雪守の魔女
以前投稿した『冬の王と春の妃』の魔女についてです。
来訪の目的を尋ねられ、彼は柔らかく微笑んで答えました。彼は、聡明で在り勇猛果敢に剣を振るう人物でありましたが、まるでそんな一面を感じさせない優しい笑顔でした。
「感謝を告げに参りました」
「ほう。感謝と言うか。我が師は恨み事をぶつけられる事はあっても、けして感謝されるような事はしていなかったと思うのだが」
弟子を名乗る年若い女性は、老成した口調で答えました。人を食ったような笑顔で、嘲弄するように口にします。
「いいえ。あの方のおかげで、今の私が在るのです」
「だが、我が師は今やこの世におらぬよ。私が看取った」
「病ですか?」
「いや、寿命さ。魔法で生き長らえていたが、さすがに三百年は長過ぎた」
戸口に立つ彼を座って出迎えた彼女はようやく立ち上がり、部屋の奥に在る暖炉に指を指し示しました。それだけで火は勢いを増します。
「入りたまえよ。せっかく来たんだ。少し昔話に付き合いなさい。もっとも、我が師は捻くれていたから、私なりの解釈を多く含む為に正確さには欠けるがね」
彼女は、傲慢な仕草で彼を招き入れます。彼がこちらに向かっていると気付いたとき、彼女は会う事もなく追い返そうと思っていました。けれど、彼ほどの人物が供も連れずに一人でここまで来た事を知り、その潔さに考えを改めたのです。
「さあ、昔話を始めよう。時は、二百年前に遡る」
そして、彼女は訥々と語り始めます。それは、報われない魔女の物語。忘れられた魔女のお話。
ある北方の山奥、雪深いその土地に小さな王国が存在しました。
辺境であり、寒く実りの少ない土地柄でしたが、対して人の心は温かく、少ない実りを分け合い、支え合って生きていました。寒くとも、笑顔の絶えない幸福な国でした。
しかし、そんな王国に悲劇が訪れます。自国の領土拡大を狙う隣の大国が、その小国に狙いを定めたのです。
小国は慌てて迎え撃つ準備を進めましたが、どのように万全の態勢で待ち構えたとしても、相手は実りも豊かな大国なのです。小国に勝ち目はありません。
王族は殺され、貴族は蹂躙され、平民は虐げられその地を追われる事でしょう。小国の崩壊は、政治の事など何も知らない平民の目にも明らかなものでした。
小国の王様は、その危機的状況を迎え、自らある人物の元を訪ねました。それは、雪深い北方の土地でも更に山奥に住んでいる、魔女でした。
魔女は魔女とはいうものの、小国の者がその知恵や魔法に助けを求めれば、快く手を貸してくれる良い魔女でした。魔女は、王国の支配を受けないものの、その隣人として親しく共存していたのです。
小国の頂点に立つ王様が、魔女に頭を下げました。
『魔女殿、どうか我が国を救ってくれ』
魔女は、親しい隣人のお願いに気軽に頷きました。まるで、屋根に積もった雪下ろしを手伝って欲しい、と頼まれたように簡単に。
魔女は、その国を愛していました。寒く、けして恵まれているとは言えないその土地に在りながら、お互いを想い合うその温かさを、何よりも尊く思っておりました。
だから魔女は、その国に魔法を掛けたのです。
『何人たりとも踏み込めぬ、雪の防壁を』
ただでさえ雪深かったその国を、更に多くの雪が守るように覆い隠し、大国はその小国に攻め入る事を諦めました。
人々は、『魔女様』と魔女を崇めました。魔女はその小国を愛し、救う為の魔法を振るう事に迷いはありません。
魔女は百年と少しを生きる、まだ年若い魔女でした。だから魔女は、知らなかったのです。つぎはぎのように平和を取り繕ったとしても、それはけして救いにはならないと。
魔女は知らなかったのです。
人々はこれまで以上に魔女に敬意を払い、感謝して過ごしていました。魔女もまた、一心に慕う人々を心から慈しんでいました。長い時を生きる魔女にとって、人間は我が子のように可愛いものがありました。
けれど、十年が経ち、二十年が経ち。人々はようやく現状に気付き始めました。大国からの侵攻を防ぐために、その小国は雪壁によって守られていましたが、それによって寒さは増し、人々が住める場所も限られ、食料もまた、得られにくくなったのです。
その、寒過ぎる大地に根付く植物は数少なく、動物は、温かい土地を求めて姿を消しました。取り残された人々は、わずかな食料と身を寄せ合う事で、その命を奪う恐ろしい寒さに耐えていたのです。
