序章
料理SF小説です。コメディタッチで書いてますのでそのつもりでご賞味ください。
「あちちちぃーあつい、あつい、あちちちちちちちぃー」
雅人が飛び上がって顔を抑えた。鉄板を眼の前にデジタルカメラを構えていた手を離した瞬間だった。飛び散った油が、いきなり雅人の顔面を襲ったのだ。水道の蛇口を大急ぎでひねって、左手で顔にパシャパシャと水を急いでかけている。
貴士にタオルを渡されて、雅人は水に濡らして顔に被せた。
「おまえ、顔近づけすぎだって…写真なんか要らないかもしれないぞ」浩太が注意した。
ぱちぱちぱち。カンカンに熱せられた鉄板の上、また、油が飛び散る。
美代は、形を整えながら捏ねた肉のパティを、もう一枚、鉄板にそっと滑らせた。少し跳ねた肉のパティは、落ち着きどころを見つけると、雅人を襲った『そいつ』と同じように、ジューと途切れない音を鳴らし始めた。
美代は、額に汗しながら、タイミングを狙って、『そいつら』をじっと凝視する。
『そいつ』は、染みでた脂を鉄板に雫として落として、小さく跳ね上げる。
跳ね上げられた脂は消しとばされ、ジューという音を途切れなく鳴らす。
四人の前で肉のパティは狐色に化けていく。先ほど襲われた雅人は、負けずに再度、カメラを構える。雅人は、そいつを見つめながら舌舐なめずりをした。相変らず、鉄板にかぶりついてみている雅人の後ろで、浩太は腕組をして眺めている。いや、浩太だけでなく、皆が、『そいつら』を見つめている。
「本当に楽しそうに焼くよなぁ」貴士が関心した。
美代は、お似合いの黒のコックコートにオレンジのエプロン姿で「楽しいよ」と口元を上げながら、ニコニコしている。
ここは、大阪城近くにあるレストラン『サラ・ドゥ・ピアンゾ』イタリア語で、『皆の食堂』という意味を持つ。今、店長の粕谷浩太は、店の新しいメニューをチェック中。
浩太は、赤のソムリエエプロンに、赤のスカーフネクタイ、赤のボタントリムのついた白のコックコートを悠然と着こなす若干、二十六歳。いつも被っている白地のコック帽は、厨房の端に置かれており、長髪を結っているのが後ろから見るとよく分かる。
もう一人のコック姿は山上貴士。貴士は浩太と同じコックコートだが、浩太の赤の部分が全て青に統一されている。青のソムリエエプロン、青のスカーフネクタイ、青のボタントリムが付いたコックコートを着ていて、伊達だと噂の淵なし眼がねをかけている。
美代は、二人のイタリアンコックの前で、緊張した面持ちで、なぜか『そいつ』と格闘している。なぜか、イタリアレストランで『そいつ』と格闘している。浩太と貴士は、両腕を組んで美代と鉄板の『そいつ』いわゆる、『ハンバーグ』と呼ぶものを見つめている。
美代は、鉄板の肉パティ二つを睨んでいたが、焼き色を見るや、「えいや」と二つを十分に隠せる大きな蓋を上から被せた。ジューという音は蓋の中でシューという低い音に変わり、蒸気が閉じ込められる。
「なんで、そんなに手際いいんだ」浩太は不思議そうに見つめた。
「長年の研究の成果よ!」
しばらくして蒸されて、火が通ったのか、美代はおもむろに蓋を開けた。美代は、自分のマイ・ターナーで『ハンバーグ』を絶妙に裏返すと、焼き目がついた部分が上部に来て、カリカリに成っているのが見て取れた。
『ハンバーグ』は皿に載せられ、美代特製のデミグラソースが掛けられた。下味をつけてボイルされた人参、ジャガイモ、いんげんが皿の彩りを添える。浩太や貴士の真似をして、左手で皿を押さえながら、タオルで淵をキュッと一回転させた。上手くいった。白の皿が真珠色にパッと映える。彩りも華やかに目にも楽しいハンバーグが完成された。お皿の中央に鎮座するハンバーグの存在感が大きい。
『そいつ』は、貴士、雅人、浩太、そして、美代の四人に囲まれて、緊張した様子は全くなく、とうとう、舞台の主役として登場した。
「どれどれ」貴士がデジタルカメラを置いて、フォークとナイフに持ち替えた。浩太を差し置いて、一番乗りに『ハンバーグ』の試食を始めた。ナイフをいれると、じゅわーっと、透明な肉汁があふれ出す。そのひとかけらにソースを絡めて、口へ運ぶ。「おお、美味い!」と嬉しそうな声をあげた。浩太もフォークで差した『ハンバーグ』をじっと見た後、ゆっくりと口に運んだ。
叔父さんから預かってはいるが、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は浩太の店である。、浩太以外の他人が考案した料理を店で出したことは今まで一度もない。もう一人のシェフ、貴士でさえ自分の料理を提案したこともない。毎日、毎日、鉄板を借りて、試作を繰り返す美代の『ハンバーグ』は、日に日に進化を繰り返し、とうとう、皆が見守る中、メニュー審査会となったのである。其れは、浩太なりに美代の才能を認めていたからに他ならない。
浩太はゆっくりと口の中で、その味を堪能する。
「どう?」美代が浩太に問いかける。
「うん…」と無表情で味見中である。しばらくして、浩太は口を開いた。「外はカリカリ、中はジューシー、食感も肉質も良い感じだ。多分、そっちも…二つとも同じ質で焼けている。料理としてのムラもない!うん」浩太の口元が少し笑った。美代は見逃さない。
「美味しいんでしょ!美味しいって言いなさい!」
貴士でさえ、一目おく浩太に対しても、美代は臆さない。料理に対して、物凄く前向きなのである。浩太は、さも分からないといわんばかりに、もう一口、そいつを口に運んで味わった。美代はじっと睨むように浩太を見つめる。さっきより、顔がやけに近い―。
「分かった、美味しいよ」浩太は素直に負けを認めた。
「じゃあ、決まりね!店のメニューに入れても良いでしょう」美代は浩太に訊いた。
浩太が腕組みをして考える。
「『美味しいものは、お客に出さないとイケナイ』、うちのお爺ちゃんの口癖よ」
「なんだ、それは?」浩太は、『そいつ』を眺めた。―お前も頑張ったんだしな―。
「…仕方ない、雅人!メニュー用の写真を撮ってくれ」と雅人に頼んだ。
美代が右手を頭の上を揚げながら、いつものガッツポーズをとった。「やりー」
「やったな」貴士と雅人が美代と続けてハイタッチで喜んだ。
『サラ・ドゥ・ピアンゾ』に美代のハンバーグがメニューに加わった記念すべき瞬間だった。美代にとって幸せな瞬間で、記念すべき日だった。
―ハンバーグが焼けなくなる。あの日が来るまでは―。
七月中旬、大阪城の石垣で出来た堀の水面が日に日に下がる。青々とした木々、照り返すアスファルトが、ニュースで発表される気温を更に上昇させる。しかしながら、この大阪城の周りは、涼しい風が時折抜けていく。
スポーツタオルを首にジョギングをする人、立ち止まって汗を拭いて空と同時に大阪城を見上げる。ここ、日溜保育所の校庭からも、蝉の声をバックに見上げると大阪城が顔を出す。保育所では、この暑さにも関わらず元気な子供達が駆け回っていた。
大学生である美代は、イタリア料理店『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で働く姿と、もう一つの姿を持っている。日溜保育所で、親友の横路亜理紗と共に保育士見習いのアルバイトをしているのだ。
美代が自作の紙芝居を手に遊戯室にやって来た。日溜保育所の園児の中では、この紙芝居は結構有名だ。紙芝居のことを知ってる親たちもいるほどだ。
園児たちが、それぞれに楽しく遊んでいるところに、美代の大親友の横路亜理紗も一緒に遊戯室にやって来た。そして、いつものように、椅子と机を用意して即席の紙芝居会場の準備を始める。
その二人の様子を見つけた園児の一人、陽輔が「はじまるぞぉ」と校庭から大きな声を出した。その声を合図に、園児たちが美代と亜理紗の周りに集まってくる。
校庭から、数人と共に、靴を投げ捨てて教室に走りこんできて、座っている園児を押しのけて、美代の前、特等席を陣取った。陽輔はその真中にどかっと胡坐をかいて座ると、真剣な目でじっとこちらを見つめる。
「駄目よ、陽輔くん。後で来たんだから、後ろに座りなさい!」亜理紗がビシッと言う。
「嫌だ、前がいい」座り込んで動かない。
陽輔は園児の中でも体が大きいせいか、なんでも先頭切るリーダー的存在だ。保育士たちも他の園児と一線を画して目をつけている。美代も「こりゃ、将来、大変だ。ガキ大将の素質アリ」と苦笑いする。そんな、陽輔が、実は孤児で本当の親に育てられていないというのも、園長先生から訊いたことがある。「山本さん、子供達は、私たちが考えている以上に繊細だから、言葉には注意するのよ。心にとめておきなさい」という。美代にとって、何を注意したらいいのか、何を心にとめておいたらいいのか、少々困る。ただ、話題を振らないようにしている。いろいろ気を遣っているのだ。しかし、当人は至って元気。今も、目の前で、席の取り合いで小突きあっている。そういう姿は、やっぱり可愛げが付きまとう。美代はニコリと笑いながら、園児のために、前の場所を少しあけた。押しのけられた園児がその場所に納まると、美代は皆を見渡した。
「早く、お姉ちゃん!」と陽輔に催促され、美代は紙芝居を始めることにする。
亜理紗が「はじまり、はじまりぃー」と軽快に声をかけた。
―ある小さな村に、幸せなじいさんとばあさんが住んでいました。
じいさん、ばあさんは二人っきりで小さい食堂をやっていました。
―そのころ城では―
グルメ国王が、国中のグルメを城に集めて各国の王に振舞っていました。
ある村はずれから来た男がグルメ国王に言いました。
「ある村に、ここのどれよりも、美味しい料理を食べさせる食堂がありました」
グルメ国王は、どうしてもその食堂に行ってみたくなりました。
