表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛しのハンバーグ  作者: 七刻眞一
10/11

最後のサラ・ドゥ・ピアンゾ


 丸山は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』前の公園で眼を覚ました。大きな自分のリュックサックが置かれたままなのに気付いて、それを担ぐと、あわててピクティに走って戻ってきた。へとへとに疲れていた。入り口のピクティちゃん人形にぶつかって、足が外れて、倒れてきそうになった。「あわわああ」丸山は必死で、ピクティちゃん人形を支えた。急いでその足を直そうとして、リュックからファイルと書類が崩れ落ちた。崩れたファイルは、『御来屋』のファイル―、ファイルの中から、一枚の紙切れが入り口の扉の隙間に滑り込んだ。

「あぁ、レシピが」

「ありがとうございました」店員の声とともに、扉が開かれ、お客が出てきた。お客の足元に紙切れが滑り込んでいく。滑り込んだ紙切れを見事に、踏みつけられた。

「あぁ、」大きな声を発して丸山が叫ぶ。お客がびっくりして、踏んづけた紙切れから足をどかした。怪訝な顔をして去るお客を前に、「ありがとうございました…」としゃがみこんだまま、挨拶をした丸山が、紙切れを拾い上げた。「良かったー」と紙をはたいて、大事に懐に入れた。そして、ピクティ人形の足はそのまま入り口に転がされたまま、丸山は飛んで、店内に駆けて行った。

「社チョー、社長」丸山は厨房を覗き込んだが、八島社長はいない…ホールを覗いていたその時だった。後ろから声が掛けられた。

「おい、丸山、しばらく見なかったけど、いったい、どこへ行ってたの。里帰りかい」八島が丸山に声をかけた。

「社長ぉ、社長ぉ、手に入れましたよ」

「うるさいわね。何をよ」

「『究極のハンバーグ』ですよ。究極のハンバーグのレシピです」

「…」八島はしばらく思い出すような仕草をしていた。「あっ、そうか、丸山、あんたに調査するように言ったのを思い出したわ」

「社長、まさか、もしかして忘れてたんですか、僕は一所懸命に、恐ろしい眼にあったりしながら、このレシピを手に入れたっていうのに、もしかして僕のこと忘れてました?」

「…いや、覚えていたよ。あぁ、丸山が来ないなあぁ、ずる休みしてるなぁ、とかそんなことは全然おもってなかったよ」

「社長、本当ですかぁ。僕は死ぬほど辛いめに遭っていたんですよ」

「たかが、ハンバーグで大袈裟な…まぁ、そのレシピを見せてくれ。レシピを」八島社長は誤魔化して、丸山にレシピを見せるように迫った。

「これです」ポケットから、慌てながら、取り出した紙切れは足型が付いてクシャクシャになった紙切れだった。しかもペンが水性だったのか、ところどころ滲んで読めない。

「あんた、きちんと持ってきなさいよ。何、この足型。それに、ところどころ、読めないじゃないの」

「あぁ、さっき店の前で落としてしまって、…、でも、作り方は頭に入っています。社長のために何度も読み直したから覚えています」

 いつになく、はきはきと言う丸山に八島は驚いた。

「あなた、何か変わったね。分かったわ。今から作ってもらえる」八島が丸山を連れて、厨房の奥へ消えていった。


 美代は、頭を押さえて観客席から崩れ落ちた。

―浩太―。

頭を打ちそうになって、転げた。見渡す周りは、五段ほどの応援席のような席に沢山の人々が座っていた。「ここは、何所なの?」

「もう、大丈夫?怪我してない?美代。そろそろ、貴士くんが出てくるわよ」亜理紗が声をかける。

「え、貴士…」

中央では、大きなテレビカメラがぐるぐると床を回って、司会の神幸さんが、大きな声で話し始める。

「お待たせしました。グルメベスト10がとうとう、始まります。今週は、待ちに待ったハンバーグ対決です。大阪の『サラ・ドゥ・ピアンゾ』代表の、山上貴士さんどうぞー」

その声と同時に、青のスカーフ、青のソムリエエプロンをした、貴士が現れた。

「えっ、」

意味がわからない―。

グルメベスト10―。

美代はここが、神幸さん司会のグルメベスト10の収録会場であることを理解するのにしばらく時間が掛かった。

「ちょっと、待ってよ。ここは…どういうこと…戻ってきてない…浩太は?」

亜理紗が、美代を突いた。「ほら、貴士が手を振ってるわよ。美代も手をふりなさいよ」

「えーと、彼女が来ているそうですね」神幸さんが、こちらに話題を振った。

引きつった顔、側面にある大型スクリーンに美代が写る。美代の顔がカメラでパンされ、アップで映った。

「美代、手を振りなさい」亜理紗が小声で美代に囁く。

―ちょっと、待ってよ―。

―これどうなってるのよ―。

美代は、浩太の居ない世界にまた来てしまった。

美代は近くにあった自分の鞄を持つと、会場を飛び出した。

「美代!」皆の制止を待たずにテレビ局の外に出て、辺りを見渡した。「ここ、東京よね…」鞄の中を確認して、財布と中身を確認した美代は、「大阪に戻ろう」と決意した。

タクシーで東京駅まで向かって、新幹線で、大阪へ戻った。



 大阪に戻って、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のあった場所を見上げた。

そう、美代は見上げるしかなかった。―なんてことだ―。

そこには、大きなレジデンスの総合施設が建設されていた。最近できた様子ではない。中には、レストランや飲食店が立ち並んでいる。

「ちょっと、いい加減にしなさい、あなたの仕業ね。日高馨!あなたね、全く違うじゃない…どうなってるのよ。なんとかいいなさい!」美代は空を見上げて大きな声をあげた。

道行く人がけらけらと笑いながら、避けて通る。ふと、そこに、見た顔があった。向かいの公園から、ゆらりと歩き出した乞食姿の男の顔に見覚えたあった。

―高橋昇治―だ。

「あなた、あなた、高橋ね」美代は思わず声をかけた。

男はたじろいで、急いで逃げようとして、路肩の花壇に突っ込んだ。

「記憶がある?あなた、高橋昇治でしょう。日高はどこにいるの!」

「あんたに、俺が見えるのか!あんたといい、粕谷浩太といい、不思議だ。日高は、俺を次元の狭間に落としやがった」

「次元の狭間…」美代が問い返した。

「そうさ、あんたには俺は見えてるが、他の奴からは俺は見えない…。俺はここで、誰にも気付かれずに死んでいくんだ…」高橋は、美代の差し出した手を掴もうとしたが、掴めない擦り抜けるだけだった。

