真夜中の小人
あるところに貧乏な画家の男がいた。
才能が無い訳ではないが、どうにも世間から認めてもらえない。
路上で絵を売り、わずかな金を稼ぐのが精一杯の男は当然蓄えもなく、三日後の食べ物の心配をしなければいけないような生活を送っていた。
しかしそんな男にも、彼の良き理解者である女性の存在があった。
ひたむきな性格と、絵に注ぐ情熱的な思いやその無邪気さに惚れ込んだ女は、やがて良き恋人となり、ついには良き妻として男と添い遂げることを決めた。
男はそれを大いに喜んだが、同時に重たい不安も感じていた。
今までは一人だと思い、その日暮らしのような生活も悪くないと楽観視していたが、今後はそういう訳にもいかなくなる。
いっそ売れない画家などやめて、真面目にこつこつ働こうとも考えたが、彼女が一緒になろうと心に誓ったのは、紛れもなく絵描きである彼なのだ。
妻に画家をやめてしまわないよう諭された男だったが、そんな素敵な妻にやはり苦労をかけたくない葛藤と、先の見えない未来に対する焦燥感により、ある晩とうとう男は筆を動かすことができなくなってしまった。
これには男も参ったが、疲れているのだと妻に言われ、その日は早めに床についた。
しかし、丸一日経った翌日の晩になっても、目の前の描きかけの絵に筆を加えることはできなかった。
そんな状態が一日二日と続き、三日が過ぎ、男は精神的に追い詰められていった。
「なんてことだ。売れないだけならまだしも、描けない画家なんて生きている価値があるかもわかりゃしない」
いよいよ男の考えは卑屈になり、折れないよう心を保つのも限界だった。
そしてある晩、半ば自暴自棄になった男は、残り少ないわずかな金で安酒を一本買うと、未完成の絵に向かいながら、不安を払拭するかのように一気に酒をあおった。
しかし元々酒に逃げるような性格でもなく、また酒に強い方でもない。
直後に激しい目眩に襲われ、そのまま床に倒れ込むと泥のように眠ってしまった。
翌朝、ズキズキと痛む頭を押さえながら起き上った男は、声をあげて驚いた。
なんと、昨日の夜には確かに描きかけだったはずの絵が、完成していたのだ。
突然の出来事に混乱する男だったが、もしやと思い、起きてきた妻にこの絵を描いたのではと訊ねた。
しかし妻はそれを一切知らないと否定した。
その返答に男は首を傾げた。
だとすれば一体誰が描いたのか。さらに、男には悩ましい点がもう一つあった。
というのもこの絵、完成はしているがお世辞にも上手いとは言い難い出来だった。
線は乱れているし、色使いも奇抜で統一感が全くない。まるで子供の落書きのようだ。
とてもではないが、人前に出す作品ではないだろう。
だが、そんなことを言ってもいられない
すでに家にはお金がなく、売ることのできる絵もこれしかないため、男は渋々その絵を売りに出掛けた。
案の定、絵は売れる様子を見せなかった。
道行く人々に見向きもされず、気づけばすでに日は落ちかかっていた。
諦めて家に帰ろうと、男が路上から腰を上げかけたその時、一人の老紳士が彼の絵の前で立ち止まった。
「この絵はあなたが描いたのですか?」
立派なスーツ姿に、もじゃもじゃとした顎鬚をたくわえた老紳士は、じっと絵を見つめた後男に訊ねた。
男は少々返す言葉に困ったが、はい、と一言答えておいた。
「いや、なかなかどうして味のある絵だ。とても気に入りました。是非とも私に譲っていただきたい。お金はいくらでも出しましょう」
結局その絵は、普段の一〇倍近い破格の値段で売れた。
これには男も大喜びで家に帰ると、妻にお金を手渡し、嬉しそうに報告した。
「まさかあの絵がこんな値段で売れたなんて、今でも信じられない! ああ、夢を見ているようだ」
興奮さめやらぬ状態の男を見て、妻はお金の事よりも、夫が元気になってくれたことをとても喜ばしく思った。
「きっと困っているあなたを見かねて、小人がこっそり助けに来てくれたのね」
妻は笑顔で言った。
その日はいつもより少し豪華な食事をして、ささやかな幸福を二人で祝った。