この年は、日照りが長く、食べ物が少なく大変な年でした。小さな村では食べるものがなく、じいさん、ばあさんの食堂も、とうとう、料理が出せなくなってしまいました。
こんな時に、小さな村にグルメ国王がやって来ることになったのです。
村は大騒ぎ、当然、じいさん、ばあさんも大騒ぎ。
「何も作ることが出来んぞぉ」
村の人々は、めそめそと沈んでいるじいさん、ばあさんを見て、何か協力できることはないかと考えました。金物屋さん、八百屋さん、お肉屋さん、パン屋さん、食器屋さん、調味料屋さん、皆が、じいさんとばあさんの食堂に大集合。
「じいさん、ばあさん、グルメ国王をがっかりさせないように、協力するよ」
「そうだ、俺達みんなで協力するよ」
小さな村は一致団結しました。
「私の家の鉄全部で最高の鉄板を用意してやる」金物屋の主人が言いました。
「私の畑の最高の玉ねぎを全部用意してやる」野菜屋の爺さんが言いました。
「私のところにある最高のひき肉を全部用意してやる」肉屋の旦那が言いました。
「私のところの最高のパン粉を全部用意してやる」パン屋の奥さんが言いました。
「私の店の最高の食器を全部用意してやる」食器屋の姉さんが言いました。
「私は店の最高の調味料を全部用意してやる」香辛料屋の婆さんが言いました。
みんなが協力しました。
しばらくすると、食堂の机の上には、沢山の食材や食器が山積みに集まりました。
「じいさん、ばあさん、あんたらは、この村一番の料理人だ。俺達にいつも振舞ってくれる、あの美味しい料理をこれで作ってくれ!俺達も手伝うよ」
じいさんは考えました。ばあさんも考えました。
「私たちは、諦めたらだめなんだぞ」じいさんは奮い立ちました。
そして、じいさんは思いつきました。
陽輔が目を輝かせて立ち上がった。「ハンバーグだ」陽輔たちが、騒ぎ出す。
「陽輔くん、座りなさい」
陽輔とその周りはしゅんとして座り込んだ。美代は、紙芝居を続ける。
「じゃじゃじゃーん、ばあさん、ハンバーグを作ろう。ハンバーグしかないぞ」
「ほら、やっぱり、ハンバーグだ!」陽輔が、また、立ち上がる。「ハンバーグだ!」
「大当たり!ハンバーグ、ハンバーグ」陽輔の友達も騒ぎだす。
「お姉ちゃん、また、ハンバーグぅ?」
「僕はハンバーガーがいい、だってね」「わたしはね、わたしはね、ケーキがいいの」子供達は好き好きに、食べたい物を口にしだした。
「ちょっと、紙芝居は続いてるのよ。黙って訊きましょうねぇ」と優しく声を掛けるが、静まらない。「もう」と美代は唸った。
「ハンバーグは皆、好きでしょう?」美代は大きな声で子供達に問いかけた。
「好きー」「大好きー」合唱が起きた。
美代は子供たちに囲まれて頷きながらにっこり笑う。
いつもこの調子だ。これで園児は大人しくなって、また話しを聴き始める。
「第9編、『グルメ国王とハンバーグ食堂』は終わりね」亜理紗が紙芝居をたたんだ。
紙芝居が終了して、亜理紗が机を片付ける。
「よくもまぁ、こんな同じ紙芝居を何枚も描き続けられるわね…」第9編の紙芝居が机に載ったままだ。そのエンディングには、コック姿に赤いスカーフをするおじいさんと、同じくコック姿に黄色いスカーフをするおばあさんが、濃い藍色の服を着た、グルメ国王にハンバーグを提供しているシーンが描かれている。
「『グルメ国王とハンバーグ食堂』最高でしょう」
「なんで、題材がいつも『ハンバーグ』なの?『ハンバーグ王子と魔法使い』に、『ハンバーグ城の女王様』『ハンバーグと七人の妖精』他、多数…」
「いいでしょう」美代の口調はいたってまじめだ。
「園児相手に、うけを狙ってるの?」亜理紗が机を隅に寄せた。
「違うわよ…ハンバーグだと楽しくなるでしょう」美代が椅子を元の位置に直す。
陽輔だけが、片付けを手伝ってくれている。美代と亜理紗が片付けが終って、職員室に戻ろうとした時、陽輔が服の端を引っ張った。「もっと、紙芝居してよ」
「今日は、もう終わりよ」諭すように優しく言った。紙芝居は、いつも、帰り間際にやっているので、紙芝居が終る時間は、いつも親御さんのお迎えの時間なのだ。陽輔の場合はそれが少し違う。
「片づけるから手伝ってくれる?」名残惜しそうな陽輔に美代が訊いた。
「うん」
陽輔は、両手にしっかりと紙芝居を抱えて、美代の後をついてくる。美代は、職員室へ戻ってきた。亜理紗は、遊戯室の鍵を返しに園長室へ行く。陽輔から、紙芝居を受け取ると美代は、机の上に置いた。
その時、その紙芝居の横の電話機のベルが鳴った。
トゥルルルルルルルルウ
トゥルルルルルルルルウ
アルバイトの身であっても電話は取らないといけない。伐が悪くその場を陽輔を連れてそぉーと、離れようとしたが、先輩保育士の金城さんが声が掛けた。
「山本さん、電話取ってくれる!」
美代は仕方なく、進めた足を戻して、電話の前に立ち、受話器を取った。
「はい、こちら日溜保育所、わたくし、山本です」
電話の主は太い声でゆっくりと話し出した。「失礼します。私、園児の関係者なんですが、少々お聞きしたいことがあるんですが…」
「えーと、どんなご貢献でしょうか?」
「…そちらに、立花陽輔くんという男の子…は、いらっしゃいませんか?」
「え」美代は、真横に紙芝居を見つめている陽輔くんをじっと見つめた。立花陽輔は、今、目の前で美代の隣にいる、この子のことである。
「え…はい、それがどうかしましたか…?」美代は不思議に思って問いかけた。
「…いるんですね」
「あ、いや、…」園児のことは、関係者以外には答える必要がない。個人情報なので、話してはいけないことになっている。「いるとか、いないとかじゃなくてですね…あなた、誰ですか?」しどろもどろになって、美代は答えた。
「ふふ、いるんですね…みつけました…」
美代はサーと背中に寒いものが走り抜けた。―怪しい男だ―。
「あなた、誰ですか?」美代は怒鳴りつけるように訊いた。
ガチャ…ツー。
美代は、かぁあっと怒りが溢れた。
―切れた―。
美代は首をひねって受話器を置いた。なんで、陽輔くんのことを訊いたんだろう。私、居てるとは、言わなかったし、大丈夫―。自分で自分に言い聞かせた。
「どうしたんだい」金城さんが声をかけてきた。
「いや、なんでもないです。怪しい声で、陽輔くんのことを訊く電話だったんですけど、途中で切れました…」美代は取り繕って、陽輔と職員室を出ようとした。職員室の美代の机からは、外の校庭がよく見える。保護者が数人、園児のお迎えにやってきている。今日の、夏の空はまだまだ青々としている。日は高い。
陽輔の保護者の立花さんの姿が、校庭のほうに見えた。その姿を見て、美代はホッとした。
怪しい電話のすぐ後だ。陽輔くんに万が一のことがあったら大変。立花さんに連れて帰ってもらうのが一番だ。立花陽輔の保護者は、七十歳は回っている年配の老婆である。当然、陽輔の母でもなければ、祖母でもない。養子として彼を育てている義母である。当の陽輔はまだ、美代に付きまとっている。
「こんにちは」と立花さんにお辞儀をした。
「あぁ、山本さん、こんにちは」立花さんは校舎に隣接しているベンチに、いつものように座った。「よっこいしょ」立花さんは、ゆっくりした動作で腰掛ける。「この暑さだし、ちょっと、疲れたよ。歳をとると、足腰がすぐ疲れる。少し休んでいくわ」と腰を降ろした。
うっかりしていた。立花さんは、いつも三十分以上、休憩する。その間は、ずっと、陽輔は一人で遊んでいるのである。―うーん。このままはまずいなぁ―。美代の業務時間はとっくに終っている。三十分、陽輔を一人ぼっちにしたくない。
「立花さん…」美代は、後ろに引っ付いてくる陽輔を見つめながら老婆に声をかけた。
「ちょっと、陽輔くんと散歩してきてもいいですか?」
陽輔の顔がほころんだ。
「あぁ、行っておいで…」と立花さんは、タオルで汗を拭きながら応えた。美代は陽輔の顔に近づいて話しかけた。「今から、お姉ちゃんとソフトクリーム食べに行こうか?」
「うん、行く」
まだ、太陽の照り返しはある。外は暑い、水色のデニムの上着を羽織った陽輔くんの手をとって、校舎から、顔を出す大阪城目掛けて歩き出した。陽輔の手を握る。陽輔くんの手はこんなに小さいんだと、改めて驚いた。
五分ほど歩くと、大阪城を前にして露店が並ぶ広場につながる。赤や青やの賑やかな店たちは、この暑さでも元気に呼び込みを続けている。美代は、一掃、元気に声をあげる一つの露店に近づいた。発泡スチロールの何かの食材が入っていただろう蓋に『ソフトクリーム バニラ・チョコ・ミックスあります』と手書きで書かれている露店だ。
「バニラ・チョコ・ミックスだって、陽輔くん、どれがいい?」
「僕、ミックスがいい」
「ミックスね」美代はミックスを二つ注文した。「あいよ」と店のお婆ちゃんが、ソフトクリームミックスをコーンの上に絞り出した。美代は、陽輔に縞々のソフトクリームを渡す。
「落とさないようにしてね」美代は小さな手がしっかり握るのを見守って手を離す。
美代はお金を払うと、パノラマの視界の中央に大阪城が見えるベンチに二人で座った。二人で、大阪城を見ながらソフトクリームを頬張る。
「美味しい?」
「うん」美代が陽輔くんを見ると、目があった。
「なんか、お姉ちゃん、お母さん見たいだ」
「そう、照れるな。陽輔くんの義母さんは…、立花のおばさんよね…わたし、おばさんみたい?」
「違うよ」
「え、本当のお母さんのこと覚えてるの?」
美代は―しまった―と思った。園長先生に注意されていたんだった。
少し考えるような顔をした陽輔は、「わからない、多分、覚えていたんだけど、忘れちゃった」
何気ない言葉は大人には問題なくても、子供には直球になる。子供は、辛くなることを考えないようにとか、自分を誤魔化そうとかいう行動は多分できない。保育士のアルバイトをやっていて、それがよく分かる。何も考えない大人の何気ない言葉が子供には、全てが直球として胸に刺さる。美代は頭を掻いた。