「そんな…」

「あいつに、遭ったら、俺を元に戻すように言ってくれ!」

「どこにいけば遭えるの…?」

「知るか、俺が訊きたいぐらいだ」高橋はぶらりとそのまま、路肩から歩道を歩いて去っていく。途中、通行人に悪さをしようとするが、相手は気付かない、一人芝居のようだった。

美代は、大きなレジデンスの総合施設を眺めながら考えた。日高馨、後、私が知っているのは、八坂大学―研究室―ぐらいしかない。美代はタクシーを捕まえて、八阪大学へ向かった。

八阪大学に着くと、教授錬へ急いだ。五階までエレベータで上がる。

研究室に刺さっているプレートを一つずつ見ていく。「中谷、出井、苅谷…、」一通り見て廻った。やはり、日高の名前はない―。美代は途方にくれて、エレベータの横に座った。

「私にどうしろというのよ。日高馨!元の世界に戻しなさい!」美代は地面に座って塞ぎこんだ。ゆっくりと見上げた。思い出した。浩太と一緒にここで、扉に耳を当てて中の様子を訊いていた。丁度、この研究室が、日高馨の研究室だったんだ。

美代は研究室のプレートを眺める。プレートは「山内輝夫」と書かれている。やはり、違っている。

次の瞬間、プレートにノイズが走った。

美代は眉を顰めてじっと見つめた。プレートの名前が『日高馨』に変化した。美代はゆっくりと立ち上がった。

「向うから来てくれたのね…」

ゆっくりと扉に手をかけると、美代はノブを回して、研究室の中に入った。


「いらっしゃい」


若い姿のままの日高馨が研究室の奥の席に座っている。

「結局、自分で戻ってきたんだね。迎えに行くって言ったのに、気が早いんだから…」

「浩太をどこにやったの…」

「美代さんは、目的を果したんだ。今度は僕の我儘を聞いてくれないと…」

「目的なんか、果してない…戻ってきてない。ここは、全然違う世界よ。全然違う…」

「あぁ、好みに作り変えてるところなんだ…。もうちょっと待ってくれよ。あぁ、貴士の件だね。彼が君の恋人になっている件だね。偶然そうなってしまっただけで、気にしないでくれ、君は、僕と一緒になればいいんだからね」日高馨は、口調も仕草もあの時のままだ。

「浩太はどこにいったの?」

「一応、いるさ…。まだ、いろいろやり残していることがあるから、一緒にみてくれないかい…どうしたら、君が喜ぶ世界になるのか、知りたいんだ」日高はにやりと笑っている。

「何をやるっていうの…」

「君と僕の世界だ。一緒に作ってみようじゃないか…」

「一緒に作る?」美代は顔を背けながら、それでもじっと足を踏ん張った。

「皆、記憶がないのに、なんで、美代さんには記憶があるんだろう。多分、僕と同じく世界の創造主たる責務があると思わないかい…そうだよ。絶対にそうだよ…」

「あなた、あの高橋に何をしたの!次元の狭間がどうとか…」

「遭ったのかい。彼か、彼は、奈落のそこに落としてやったよ」

「奈落のそこ?」

「僕を利用しようとしたんだ、それなりの罰を受けてもらうべきだ。…まるで、俺のこぼした時間に集まる蟻のような奴だ…。俺を利用することしか考えていない人間にそれ相応の罰を与えただけだ…」

「狂ってる…」美代がゆっくりと後ずさりした。

「さぁ、行くよ…」風が巻き起こる。目が青く光り輝き、辺りが暗くなった。床もなにもなくなくなり、日高馨の目だけが光り輝いている。暗闇は海のように黒く静かになった。

海の中に浮んだようになった二人は、その暗闇の中に漂い始めた。そして、ゆっくりと沈んでいく。その黒い闇の中に美代と日高馨は沈んでいく。

「さあ、君と僕の世界を作ろう。まずは、この過去を変えるところから…」日高馨は、マントをひるがえすようにして、暗闇を捲った。その沈む美代の目の前にうかびあがったのは、あの日の、山本美代だった。


美代が『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の面接にやってきたときの映像だった。


 美代の姿が重なる。

 空は青く、まだ高校生の雰囲気が拭えない美代が『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の前でそわそわしている。扉には、『アルバイト求む』の貼紙が、まだ貼ったままだ。この前来た時と同じだ。高校を卒業したばかりの美代は、その扉をゆっくりと開けた。

「ヴォナセーラ!いらっしゃいませ」今より少し若い浩太が、若い美代に挨拶をする。浩太は、机を一生懸命に拭いていた。

「すいません。外の貼紙を見たんですけど…」

「え」浩太が軽く驚いて声をかける。

「アルバイトってまだ募集していますか?」

「ああ、アルバイトの面接ね、了解した。履歴書はある?」机を拭いている手が止まった。

「持ってきました」封筒を握り締める美代は、浩太に勧められて、今拭かれたばかりのテーブルに座った。反対側に浩太が座る。美代は緊張しながら封筒を渡す。

「ここが、イタリア料理店なのは知っている?イタリアンはできる?うーん、料理はできる…?」無理そうだろうな、いうふうに浩太が訊いた。

「すいません。イタリア料理はやったことはないですが、一生懸命やります。料理は好きです」

「そうか、なんで、この店を知ったの?」浩太は、履歴書は余り見ずに脇へおいて、両手を組んで、テーブルに置いた。

「この前、友人と食べに来たんです。ここの料理が、凄く美味しくって、だから、大学に入ってアルバイトするなら、是非、こんな美味しい料理を皆に食べてもらえる店でって思って…それで…」