それでも、初めの頃は皆、魔女への感謝を忘れませんでした。生活は苦しくなってしまっても、魔女の雪壁のお陰で大国の脅威に怯える必要が無かったからです。それは人々の心に安らぎをもたらしました。
しかし、五十年が経ち、百年が経ち、当時を知る人間が一人もいなくなった頃。魔女に感謝する人は一人もいなくなってしまいました。
いつしか、魔女はこのように恐れられるようになりました。
『魔女は呪いによって、この国を雪の恐怖に陥れたのだ』
魔女は深く嘆き悲しみました。何故、分かってくれないのか。魔女はただ、その国を愛し、人々を慈しみ、その為に尽くしただけなのに。
魔女は十年という長い月日を嘆き悲しんで過ごしました。そして、魔女は人を愛する事を止めてしまったのでした。
それから更に百年が過ぎ、魔女はすっかり忌むべき存在へと成り果てていました。
けれど、魔女はそれで構いません。魔女もまた、人間など大嫌いになったからです。都合のいいときばかり魔女様と崇め、いらなくなれば斬り捨てる。そんな暗愚で残酷な人間どもを、今度は魔女の方が捨てたのです。魔女はけして、雪を降らせる魔法を解こうとはしませんでした。
その、閉鎖された小国に新しい風が吹こうとしていました。
長い時を雪の中で燻り続け、衰退を待つばかりとなっていた王国に、新しい王様が即位したのです。王様は、国を心から愛していました。それ故に現状に危機感を覚え、打破する為に途絶えていた外交を再開する事を選びました。
優秀で国想いの王様の手腕により、国は侵略を狙われる事も無く、実りの多い春の国からの援助を受ける事が出来るようになりました。その一環として、両国の友好の証に王様と春の国のお姫様との婚姻が決定されたのです。
魔女は、傲慢な人々と王の足掻きに、ひどく不愉快な気持ちになりました。その浅はかさに嘲弄が浮かびました。魔女にこの雪を止めるつもりはありません。春の国の援助を受けたとしても、この国に希望など訪れないのです。今は友好国としていても、この閉鎖された国ではいずれ属国とされる事が目に見えています。
魔女は嘲笑う為に、水鏡でこんな極寒の大地に嫁いできた憐れな姫君を覗いてみる事にしました。過ごしやすい春の国から嫁いできたお妃様が、こんな土地で過ごせる訳が無いのです。すぐに音を上げ、国同士の関係にヒビを入れてくれる事でしょう。
『驚いたわ、こんなに寒い事ってあるのね』
お妃様は、寒いと繰り返すものの、明るい笑顔を浮かべていました。軽やかで、春の花のような笑顔です。まるで、その笑顔でこの雪までとかしてしまいそうな温かさでした。
お妃様は、侍女から魔女の呪いによって雪が止まないのだと教えられ、その大きな瞳をまん丸とさせて驚きを示しました。
『まあ、呪い?信じられないわ。だって、見てちょうだい。雪はあんなにもキラキラと輝いている。こんなに綺麗なものが、呪いだなんてとても思えないわ』
お妃様は何一つ恐れる事はなく、楽しそうに口にします。
『この国に嫁ぐ日、遠くから雪に囲まれるその姿を見て思ったの。まるでこの国を守ろうとしているみたい、って』
そんな事は有り得ない、と語る侍女に勝手にそう思っているだけよ、と苦笑して王女様はその言葉を締めくくりました。魔女は、何も知らない愚かな少女の軽口に怒りも嫌悪も浮かばず、ただ水鏡を見詰めていました。そうして魔女はしばらく微動だにせず、やがて狂ったようにその水面に拳を叩きつけ、水鏡の魔法を消し、今見たものを振り払うように何度も水面に手を入れ、乱し続けました。何度も、何度も。
枯れ木のように老いた身体でそれを繰り返し、魔女は肩で息をしました。呼吸は細くなり、引き絞られるように肺が痛みます。その痛みを抑える為に魔女は自身の胸を掴み、その手にぱらぱらと落ちる水滴を見て、何も誤魔化す事が出来なくなってしまいました。
魔女は泣いていました。
その枯れ木のような身体のどこにこんな水分があったのかと、魔女自身不思議でした。けれども涙は次から次へと溢れだし、凍りついた仏頂面をとかすように熱い雫が頬を伝うのです。
恐ろしい魔女は、元々優しい魔女様でした。人が好きで、慈しむ事を知る魔女様でした。だから魔女には、堪えられなかったのです。人に嫌われ、孤独に生きていく事など。嫌われている事を知りながら、愛し続けるなど。
