいね」
「残念、勝つのは私よ」美代が笑い返す。
「相変わらずの勝気なところが大好きです。レジデンス最強のハンバーグでお相手いたします」
そして、日高馨が美代と対峙した。紺色のコックコートは、力強さと自信を感じさせる。美代は身震いした。日高馨が、美代に握手を求めて手を差し出した。
「ここが、その勝負の場所です。皆とささやかな別れの宴をもてましたか?この勝負までの時間が、せめてもの僕からの贈り物です」日高馨は嫌味なところがすっかり取れて、普通の青年のようだった。しかし、固い決心のようなものを感じた。
「何を言ってるの、私は貴方には負けない」美代は強く宣言する。
「もし、僕が負けたら、もう二度と二人の前には現れません」
「…」美代は唇を噛み締めて、日高馨を見つめた。
「美代さん、貴方はある意味、責任を果す必要があるんですよ」
「責任…?」
「ここにいる皆は、どうあれ、人生の中で、『美代のハンバーグ』を体験している。私は、貴方のハンバーグが今も忘れられない。この平誉士夫も結局、『洋食屋たいら』のハンバーグ、貴方のハンバーグを継承している。『ピクティ』の二人も同じ。それに『小松良明』のハンバーグでさえも結局は、『美代のハンバーグ』の一つの完成系…。皆、貴方のハンバーグの熱意に翻弄されて、それぞれの『究極のハンバーグ』を作り出しているだけ…あなたは、皆のハンバーグの成長を祝福する立場に回る責任がある」
浩太が、日高の前に立ちはだかる。
「日高、違うよ。俺と美代は、ここで、皆に本当の『究極のハンバーグ』をしっかりと見せて、本当の責任を果すんだよ」
浩太は日高に握手を求めたが―日高は握手をしなかった。
「浩太さん、俺は、あんたに料理を教えた日高馨ではない。しかし…よくわかっている。もう一人の日高馨にとっても、『小松良明』は偉大だったんだ。その存在が、『粕谷浩太』自信だと知った時、日高馨は、あんたと本気で対峙した。立花陽輔にとっても、あんたは、偉大すぎる存在だった。だが、今、ここであんたを越えてやる!」
「…陽輔…」浩太は、日高馨の中の本心、立花陽輔自身を見る思いがした。結局、あの陽輔くんと日高馨は一緒なのだ。「自分に料理がしたい」と訴えた、陽輔くんなのだ。
それぞれ三チームは自分たちに割り振られた厨房に散って行った。
「それでは三チームは準備に入ってください」神幸さんが、全員の姿がそれぞれの厨房スペースに陣取るのを確認して号令を発した。
「それでは、初めてください。スタート!」
大きな笛の音が鳴って軽やかなBGMが鳴り始めた。『レジデンス』が『ピクティ』が、浩太と美代が、同時にスタートした。
「それでは、CMの後は各チームの状況を見ていきましょう。それではCMへ…」番組がCMに入って、各厨房が忙しく動き始めた。神幸さんの周りに人が集まって、次の打ち合わせが始まっている。三つのチームはそれぞれに調理に取り掛かり出した。いきなり、神幸さんがステージから外れて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のブースにやって来てくれた。
「本当に来てくれたね。待ってたよ」神幸さんは、山本美代に握手を求めた。
「ありがとうございます」
「あのハンバーグが、どのようにレベルアップしたのか、食べるのを楽しみにしてるよ」「はい、楽しみに待っていてください」神幸さんは、大きく頷くと直にステージへと戻って行った。
それぞれのチームは、それぞれのハンバーグのパティを作り始めている。所詮、ハンバーグ、どうあってもミンチ肉から始まるのだ。しかし、そのミンチ肉に、三つのチームはそれぞれに特色をもっていた。
ここに、それぞれの『究極のハンバーグ』を持ち込んでいる。
神幸さんが、それぞれのチームブースにやってきて、調理の様子を取材していった。