「思って…で、何?」

美代は恥ずかしそうに、別段照れることもないのに、照れながら言った。「それに、その鉄板が…いいなぁって思って…」

「鉄板?あぁ、これか、イタリアンには使えないんだけどね。前にこの店をやってた人がつけたんだ」

「それを使って料理をしてみたいんです」

「料理をしてみたい…ふーん」

美代がくんくんと鼻を鳴らした。「トルティリーニですか?このコンソメと茹でたパスタの匂いに挽き肉とソーセージの匂いがします。パルチメザンの匂いも…」

「はは、凄いな、当たりだ。匂いで当てるとは凄いが、料理も知ってないと判らない…」浩太は感嘆していた。

「私、ここで働きたいと思って勉強したんです。トスカーナ・ピエモンテ・シチリア・ブェネト・ナポリに…」

「分かった。分かった」浩太が頷いて美代の勉強の成果を遮った。

日高馨が、ゆっくりとその前に立ちはだかった。「まず、この過去を変えよう」

「何、止めて、何をするの!」美代が声をあげた。

「僕がどうやるか見ていてね。後からやってもらうから…。たとえば、この履歴書…、ここに君への連絡先が書かれている。これがなくなったら、どうなるだろうね」その映像の中から、日高馨は、美代の履歴書を取り上げた。そして、ぽいっと暗闇の中に放り投げた。

「ほら、これで、未来は変わった。簡単な物だろう」

面接が終わった美代は、扉から出て行く。そして、浩太がしばらくして、履歴書を探して店を探し回る。必死の形相だ。机の下から、厨房の下まで―。

「ほら、面白いだろう。これで、連絡はできなくなった…」

「止めて、止めてよ…」

「次、行って見よう!」


辺りはまた真っ暗になった。美代は暗闇の中を沈んでいく。

二人はそのまま沈んでいく。暗闇の海に浮んでいるような感覚のまま、どこまでも、何処までも、沈んでいく。段々と景色が見えてきた。

「今度は、美代さんがやるんだよ」日高が美代に囁く。

辺りは、緑の木々が立ち並ぶ通り。道行く人々が、会話を楽しんでいる。白や赤や黄色のレンガの壁で出来た建物が立ち並ぶ。上部が丸くカーブを描いた大きな窓が沢山ついた建物は、明らかに異国の世界であることを示している。

薄赤いのレンガで固められた五階建ての建物の一階部分に賑わっている場所があった。そこには、白人の男の子や女の子が沢山集まっている。その子達の両親や家族も集まっているようだ。かなり賑やかである。

「コンテストだ―」美代は気付いた。

「浩太が紹介されている」若い浩太が日本人として、子供用のコッコートで皆の間に混ざってお辞儀をした。

「料理が始まるぞ、近くで見てみようか…」日高馨が近くへ寄ると、映像が美代の前に迫ってきた。

「高校生チャンピオン。イタリアでの学生チャンピオンの時の記憶…。まさか、日高馨、何をするというの…それは、駄目よ。絶対に止めて!」美代が叫ぶ。

「若いお坊っちゃん。彼がトスカーナイタリアンで、優勝することで得た自信は大きい。もし、彼がここで、優勝しなかったら、彼の料理人生はなかったかもしれない。彼から、料理を奪ってしまったらどうなるだろうなぁ、美代さんにとって、魅力のない男になること必見だね。小さい頃に何かに成功することは、それは素晴らしいことだと思うよ。だから、彼の魅力を奪ってみよう…それでも、美代さんは彼の方がいいのか、考えて!」

「ほら、美代さん、その仕込みのボウルをひっくり返してごらん、そのボウルは彼の料理生命だ」

「私はしないわ。止めなさい。そんなことをしたら、私は一生、あんたを恨むわよ!」美代の怒りが頂点に達した。

「美代さんがしないなら、僕がするよ」するすると美代の周りを泳いで、日高馨はそのボウルのところまでやって来た。美代は止めようと宙を腕で掻くが、進まない。日高を止めることができない。「止めなさい!」

日高馨は、ニコッと笑って、ボウルに入った仕込んでいる食材をひっくり返した。パシャ。地面にこぼれて広がる。高校生の浩太には何が起こったか判らない。自分の失敗だという顔でそのこぼれ落ちた食材を見つめた。次の瞬間、日高馨が火にかけていた鍋をひっくり返した。シンクの中に、パスタとボロネーゼが流れていく。高校生の浩太は膝を折って崩れ落ちた。