陽輔がじっと地面を見つめて、足で地面を蹴り始めた。
「どうしたの?」
「虫…」
地面を見ると小さな蟻が早速、こぼれたソフトクリームの近くをうろうろしている。
「蟻ね」
「あり?」
「そう、食べものをこぼしたりすると集まってくるよ」
「ふうん、いつもお腹が空いてるんだね」
覗き込んだ陽輔の服に、手に持ったソフトクリームがべったりと付いた。
しまったという顔をした陽輔の手からコーンだけを残して、ソフトクリーム全部が地面に落下した。手も服もべったりだ。地面には、ソフトクリームにおぼれている蟻がいる。
「あら、あら」美代は、ハンカチを取り出して、「手と服を拭いて」と陽輔に渡した。
「ソフトクリーム…」手と服についたクリームより地面に落ちたソフトクリームを気にしている。
「いいのよ、お姉ちゃんのをあげるから」
「違う!」陽輔が怒った。
「どうしたの…」
「御免なさい…いらない。自分のは落としたから…折角、お姉ちゃんに買ってもらったのに…御免なさい」
自分のことより、買ってもらったものを落としたことを後悔している。この子は、普通の子より、しっかりしている。自分に厳しいのかな?美代はそんなことを思った。
手を拭き終わったが、服のシミがどうしても取れない。―参ったなぁ。立花さんになんて言おう―。「陽輔くん、上着、脱いで、ちょっと汚れ落としてみる。暑いから大丈夫よね」
「うん」陽輔がデニムの上着を脱ぐと、水色のシャツ一枚になった。上着を脱がす時に、背中の首筋に一瞬、ゴミがついているのかと思って叩いたが取れない、ほくろだと気付くのに時間がかかった。
「持ってて。半分こしよう」美代はニコリと自分のソフトクリームを渡すと、近くの水飲み場まで走っていって、ハンカチを濡らして上着を叩いた。
しばらく叩いた、大分落ちたが、チョコが曲者だ。やっぱり綺麗にはとれない。
戻ってきた美代は、「駄目だ、落ちないや、洗濯しないと駄目ね」と苦笑いした。
「もう、着れないの?」
「大丈夫よ、洗えば着れるわよ」
「じゃあ、洗って」陽輔は子供らしく、簡単に頼みごとをする。
「え、お姉ちゃんが…」
「うん、洗って、洗って」
困っている美代にいきなり後ろから声が聴こえた。
「洗ってやれよ」
白いコックコートに、赤いエプロンとスカーフ、粕谷浩太が、両手に食材を沢山詰まったビニール袋を持って現れた。
「なに、その格好?」美代は、いきなり声をかけた主が浩太で、コック姿であることに気付いた。
「おいしそうだな、そのソフトクリーム?」浩太が両手一杯の買物袋を持ったまま、陽輔に声を掛けた。陽輔はソフトクリームを取られるかと、そっと浩太に見えないように隠す。
「どうしたの、その格好にその荷物?」
「あぁ、帝新ホテルに寄った帰りなんだ。団体さんのキャンセルが出てな。材料が余るので安く卸してもらったんだ。今から、店に持っていくところだよ」
「ふーん」興味はあるが、陽輔の手前、それ以上訊くのは止めた。
陽輔は、不思議そうな顔をして浩太を見つめていたが、すぐに嬉しそうな顔に変わった。「あ、料理のお兄ちゃんだ!」と声をあげた。
この前、立花さんが、保育所の帰りに、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』へ陽輔を連れて寄ってくれた事があった。その時、美代が店にいたこともあり、陽輔はずいぶんと打ち解けて店で楽しんだ。当然、『美代のハンバーグ』を陽輔は食べたのだった。陽輔は知り合いだと分かると口が滑らかになった。
「ねぇ、ねぇ、スパゲッティ?それとも、ハンバーグを作るの?」
浩太も、陽輔を、じぃーと見て小さいお客さんに気付いた。
「もしかして、この前の、えーと…陽輔くんだろう」浩太も覚えていた。
「あたり」陽輔は嬉しそうに答える。
「スパゲッティを食べたいのか?」
「うーん、ハンバーグのほうがいい」
「ははは、そうか、ハンバーグに又、負けたな」浩太は残念そうな顔をした。
「今度はな、お姉ちゃんのハンバーグじゃなくて、お兄ちゃんのスパゲッティを食べにおいで、絶対美味しいから!」
「お兄ちゃん…僕も料理したい。美味しい料理を一杯作ってみたい」陽輔は浩太の顔を見つめて真顔で話した。浩太は一瞬、驚いた顔をして、ふふんと鼻を鳴らした。
「そうか、そうか、料理か、その年からなら、お兄ちゃんやお姉ちゃんを、すぐに追い越すぐらい上手になるぞ。頑張れよ」浩太は、荷物を置いて、陽輔のふわふわの髪をクシャクシャと撫でた。
「うん」陽輔は照れた様子で頷いた。
「お兄ちゃんが、呪文を教えてやる。絶対凄い料理人になる呪文だ!」
「え、教えて!」陽輔は目を輝かせて訊いている。
「辛くなったり、もう駄目って思ったら、口に出して言うんだ。『諦めたら駄目なんだぞ』ってな」浩太は自信たっぷりに話した。
「浩太!園児に言う言葉じゃないよ」陽輔は首を傾げて訊いていた。
浩太は、「それじゃ、ばいばい」と、両手一杯の食材を持ち上げると、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の方向へ何度か、振り返りながら去って行った。
保育所へ戻った美代は、立花さんに上着を洗って返すことを告げて陽輔を見送った。
それから、何人からの園児を見送った、美代と亜理紗の二人は家路に着いた。
何気ない一日、代わり映えのしない一日が、過ぎていく。
日溜保育所の時間も『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の時間も流れていく。
立花陽輔も、山本美代も夢の中。
『サラ・ドゥ・ピアンゾ』もとっくに閉店した夜。
浩太は、一人住まいの自宅マンションで寝息を立てて熟睡していた。携帯電話のベルが、枕元で鳴り響いて、安眠を妨害された。
しかし、妨害されたのは、安眠だけではなかった。
浩太の望まない、後戻りできない日が、始まろうとしていた。
―夢を見ているのだろうか―
―浮んでは消える―
―姿形がまとまってきた―
薄い淡い色―、
木褐色に、ニスでぬられたウッドチェアが四脚、光を反射して輝いている。
寂しそうな男の子が一人いてる。それは自分だ。テーブルに添えられた、そのウッドチェアの一つに幼い自分が座っている。足が地面に付かずにブラブラと宙を泳ぐ。
―青いテーブルクロス。
テーブルには、料理が載せられている。一つ、二つ―
向いの席には誰かが座っている。口から言葉が漏れた。
「お母さん…」
「なあに?」返事をするのは母だろうか―
「僕、大きくなったら、スッゴイ美味しい料理作るよ」
「へえ、楽しみにしてるわ…」
「お父さんは、遅いね。今日も帰らないの?」
「そうね…今日も仕事よ…」母なのだろうか?顔は薄く輪郭だけを残して消えていった。
瞼が開いて暗い天井が見える。夢を見ていたようだ。天井をじっと見つめる。
「記憶か…」思い出したこともなかった幼い頃の記憶は、全くないはず。思い出そうとしても思い出せない。なぜか落ち着かない感じがする。
浩太は、飛び起きた後、電車を乗り継いで、北千里までやって来た。
深夜、ひと気がない八坂大学付属病院前の登り坂を、一人で歩いている。
外灯が、ぢぢぢ、と音を立て消えかかっては、また点く。
遥か前方のコンビニの明かりが遠くの道路をぼぉーと浮かび上がらせる。道路脇は草が伸び放題で夜闇にまぎれて何かが潜んでいるのではないかと思わせるほどだ。
粕谷浩太は、眠たい眼を擦りながら、そんな荒れた歩道を進んだ。当然、夜に電話一本で叩き起こされた眠気で頭が痛い。追い討ちをかけるように、八阪駅前でタクシーを拾えなかったのがそもそも間違いだった。歩いて『十五分』と駅員に言われて病院まで歩いてみた。しかし、こんなに寂れた道で、しかも登り坂ばかりを歩いていくとは、思いもしなかった。そういえば、以前来た時は、母の車だったな―病院への道のりは優しくすべきだ―と一人、後悔してぼやいた。
浩太には、母の電話を放りっぱなしにできない理由があった。電話は、行方不明の叔父さんが見つかったというものだった。だが、心配をしている訳ではない。
粕谷浩太にとっての叔父さんは心配してあげるという存在ではなかった。母親や親戚からは呆れられている変人だ。しょっちゅう、行方不明になって、ある日ひょっこりと帰ってくる。だから、深夜に病院へ急ぐというシュチュエーションにも、浩太の内心はホッとしていた。それは、叔父さんが病院に行けば『遭える』からだった。
息を乱しながら、足先を伸ばして道を急ぐ。不意に、ヘッドランプが光って、浩太を、後ろから黒い高級車が横をすり抜けていく。車の運転席には知っている顔が見えた。目先のコンビニを通って走りすぎる。―母だ―。
登り坂の先を上がりきったところで、ウィンカーランプを光らせ、車は右前方の丘の上に見える病院に消えた。―気付いてもいいのに―、と思いながらも一緒に車に乗ることはないけどなと考えて、そのまま、コンビニを通り過ぎ坂を登った。
病院の植木が並び立つロータリーまでやって来た。ロータリーから病院の入り口へは、緊急車両が通れるように道路が右カーブで伸びて、総合病院ならではの大きなエントランスが見える。大学教授の叔父がここに運び込まれるのは、案外当たり前のことだ。もし、これも叔父の計算なら、やっぱり大したものだと言わざるを得ない。
『夜間出入り口』の看板を見つけて、その矢印の指示通りに病院の裏へと廻った。
裏口の自動扉は簡単に開いた。夜間受付カウンターには、誰も見当たらず、『来院者は内線301を…』と書かれているだけだ。浩太は内線通話用の受話器を取ったが、近くで話し声がして受話器を戻した。