魔女は理解しました。それが、何の意図も含まない見当違いな思いつきの言葉であっても、お妃様の言葉でこうも心を揺さぶられた理由を。
人と変わらぬ心を持つ、優しく憶病な魔女は、人を憎む事で孤独から目を逸らしていたのでした。
それ以来、魔女は水鏡を使って頻繁にお妃様の様子を眺めるようになりました。
そうしていると、お妃様がどのような人物かがよく分かります。純真で、真っ直ぐで、真心の塊のような温かい少女でした。優しい少女は、誰からも愛されてしかるべきだと思わせる、魅力を持っていました。
けれど、お妃様の夫である王様は、そんなお妃様にまるで興味がないようなのです。王様は、国を愛する王様でしたが、それはつまり国の行く末以外にまるで興味の無いお方でした。
そんな、愛情の欠片も感じさせない王様を、けれどお妃様は心から愛しているようでした。
『陛下、わたくしを愛して下さいますか?』
王様と腕を組んでは、お妃様はそう繰り返しました。閨でも冷たい王様に、それでも幸福そうに寄り添っていました。
魔女には、それがひどく気に入りません。どうして、あの温かいお妃様があのように邪険な扱いを受けなければならないのか。魔女はいつしか、王様に憎らしさを覚えるようになっていました。
やがて、お妃様と王様の関係は変わらぬまま時は過ぎ、お妃様は王様の御子を授かりました。それでも、王様の態度は相変わらず冷めたものです。
お妃様はそんな事はまるで気にしていないように、変わらず身の裡に宿る命を慈しみ続けました。お妃様は王様を心から愛していましたが、愛を問うても、その愛を強引に手に入れようとはしませんでした。
魔女は、そんな一途なお妃様から目を離せませんでした。気付けば、まるで愛するかの如くお妃様の事を案じていたのです。
一途なお妃様が報われぬなど、あってはならない事です。だからこそ、魔女は一計を案じる事にしました。あれ程温かいお妃様です。流石の王様もその温もりをなくしてしまったなら、その掛け替えのない存在に気付けるはずでした。
魔女はお妃様を想う一心で、王子様の誕生を祝うパーティーに参加する為、住処としている山奥から人里まで下りていきました。齢三百。いくら魔法を操る魔女と言えど、長く生き過ぎました。魔女は何度か命の危機を感じながらも、迷う事の無い足取りで王宮へと向かいます。
王宮へと辿り着いた魔女は、疲労困憊の我が身を一切悟らせる事なく、高らかに傲慢な心情を述べました。そして、悪意という仮衣に隠した精一杯の魔法を振るったのでした。
己の目的を悟らせない為に王子様に狙いを向けました。魔女は、己を拒絶した人間達にその真意を悟られる事を、何より嫌ったのです。
そうして、お妃様は魔女の狙い通り、王子様をその身を挺して守り、長い長い眠りについたのでした。彼女を真に愛する者が、その愛をもってとかさなければ目覚めない、氷の魔法です。
魔女は喧噪の中、老いた身体を引きずるようにして王宮を後にしました。細い息を吐きながら、足を動かし、最早魔法を操る力も無く、とうとう山の麓で力尽きてしまいました。
雪に埋もれ、意識が遠のく中、魔女はただお妃様の幸福を願います。お妃様が愛する人に愛され、息子を慈しみ、心穏やかに暮らす事を。
それが、魔女の生涯最期の愛でした。
彼は、暖炉の前で向かい合って椅子に腰かけながら、彼女の長い話に耳を傾けていました。彼女は淡々と語るかと思えば、時折嘯くような愉悦を含みます。
「まるで、初めて恋を知った少年のようだと思わないかい?一途で傲慢。ひた向きでがむしゃら。その後、魔女は自らの住処に戻る力も無く、私が連れ帰ったよ。とうとう己の身の限界まで見誤ったのか。それとも、それさえ構わない、と思えるほどの想いだったのか」
彼は肩を竦める彼女を微笑んで見つめていました。民衆の間で語られる勇猛果敢さなど、まるで感じさせない穏やかな様子でした。
彼女はそんな彼を一瞥だけして、指で指し示すだけで暖炉に木をくべます。
「君はどう思う?まるで物語のように愛されたお妃様。まるで悲劇のように報われなかった魔女。その後、王は十二年もの間、お妃様の事を忘れていたそうじゃないか。愚かな魔女。そんな魔女に、己の母が愛された事について、君はどう思うんだい?」