「ははは、この失敗で、料理なんか、止めてしまえばいい!」

「止めなさい!」

「止めないよ」

「人の人生をなんだと思ってるのよ!本当にいい加減にしなさい!」

暗闇の中に沈んでいく。浩太の崩れ落ちた姿が消えていく。

美代は自分がただ、見ていることしかできないのを悟った。―一緒にといいつつ、すべて、日高馨が思うようにやっている。自分は見ていることしかできない―。


 白塗りに瓦葺の屋根。真正面から扉を開けて、店の中に入っていく女の子がいる。

これは、小松食堂だ―。

小松食堂の厨房に走りこんでいく小さい女の子。厨房には、一人のお爺さんが立っている。

「ちょっと、何をする気なの!」美代の思いとは別に、日高馨は次のシーンを選んでいた。

「今からなにがあるか知っているかい、この日が、何の日か、わかるかい?」

美代は答えなかった。答えは知っている。その日が壊されるのが嫌だった。

「覚えてないの?君が約束した日だよ」日高馨がニヤリと笑う。

「上手くやったね、お爺ちゃんをを上手く利用して、自分にハンバーグを教え込ませようって魂胆だ」

美代は、その小さい女の子が自分であることを知っていた。そして、小松食堂にやってきたのは、十歳の約束が果されるためだった。ご馳走を食べさせてもらうためだった。

お爺ちゃんは、ゆっくりと話しかけた。

「これから、美代に特別に美味しいハンバーグを食べさせてあげるよ」

「お爺ちゃんの料理は全部好きよ。最高に美味しいもの」

「そうか、でも、その中でも、これは本当に特別な料理なんだ」

「特別?」

「美代、今から作る、このハンバーグは、『究極のハンバーグ』なんだよ」

「きゅうきょく?」

「そう、究極だよ。最高に美味しいって意味なんだ」

「へぇ、凄い。じゃあ、お店にも並ぶんだね」

「いや、これは、これで最後、もう二度と作らない。一度きりの料理なんだ。誰も食べれないんだよ。これが最初で最後なんだ」

「なんでぇ」幼い美代は問い返す。

「約束なんだ。これは秘密のハンバーグ。美代が十歳になるまで出番を待ってたんだよ」

日高馨は、厨房の中で焼けようとしているハンバーグに、ターナーを差し込んだ。

「もう、止めて!」美代は叫んだ。「何が欲しいの、何がして欲しいの…私に…」

「一緒に世界を創造して欲しいだけさ…僕と一緒になって欲しい。だから、その前に分かって欲しいんだ」

「話しを聞くから、もう止めて、あなたの話しを聞かせて、どうすればいいの…」

日高馨は、ターナーをゆっくりと戻した。小松良明が、やってきて、そのターナーを握って、皿にハンバーグを盛り付けた。ソースをかけて、美代のテーブルへ運ぶ。

映像は、いきなり真っ暗になって消えた。


「分かって欲しいだけなんだ…」

美代は涙で頬を濡らした顔を上げた。

「皆の過去は、偶然の連続だっていうことさ、僕が介入することで、簡単に世の中は変わっていく。全てが偶然の連続。単純な偶然の世界の上に成り立っているっていうことさ。僕は、幼い時の記憶がないんだ」

「記憶がない?」美代は聞き返した。

「そうさ、孤児って言ってるけど、捨てられたのさ。僕が物心着いたときから、分かっていたんだ。時間を行き来できること。時間を戻ったりできること。だから、…高橋昇治が来て、その力の素晴らしさを教えてくれて未来が開けた。自分は、何でもできるのがわかった。偶然の連続を自分の力で変えられることを知った。そのまま過ごしてたんだ。僕は自分の夢もかなえることもできずに一人、このおかしな時間の世界に挟まれたまま過ごすことになってた。だから、高橋昇治の言葉に乗ったんだ。夢をかなえるためにね…」

「夢…貴方の夢って何?」

「僕の一番小さい時の大事な記憶を見せてあげるよ…」

一面暗くなった世界の中で、蝉の声だけが聴こえる。少しずつ明るくなってきた映像の中に、沢山の園児が遊びまわる校庭が映っている。

 一人の園児が、校庭から走ってくる。行儀よく座っている園児たちを押しのけて、一番前の特等席を陣取って胡坐をかいた。

「駄目よ、陽輔くん。後で来たんだから、後ろに座りなさい!」亜理紗がビシッと言う。

「嫌だ、前がいい。早く、お姉ちゃん!」

美代がそこに居た。美代の紙芝居が始まる―。そして、その園児と、美代は大阪城の見える露店へやって来る。

「僕、ミックスがいい」

「ミックスね」

「落とさないようにしてね」

「なんか、お姉ちゃん、お母さん見たいだ」

「虫…」こぼれたソフトクリームの近くをうろうろしている。

「蟻ね」

「あら、あら」

「いいのよ、お姉ちゃんのをあげるから」

ソフトクリームが着いたデニムの上着を美代は、水呑場で洗っている。

「もう、着れないの?」

「大丈夫よ、洗えば着れるわよ」

「じゃあ、洗って」

「え、お姉ちゃんが…」

「うん、洗って、洗って」

美代は、映像から、紙芝居やこぼれたソフトクリーム、デニムの上着が映像が飛び出して、自分の目の前に転がって来たのを見つけた。

「まさか、あなた陽輔くんなの…」美代は愕然とした。

立花陽輔…そして、日高馨…。陽輔を助けようとして、始まったこの謎は、当の本人が日高馨だったということを美代に告げた。二人とも、孤児だった。そう、親がいない―タイムスリップ―陽輔を使ったという、日高教授のセリフ―。

「陽輔くんは、あの後、何年か前に戻って、日高さん夫妻に養われたってこと…なの」

「そう。僕は、日高馨であり、立花陽輔さ。美代さんが、心配してくれている陽輔は、僕自身だ。僕はあの頃から、ずっと美代さんを憧れ続けている。日高教授だった僕も、多分そのことは知っていたはずだし、君をそういうふうに見ていた」

「そんな…だから、私のことを…」

「全て心配することなかったんだ。万事、上手くいっている。僕達は、あの時からずっと運命で結ばれている。だから、この偶然のほうが、浩太なんかよりもっと凄いと思わないかい。心配することなんて、何もないんだよ美代さん」日高馨は、取って置きの隠しだまをみせたように興奮していた。子供さながらに興奮していた。

「一つ、わからない。なんで、私には記憶が残っているの?他のひとには記憶が残っていないのに…」

「さあ、僕にとっては自由にならないのが、美代さんだけなんだ…それが不思議」といって、日高馨、陽輔は笑った。

「なんでだろう…」

「選ばれたんだよ。だから、大丈夫。僕達二人は、この世界でも対等だ。僕は美代さんを僕と対等に扱ってあげることができるんだ」

「私が、浩太のことを忘れられたら、それもあったのかも知れない。忘れられない…」

「忘れられないの?」日高馨が訊いた。

「当たり前でしょう!」美代は日高馨を睨んだ。

日高馨は困った顔をした。「僕がどうやっても、美代さんの記憶が変えれないなら、どうすることもできない…。美代さん、こう、思えないかな…記憶が残っているだけで、その記憶って奴も、本当に一握りの偶然で起こっていることなんだから、だから、僕と美代さんがお互いに好きになるという偶然があってもいいと思うんだけどなぁ」

―全てが偶然なんだ。だから、拘る必要はないと―。

―その中で手に入れたものだから、偶然なんだから、こだわる必要はないと―。

「ロマンチックでしょう?」日高馨が問いかける。


美代は目をつぶった。

―偶然―。

でも、偶然だってなんだって、美代の心の中には、全てが残っている。

浩太の記憶。

『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の記憶。

お爺ちゃんの記憶。

『究極のハンバーグ』の記憶。

記憶が残っている。


美代の目の前に、あの紙芝居が音を立てて、崩れた。

―あんたらは、この村一番の料理人だ。俺達にいつも振舞ってくれる、あの美味しい料理をこれで作ってくれ!俺達も手伝うよ

―私たちは、諦めたらだめなんだぞ―

この紙芝居のお爺ちゃん、お婆ちゃんは、浩太と私のイメージだった。赤いスカーフと黄色いスカーフをしている。浩太のいつもの台詞は『諦めたらだめなんだぞ』紙芝居にも思わず入れた。浩太のいつもの台詞を、自分で言ってみた。