奥の待合室のほうから、声が聴こえる。暗闇の廊下を浩太は進んだ。真っ暗な待合室には、聞き覚えのある声が響いていた。以前、やはり叔父さんがお世話になった『時田医師』と母の『知子』の声であるのは間違いなかった。非常灯の緑色が近づくに連れて淡く人影を照らし出した。
「本当によろしいんですか…」「はい、お願いします」
二人に近づいて、浩太は「母さん」と呼んだ。
その影が母の輪郭を成した。
「浩太、来たのね…あなたの方が早いかと思ったけど…」母、知子が腕組みをして、溜息を吐いた。
いつもどおり、偉そうな態度。自分が常に命令しないと気が済まない人。自分の弟が入院しているというのに、こんな時でも知子は、母より社長としての姿を演じている。
細い鋭角な四角の眼鏡と濃い紫のスーツ、胸まで伸びた髪を後ろにストレートに流している。高いヒールを履いていて、浩太の背丈とそう変わらない。
実は、浩太の母は、粕谷コーポレーションという、土地建物売買を中心にした業務の社長をしている。最近は、ショッピングセンターやスーパーセンターをデザインする事業を生業としており、彼女の周りには、大手の量販や飲食店の店舗開発スタッフがいつもトグロを巻いて大名行列のように後に続く。父は父で、同じことを、海外でやっていて、浩太は物心着いたときから本人には会っていない。この両親の偉そうな態度は今に始まったことではないし、浩太が思うところ、多分、社会的には、この人たちは、偉いんだろうと思う。
でもそんなことは、関係ない。人としてどうだと思う。両親に意見を言う人がいないから、駄目な大人が両親を付け上がらせて、さらに駄目にしていると息子ながらに諦めていた。
命令口調、断言する口調、人の話しを訊く前に応えは決まっていて、決して考えを変えない。浩太にはそんな両親が嫌でたまらなかった。しかし、敢えて指摘して荒立てる必要もない。浩太は、自分では自分を大人であると自覚していた。
「母さん、電話ありがとう」と浩太は少しばかり感謝の言葉を伝えた。
「仕方ないでしょう、後で話さなかったって怒られたくないわ」
「…叔父さんは?」
「私もまだ会ってない、知ってるでしょう。さっき、道路で見たんだから…これから会うところよ」相変らずの口調。見たのなら、声をかけてくれてもいいのに。
隣で、男性が、深々とお辞儀をする。思ったとおり時田先生だった。
「時田先生、こんばんは」浩太は声を掛けた。
「憶えていただいてて光栄ですな、浩太さん」中肉中背、恰幅のいい腹は半年前より貫禄があるように見える。浩太はこの先生は嫌いではない。暗闇で見えないが、この世間ズレした母親の前でも、多分、さわやかな笑顔をしているに違いない。
「時田先生、本当に叔父さんが戻って来たんですか?」浩太は母より時田と話すことを選んだ。
「あぁ、間違いなく叔父さんだ。八阪大学教授、『日高馨』に間違いない」
「まぁ、とにかく、病室のほうに案内しましょう」時田は、二人を案内して廊下を進んだ。母と息子は久しぶりの再会にも関わらず、顔を見合すこともなく時田に従った。待合室からエレベータに乗り、八階までやって来た。一同はナースステーションだけが光っている、暗闇が続く廊下を進んだ。
深夜の病院は、静寂が包んでくる。しんとした静寂から、いつしか小さな、ピ、ピという電子音や、ポタ、ポタという水の滴り音が鮮明に聴こえだす。何か話していればそうでもないんだろうが、無口の三人の間では、静寂が増幅される。時田医師が一つの個室の前で立ち止まった。
「ここです」振り返る顔が青白く照らされている。
病室のプレートには『日高 馨』と書かれている。先生が開いたままの扉をくぐった。部屋は暗く薄赤い光が灯っている。先生に続いて、知子、浩太の順で入る。深く長い寝息が聞こえた。浩太は、智子の横から覘いた。深い息をしている叔父さんがいた。
『八阪大学物理学教授 日高 馨』浩太の尊敬する人物だ。その腕には点滴が刺さり、太い管はベッドの脇を天井に伸び、先に二袋の食塩水がぶら下がる。
「叔父さん!」浩太は、身を乗り出して声をかけた。
「静かに!寝かせといてあげなさい」時田は、口に指を当てて浩太に近づいた。「命に別状はありません。ただし、少々錯乱状態だったので強制的に寝かせています」
「…そうなの、全く人騒がせね」知子がさげずむように言う。
「少々のことでは驚きませんが、日高教授にはびっくりさせられますな。今回は、大学の研究室の前で倒れていたんです。一年振りにいきなり現れたと思ったら、今度は大学構内で倒れてるんですから…」
「何処に行っていたのやら…」知子が続けて悪態を吐いた。
「…日高教授は、うわ言のように『会えてよかった。そうだったのか』と繰り返してましたよ。誰に会えて良かったのか、分からないですがね…、今度、元気になったら、誰に会ったのか、逸談を聞かせてもらいましょう。…それにしても、大学側でも、通用口を通った様子もないので、不思議がっていましたよ…」
二人は、時田の話しに耳を傾けた。
「何日も食事をしてなかったんでしょうね。極度の栄養失調です。血圧も低く、脈拍も弱い。正直、事件性があるかと思ったんですが、外傷は全くない。前回はどうされたんですか、警察には特に言ってないんでしょう」
「まぁ、本人が自分の意思で行動しているって言うんですから…どうしようもないんですけどね…」母、知子は溜息を吐いて叔父を見下ろす。
「本人がそういうなら、仕方ないですな…」
実際、叔父さんは今までも、このように行方不明になり、いきなり戻ってくることが多かった。叔父さんは、いったい何処へ行っていたのだろう。
浩太は日高馨、叔父さんのことを思い出した。
浩太の父は海外で仕事をしている。浩太は、一度だけ、高校一年生の時イタリアにいたことがあったが、浩太が海外にいたのはその一年間だけだった。父の側で生活をする為に海外へ行ったが、イタリアにいても、父がイタリアの自宅に帰ってくることは、ほとんどなかった。おかげで、下宿先のトスカナ料理の得意なおばさんに料理を教わって自炊していたぐらいだ。それ以前も、それ以降も父親について海外に住んだことはない。母は、母で父親ばりに日本で走り回っており、自宅には全くいない。だから、日本にいても、浩太は一人ぼっちだった。叔父さんは、母さんの弟にあたる。そのために、度々いなくなる日高馨でも、よっぽど一緒にいる時間が長く、浩太にとって家族同然であった。父親的存在、いや歳の差があまりないこともあり、どちらかというと兄弟的存在であった。
日高馨は、物理学教授という地位と名声を持ってはいるが、かなりの変人。音信不通、行方不明は日常茶飯事、消えたと思えば、ひょっこり現れ、そのたびに見識が深まっている。天才とは彼のためにある言葉のように思える。両親と一緒に暮らしておらず、兄弟もいない浩太にとって、日高馨は身近にいる憧れであり、目標だった。
特に浩太が興味を持ったのが、日高馨の『料理の才』だ。その腕前には、いろいろな料理人が舌を巻く。世界中の料理を両腕からつむぎ出すことができた。浩太が小さい頃は、自分のアトリエのように使う厨房『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で、様々な料理人を呼んでは料理をさせた。浩太は、日高馨の料理を食べることは有っても、日高馨から料理を教わることはなかった。日高馨は、人に物事を教えることを極端に嫌っていた。
だからこそ、浩太は、日高馨が消える度に、自らその料理の腕前を伸ばした。いつしか、日高馨が戻ると浩太は料理の腕前を『サラ・ドゥ・ピアンゾ』で彼に見せるようになっていた。浩太の料理の腕前は次第に、周りも舌を巻くほどになっていく。
あれから、一年。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は日高馨の持ち物のままではあるが―、浩太が調理師免許を取ってから、なし崩しに浩太が運営するようになった。店は、叔父さんのものだが、実質は浩太が運営している。浩太は、そんな関係に満足していた。店を中心に仲間に巡りあい、浩太の今は充実していた。浩太の今を作っているのは、間違いなく『料理』であり、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』だったのだ。
その原因の発端ともいえる叔父さん、日高馨が帰ってきたのだ。浩太は寝ている叔父を見て、料理の話しができないのを残念に思った。
感慨深く、叔父さんを覗き込む浩太に、時田が話しかけた。日高馨が無事なのを確認できたので、二人は時田医師の勧めもあり、今日は一旦引き上げることにした。
部屋を出ようとして、浩太は病室の片隅に黒い塊を見つけた。なぜか気になって、視線を向けたままでいると、時田が説明した。「あぁ、それは、日高教授の荷物らしいよ。倒れていた場所にあったんだ。残念ながら、土産の類は入っていないようだけどね」
よれよれになった上着が、鞄んきかけられており、その下に隠された鞄は結構大きいのが分かった。浩太は歩み寄ると、しゃがみこんで上着を捲って、鞄を見た。少し開かれた鞄のチャックから何か、赤い本のような、ノートのようなものが見えているのに気がついたからだ。それを手に取ろうとして、鞄の外側のポケットに挟まっている紙切れが、ヒラリと床にこぼれ落ちた。
浩太は、目で追ったあと、少し移動して、その紙切れをゆっくりと拾い上げた。
「写真…」
薄暗い部屋の明かりの中で、偶然に手に舞い込んだ写真を見つめた。
そこには、叔父さんとある男が、質素な居酒屋?白い壁に黒い窓枠、武家屋敷みたいな作りにも見える、食堂のような建物の前で肩を組んでいる写真だ。
見たことも無い場所だな。叔父さんの横にいる人物は誰だろう?