レジデンスは、『焼肉ホルモンハンバーグ』ミンチの肉に焼肉用のホルモンを細かく刻んで、取り囲む。カリカリの外側の変わりに、肉本来の味である、ホルモンで包むことでハンバーグを新しい味へ昇華させようとしていた。飛騨の黒毛和牛のTボーンを中心に美味しいロース肉の部位をふんだんに使っている。豚は金華豚、の肉を粗挽きで共に練りこむ。
パティを作るのは、平誉士夫。美代に負けず劣らず、『焼いてみて屋』の社長は、伊達ではない。彼は『洋食屋たいら』を二人の料理人がいなくなって、大きく育て上げた立役者だった。気の遠くなるぐらい、ずっとパティを作ってきたのである。この無理難題のパティをいとも簡単に仕上げていく。
『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のブースでは、二人が絶妙なコンビネーションで仕上げていく。
「浩太、分かってるわね」
「大丈夫だよ…」
牛肉や豚肉には個体差がある。その肉質の変化は、微妙だ。同じ日に同じように卸された肉の同じ部位でも、固体が違えば、肉質が変わってくる。
美代が自然にパティを作る時に行っている個体差のチェックは、部位の肉質や脂の乗り加減で、肉汁が出る割合をつかんで、挽き肉の割合から、パティをこねる力加減までコントロールできるほどの域に達していた。それは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で、そして『洋食屋たいら』で、一つ、一つ、美味しさを求めて、『究極のハンバーグ』のパティを毎日、毎日作っていたから身に着いた技だった。
そして、手語ねの域も神がかり的になっている。均一にすることはもちろん、空気を絶妙に抜き取り、肉汁が閉じ込められるように脂分を包み込む。特に、和牛の脂は溶けやすい。手の温度で簡単に解けてしまう。洋牛から和牛に変えた時に全てのやり方を変えた。五十年前の『洋食屋たいら』では、和牛しか手に入らなかったからだ。だから、今回の素材は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で使う洋牛とは違う。国産黒毛和牛と金華豚のミンチを使っている。
浩太は、美代がパティを絶妙な加減で作るように、美代の様子を確認して、ソースを変化させるようにしていた。『小松食堂』でお婆ちゃんに鍛えられ、『盾涌食堂』で無心で昇華させたイタリアンシェフとしての能力は飛躍を遂げていた。利尻昆布と、アサリの出汁をベースに、ワインベースで味の利きを変えていく。
美代が幾つかのパティを作り終えた。
「完璧よ。あとは、『こいつ』達を焼くだけ」
「あぁ、俺もソースは決まった」
ピクティは、「牛肉100%で包む粗挽きハンバーグの網焼き」はっきりいって、『洋食屋たいら』で二人が出していた『究極のハンバーグ』そのものだった。丸山が選んだのは、八島社長が食べたいハンバーグ。つまり、幼い八島隆志が、味わったあの味だったのだ。それでも、あの大繁盛の『洋食屋たいら』の味を完璧にコピーできるのは、丸山の超味覚のなせる業だった。それに八島隆志の経験が合さって、見事に再現していた。
とうとう、それぞれのチームのパティが鉄板に載せられていった。焼き始めるそれぞれのチーム。ジューという音を立てて、鉄板から脂がはじけ飛ぶ。
『レジデンス』は、豪快そのものに、ワインを注いで、ハンバーグを火に包んだ。そして、一瞬で蓋をする。「わぁー」という歓声があがった。
『ピクティ』のハンバーグは、外側を100%牛肉で包んでいる。その焼ける匂いが、凄まじく美味しい匂いを拡散する。絶妙な加減で、八島社長が、ハンバーグに蓋をする。それぞれに蓋をかけ、自らの蒸気で蒸し状態になっていく。それぞれが、それぞれにソースを準備していく。
音を立てて、焼きあがるハンバーグ。皿に盛り付けられ、ソースが掛けられる。