「諦めたらだめなんだぞ」


「駄目よ、陽輔くん。こんなことはしては駄目。私は諦めない。全て元に戻しましょう」

日高馨、もとい立花陽輔は困惑した。

「嫌だ…。どうして、美代さんは、僕の思い通りにならないんだろう。なんで、記憶が残っているんだろう。なんでなんだろう」

「私の記憶が残ってなかったら、陽輔くんに意見をすることができないじゃない。私の記憶が残って居るのは、そのせいじゃないの…。そうよ。きっとそう」

「僕は夢も叶えられないのか」日高馨は頭を抱えた。


いやだー。


駄々をこねる子供のように叫んだ。

どん、床が抜けるように、美代と日高馨は凄い勢いで、暗闇の中を落ちていった。そして、底に到着した。

暗闇の底に横たわった美代は、ゆっくりと起き上がった。怪我は全くない。中央に日高馨が体を丸めている。

その横にぽっかり開いた穴があった。そして、どこから吊るされているのか判らない大きな鎖がそこに垂れ下がっている。

「こいつがいなくなればいいんだ」日高馨はぼそりと呟いた。

垂れ下がった鎖につながれている人がいる。その人が浩太だと分かった。

「浩太―、美代は浩太の元へ走っていく。

青い眼をした日高がゆっくりと起き上がる。

浩太が美代を見つめた。

「美代か…」

美代が穴の手前で立ち止まった。浩太は穴の真上に吊り下げられている。美代は浩太を下から見上げていた。「浩太をすぐに降ろしなさい!」美代が日高に向かって叫んだ。

「折角捕まえた。それは断ります。美代さんを縛る存在を消し去ります。見ていてください」眼が青く揺れて光る。風がゆっくりと巻き起こる。

次の瞬間、浩太を縛っていた鎖が消えて、浩太は宙に浮いた上体になった。そして、浩太は穴へ吸い込まれた。

「浩太―」美代は右手を伸ばして、穴の手前で精一杯に右手を伸ばした。浩太の腕を掴んだ。浩太も美代の腕を掴む。美代は倒れこんで、穴に落ちそうになりながら、体で踏ん張った。浩太の体は、穴の中にほとんど全身が落ちている。美代は上半身を穴に突っ込んで、辛うじて踏ん張った体と左手の支えだけで体を残している。

美代の体重では絶対に引き上げられない。歯を食いしばっているが、もともと体格さは大きい、美代の細腕でどうすることもできない。

「美代さん!」日高馨が、浩太の腕を引き上げようとする美代を見て声をあげた。

「そこは、次元の狭間です。そこに落ちると戻って来れない。手を離しなさい」

美代はずりずりと穴に引きづられていく。

「い・や・よ。絶対に離さない!」もう、片手のふんばりだけである。穴に落ちるのは時間の問題だ。

浩太が、美代に声をかけた。

「美代、落ちるのは俺だけでいい…」

「絶対に嫌よ」

浩太は美代を掴んでいる腕を放した。

美代だけが浩太の腕を掴んでいられるはずもなかった。美代の手の中で浩太の手が滑る。美代の顔が青ざめる。咄嗟にもう、一つの手で、浩太の片手を掴んだ。

美代は両手で、浩太の腕を掴んだ。

片手の踏ん張りがなくなり、ずるっと二人は穴に引き込まれる。

日高馨が突風を吹かせて、美代の側へ物凄い勢いで駆け寄る。

「美代、駄目だ、離せ!」浩太が叫ぶが、美代はニコッと笑った。次の瞬間、美代は浩太とともに次元の狭間に引きずりこまれる。日高馨が手を伸ばすが、美代は振り向きもしない。そのまま二人とも穴に落ちていく。日高が叫ぶ。「美代さんー!」眼が青く光輝いている。日高馨も手を伸ばしたまま、マントをひるがえすように、その暗闇をもう一度大きく捲りあげる。

「くそー!、届け!」日高馨は叫んだ。

暗闇は消え去り、日高馨の研究室の床に二人は横たわっていた。

側には、日高馨が立ち尽くしていた。


日高馨は涙を袖で拭いた。安堵の気持ちと浩太を思う美代の気持ちに肩を落としていた。

「何でも手に入れられると想ったのに、何にも手に入れられない…」

 美代は、浩太の手を握ったまま、ゆっくりと顔を上げた。浩太は背を向けて床に倒れて意識を失っている。

「浩太!浩太!」服が引っ張られる程に、美代は揺すった。浩太の背中にほくろがあるのに気が付く。―これは―。

「うぅ…」浩太が声をあげる。―大丈夫だ、生きてる―。

日高は、憑き物が取れたような顔をしていた。

「最後に懸けませんか?」

「懸ける?」

「いや、…勝負をしましょう」

「勝負?」

「あなたが勝てば、すべてを元に戻しましょう。私が勝てば、私のところに来てください」

「その条件は呑めないと何度も言ったはずよ…」

「あなたが得意な勝負にしましょう。ハンバーグ勝負です」

「ハンバーグ…でも、日高馨は料理人じゃない!あなたと私が勝負をするのは、いくら得意なハンバーグだからって、それだと、私が損よ」美代は声を荒げた。

「それは、どうですかね、『洋食屋たいら』では、きっちり料理人だったじゃないですか?」

美代は、これが最後のチャンスかもしれないと思った。この我儘な日高馨が勝負という、条件で、自分が負けた場合のことを持ち出したのである。今まで100%折れることがなかったのに―これを逃してはいけない―美代は提案を思い付いた。