ふと、浩太は、これが今回の叔父さんの目的だった気がした。
―会えてよかった―と、叔父さんが繰り返していたと時田は言った。―会えてよかった―と―写真を見つめて、顎ひげと口ひげを蓄えた男の顔をマジマジと見つめた。
なぜか、その男が料理人のような気がした。
―この人に会いたかったのかい、叔父さん―
寝ている叔父さんに振り返り、心の中でそう訊いた。
時田医師に肩を叩かれて、浩太は我を取り戻した。思わず写真を自分の服のポケットに入れた。
「それじゃ、申しわけないが、面会時間はとっくに過ぎてるので、外まで送りましょう」時田が先導する中、病室まで来た道を逆にたどった。
静寂に耐え切れなかったのか、母親が久しぶりの会話をはじめた。
「あなたが、慕っているのはわかるけど、あの人に人生を振り回されるのは辞めなさい。あの人と同じの生き方は出来ないわよ!」
「わかってるよ」浩太は、心なく、適当に相槌をうつ。
「風来坊には風来坊の生き方があるんだから…、まさか、憧れている訳でもないでしょう」
「そういうことじゃない。でも、叔父さんが凄いことに違いはないよ。母さんは、そんな、叔父さんが、いったいどこに行っていたか、興味ないの?」
「そんな興味は、遥か昔になくなったわ」
時田は病院の出口まで送ってくれた。
時田と別れてから浩太は、再び母親に訊いた。
「叔父さんは誰に会ってたんだろう?」浩太は写真の男を思い出しながら母に訊いた。もしかしたら、母なら知っているのかもしれない―。
「誰でも良いでしょう。今回も大学職が解かれなかっただけでもありがたいんだから…本当に情けないわ」知子は、思い出したように続けた。
「それに、叔父さんが帰ってきたんだから、いい加減に料理遊びは辞めなさい。今度こそ、あの店を明け渡すのよ」母は叔父さんに土地を譲るように、前から言っていた。叔父さんは一度も首を縦に振ったことなどない。今度も叔父さんが譲らないのは、昔から一緒だ。母の遠吠えで終わるのは眼に見えてるし、叔父さんにとって、あの店は重要な場所のはずだった。
「…あの店って、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のことかい!叔父さんもそのつもりはないって何度も言ってるじゃない!それに、料理遊びなんて言わないでくれ、本物のレストランなんだ…お客さんも付いている!」浩太はムッとして、言い返した。
「浩太、いい加減に目を覚ましなさい。飲食店を経営するより、飲食店の経営を見て選ぶ側に立ちなさい。料理なんて、一生やっていく仕事では、ないわ!」母は容赦なく言い放つ。彼女の中では決定していることだけがある。
「そっちの仕事こそ、一生あると思わないよ。俺は、俺。叔父さんの真似をしているつもりはないし…遊びでやってるつもりもない」
二人のやり取りはずっと、駐車場まで続いた。知子は、やって来た黒い高級車の扉を開けて、腰を落として乗り込んだ。
「本当に頑固ね。送っていくから乗っていきなさい」
「いいよ…一人で帰る」
「もう電車もないわ。早くしなさい!」
「歩いてかえるよ」
浩太の言葉を噛み締めるように訊くと、知子は、ぷんとして、車の扉を閉め、エンジンを掛けた。そして、窓を開けて、窓越しに浩太に話しかけた。
「とにかく、あの店は空けるのよ。もう、売り先も見つけたから…明日、行くわ!」
「そんな!」浩太は、慌てて窓に手を置いて母に詰め寄った。知子は窓を閉める。
浩太は挟まれないように手を離した。息子を夜の駐車場に放置したまま、母の車は夜の闇へ消えた。浩太は、二、三歩、追いかけただけで、その車を見送るしかなかった。病院の駐車場に、一人、呆然と立ち尽くした。
浩太は細い目をして、じっと病室のある八階の辺りを見つめた後、ポケットに手を入れて写真が入っているのを思い出した。叔父さんの写真は全く持っていない。勝手に持ってきてしまった写真ではあるが、どうせ、叔父さんが元気になったら返せばいい。浩太は、そう心で呟き、目の前の真っ暗な下り坂に姿を消していった。
その写真が原因で、トンデモナイ出来事に巻き込まれることを知らずに―。
内環状線の東側に当たる場所『大阪城』が見えるあたりを更に内側に入ったところに、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』はある。日溜保育所からは徒歩二十分くらい。美代はアルバイト二つを近い場所に見つけることができたことはラッキーだと思っている。偶然に『サラ・ドゥ・ピアンゾ』を見つけ、偶然に『アルバイト募集』の告知を見て、思い切って、粕谷浩太の面接を受けた。やけに若い店員だと思っていたが、実は、浩太は店員ではなく、店長で、、美代の四つ歳上なだけで当時二二歳、高校生時代にイタリア料理学生チャンピオンになったことのある料理の腕前だった。美代は、それ以来、週三日をこのレストランでアルバイトとして過ごしている。それ以外の日も、時間があけば、店に顔を出していた。
ぱん、ぱん
美代が陽輔のデニムの上着を洗濯して部屋干しした。昼前になって、同じマンションの横路亜理紗、と『サラ・ドゥ・ピアンゾ』へ向かった。二人は、同じマンションに住んでいて、仲がいい。美代と亜理紗は大阪城公園の木漏れ日を抜けて歩いた。
「浩太くんの取材って、まだ多いの」
「最近は、余り来ないよ…」美代は黄色のトートバックを手に、ないないとジェスチャーで示した。
「そうなの?」
「まあ、本人は雑誌とかは、邪険に思ってるみたいだから、案外せいせいしてるみたい」
「そう、でも、取材が来た方がお客がふえるじゃない!最近お客少ないような気がする」
「うーん、それなのよね、取材の問題より別なものが原因だと思う」
「やっぱり駐車場がないのがいけないのかな」
レストランと云っても、大きさは10坪ほどで、亜理紗のいうように駐車場はない。
浩太は、『ワインを出すのに駐車場はいらない』と言うが、ワインを頼むお客さんは少ない。折角の好立地に駐車場がないのはもったいないと言ったことがある。だが、駐車場が簡単に手に入るものではないのは判っている。
住宅地の路地裏を歩いて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』がある一角までやって来た。今日は、時折、風が吹いているので、晴れていても気持ちがいい。
『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は、商店街を切り抜いたようなテナントの一部にあり、南北に並んだ、北側の端にある。といっても、残り全てのテナントはシャッターが降りたまま、美代の記憶では、開いたことは一度もない。その一角には小さな公園があり、人が結構多い大阪城公園の中でも穴場になっている。カップルがいちゃついていたり、仕事途中のビジネスマンが弁当を食べたりしている。今日も、数人のビジネスマンの人影が見られる。
―この人たち、うちで食事していけばいいのに―彼らには彼らなりの理由があろうが、美代はいつもボヤキながら眺める。
店の両脇には、『イタリアレストラン』と『特製ハンバーグ』の昇り旗が、むなしく、はたはたと揺らめいている。そして、入り口には『営業中』のプレートが掛かり、トリコローレの国旗がその上にはためく。
「ボンジョールノ!」美代が扉を開ける。扉の上に取り付けられたカウベルが、カランカランと金属音を鳴らす。
店内は奥に細長く、扉からまっすぐに奥の厨房まで見渡せる。右にカウンター席が一列、左に四人掛けのテーブルが四つある。
「ボンジョールノ!」白のコックコートに青のソムリエエプロンを見立てたはずの…貴士が、ホール用のオレンジエプロンで青のソムリエエプロンを隠して、淵なし眼がねで笑顔で迎える。
「あぁ、また、ルールを通りに着てない!」美代は、エプロンを指さした。
美代が決めた、色使いを貴士だけはなかなか、守らない。
オレンジのエプロンはホールスタイル。美代の勧めでスカーフネクタイとエプロン、ボタントリムが、個人で色分けされている。浩太が赤、貴士が青、美代が黄色、雅人は緑。
色分けされてからは、料理以外で、店の雰囲気が大きく変わった。しかし、貴士のように、ルールを守らないと、その演出も功を奏さない。
「なんだ、美代ちゃんか、お客かと思ったよ…」貴士が視線を店内に戻しながら、残念そうに背を見せた。
「貴士、そのスタイルはよくないって。格好よくない!」
「青は汚れるんだよ…オレンジって汚れが青よりわかんなくていいじゃん…俺、オレンジに変えてくれない!」
「青を選んだの貴士でしょう」自分の色を自分で選んだのは貴士だけだった。
「あぁ、うるさい、お客じゃないんだから、さっさと座ってくれ」
「失礼な!昼ごはん食べに来たんだから、お客だ」美代が反抗する。
「はいはい、ボンジョールノ」
美代の後ろから亜理紗の顔が覘く。貴士の態度が変わる。「あぁ、亜里沙ちゃんも一緒なんだ。『ハンバーグ娘』だけかと思った」
「何よ!失礼ね」美代は顎を上げた。
美代は、自然にきょろきょろと浩太の姿を探した。店には出てない―。同時にお客さんの姿が目に入る。入ってすぐのテーブルに、サングラスに帽子を被った男、その横のテーブルに、ぽっちゃりした男が座っている。
「お客さん多いじゃない」美代が貴士に訊く。
「悲しいこというなよ…」「…それでも、やばいみたいだぜ。ほら、電卓はじいてる…」貴士が心配そうに言うのは、浩太の姿だ。美代は身を乗り出して厨房の奥を覗き込んだ。白地のシェフ姿に赤いスカーフ、浩太は言い付けどおりにスタイルを守ってくれている。長髪を後ろでに結っている。険しい目つきで書類の束を両手で持って睨んでいる。
「注文は何にする?」
「日替わり!」
「私も日替わりで」亜里抄は美代を見て頷く。
「了解!日替わり二つ、ご注文いただきましたぁー」と沈んだ浩太の方へわざと貴士が声をあげる。浩太はこちらに気付くと、書類をファイルに挟み資料立てに突っ込んだ。奥の厨房の明かりを点けた。盛り付けができる大きな食卓机に、食器棚から皿を二枚取り出し、白い布を当てるとキュッと回して拭く。動作の一つ一つに品がある。美代が大好きな光景だ。
「貴士、鉄板大丈夫か?」浩太が声をかけた。貴士は我に戻って、カウンター席の内側に戻って、鉄板の様子を確認した。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のカウンター席には鉄板が張ってある。
―美代は、くんくんと鼻を鳴らした。鉄板に被せてある蓋を見つけて目を輝かせた。
ジューと良い音が鳴っている。奥では、浩太が仕込み済みのポテトサラダを冷蔵庫から取り出して、皿にデッシュスプーンで盛り付けている。
貴士が二人の目の前で、鉄板にかぶせてある蓋を持ち上げると、ハンバーグが二枚、良い音を鳴らして出現した。美代の目は更に輝いた。ハンバーグは、日替わりのメニューではない。来店しているお客様のオーダーなのだ。美代は膝に乗せていた鞄をカウンターの席に置くと、腕まくりをしてカウンター内に入っていった。
「ハンバーグね。まかせて!」とオレンジのエプロンをさっと、どこからか、引っ張りだして、馴れた手つきで、紐を腰の後ろでキュッと結んだ。水場の蛇口を捻って手を洗う。