「完成です」美代が声をあげる。カメラが向いて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグがアップで映る。そう、これは、紛れもない、『美代のハンバーグ』である。なんの変哲もない見た目は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグだった。
次に丸山が手をあげる。「完成しました」ピクティのハンバーグも完成した。ピクティのハンバーグは、完全に、『洋食屋たいら』のハンバーグをコピーしていた。デミグラソースが改良されていて、更に深く、美味しい味の強さをつけている。
最後に、誉士夫が手を上げる。レジデンスのハンバーグも完成した。見たこともない、小さく細切れにされたホルモンが焼ける匂いに、焼肉ソースが深い味わいを出している。
審査員の五人による。それぞれの味見が始まった。
まずは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグが振舞われる。
「オーソドックスなハンバーグですが、ハンバーグ本来の味の追求を極限まで行っています。外見は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で出されていたハンバーグが基本です。『小松食堂』の味を利用した、隠し味が入っています」
次に、ピクティのハンバーグが振舞われえた。
「『究極のハンバーグ』です。ソースはオリジナルです。幻のハンバーグを独自のルートで調査して、実現した。パリパリとジューシーが両立する完全無欠のハンバーグです。網焼き風なのは、牛100%の細いペースト状にしたパティを巻きつけているから出来る、カリカリの食感を楽しんでください」
最後は、レジデンスのハンバーグだ。
「レジデンスは、焼肉風味の肉本来の味を引き出すハンバーグ。パリパリ感を新しい概念で、ホルモンと上質のロース肉の部位をパティの表面に集めることで、肉本来の脂で挽き肉の脂を閉じ込めた。味つけは焼肉ソースをベースにしたガーリックとワインで煮詰めたガツンとしたソースです。焼肉風の味を連想させる新感覚ハンバーグ。斬新な味でありながら、ハンバーグが肉であることを思い出させてくれます」
審査員の五人は、それぞれにハンバーグを試食しだした。
『ピクティ』のハンバーグと『レジデンス』のハンバーグは、五人とも食べる前から、眼をつけていた。五人が率先して口に運ぶ。『ピクティ』のハンバーグを、おいしそうに頬張る審査員。『レジデンス』のハンバーグを頷きながら食べる審査員。「ほぉ、これは、いける。凄いなこれは…」そんな、声が聴こえた。
審査員の皆が最後に食したのが、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグだった。
神幸さんは、一口食べて、美代をじっと見つめた。何かを言いたそうにして、さらに食べ進んだ。
他の審査員も『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグを食べ始めた。それぞれが、お互いを見て、頷いたり、「うーん」と唸った。
審査員が、一通りに食した後、それぞれの得点を記入したボードが回収された。
神幸強とアナウンサーの長谷部かおりは、集計表を手にした。
「点数は、それぞれ、10点、5点、1点をチームに割り振る形になります。だから、最低点は、5点。最高点は50点ということになります」長谷部の説明のあと、会場が暗くなり、ドラがならされた。
神幸さんの司会の元、これから、順位が発表される。
「それでは、まず三位から、発表します」
ドラが響く。
「三位は13点で…『ピクティ』です」
ピクティの丸山は、天を見上げた。その表情は悲しそうだった。「くそー、究極のハンバーグだったのに」丸山は呟いた。
八島は、丸山の肩を叩いた。