彼は、わずかに笑みを深めます。彼女はかつての魔女を『我が師』と称するように、魔女の跡を継ぐ存在でした。未だ年若いものの、彼女もまた『魔女』と呼ばれるに相応しい、得体の知れない空気を纏っていました。どこか空恐ろしく、浮世離れした妖しさを。
そんな彼女に対し、全く動じる事も無く悠然と座す彼は、魔女に愛されたお妃様の息子、つまりはあのときの王子様でした。
「………私は、両親の愛を知らずに育ちました。父は情を持たぬ人で、母はご存知の通り眠り続けていました。臣下や乳母が愛を持って私を育ててはくれましたが、いつも実の両親の動向を気にしていました」
彼は、眠り続ける母の感触を思い出すように、自身の手のひらに視線を落とします。彼の知る母は、いつだって氷のように冷たく、時を止めたように若く美しいままでした。
「私は、魔女殿に感謝をしているのです。魔女殿のお陰で、父は人を愛する事を知り、母は愛される事を知りました。そして、私は両親の愛を知ったのです」
「何もせずとも今の形に落ち着いただろうに、とは思わないのかい?」
彼は、ゆっくりと首を横に振りました。それは、誰もが認める王子様の穏やかな微笑みでは無く、冬の王と春の妃の息子に相応しい、力強くも晴れやかな笑顔でした。
「今、誰もが笑っています。私も、母も、父も。それだけが全てです」
彼は、全てを受け止めているからこそ浮かべる事の出来る潔さで、しっかりと頷きました。それに、かつての魔女の跡を継ぐ彼女もまた、微笑みを浮かべます。
彼女は、魔女に拾われてこの地で育てられました。魔女は拾い子への情の掛け方を知りませんでしたが、己の持ちうる全ての知識を彼女に与えました。それらは彼女を救い、生かすものでした。
彼女は、分かりやすく魔女を慕う事はありませんでした。けれど、彼女は知っていたのです。人を嫌い、厭い、憎む彼女が、本当は誰よりも人に焦がれ、求め、愛していた事を。そんな魔女に、魔女なりに大切に育てられた自分自身を。
「どうか、幸せになりたまえ、人の王子よ。そして、良き王に。それが、魔女の望みでもある」
彼は彼女のその言葉を合図に立ち上がり、その場に膝をつきました。そして、目の前の彼女をかつての魔女に見立て、最上級の礼を払います。彼女もまた、それを承知で彼の挙動を受け止めました。
「感謝致します。心優しき魔女よ。私達は、幸せになります。父は母を誰よりも慈しみ愛する事でしょう。それはあなたの尽力によるものです」
彼は、王子様という高貴な身分でありながら、深々と頭を下げました。
「ありがとうございました」
人は、魔女の嫌ったように、弱く愚かで傲慢な存在でしょう。時に救いようの無い過ちを犯します。けれど、その間違いに気付いたとき、それを受け入れられたとき、より深く、目の前のものを愛せるのです。
憶病さ故の孤独に気付いた魔女が、ひた向きにお妃様を想ったように。
ある雪深い国に、一人の魔女が暮らしていました。
その呪いによって雪を降らせ続けるといわれる、恐ろしい魔女でした。
けれど、本当は、その雪によって国を守る、心優しき魔女でした。
あるとき、その真実が王子様によりもたらされ、人々は再び魔女への敬意と感謝を思い出したのです。
これは、ある雪の国に伝わる、恐ろしくも優しい魔女の物語。
読んでいただきありがとうございました。
冬の王と春の妃にて、呪いだけかけて消えてしまっていた魔女の真実のお話です。
雪守は、雪で守っているので何となくの造語です。
魔女:元々は感情豊かでお人好しの人間好き。社交的で人と関わることに喜びを感じる人種。ただし、少しばかり短慮で猪突猛進がちの所がある。おそらく、二百年前の王様には特別な親しみを感じていた。次第に恐れられるようになり、山奥にこもって人を嫌うようになる。弟子を拾ったのは、昔の良心が疼いた為。
二代目魔女:初代に拾われた弟子。お腹をすかせて行き倒れていた所を魔女に拾われる。斜に構えた性格。師の本当は真っ直ぐな性根にも気付いており、生きにくそうな人だと感じていた。そんな人であるからこそ、恩義以上のものも感じている。
王子:文武両道であり将来を嘱望されている。両親を求めつつも臣下と乳母からの愛情を一心に受けて育ったため、性根が曲がる事も無く真っ直ぐな性格。両親が睦まじく過ごす現在がとても幸せ。
国王夫妻:失われた時間を取り戻すように愛し合う。目の毒。そろそろ王子様に弟妹が出来そうな予感。