「『ハンバーグ娘』、おまえ、入ってくるなよ!そこに座ってろ!」貴士が手で払って、追い払おうとする。
盛り付けを奥の厨房で続けながら、浩太は貴士と美代に視線を向けたが、プイと視線を外した。美代がハンバーグのことになると見境がなくなるのは今に限ってのことではない。浩太は、ポテトサラダを冷蔵庫に戻した。ずかずかとオレンジのエプロン姿で美代が貴士をどかせて、鉄板の前に陣取った。
ふぅーと溜息を吐いて、浩太がやって来る。「美代、貴士に任しておけ」
「ハンバーグは私の担当よ!」
「ただでさえ、カウンター側は狭いんだ。こんな中に三人も入るんじゃないよ」浩太が盛り付けられた皿を二枚水平に持ち上げて貴士を交わして、鉄板前にやってきた。
「駄目よーハンバーグは、私が焼くの!」
「今日は、仕事じゃない。カウンターから出ろ!」
「私はハンバーグ担当なの!」
まるで、子供の喧嘩だ。
「たまには、黙って座っててくれよ」浩太が、言うことを訊かない子供に言い聞かせるように、お願いした。そして、水平に持ち上げた皿を手早く手元に置く。
「ハンバーグはあんたより上手に焼けるわ、浩太こそ、退きなさい」
「あー、焼けてるって、邪魔!」鉄板の前を二人で陣取りをしている。喧嘩するほど仲がいいのか、端からみると痴話喧嘩にしか見えない。
「何、やってんの二人とも…」と亜理紗の声で、浩太は「まったく」と呟いて諦めた。美代に仕方なく鉄板前を譲った。
ハンバーグが焼きあがる前に、四人目の従業員、雅人がやって来た。
「『ピクティ』は駐車場が満車だったぞ」一見学生風だが、フリーターで気ままが心情である雅人は、縁の眼鏡に、今日は、薄い青のTシャツに黒いジーンズ姿の私服だ。
「えぇ、ピクティまた、お客来てるの!あそこのハンバーグ、美味しくないのに!」美代がハンバーグに、竹串を刺して、焼き加減をチェックした。
雅人と美代のいう、『ピクティ』とは、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の裏に、出来た人気のチェーンレストランだ。最近、客入りが少ない理由の一つは実はそこにある。
「お前ら、本当に暇だな、休みの日も行くところがないのか?」浩太が美代と雅人をちらりと見た。
「…あ、俺、『絶品 ハンバーグ定食』もらうよ」雅人もここで昼を食べる気だ。壁に掛かれた、美代の手書き品書き。それには、『絶品!ハンバーグ定食あります』と書かれている。
美代が、雅人の注文したハンバーグを冷蔵庫から取り出して、鉄板に乗せた。
「なんか、最近ハンバーグのお店になった見たい」亜理紗がまわりを見渡して、あちこちに貼られている『絶品!ハンバーグ定食あります』という文字を見た。貴士が、プッと笑った。浩太がふて腐れる。
「どうしたの?」亜理紗が貴士に訊いた。
「いや、…実はさ、大人気でね。本業のイタリアンを脅かす存在なんだ。そのたびに『ハンバーグ娘』が喜ぶんだ」貴士が亜理紗に暴露した。浩太は定食の準備をしながら、割って入った。
「…負け惜しみじゃないが、実は助かっている。イタリアレストランと一言で言っても敷居が高い。自信もあるし、実際リピートも多いけど、店に来てもらわないとどうしようもないんだ。あの扉を開けて店に来てもらえない。でも、『絶品、ハンバーグ定食』があるおかげで、子供から大人まで来るようになった」
「お客さんが、次に、イタリアンを頼んでくれるんだよ」貴士が付け足す。
「でも、ハンバーグの常連も多いぜ。俺、美代バーグ大好きだぜ」雅人が勝手に短縮して、『美代バーグ』という。美代のハンバーグは数ヶ月で、人気メニューに育っていた。
美代は、結局、最後まで自分で焼き上げ、自分で盛り付けた。注文票を見て、奥のお客さんが先だと確認すると喜び勇んで運んだ。
「ハンバーグ定食おまちどう様です」私服にオレンジエプロンはどうかと、思うが、美代は、持ち前の笑顔でお客に差し出した。
「待ってました!」
まん丸顔のぽっちゃり男が、ナイフとフォークで出されたハンバーグ定食を食べ始めた。「うん、うん、美味い!」と口に頬張る。美代はこの美味しい顔を見るのがたまらなく好きだ。小さくガッツポーズを浩太に向ける。浩太は、黙って日替わり定食を盛り付ける。
蓋を開けて、もう一つの蒸されたハンバーグが、ジューと音と共に現れる。美代は、焼きあがったばかりの肉汁溢れるハンバーグを盛り付ける。そして、もう一人のサングラスの男に持って参じた。
「お待たせしました。ハンバーグ定食です」
「…」男は、読んでいた新聞をたたむと隣の席に置いた。
「どうぞ」美代はゆっくりと離れた。サングラスの男は、フォークを突き刺し、ナイフで小さく切り取った。肉汁がジュワっと溢れる。一口サイズに切り取られたハンバーグの切れ端が、男の口に運ばれた。―ここだ―。
しかし、表情が変わらない。
美代がつかつかと歩み寄る。お客が何事かと、美代を見上げる。
「ハンバーグ、美味しくないですか?」
呆然とするサングラスの男は、しばらくして、「…あぁ、うん、美味しいよ」とだけ口を開いた。
美代はほっとした様子で、「良かった」と声をあげ、「ごゆっくりぃーどうぞー」と満面の笑みを浮かべて戻ってきた。美代はお店のお客さんが美味しそうに食べない時、良くこういった質問を浴びせる。特にハンバーグの時は絶対と言っていいほどだ。
「馬鹿か、毎度、毎度、お客に美味しいか聞くな!」戻ってきた美代に貴士が注意した。
「だって、不味かったら駄目でしょう。特に、私のハンバーグは美味しくないといけないの!」当たり前のことを、当たり前にいう美代に、「でもなぁ、」と貴士が、今日はどうやって言い負かそうか考えた。
「美代、日替わりが出来たぞ、席に座れ。今日は、完熟トマトのアラビアータとジャガイモとインゲンのクリーム白和えだ。白和えのほうは、冷やしてるから美味しいぞ…」
美代は「あいよ」といってカウンターに座り、日替わり定食が、並べられるのを見つめた。
亜理紗は一部始終を見て呆れた。「久しぶりに、あんたのハンバーグ好きに呆れたわ。あんたが、『ハンバーグ娘』といわれる理由が分かったわ。なんでそんなに、ハンバーグが大好きなわけ」
日替わりのパスタをフォークに絡めて食べながら、「だって、ハンバーグは美味しいでしょう」と美代が口いっぱいにパスタを頬張りながらしゃべった。
「美味しいけど、あなた、食べるだけじゃなく、作るのも好きじゃない。料理はいろいろあるけど、なんで、ハンバーグなわけ…」
「前に云わなかったっけ、ハンバーグは、お爺ちゃんの思い出の味なの。私が小さいころに作ってくれた『究極のハンバーグ』が目標なの。あれを絶対作ってやるって決めてるの」ぽーと顔を赤らめて夢見心地になっている。
「…へぇ、そうなんだ…」亜理紗はどう対応していいか困った。
浩太が鉄板を磨きながらいった。「だから、何度も言うけど、それを一度、食べさせてみろよ」
「だから、無理だって言ってるでしょう!」口の中をパスタを飛ばしながら美代が反論する。
「どういうこと?」亜理紗は、美代と浩太を交互に見つめた。
「『究極のハンバーグ』っていうけど、本当は味も覚えてないんだ」美代の変わりに浩太が告白した。
「また、馬鹿にしてる!子供の時なんだから仕方ないでしょう。浩太の料理人生に、『究極のハンバーグ』がなかったからって、そんなに僻まなくたっていいじゃない。頭の中はイタリアンばっかりだったんでしょう」
「悪かったな、トスカーナイタリアンと言ってほしいね。それにハンバーグって、料理のひとつにすぎないから、俺のは、その地方の料理全体をさしてるんでね!」
「悪かったわね、たかが料理の一つで!」
「まあ、まあ、でもそんなに美味しいっていう『究極のハンバーグ』だけど、ここのハンバーグもかなり美味しいじゃない」
「そりゃ、山本美代さま監修特別ハンバーグだからね!美味しくて当たり前よ!それでも、『究極のハンバーグ』には、手も足もでない!」拳を握って熱く語る。
「じゃあ、訊いて作れば!高知のお爺ちゃんでしょう」亜理紗がキョトンとした。
「それがお爺ちゃん、もう亡くなってるんだ。だからレシピが判んないの」
亜理紗が分が悪そうに謝った。「ごめん」
「別に、もう昔の話しだしね」美代はスパゲッティをつるっと吸い込んだ。
「レシピ、家族の人も知らないの?」
「『究極のハンバーグ』は私だけに作ってくれた特別料理なの。お爺ちゃんとの秘密だったから、家族に訊いたことはないの。『誰にも言うな』って、お爺ちゃんが言ってたから」美代が口に指を当てて内緒の仕草をした。
「たかが、ハンバーグが秘密って凄いね。でも、今、思いっきり私たちに言ってるよ」亜理紗が突っ込む。
「うーん。だって、時効でしょ。昔の話しだし。本当に、今まで食べたハンバーグの中で最高に美味しかった。さすがに、ここのハンバーグとじゃ比べ物にならないし!」
「美代!それぐらいにしとけ」浩太が静かに制止した。
美代は、浩太の制止にむっとして、立ち上がった。美代はすぐ、癇癪を起こす。
「美味しいのは、美味しいでいいでしょう。ここのハンバーグなんかより、お爺ちゃんのハンバーグは、もっともっと美味しいんだから!」と叫んだ。
浩太の眉間に皺がよる。美代は浩太が怒っている理由が分かった。
ゆっくりと振り返る美代と座ったままの亜里抄は、美代の言う『あんまり美味しくないハンバーグ』を食べているお客様を見つめた。―二人のお客の手が止まっていた。
「あちゃー」貴士があたまを抱える。
「すいません。静かにさせますので…」浩太が深々と頭を下げた。サングラスの男はおもむろにサングラスをはずすと立ち上がる。
「申し訳ありませんでした」浩太が再度、頭を下げた。
ただならぬ雰囲気が店の中を包み出す。
美代が、情けない顔をしたまま俯いて反省した。
しかし、サングラスを取った男は、憎めない顔でにっこりと笑った。
「そのハンバーグ、ぜひ、食べてみたいものですね」調子よく、その男は言い放った。雅人がじっとその男を見つめて、声をあげた。
「あ、俺、知っている。あんた、テレビで司会している神幸さんでしょ!」
「本当だ、神幸さんだ」雅人と亜理紗が同時に声をあげた。
「しっ」と、男は指を口にあてる。男は、浩太の前にやって来て、懐から名刺ケースを取り出し、すっと差し出した。浩太は、差し出された名刺を受け取り、マジマジと見た。
「神幸 学…」浩太が名刺の名前を読み上げた。
男は、先ほどのサングラスの済ました表情から一変して、ニヤリと笑みを浮かべると浩太に話しかけた。
「実は、私は美味しいものに目がなくて、仕事がないときは全国を渡り歩いてるんです。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』も、実は今日で3回目なんですよ」
神幸学は、カウンターに並んでいる、美代と亜理紗の日替わり定食をちらりと見る。「…ここは隠れた名店です。トスカーナイタリアンの家庭料理は素晴らしい。スープパスタも四角いピザも絶品で舌がとろけそうなほど、美味しい。それもそのはず、シェフはあの有名なイタリアでしかもイタリア料理で日本人で唯一学生大会で優勝した、あの粕谷浩太なんですから」神幸学は、浩太の経歴を良く知っていた。
「優勝はたまたまです。本格派でない自分が、イタリアの家庭料理で逆に勝負したのが審査員に受けただけです」