「いいわ、あなたは、頑張ったわ。悔しいけど、自分達の料理を出せなかったのが敗因かもしれないわね…。丸山、あんたは、よくやったわ…あのハンバーグは美味しかった。」八島が珍しく丸山を褒めた。
「社長…」丸山は嬉しそうに笑った。皆が拍手で、ピクティを暖かく讃えた。しばらく、その拍手は止まなかった。神幸さんは、拍手を続ける音が止む前に、そのまま更に続けた。
「そして、一位と二位を同時に発表します」
ドラがまた、響く。
「私も悩みました。本当にどのハンバーグも美味しかった。でも、この中から選ばないといけないのです。それでは二位は!」
ドラが響く。
会場はしんとして、結果を聞こうと耳を澄ます。
「二位は、『レジデンス』 17点…、そして、一位は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の満点50点です」ファンファーレがなって、浩太と美代の周りが輝き出す。そして、拍手大喝采が起こる。
神幸さんが、審査員の一人に訊いている。
「飾り気がないのが、功を奏したといいたいのですが、それ以上に美味しかった。他の二つのハンバーグは、肉汁を閉じ込めることに集中しています。それも工夫をしている。しかし、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグは、この肉汁が美味い。肉本来の美味さを極限まで引き立てている。ソースなしでも美味しいぐらいだ。それでいて、このソースはそれを分かっていて、味つけされている。こんな美味しいハンバーグは食べたことがない」
「そうですね、他のハンバーグは凝っているんです。よく考えたなと言う気がします。本当に美味しいです。しかし、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグはハンバーグ自体が美味しすぎる」
好評価が次々に論じられ、二人は皆の前で拍手で迎えられた。
「浩太…」美代は浩太を見つめて喜んだ。
「あぁ、大丈夫、信じて、作ったからだよ…」
二人は肩を抱いて喜んだ。観客席からは、ひやひやしていた雅人が「あの二人やったよ…」と貴士の肩を叩いて喜んだ。貴士も口元を緩める。
お婆ちゃんも涙を流して喜んだ。「爺、やりよったぞ、あの二人が…」
「それでは、改めて、優勝はサラ・ドゥ・ピアンゾのお二人です!大きな拍手を」
会場が割れんばかりの拍手で包まれる。
涙する亜理紗、お婆ちゃん、雅人と貴士。『御来屋』の岡坂。
美代は浩太と手を取り合って喜んだ。
八島と丸山は力を振り絞ったものとして、心地よい敗北感を得ていた
そして美代に歩み寄り手を差し出し、握手を求める。丸山は美代と硬く握手を交わした。
「おめでとう。最後の最後まで諦めない勝利だな。あれはどんな魔法をつかったんだ」
「魔法じゃないわ、一つの料理を皆が、必死で応援してくれたからよ。あのハンバーグには、みんなの思いが結集してたのよ。絶対に美味しく食べてもらいたいっていう思いが…」
八島が浩太の手を握って祝福した。
「さすがだな、あのハンバーグには、あのソースしか考えられない。それに、あの微妙なパティのさじ加減、パティを小さくさせたんだな」
「そこまで見てましたか?」
「あぁ、あれは、『小松良明』の手だな…」
「そうです。良明…『小松良明』にも、このハンバーグに参加してもらいたかったんで…」
「参った…、どれだけ勉強してるんだ。勝てない訳だ」
レジデンスの日高馨は天を仰いだ。会場では、今、彼らが作ったハンバーグが振舞われていた。この最後の試食になって、日高馨は、ハンバーグを求めてさまよった。浩太と美代のハンバーグを探して彷徨った。そして、それを見つけた。
日高馨は、ゴクリと唾を飲み込み。
フォークを刺して、一口食べた。
「凄い、さすが美代さんだ。それにさすが浩太…」ゆっくりと頷いた日高馨は会場から、ゆっくりと姿を消した。