「条件をいってもいい?」

「美代さんが勝負をしてもらえるなら…」

「2対2の勝負にしましょう」

「なるほど、粕谷浩太をいれるんですね…それは、強力だ。なにせ、彼はあの小松良明の師匠でもあるのですから…」

「そのとおり、このまま、浩太を戻して…」

「…、本当に、粕谷浩太が大事なんですね…僕では駄目なんですね…」

「私は浩太と一緒にハンバーグを作る。あなたも誰かと一緒にハンバーグを作ればいいわ」

「良いでしょう。では、準備を始めます」

今一度、辺りは暗くなり、美代は眠るように気を失った。




 小松食堂では、真っ暗な厨房の中で手元電球の光だけで、お婆ちゃんが、一人椅子に座っていた。

「爺や、そろそろ、私も疲れた。店を閉めてもいいかな。良一は何処か紹介してやろう。美代ほどじゃないが、奴もそこそこ出来るだろう」

厨房の上には、『小松良明』の写真が飾られている。

「もともと、ここに書かれたことを実践したに過ぎない。『小松良明』の全てを、彼に返しに行きたい。預かっていたものを返しにいきたいんじゃが、いいかな」婆ちゃんはゆっくりと立ち上がった。



深夜、雅人は、コンビニでアルバイトをしていた。夜間、お客がほとんど来ない時間がある。その時間を利用して店内の掃除をしていた。若い男、二人が自転車でやって来て、しゃべりながら、駐輪場から店内に入ってくる。

「いらっしゃいませ」いつもと変わらない、いつものコンビニだ。しかし、朝五時に終わったら、すぐに睡眠をとって『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に向かう、このスタイルはなくなってしまった。若い男一人が店内をうろうろする中、雅人は、アルバイト情報誌をちらちらと覗いては、レストランという項目を探した。あんなに居心地がいい場所はない。あんなに仲間に恵まれた場所はない。雅人は『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に憧れを持っていた。浩太に、貴士に憧れていた。自分とは全く違う二人に、近づきたいと願っていた。どうにかして、自分もシェフになりたいと思っていた。まだ、雅人は第二の『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を探す気力になれなかった。「はぁ、」と溜息をついては、雑誌を並べなおした。

惣菜コーナーを覘く男性二人が、ハンバーグを指差してなにやら話しをしている。

「俺、ハンバーグ食べたくなってきた」

「そういえば、最近、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』行ってないよな、あそこのハンバーグをがっつり食べたいな」

「えっ、おまえ、知らないの、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』閉店したらしいよ」

「えぇ、マジかよ。あそこは穴場だったのにな。あそこのハンバーグ、めちゃ美味いんだよ。くそー、もっと行っとくべきだったなぁ。これで我慢するか!」

雅人は、二人が惣菜を適当に見繕って買物カゴに入れるのを見た。そして、レジに向かう二人を見て、いそいでレジに走る。

「いらっしゃいませ」

レジに商品のバーコードを読み込ませていく―買い物カゴに入れられた惣菜のハンバーグを手にとって、雅人は寂しい顔をした。

―これで、良いのかよ―。

雅人は、帰っていくお客を寂しく見送った。



貴士と亜理紗は、映画館から出てきた。

「腹が減ったな…」

「そうね、いつもなら、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』でも行きたい感じなんだけど」

「何、食べる?」

「うん、どうしよう」二人の後をつけてくる女性二人組がいた。不意に後ろから声を掛けられた。「すいません」

「えっ、俺…?」貴士は、意表を付かれて振り向いた。亜理紗も訳が分からず振り向いた。

「そうです。あのぉ、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の人ですよね…あの、イタリアンレストランの…」自信なさげに声をかけたようだ。

「『サラ・ドゥ・ピアンゾ』。あぁ、そうだけど」貴士は、その二人がなんとなく見覚えがある気がした。

「ほら、絶対そうだって言ったじゃない」「本当、沙希って凄い…」二人は、なにやら喜んでいる。

「えぇと、なんだろう」貴士は勝手に喜ぶ二人を前に困って訊いた。

「あのぉ、私達、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のファンなんです…毎月、一回は行ってるんですよ。昨日、電話したら、閉店のアナウンスが流れてて、がっかりしたんですよ。今度って、いつ開くんですか?」

「開く…あぁ、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』ね。ごめん、予定はないんだ」

「えぇ、そうなんですか、残念」二人は寂しそうな顔をした。

「ごめんね」貴士は申し訳なく頭を下げた。亜理紗もバツが悪そうに一緒に頭を下げた。




 夜が明けて、浩太は、駅からゆっくりと『サラ・ドゥ・ピアンゾ』へ向かっての道を歩いていた。美代に手を握り締められた感触が残ったままだ。今朝起きたら、ベットの中にいた。全てが夢だったのかと思ったが、そんなはずはない。時計は、二八日となっていた。約束の通りの世界なら、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の完全引渡しは、二日後だ。

美代が、日高馨―いや―立花陽輔と約束した、勝負をしないといけない。いろんな夢のような出来事と悪夢のような出来事が頭を駆け巡った。なぜか、母、知子に返したはずの『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の鍵がポケットにあった。鍵は、ここに集まれと言っているように感じられた。自然と足は、店へと向いた。

「この道を通って、こんな時間に行くのは、あれ以来だ」浩太は初めて、この店に叔父さんを訪ねてきたときのことを思い出した。叔父さんがやっていたレストランを引き継いで、四年が経ったのだ。住宅街の角を曲がると、見慣れた店の姿が現れた。ゆっくりと、感慨深く見あげた。

「よぉ」浩太は不意に声を掛けられた。そこには、相変らずカジュアルな服装の雅人がいた。ポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと近づいてきた。

「雅人…」振り向いた浩太は、視界に雅人を見つけてほっとした。

「俺も、回想シーンにお邪魔させてくれよ」

「あぁ、やっぱり、ここは閉店するんだな…」浩太はゆっくりと懐かしい顔を浮かべた。雅人は何も言わなかった。二人は同時に『サラ・ドゥ・ピアンゾ』をゆっくりと見上げた。すりガラスが曇っている。毎日、磨かないとすぐに曇った感じになるんだ。木彫に彩られた看板が、立派にその存在をまだ誇示している。ここで、皆が一緒に料理に真剣に取り組んで、仲間達と楽しく過ごした。