しかし、翌日からまたしても、男は頭を抱えるようになってしまった。
自分の絵を描こうとしても、あの絵が頭の中をちらつき、思うように表現することが出来ない。
むしろああいった絵を自分で描いてみようとも試みたが、これまで描いたことのないような絵をいきなり描くことなどできるはずもない。
男は再び失意の底へと沈んでいった。
やがて先日得た大金も、とうとう底をつきそうになる。
またも追い詰められた男は、買った安酒を一気に飲み干し酔いつぶれて倒れると、そのまま眠りについた。
次の日、目覚めた男は再び奇跡を目にした。描きかけだった絵が見事に完成している。
男は寝ている妻を起こし、小人が現れたと、子供のようにはしゃぎながら沸き立つ感動を伝えた。
前回同様、やはり上手いとは言えない出来ではあるが、改めて見るとその荒々しくも繊細なタッチは、男が自分では描けなかった魅力ある雰囲気を醸し出し、何か訴えかけてくるような力強さがあった。
満足そうに感心した男は、嬉々として絵を売りに出掛けた。
しかし男の意気込みとは裏腹に、行き交う人々は目もくれず、絵が売れる気配は一向になかった。
どうやら前のは偶然だったのかと、男はため息交じりにうなだれた。
その時、恰幅の良いマダムが絵の前で立ち止まる。
「素晴らしい! なんて斬新で惹きつけられる絵なんでしょう。是非とも屋敷に飾りたいわ。いくらでお譲りいただけるかしら?」
濃い化粧をしたマダムは、絵を見るなり褒めちぎると、前に売れた金額以上のお金を払ってその絵を買っていってくれた。
「あの絵は本当にすごいぞ。君が言ったように、これを描いた小人はぼくを助けに来てくれたに違いないや」
鋭気を取り戻した男が語る姿を見て、妻は頷きながら顔をほころばせた。
それからというもの、度々小人の絵は男の部屋で描きあげられていた。
思い通りに描けないことに苦悩し、嘆いては酒におぼれ、それを救いあげるように小人が絵を描きに来る。
出来た絵は依然として、上手いと表現するには差し支えある出来だったが、必ず誰かの目に止まりとても高い金額で売れた。
初めの方こそ男は喜んでいたが、次第にこうも自分が絵を描けなくなり、そのせいで施しを受けていると考えると、画家としてのプライドが揺れ動かないはずがなかった。
しかしそれのおかげで、こうして暮らせているのが今の実情なのだ。
事実を認めなければならないことに、男はやるせない気持ちを密かに感じていた。
一方、妻は甚だ疑問に思っていた。
初めに小人の仕業だと男に言ったのは彼女だが、無論それは冗談であり、まさか夫があそこまで信じ切ってしまうとは考えてもいなかった。
やる気を出していることもあって、今更そんなことありえないと水を差すつもりはさらさらない。
ただ、最近ではその小人に対してさえも、どこか負い目のようなものを感じてしまっていることに妻は薄々勘付いていた。
それからしばらく経ったある晩、男が再び切羽詰まったように描きかけの絵の前で唸っていると、これまでのように酒をあおるやいなや、床に倒れるようにして眠りこけてしまった。
そろそろこうなると見込んでいた妻は、一体誰が絵を描いているのかを突き止めようと、眠らずに機会をうかがった。
男が眠りこけてから三〇分程経った頃であろうか、夫の部屋からごそごそと物音がするのを妻は確かに聞いた。
やはり来たと、妻は疑念と好奇心の入り混じった気持ちで、寝室を抜けだした。
そしてこっそりと夫の部屋の前に忍び寄り、音を立てないようゆっくりと扉を開くと、わずかな隙間からそっと中を覗いた。
そこで見た光景に、妻は思わず息を呑んで驚いた。
だが、やがて納得したように笑みを浮かべると、そのまま黙って扉を閉め、静かに寝室へと戻っていった。
部屋の中では顔を真っ赤にした男が、ふらふらとおぼつかない様子で、一心不乱に絵に向かって筆を動かしていた。
数年後、前衛的な絵を描く素晴らしい画家の個展が、とある大きな街で開かれた。
観る人全てに感動と衝撃を与えた彼の名は、一躍世界に轟くこととなった。