「日高馨…」美代は不意に思い出して辺りを見渡した。浩太も同時に気になっていた。二人を取り囲む人の群れの中で、浩太と美代は、日高馨を見つけた。
二人は追いかけた。
美代は、目の前の『ピクティ』の二人をかき分けて、レジデンスのユニフォームを着ている日高馨…立花橘輔を追った。うなだれた様子で、日高馨はひっそりと舞台裏へ消えようとしていた。その姿が少し色を失っていくように見える。
美代と浩太は、その姿を追いかけた。大きな拍手が美代と浩太を包む。
―駄目よ、日高馨―、―駄目よ、陽輔―、あなたにまだ訊いてないことがあるのよ―。
浩太は、日高馨の姿を見て確信していた。
「美代、消えかかってたぞ、あれは、…俺達と同じじゃないのか!」浩太は走りながら、美代に呟いた。
「消える。そう、過去に行った。丸ちゃん、私、そして、浩太、みんなそうなって、現在へ戻った。陽輔も、同じように未来へ帰る。もしかして、陽輔は、もっと未来から来たのかも…」
「そうだ、そうなんだ…」浩太と美代は走った。
―駄目よ。まだ消えちゃ駄目よ―。
美代は追いかけた。
スタッフや観客が総立ちで拍手で迎える中、彼が消えた舞台裏へ走って行った。
「トイレでも我慢してたのかなぁ」丸山が間の抜けた感想を口にした。
舞台裏では、表に集まったスタッフと反して、全く、人っ子一人いない状態だった。そこに、日高馨はまっすぐに背を向けて立っていた。美代は、追いついた足をゆっくりとした歩みに変えて、近づいた。
日高馨はゆっくりと振り返った。
「おめでとう。やっぱり、ハンバーグでは勝てなかった。美代さんのハンバーグは世界一だ。改めて感動したよ」
「ううん。皆のおかげだよ。これが、あなたのいう偶然がつむぎだしている奇跡のおかげだよ。あなたは、さっき、責任といったじゃない。偶然に責任なんてないのよ。私達は必然の連続なのよ。ハンバーグが皆を繋いでる。これは偶然なんかじゃない、必然だよ…」
「必然か…。僕が美代さんのハンバーグを食べたのも必然なのかなぁ」
「当たり前でしょう」美代は日高馨の姿が、薄くなっているのに躊躇った。
「必然か…」
陽輔は、涙を拭いた。
「あなた、姿が消えかかっている。どういうことなの?」
「美代さんや、浩太と同じみたいだ…消えてしまいそうだ」陽輔の体が段々と薄くなっていく。
「消える…また、時間を超えるの?あなたは自分で時間を操れるんじゃないの!」
「僕は、自分の意思とは別に時間を超越する時があるんだ。今回は自分の意思じゃない、もしかしたら、これが最後…今度で終わりのような気がする」陽輔は寂しそうに言う。
「終わり…もしかして、あなたは、戻りたいって思ったの?」美代が訊く。
「僕が、美代さんのハンバーグを食べたのは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が最初じゃなかったんだ。今日食べたハンバーグの方が、格段にそれに近い…」
「えっ」美代は驚きとともに、何らかの確信を得ていた。―やはり、そうなんだ―。
「浩太が、過去に言って、自分とあなたのことを忘れた。あなたは過去に行って、ハンバーグを食べさせたいということを忘れた。そう、僕も忘れていたことがあるんだ」
「忘れていたこと…それは何?」
「過去に行くと、大事なことを忘れる…僕がまだ、立花陽輔だったとき、その立花陽輔の前のこと。小さすぎて忘れていても当たり前なんだけど…思い出したよ…僕は捨てられたんじゃなかった」
「やっぱり、あなたも過去に来ていたということなのね…」美代が問い返した。
「そうみたい。でも安心した。僕が忘れていたことは、二人と同じように、大事なことだったんだ」陽輔の手は薄く淡く、透け始めている。
「陽輔…、あなたは、誰なの?何を思いだしたの、教えて!」