「まだ、二日あるんだろう、ここ、もう一回開けないか?」雅人が、声にだした。

「俺も開けたい」浩太は呟いた。

「…いいじゃないか。勝手にあけようぜ」雅人はいつもそうだ。自分の思いをはばからず口にだす。浩太は、それも良いじゃないかと思うようになった。だって、開けたいんだから、開ければいい―。通りの向こうからカップルがやって来るのが見えた。

じっと見る浩太は、それが誰か分かった。よく知った顔だ。

「おーい、浩太」声をかけてきたのは貴士だった。隣にいるのは亜理紗だ。

「お前達もやってきたのか?」雅人が声を掛ける。

「お前らもだろう…」

「なんだか、ここに足が向いてさ」

四人は、店の前で『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を見つめた。

「ねぇ、美代も呼んで、皆でお別れ会しましょうよ」

「うん、それいいな」貴士が賛成した。

雅人がゆっくりと店に近づいた。なにやら、中を覗いて唸っている。

「おい、誰か、中にいるぞ…」

「そんな、馬鹿な…」浩太が否定したが、雅人がくんくんと鼻を鳴らす。

「何か美味しい匂いが…匂わないか?」雅人が振り返る。

「おい、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』明かりがついているぞ」貴士が刷りガラスの奥を指差した。浩太が店をまじまじ覘いた。曇ったすりガラスからはよく見えないが、確かに、中の明かりがついている。

「誰かいる…もしかして…美代…」そう呟くと、浩太は入り口に走っていた。雅人も貴士も亜理紗も続いた。

浩太は、扉に手をかけた。鍵が開いている!

「美代!」扉を開けた。

カラン、カランとカウベルを鳴らして、ハンバーグの焼けた匂いがしだした。ジューといういい音が響いている。

「良い匂い…」雅人が鼻を鳴らした。皆はぞろぞろと『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に入っていく。

カウンターの鉄板で、誰かがハンバーグを焼いている。

「美代、…」近づく浩太が、口を大きく開けて驚いた。―その姿は美代ではない―。皆が驚いて厨房の中の女性を見つめた。浩太だけ懐かしそうな、そして、嬉しい顔をした。そこには、小松食堂の婆ちゃんがいたのだ。

「お婆ちゃん!」浩太が駆け寄った。

奥からひょっこりと、美代が出てきた。「あっ」と声を発して、申し訳なさそうな顔を浮かべた。「ごめんなさい、浩太。みんな。突然、お婆ちゃんがやってきて、ここへ連れて行けっていうから、勝手に開けたの…さらに厨房を勝手に借りて…」

「鍵はどうしたんだ」浩太が訊いた。

美代は少し俯いて、ポケットから取り出した。「ほら、なぜか、ポケットにあったの」

二人がお互いに見詰め合っていた。

―日高馨だ―。

「さぁ、ハンバーグを美代が焼くから、皆食べなさい」とお婆ちゃんの一声で、皆はカウンターに横一列になって座りだした。

美代はお婆ちゃんの横で、ハンバーグを焼いている。

「あんたら、本当に馬鹿だね。それでも、料理人かい?情けない顔ばかりして…」

「すいません…」浩太が謝った。

「しっかり、せなあかん。料理人が、俯いてたら駄目だ!」

「私、料理人じゃないんですけど、この人、誰?」亜理紗が美代に訊く。

「私のお婆ちゃん…」

「あぁ、それでね。なるほど、だから、浩太は知ってるのね」

美代は、手際よく鉄板の上でハンバーグを準備した。

「浩太くん、皿はこれを使っていいのかい?」お婆ちゃんが問いかける。浩太は、身を乗り出して、厨房に入った。「これです」手を洗って、厨房に参戦した。

美代は、皿を拭くタオルを捜した。貴士が同じく手を洗って、棚からタオルを渡した。雅人もボイルした、ジャガイモと人参を皿に盛り付ける。亜理紗も皿をお婆ちゃんから受け取ると並べ出した。ジューという音がしているハンバーグを美代は自前のターナーでひょい、ひょいと連続して四枚裏返した。。何も言われないままに、浩太がソースをそれに掛ける。ごくりと雅人が唾をのんだ。

「さぁ、食べましょう」婆ちゃんがにっこり笑った。

皆はナイフとフォークを持った。雅人が一番に、フォークに刺したハンバーグをソースに絡めて口に頬張った。

「美味い、さすが、美代のハンバーグは美味しいな」

貴士も頬張った。

「これ、『究極のハンバーグ』なの?…」亜理紗が訊いた。

「これは私の『究極のハンバーグ』。お婆ちゃんの究極もあるのよ」

美代は、浩太に封筒を差し出した。

浩太は封筒を開けた。それは、神幸さんの『ベストグルメ』の招待状だった。あの時、もらったものだった。

「もしかして、勝負って、」浩太が声をあげる。

「これでしょう。だって、これしかないじゃん」美代が問い返した。

「だけど、費用が掛かりすぎる」

「その費用は『小松食堂』で持つとするよ」お婆ちゃんが言った。

「そんな、それは、駄目だよ。お婆ちゃん…」

「いや、そうさせて欲しい。浩太くん、『小松食堂』は、あんたのオカゲで、ずっと繁盛してきたんだ。あんたのオカゲで『小松良明』は凄い料理人として成功したんだ」

「なんで、覚えてるんですか?」浩太は、皆が居る前で、思わず訊いた。

「覚えちゃいないが、ここに書いてある。ずっと預かっていた物を返すよ」お婆ちゃんはそういうと、カウンターの端においてある鞄から、一冊のノートを取り出した。

お婆ちゃんが手にしているのは、『赤いノート』だ。

あの『小松良明』のノートだ。

「え、どういうことですか?」浩太はそれを受け取った。捲り始めて分かった。

もしかしてと思っていた。そう、それは、自分の手帳だったのだ。なくしたままだった自分の手帳。実は、その手帳自信が、『小松良明のノート』。沢山の料理人が読みたがった幻のノート。

「ずっと借りてたんだ。それ相応の礼はせにゃならん」お婆ちゃんがニコリと笑う。

「何かわからんが、スポンサーが決まったんなら、これで問題なしだな」雅人が大声でまくしたてた。

「衣装も作りましょう。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の制服、美代バージョンを!美代のコック姿みたいわ…」亜理紗がいった。