「いや、口でいうほど、奴らの舌を満足させるのは簡単ではない。逆に、それが難しいんだよ。本当に美味しいものを時間をかけてでも手間をかけてでも作れる。料理を理解しているから、それができるんだ。高級料理から入って、食材に頼っているわけではない、トスカーナの庶民料理から築き上げている料理センスだから、本当に美味しいものをわかっている」
「そんなに、褒めていただいて有難うございます」
「…それなのに、なぜかこのイタリアレストランには『ハンバーグ定食』があるんだ。私も二度目までは食べようともしなかったが、なぜか、周りのお客はよく注文する。なぜだ、なぜ、手の込んだイタリアンより単純なハンバーグ?こんなに美味しいイタリアンがあるのに、しかもこんなにリーズナブルなのに、なぜにハンバーグを注文する?私の不思議は今日まで埋めることはできなかった。だから、今日は、そのハンバーグを食べるためにわざわざ、来たんだ。今日食べてみて分かった」
息を呑んで、神幸学は声にした。「絶品だ!」奇しくも、美代の手書きどおりの言葉が響く。
美代の顔にうれしさの表情が増していく。美代は思わず浩太の顔を見て、『どうだ』と鼻を鳴らすしぐさをみせる。
「凄く美味しい。しかも、これが粕谷浩太の作でないのが、またびっくりだ。これは、君の料理なのかい、お嬢さん?」
美代は得意顔で、又、チラリと浩太を見てから、天狗になった。
「山本美代です。はい、私の考案したハンバーグです」
「手ごねでないと出せない絶妙な脂と肉質の混ざり具合、焼きかたはオーソドックスながら使い慣れたタナーの一発返しのみ、蒸しのタイミングも完璧。実際にパティ作っているところを見ていないのが残念だが、牛は和牛じゃないだろう?もしかして、洋牛…サンタガタルーダス?ヘレフォードか?」
「和牛は高いんで、できるだけ安くするのにそうしました」
「なるほど、だから、この味がだせるんだな」神幸学は口がほころんでいる。「今の君達の話しを訊いて、更に欲が出てきた。今、話してた、その、『究極のハンバーグ』を…その飛び切り美味しいという、新ハンバーグを是非、食べてみたい!」きょとんとした全員に対して、美代が一歩前に出た。
「それは、正確にいうと、私のお爺ちゃんの考案したハンバーグなんです」
「お爺ちゃん?」
「高知にある、小松食堂なんですけど、地元では人気なんですよ」
神幸の顔に、また驚きの表情が重なった。「ま、まさか…こんなところで出会うとは…まさか、小松食堂?あの、『小松良明』か!」
一同は、神幸学の驚きように唖然とした。
美代はびっくりしていた。「なぜ、お爺ちゃんの名前を知っているんですか?」と問い返した。
「知ってるも何も、『小松良明』、彼の食堂で働いた人間は、すべて一流の料理人になっている!それに『小松良明のノート』料理界の裏バイブルと呼ばれる、ほとんど読まれたことのない本。小松良明直筆の料理に関するバイブル。有名じゃないか!」神幸学は声が震えていた。
「実は、私は、昔、伝説の食堂って、特集をやったんだ。高知に『小松食堂』ありって言うんで食べに行った。それは凄かった。『取材をさせてほしい』と何度も頼んだが、鬼のように何度も断られた。世の人に味を知ってもらいたかったが駄目だった。残念だったなぁ…。あれからも、名のある料理人は大抵、『小松食堂』のことを口にする。素人受けもするが、玄人にも受ける店だ」
「お爺ちゃん、取材嫌いだったからなぁ」美代がぼやいた。
「そうか、『小松良明』は…、亡くなったのか…。残念だ…。あれから十年以上経つからなぁ」
「すいません」美代は意味なく頭を下げた。
「いや、申しわけない。今日は、『小松良明』の取材に来たんじゃない。このハンバーグに興味を持ったんだ。そうか、あの小松良明の孫娘か、そうか、そうか」神幸学は、勝手に納得して頷いている。「『小松良明』の孫娘、それに、高校生イタリアンチャンピオンの店で働いている…ははは、凄いや、料理界のプリンセスだね。これは、何としてもテレビに出てもらいたいな」
「テレビ…?」全員が意味不明な言葉に顔を見合わせた。
「どうだい、その『究極のハンバーグ』をテレビで作ってみてくれないかい?」
美代は困った。
「そりゃ、目指しているので絶対に作りますけど、まだ作り方がわからないんです」美代は首を振った。
「だいたい、レシピもわからないんだからな」雅人が相槌を打つ。
「失礼した。少し、『究極のハンバーグ』と訊いて動揺したようだ。このままでも十分すぎるくらい美味しいんだ。是非、君たちに出てもらいたい」
神幸さんは、内ポケットから、封筒を一つ、取り出して、美代に渡した。
「『ベストグルメ』という番組だ」
「『ベストグルメ』…?」美代が繰り返す。美代が封筒を開いて、紙を取り出した。
雅人が横から覗いた。「俺、知ってるぞ。毎回、様々な料理で全国から選りすぐりの料理人がテレビで競うやつ、確かそうですよね?」雅人は神幸学に訊いた。
「よく知ってるね。そのとおりだ。私が司会している番組だ。そこで提案だが…今度、『ハンバーグ』をネタに特集をやる。いわゆるハンバーグのベストを決めるんだ。この『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグ、是非、出場してもらいたい」
一同がざわつく。もう一人の丸い顔の客の眉がぴくっと動いた。
「いいじゃない。出なさいよ」亜理紗が驚きの表情で美代の肩に手を置いた。
「でも…」
「正直、出て欲しい。このハンバーグをテレビで紹介したい!視聴者にそれを見せたい!知ってもらいたい!こう見えても結構、番組思いなんでね。それに、今までも私が直接招待状を手渡ししたところは、全部本選に勝ち進んでる」
「凄いじゃない!」亜理紗が言う。
「ただ一つ…、お願いしたいのは、この不況でスポンサーも渋いんだ。番組経費は制限されてて、参加にかかる費用の全額、食材…、衣装…、交通費…、宿泊費…、は実費になる。予選と本選は東京でするんで、合計二回、東京に来てもらわないといけない。詳しくは、そこの封筒に詳細が書いてある。放送は全国生放送。実費だが、全国放送なんで、宣伝にはなると思う…ぜひ、参加して欲しい!」
「…」四人は無言になった。
「君達にでてもらって、是非、優勝してもらいたい。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』のハンバーグ、皆に食べてもらいたい。そうすれば、ここもお客がたくさん来るんじゃない。それにしてもこの立地で、よくやっているよ。うん、それじゃあ、待ってるよ、皆さん」神幸学は、会計を済ますと、「待ってるよ」と再度言って、こちらの都合など訊きもせず、颯爽と去って行った。
一同はその姿を見送った。しばらくしてから、亜理紗が美代の肩を叩いた。「凄いじゃない…美代だけじゃなくて、美代のお爺ちゃんも凄いんだね。そんな凄い料理人だったなんて、知らなかった」少々、ニヤケた美代だったが、残りの三人はやけに現実的だった。「今の話、確かに凄いが、一体どれだけの費用が掛かるんだろう」貴士が険しい顔になった。
「金か、俺達、時間はあるけど、金はないよなぁ」雅人が言う。
「わからないが、身一つで行ったとして、予選と本選、二回で食材も入れて、10万はくだらないな。宿泊がついたらそれ以上だ」
「試合形式で二人参加が決まりなんだよ、あの番組は…」雅人がいう。
「二人だと、単純に倍だな。経営が芳しくないんで、お金の掛かる話はやめよう」浩太が残念そうに呟いた。もう一人の客は、眉をピクピクさせながらその話しを訊いていた。
嬉しい話も参加できなければ、ただの浮いた話にすぎない。
しかし、今日の『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の事件はそれだけでは終わらなかった。
この後にトンデモナイ事件が起こったのである。
お客が帰ったのを見計らうかのように、外に黒塗りの高級外車が停まった。運転手は降りて、後部座席の扉を開ける。降りてきたのは、紫色のスーツに薄い青のスカーフを纏った女性。少しスリットの切れた膝上のスカートからスラリと長い足を覗かせて、ヒールを鳴らした。細めの四角い端の鋭角なメガネからは、有無を言わせぬ冷たい視線が感じられる。やり手ビジネスウーマンの様相を見せていた。続いて、もう一人の男が降りてくる。同系色の紺のビジネススーツを纏ったオールバックの男。二人は、運転手をそのまま待たせて、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の扉の前にやって来た。
その様子をのぞいていた雅人が浩太に声を掛けた。
「浩太、凄い車が停まったぞ」
カラン、カラン!
カウベルが音をたてて扉が開いた。
「…ボンジョールノ」雅人が声をかけた。その後ろで浩太が固まった。
「母さん!」
一同は、浩太の声を訊いて、びっくりしてその女性を見つめた。母、知子は、ゆっくりと口を開いた。
「きちんと皆に話しをした?こういう話は早い方がいいと思ってね…」
美代は、その女性をじっと見つめた。―間違いない、浩太の母親の知子さん―。一度だけ会ったことがある。前も濃い紫のスーツをピシッと決めていた。今日も例外ではない。
「まだ、営業中だ。出てってくれ」浩太が激しく怒鳴った。
「何言ってるの。今日来るって行ってたでしょう…」母、知子は閉じた扉を再び開けて、外へ声を掛けた「早く入ってください。急いでるので…」
その声に呼ばれて、紺のダブルのスーツに、髪をオールバックに固めた男が扉から入ってきた。少し白髪混じりだが、ぱりっと着こなしたスーツ姿に品がある。背は170センチないぐらいだろうか、高いヒールを履き鳴らす知子と比べて明らかに背は低いが、背筋はつんと伸びており、見た目以上に高く見える。
―同じ人種だ―。
―浩太は、雰囲気から匂う感覚を直感的に感じた―。
「あなたは?」少し、浩太が不安を感じながら声を掛けた。
「私は、株式会社レジデンスの高橋昇治だ」そういうと、店をぐるりと見回した。
「この店は、実は、久しぶりなんだ…」と感慨深く店内を見渡した。
「おしゃれにしてるな…店内も、その制服も…でも、基本は、昔と変わってない」
「昔…?ここに来たんですか」
「そうだね、日高がやっていた頃だ。あの頃はもっと、殺風景だった。意味不明な物があちこちに置かれていたっけ、まぁ、あの時のほうが、別の意味では興味深かったがな…」
軽くいなして、馬鹿にするような態度―浩太は、内心腹が立った。懐かしがって見回す高橋を尻目に、母、知子はスタスタと厨房までやってきて奥を覗き込んだ。誰もいないのを確認して、近くのカウンターに座った。
「私も暇じゃないから…さあ、始めましょう」知子は足を組みなおして続けた。「皆さんには…いきなりで、悪いんだけど、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は今日を持って閉店することにします」粕谷知子は言い放った。
外は暑く道路を照らす七月の太陽が眩しかった。いきなり、『サラ・ドゥ・ピアンゾ』は閉店を告げられた。一同は、声にならず波を打ったように静まり返った。
浩太の手が、わなわなと振るえだし、母親の言葉に噛み付いた。