「ずっと、怖かったんだ。三歳の僕が、大きな城の下で一人で立ち尽くしていた。誰も僕のことを知らない。そして、僕が誰なのか分からない。そして、この手に宿った悪魔のような力。これを自分自身のために使わないように、自分の理性を縛り付けて…。自分がトラベラーだということが分かった時、それを自分の大事なことを思い出すために使いたかった。また、大事なもののために使いたかった。あなたが、僕のことを覚えていたことを知った時、分かった気がしたんだ。自分の理解者を得た気がしたんだ。だから、あなたをどんな手を使ってでも手に入れたいと思った。でも、それは、間違いだった。手に入るはずはなかったんだ。だって、僕にとって、別の意味で大切な人だったんだから…」
「別の意味?」
「そう、美代さんにとって、『小松良明』のように…」
「もしかして…、そんなこと…」美代は陽輔に近づき、肩を捕まえようとした。
「どうやって、ここに来たの?来たときのことを教えて…」
陽輔は思い出そうとして目をつぶった。
「気が付いたら、大阪城の見える路上に横たわっていたんだ。不安だった。何が不安だったかなんて、多分誰にも分からない…」
「…私にはわかるわ…」。
「そうだね、僕が過去に連れて行ったんだから…」
「陽輔…」美代は、陽輔の肩を掴んだ。
「美代さんと会えた時に感じたときめきが嘘だとわかると辛さだけかと思ったけど、こんなにうれしいものだと思えるとは…あぁ、これで、戻れる…」
涙が陽輔の頬を濡らす。
「一つ、嘘を言ってたんです。気付いてるでしょうけど、美代さんだけ、記憶が消えないと言ったんですけど、もう一人、完全に記憶が残っている人がいるんです」
「浩太のことね…」美代が答える。
「そう、美代さんは、ずっと不思議がっていましたね。僕も運命だなんて、思ったりしましたけど、そうじゃなかったんだ」
「それは…」
「美代さんが、浩太の記憶を失わなかったこと、僕と恋に落ちない訳…僕と恋に落ちるわけがないんですよ。美代さんが、浩太のことを忘れるわけがありませんよね。だって、二人が想いあっていなかったら、僕は存在しないんだから…」
光が眩しくなっていく。
風がうずを巻きだす。
「陽輔は、僕の本当の名前なんです」
陽輔の色が薄く、薄くなる。
美代が陽輔の顔をじっと見つめる。
―首筋のほくろ、浩太と同じ。
―自分にそっくりだと言われた。
―叔父さんは、なぜか、血がつながっていないっていうのに似ているってさ―
―美代さんのハンバーグを食べたのは『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が最初じゃない
―ハンバーグが大好き―
そのほつれた糸が結びついた。
ここにいるはずもない、そんなことが分かるはずもない。
ほつれた糸は、絡まって、悲しく切なく絡まる。
美代は、切ない気持ちが胸に湧き出てきた。
「やっぱり、あなた、そうなのね…」
陽輔の体が更に一層薄くなっていく。
掴んでいた肩においた手が宙を切った。必死で、陽輔の手を掴む。
―駄目だ。掴めない。
―陽輔をつかめなくなった。
―陽輔の体が見えなくなっていく。
「偶然じゃないんだ。良い事いうなぁ。これって、必然の連続なんだね。だから、希望もあるし、夢もあるんだ。『諦めたら駄目なんだね』。さすが、お父さん…」
美代はゆっくりと陽輔がいるべきところを抱きしめた。
―このまま、陽輔を消したくなかった―。
「僕のことは、僕が消えたら何もかも忘れてしまうと思うから…」
「駄目よ、覚えてるわ…だって、あなたは…」
美代は、陽輔の手を取ろうとして、触れられない手をつかもうと必死になった。
陽輔は、虚ろになった幻影のような姿になって何かを言っている。「…もいいですか?」と言葉が聴こえない。
美代は大きく頷いた。
陽輔は薄れゆく意識と存在の中で、美代の心の中に響く声で、空気に染み込むような静かな声で言った。
「お母さん…、ありがとう」
「…陽輔…」
美代は、目の前にいるのが、誰かを知った。
彼は、ずっと、忘れてはいけないものを忘れていた。
美代のことを、愛しく思っていた。