「笑えるかも…」雅人が笑った。「閉店した店舗が優勝って、みんな悔しがるぞ…」

「皆…」浩太は大きく頷いた。婆ちゃんもニコリと笑った。「よし、参加するぞ!そして優勝だ!」浩太が大きな声でいった。「おー」店のメンバーは一致団結した。



 外では、それを訊いていた丸山が慌てて、道路を走って戻っていった。

レストラン『ピクティ』の駐車場を抜けて、レストランへ駆け込んだ。

「大変だ。大変だ。社長―」扉を開けて、あわてて入り口のピクティちゃん人形にぶつかった。ガターン。大きな音がして、とうとう、人形はバラバラに倒れてしまった。急いで人形を組み立てようとしたが、完全にバラバラになっていて、どうしようもない「あぁー、もう参ったな」丸山は、人形を壁にもたれ掛けさせて、急いで、社長のところへ走っていった。三階の事務所の扉を開けて、大きな声で丸山は叫んだ。

「社長、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の奴ら、料理番組の『ベストグルメ』出るっていってます」

大きな肘掛椅子に座ったまま、八島社長は丸山のほうを向いた。

「そう、やっぱり出るのね。これで、本命通しの戦いになれるわ。丸山準備をしなさい、私も出るわよ」

「社長、私があいつらなんか、やっつけてやりますよ」

「あぁ、あんたは、続けてソースの改良をしなさい。あの子達が本気で来るなら、私だって本気で相手をする。今のあたしと、あんたなら十分に勝てると思うわ。但し、念には念を。あのハンバーグに最後の味つけを行うのよ。あたしも料理人。まだまだ、あいつらが未熟だってことを教えてやるわ」

「俺も、まだまだソースを改良しますよ。俺だって、小松良明や、粕谷浩太、山本美代から料理に対する情熱を魅せられたんだから…」丸山は燃えていた。丸山は覚えていたのだ。


「だめだってさ」貴士がひどく残念そうな声をだした。

「なんでだよ」

「申し込み期限が過ぎてて、参加できないってさ。予選を三回やるみたいなんだけど、一回目と二回目はとっくに終わっていて、最後の三回目だけなんだって、もう遅すぎて間に合わないって…」

「そんな…」

いきなり、電話が掛かってきた。「でんわ、どうするよ…」

美代が迷いながらも電話を取った。「もしもし、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』ですけど…」

「はい、えっ神幸さんですか」

一同は、電話を取った美代を注目する。

「あ、はい、そうです。そのとおりです。さっき、断られたって、はい、私たちです。はい、出ます。出ます。出させてください」

「誰からだよ」浩太が訊いた。

「あ、ちょっと、待ってください。浩太に代わります」美代はそういうと、浩太を呼んだ。

「神幸さんだ、申し込みの電話があったというんで、わざわざ掛けてくれたんだ」

「えっ、そうなのか」浩太は電話を取った。

「もしもし、粕谷浩太です」

「あぁ、浩太くんだね」

「はい、」

「締め切りは過ぎているけど、なんとか、予選三回目に君達が参加できるようにするよ」

「本当ですか」

「あぁ、但し、予選を残れるのは1チームだけだ」

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「お礼なら、既に決まっている二チームに言うことだね。決勝は前に決まっている2チームと今回の三次予選を勝ち残った1チームの争いになる。君達のことを、既に決まっている二チームに話すと快く、『参加させてやってくれ』と応えが返ってきたからさ。実は、残りの二チームは、私が直接資料を持っていったチームなんだ。実力はあるぞ!」

「望むところです。必ず予選を通過して、その場所へ行きます」

「君たちなら、絶対に突破するよ…待ってる」

電話が切られた。ゆっくりと浩太は受話器を置いた。

「どうだったんだ」

「参加できるってさ」浩太はガッツポーズをした。

「やっほー」一同は、歓喜の声を上げた。




お婆ちゃんも加えて、五人はハンバーグの思考錯誤を繰り返すと共に、お客の待ち望んでいる『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の再開をすることを決めた。

「美味しい料理がここにあるのだから、それをお客に食べさせない訳にはいかない」

店、引き渡しまでまだ二日ある。「最終まで、営業を続けるぞ」浩太の意気込みのなかで、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』はラストカウントダウンとなった。その夜から、営業を再開した。噂は噂を呼んで、お客はあふれ出した。沢山の人々が一気に戻ってきた。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は『小松食堂』のメニューを合算して、人気メニューをどんどんと打ち出した。隣の空きテナントの鍵を借りてきて、強制的に開けた。机や椅子がなかったが、長机や、パイプ椅子まで帝新ホテルから借りてきて並べた。亜理紗まで、オレンジのエプロンをつけて走り回った。九時を過ぎたとき、帝新ホテルの進藤料理長もやって来た。噂を聞きつけて、材料の差し入れにやって来たのだ。それから、厨房は、進藤も加わって、オオ賑わいになった。

二日目最終の夜は、とうとう、『御厨屋』主人の岡坂洋次が直接やって来た。

浩太の母は、そっと、その様子を見つめていたが、知子を知らない陽気な岡坂に誘われて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の食事を堪能した。

その姿を厨房でフル回転する仲間達は気付かなかった。


そして『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は閉店した。


約束の立ち退きの期日になった。浩太以下、皆が集まる中、持ち出せるだけの食器や調理器具を運びだした、もぬけの殻になった店だけが残った。業者がやってきて、母が書類にサインをした。

「やるべきことはやった」貴士が言った。

「うん、最後にお客様に、出せるだけの食事を出した。胸を張って閉店だ」浩太が答える。

「時間は戻らないのね」亜理紗が悲しそうに言う。

「そう。時間は戻らない。私たちは、先へ進まないといけない…」美代が店を見つめる。

「次は、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』最後の戦いだぜ、美代ちゃん、浩太!頼むぜ」雅人が二人に声をかける。

「あぁ」浩太は頷いた。

ショベルカーを先頭に、地域一体に作業員が入っていった。皆の見つめる中、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は解体された。美代と亜理紗は泣いた。雅人も泣いた。浩太と貴士はじっとその姿を歯を食いしばって見つめていた。

―もう、この店で、やることは二度とないのだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