「何言ってるんだ、勝手にそんなことさせるか!」怒りに震えて声をあげた。
「母さんが、そんなことを決めれる立場にない。この店は、叔父さんの店なんだからな!」浩太の言葉が切れる前に知子は滑らかに続けた。
「そうよ。この店は、日高馨の店。浩太、あなたの店ではないわ!」そういうと、懐から紙切れを取り出した。「これが何に見える」と知子は浩太の目の前でひらひらと紙切れを振った。「土地権利の委任状よ。叔父さんに朝一番に貰いに行った。こっちの高橋と一緒にね。簡単に書いてくれたわ!」
「そ、そんな…馬鹿な!」浩太は委任状を母からとりあげると、じっと見つめた。
そして、膝を付いて床に崩れ落ちた。
信じていたのに―。―叔父さんが、ここを諦めることなんて、今までなかったのに―。
「叔父さんが、この店を手放した…というのか…」浩太は俯いてか細い声で呟いた。
母、知子は、ふんとした顔で高橋に向き直って、大きく頷く。「これで、この辺一体の再開発が可能になるわ。この店は閉店!閉鎖テナントを含めて取り壊します。周りの土地とあわせて、こちらのレジデンスグループの大阪進出に使います。大きな施設を作らせて貰うわ」
「レジデンス…」浩太が拳を握って、目の前の母とその男を睨んだ。訊いたことがある。全国区のレストランチェーンである。参加に複数の有名チェーン店をかかえる、総合レストランチェーン会社。それが『レジデンス』。
「ちょっと、待ってくれよ」貴士が調理服のまま、厨房から飛び出してきた。「俺は、ここで、料理の腕を積んでる。いきなりそんなこと言われても困る。仕事がなくなっちまう。それに、美代もハンバーグをここで出しているんだ」貴士は必死に食い下がる。
「そうさ、さっきだって、ここのハンバーグをテレビで取り上げたいとか、言われて…たん…だ……」雅人は、勢いよくしゃべりだしたが、知子と高橋昇治に睨みつけられ、その迫力に尻つぼみに声を小さくした。
「イタリアンレストランで、ハンバーグか、なら、尚更、このレストラン、意味ないじゃないか」それまで黙っていた高橋が辛辣に浩太の心を抉った。「ここは、我々の会社が、粕谷コーポレーションに委託して、チェーンレストラン『レジデンス』を大きくオープンさせるのに利用させてもらう」
「そんな…」『ピクティ』、そして、『レジデンス』―二つのレストランチェーンが、浩太の安息の地を一気に奪った。
店の外から、聞き耳を立てて、その話しを訊いている男がいた。先ほどの客の一人、丸い顔の男がそこにいた。その男は、それを訊いて慌てて走り出した。
所変わって、ここは、レストラン『ピクティ』、駐車場には車が沢山停車している。浩太たちの『サラ・ドゥ・ピアンゾ』の裏にある。レンガ調に塗られた外壁塗装から、中もわりとおしゃれに作られている。外観は三階建ての一階と二階がレストラン、三階は事務所になっている。
先ほど『サラ・ドゥ・ピアンゾ』でハンバーグ定食を食べ、レジデンスの話しを外で聞き耳を立てていた丸い顔の男が道路を走ってやって来た。男は、ハンカチで汗を拭きながら路地をぐるりと周って『ピクティ』の駐車場へやって来る。そして、レストラン『ピクティ』の扉を開けて入った。
入り口には、愛嬌のある魔法使いの人形が置かれている。『ピクティちゃん』と呼ばれるマスコット人形だ。ハンカチで汗を拭きながら、前を見ないで走りこんできた男は、あわてて『ピクティちゃん』人形にシコタマ頭を打ち付けた。
どーん。
という大きな音を立て、店内のお客までびっくりすぐらいの音がした。丸い男は尻餅を着いた。
「いてててて…」見上げると、人形の顔が180度後ろを向いている。
「げっ」男は、顔が真っ青になって、急いで顔を持って回し始めた。「あれ、あれ」かなり固い。腕を首に巻きつかせ、プロレスラーがヘッドロックをするように抱えて、首を回そうと試みた。「くそ、固い。あぁ、それどころじゃない、それどころじゃない…」きょろきょろと辺りを見渡して、急いで、首を絞め、いや、回し始めた。ふと、見上げた扉の向こうに腕組みした男が、仁王立ちしている。
「あわわわ、しゃ、社長、社長…大変です…大変なんです!」
「そうね、大変そうね、店の前で何してるの、このすっとこどっこい!」
オカマ社長として、業界で評判の株式会社レストラン『ピクティ』社長の八島隆志。身長190センチを超える長身で、坊主頭、化粧がのっている顔は威圧感丸出しである。
「社、社長、『レジデンス』が…」
「丸山くん、まず、手を洗うのよ。あなた、その人形を壊したら、減点三十点よ」
「げ、減点は勘弁してください…」丸い顔の丸山は、急いでキッチン内で手を洗った。
「社長、もう、あのイタリア食堂の調査はいらないです。あの場所に『レジデンス』が建つんですよ」
八島は丸山の姿を見て呟いた。「…『レジデンス』!…」
丸山は息を整えて「そうです」と応えた。
「それは聞き捨てなりませんわね。確かにあそこの店は見た目いまいち、立地いまいち、店員いまいち、しかも小娘うるさい…」そこまで言って八島は口を尖らせた。
「しっかし!料理の腕は感服するわ。イタリアンもいい味出してるし、特にハンバーグを作るあの小娘は侮りがたいわ!」
八島は、丸山を指差して大声を出した。
「なのに、あのお店がつぶれて、『レジデンス』ができるっていうの?オーナーは何考えているのかしら?」
「はい、そのとおりです」
「ちょっと、詳しく聞かせなさい!」
丸山を手招きした八島は、外階段を昇って、三階の事務所に場所を移した。八島社長は背の広い椅子に腰掛け、立ったままの丸山を睨みつけた。先ほどの話しをゆっくり、じっくり聞くに及んだ。丸山は、身振り手振りを入れながら、必死で説明をした。八島は時に頷き、時に質問して腕組みをしながら、厳しい目を丸山に投げかけた。
「なんとも、疑いたいところですが、確かに訊いたのですね?」
「はい。高級外車に乗った女社長みたいなのと、男が現れて、言ってました」
「女社長?多分その女は、粕谷コーポレーションの女社長、粕谷知子でしょう。男のほうは誰ですか?」
「確か高橋…とか…『レジデンス』の高橋と言ってました」
「高橋!まさか、あの高橋昇治なの!」
「誰です。その高橋昇治と言う奴は?」
「高橋昇治、レジデンスの取締役よ。我々の業界では知らないものはいないわ。強引な手法で、レジデンスの店舗進出や、会社統合を続けてきた男。その手腕は、未来を予測するように手際が良く、奴の歩いた後は、草木も生えないといわれるぐらい、根こそぎ会社ごと買い取っていくのよ。『レジデンス』の次期社長とも言われているわ」八島は口元を歪めた。「うーん」と悩みだした。
「社長、前から、ずっと訊きたかったんですが…、社長は、あの小娘を監視しろって言いましたよね。なぜ、あんな小娘を注意するんですか?私にはあのイタリアンコックのほうがよっぽど優秀だとおもいますが…」
「イタリアンコック、粕谷浩太ね…確かに彼も悪くはないわ…、うちに欲しいぐらい。でもね、丸山、料理は腕だけで絶対に無理なものがあるのよ。優秀な料理人は、それ以上に天性の才能が必要なの。あの娘は、その素質を持っているのよ」
「えー、そうそう、あの神幸学が、向こうに現れて、えーと、あの小娘のことを『小松食堂』の孫娘だって言ってましたよ。『小松食堂』ってなんですか…」
「『小松食堂』!『小松良明』っていいましたか!」
「それです。そう言ってました」丸山は、当たりと言う顔をして八島を見つめた。
「なるほど、それで、全部納得しました。彼女には食才があるのよ」
「食才?」
「何言ってるの、あなたも持っているでしょう。あなたは、超味覚を持っているじゃない、あなたが素晴らしいのはそれだけでしょう。だから、一度しか食べてない料理を再現できる…。私は、丸山、あなたのその才能だけ、凄く買っているのよ。その才能だけ!」何度も念を押す。
「だけですか…」
「しかし、あの娘は超味覚と、超嗅覚も…」
「嗅覚って、くんくんっていう匂いですか…?」丸山は鼻を鳴らした。
「そうよ、ピクティスープは、調理法を変えてから大人気になったでしょう」
「はい、社長が言ったふうに変えてから爆発的に人気になりました。さすが社長です」
「実は、あれは、あの娘にヒントをもらったのよ」
「へ?」丸山は顔中をハテナにした。
「あの娘がハンバーグを食べに来た時にスープを出したでしょう。その時、あの娘は、匂いを嗅いで下味を言い当てた。そして、一口飲んで改良点を言ったのよ。私は、試しに、あの娘のいうように、出汁を取る時間を倍にしたのよ。それが、今、全店で出している新ピクティスープよ!」八島は悔しい顔をした。
「新ピクティスープは、私も大好きです。なるほど、そんな理由があったんですね」納得している丸山に、八島社長は恐ろしい形相で立ち上がった。
「馬鹿ですか!本来あなたが、その食才で、スープへの改良案を出すべきなのですよ。あなたは、何のためにここに居るのよ!」
「なるほど、そりゃ、そうですね」丸山は、ぱん、とわかったと言わんんばかりに手を打った。
「あの小娘は『超味覚』と『超嗅覚』を持っている。あなたは『超味覚』だけよ、だけ、しかも、あなたは言ってることが半分以上、ちんぷんかんぷんだから、半分も役にたたないわ」
「そんなぁ、でも、社長が、あの小娘を買っているのがよく分かりました。それもこれも、レジデンスができれば、あのお店も、小娘もオサラバですね。これで、大丈夫ですね」
「彼らが、簡単に屈するかしら、本当の料理人なら自分の店を取り上げられることに抵抗するはずよ。私もそうだったんだから…、さあ、どうする小娘!」
「あ、そういえば、『究極のハンバーグ』を作るとか言ってました」
「『究極のハンバーグ』?…」八島の顔つきが変化した。
「『ハンバーグ』だけは絶対に負けられないわね。あの娘は、なぜか、ハンバーグに恐ろしいほど拘っている。私もハンバーグには拘りがあるわ。私は過去に美味しいと思ったハンバーグを食べたことがある、それも、小松食堂のある高知でね」八島はビシッと丸山を指差した。「とにかく、よくよく様子を探るのよ。『究極のハンバーグ』を作るのなら、貴方の超味覚で、そのレシピを奪ってきなさい。それが出来ないなら、減点百点よ!」
「減点、ひ、ひゃくてん…はっ、はい、承知しました」気お付けをした丸山は兵隊のように、額に手を当ててぶるぶると震えた。
「すぐ、彼らの動きを調べるのよ、逐一報告なさい」
「は、はい」丸山は、すっ転びながら、慌てて扉を開けて出て行った。
八島隆志は、ゆっくりと窓際に立った。
「まさかとは思うが、小松良明の孫娘であるなら『究極のハンバーグ』…本当に作ってしまうかもしれないわね。『サラ・ドゥ・ピアンゾ』が、神幸学の『グルメベスト』に出るなら、上手くやれば、小松良明の娘のハンバーグを餌に『レジデンス』を吊り上げられるかも、それとも、餌が本気になって、『レジデンス』を食い破るかも!ふふふ。どちらにしても史上最強のハンバーグ対決になること間違いなしですね。話題性は十分。そこで、我々『ピクティ』が最終優勝すれば、『ピクティ』の名声も上がるというもの。さぁ、急いで、『ベストグルメ』の準備をしましょう」
八島社長が一人言を呟く。その彼の机の上には、『ベストグルメ』の参加申込書と神幸学の名刺があった。