そして助けてもらいたいと、ずっと発信していた。
母の愛をずっと求めていた。
ずっと、苦しんでいた彼の心が感じられ、ぶわっと涙があふれ、目の前が見えなくなった。
そして、狂った母親のように、つかめない陽輔を必死でつかんだ。
手元に手繰り寄せようとした。
「…」声にならない陽輔の声を聴こうとして虚を抱きしめた。
どうして、こんなに切なくて苦しいんだろう。
どうして、気付かなかったんだろう。
全てが分かったいまでも、どうすればよかったかも分からない。
そして、この、悲しさごと全てが忘れ去ってしまうのだろうか…
浩太のときのように覚えていないのだろうか…
陽輔の姿が消えた。
美代は、ペタンと地面に座りこみ、身動きが取れなくなった。
がやがやと騒がしい声が、会場の裏にも聴こえてきて、浩太が走ってやって来た。
「美代、どうしたんだ。いきなりいなくなって…」
振り向いた美代は、泣いていた。しかし、美代には、なぜ自分が泣いているのか分からなった。
「どうした、」狼狽した浩太が美代の側に駆け寄った。「何があったんだ?」心配そうに覗き込む。
「分からない、悲しいの、なぜだか分からないけど、悲しいの…とても大事なものを無くしたみたいに悲しいの…」
浩太は美代を抱きしめた。美代はいきなりの抱擁に驚き、身をそらそうとしたが、浩太の首筋のほくろが見えた。なぜだか、美代は抱きしめたい衝動に襲われ、浩太を抱きしめかえした。
それから、うわんうわんとしばらく泣いた。
陽輔の立っていた場所には、レジデンスの服を着た、高橋が立っていた。
「…」「今、俺、何か言おうとしてた?」高橋がきょろきょろと辺りを見渡す。
「ううん、多分、あなたじゃない、」美代は応えた。
「…でも何だったんだろう」美代は何が起きていたのか、思い出せなかった。
会場の『レジデンス』の応援席で、浩太の母、知子は声をあげた。
―あのピクティを買いなさい―。
「優勝したのは、お子さんじゃないですか、なんで、あの『ピクティ』を買うんですか?」
「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』をいきなり大きな店にすることは出来ません。あの『ピクティ』は本物です。あの会社は、まだ小さい!資本を入れてチェーン展開を加速するのよ。息子と、息子の彼女は、その会社に入ってもらいます。わが粕谷グループがレストラン事業に打って出る布石にしましょう」粕谷知子は言い放った。
「社長、『レジデンス』に土地を売るのは辞めるんですか?」
「『レジデンス』に協力するのは、あくまで自社競合がないからです。しかし、たった今、『ピクティ』を手に入れること決めたことで、『レジデンス』は競合会社となりました。契約は破棄しなさい」
「やっぱり人の親ですね」
「馬鹿いってるんじゃないの、これは、ビジネスよ。あんな人材を眼の前にして放置していいはずはないでしょう」
知子は『レジデンス』の応援席から抜け出して、『ピクティ』の二人に出資の申し出をした。
「粕谷グループの社長、粕谷知子よ、八島隆志社長ね、是非、私どものグループに入っていただきたい」
「え、どういうことですの…」八島はいきなりの申し出にびっくりした。
「失礼ながら、あなた達の力を過小評価していたようです。我々粕谷グループは、ショッピングセンターやスーパーセンターをプロデュースしている企業グループです。実は、わがグループには、レストラン事業が有りません。『レジデンス』と手を組むことを考えてたんですが、あなた達となら、より楽しく仕事が出来そうだと思いました」
「是非、話しを詳しく訊きたいですわ」八島隆志は知子と握手を交わした。
丸山は呆然として見つめた。
知子は、丸山にも声をかけた。
「あなたは、エンターテイナーの才能もお有りのようだけど、その才能で『ピクティ』をもっと大きくしてもらえないですか?」
「喜んで」丸山も興奮して大きな声をだした。
舞台裏から、会場に戻ってきた浩太と美代に、続いて知子は声をかけた。
「あなた達、すぐにわが社に入社して、レストラン事業の開拓に乗り出すのよ」
「母さん…」浩太が寂しそうな顔をした。
「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は、『ピクティ』との契約が終わり次第、正式にピクティのレストランチェーンとして復活させましょう。チェーン展開をするのよ。あなたの店をチェーン化するのよ」
浩太は、ゆっくりと首を振った。
「どうしたのよ。あんた達、あの店をやりたいんでしょう」知子は大きな声を出した。
「母さん…チェーンはしないよ。僕らがやりたいのは、そういうのとはちょっと違うんだ」
「どういうこと。私の会社のノウハウを使って、出店攻勢をかけるのよ…」
「それは、八島社長に任せたらいい。今、どうせ、そんな話をしていたんでしょう。俺は、今度こそ、本気で、自分の店をやることを決めたよ」浩太は、美代を見つめた。
その周りには、貴士、雅人、亜理紗が集まっていた。
「何言ってるの、給料ね、給料が欲しいのなら、待遇は特別に考えるわ…」
「違うんだ。お母さん、俺がやりたいのは、あの『サラ・ドゥ・ピアンゾ』…みんなの食堂なんだ…」
「なんでよ。なんで、いつも私のいうことに反対するの!」
「母さん、今度は、母さんに俺の『究極の料理』を振舞うよ。それを食べたら分かる」
知子は、言葉を失った。
浩太は、母の申し出を断って、美代、貴士や雅人、亜理紗、皆を連れて、その会場を後にした。
―数年後―
「ハンバーグは皆、好きでしょう?」美代は元気に子供達に訊いた。
「好きー」「大好きー」合唱が起きた。そう、子供はハンバーグが大好きだ。
ハンバーグを食べる子供達の笑顔と、それ以上に笑顔の美代が笑っている。
あれから、盾涌食堂の跡地に、『小松食堂』から資金を借りて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』がオープンした。盾涌食堂は、お婆ちゃん名義の土地だったので、あっさりオープンにこぎつけることが出来た。
そして、毎週、日曜の昼になると、託児所と貸した『サラ・ドゥ・ピアンゾ』には、近くの子供達が、美代と亜理紗の紙芝居を見るためにやってくる。
奥では、貴士と雅人が仕込みをしている。雅人も新生『サラ・ドゥ・ピアンゾ』では、コック姿で奮闘している。まだまだ、料理の腕は未熟だが―口出しだけは一人前だ。
貴士と、浩太は『小松食堂』のほうも日替わりで手伝うようになった。良一には、二人の師匠ができたことで、張り合いがでて、以外に『小松食堂』で頑張っている。
貴士なんかは、たまに、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で『小松食堂』の割烹着で料理をするぐらい、小松食堂ファンになっている。
天気のいい、水曜日は盾涌食堂の三階のテラスが、浩太の家族の食卓に替わる。
テラスに屋根はなく、青い空が見渡せる。天気がいいので、美代は子供を連れて、料理を並べた。木褐色のニスで塗られたウッドチェアが四脚添えられたテラスのテーブルに、空の雲のような白い皿が並べられていく。男の子は楽しそうに足をぶらぶらとして、座っている。
「おかあさーん」
「なあに?」
「僕ね、大きくなったら、スッゴイ美味しい料理をつくってお母さんに食べてもらうよ」
「へえ、母さん、楽しみにしてるわ」
「本当だよ。絶対、母さんや父さんに負けないぐらい、料理がうまくなって見せるからね」
あの美味しいハンバーグが、食卓に出されていた。
しばらくして、足音が聴こえる。
浩太がやってきた。
浩太は、反対の席に座って、子供と美代に訊いた。
「なに、話ししてたんだ?」
ハンバーグを口に頬張る子供に美代はニコリと笑って言った。
「約束よ、陽輔」
了