人形と深海魚
障がい者への差別・偏見の意思は全くありません。
が、不愉快になったなら申し訳ないです。
二人で暮らすアパートの一部屋。私達だけの時間が私達のペースで流れる室内。私と純は寝室に閉じこもっていた。
うららかな春の日の午後のひかりはお互いの体を重くさせ、シーツの海に沈めてしまう。それを何とか乗りこえて、並んでベッドのふちに腰かけ上半身を向かい合わせる。
私は彼の、無骨な手に触れていた。骨張った五本の指を、持ち主ではなく私自身の意思で動かす。
「アイ、エル、オー……」
一人うわごとのように、純は小さくつぶやく。私が彼の手でつづる指文字を、正しく、間違いなく。
「ワイ、オー、ユー……アイ、ラヴ、ユーか」
こくり、と頷く。純はその些細な動作を気配で感じ取った。唇が緩やかなカーブを描き、三日月をつくる。
「僕も、あいしてる」臆面なく告げられて、伝えたこちらが恥ずかしくなった。英語と日本語じゃ、同じ意味でも雰囲気がだいぶ違う。直球では無い分ためらいもなく愛の言葉を伝えやすいから、こっちは英語にしたのに。
けれど、私の赤くなった顔は、盲目の彼の目には映らない。胸を刃物で抉られる感覚が、した。
不意に名前を呼ばれ、指先に焦点を合わせいつの間にかうつむいた顔を上げる。彼の膝の上で重ね合っていた両の手のひらが私の腕をゆっくりとたどり、肩に置かれた。と思ったらまた少し上へと昇り、最終的には左右の頬に触れ私の顔を包む。
これは、純のくせだ。
真っ暗な世界で、いつでも私の存在を確かめられるよう、私に触れる。そうして安心してから、少し泣きそうな顔になる。表情が歪む明確な理由は分からないけれど、かなしい、んだと思う。
今日だってまた、眉を寄せ、下唇を噛んで、上を向いて。一体何を考えているんだろう。どうして全部を、二人は共有できないんだろう。なぜ、こんな風になってしまったのだろう。
「泣いてる、の?」
声をかけられて気付いた。
ああ私、泣いている。
みっともなく流れる雫の温度を、純は指先で拾うのだろう。時々ぎこちなく拭ってくれる。
口元にやってきた水滴は、舐めると海の味がした。悲しいときに零す涙ほど、塩辛いって聞いたことがある。だから私の涙はこんなにもしょっぱいんだ。
名前を口にすることも、泣き喚くことも、すき、も、だいすき、もあいしてる、も言うことのできない私は、代わりに目の前の純に抱きつき背中の布地をきつく握った。
急な出来事に驚いた彼は僅かにうめく。けれどもすぐに、同じように私の背中に腕を回してくれた。軽くトントン、とゆっくりしたペースで背をたたき、しょうがない私をあやしてくれる。
やさしいあったかいうれしいしあわせ、ふしあわせ。
どうしてかって?
片方は視力を失い、もう片方は声を失っているから。
話せないから、自分の想いを伝えられない。
見えないから、自分の想いを紙に書いても二人の間では無意味。
一体どうやって愛情表現しろというのだろう。一体どうやって愛情確認しろというのだろう。そばにいてくれる純以外の全てが、意地悪で残酷に思えてくる。
「髪、伸びたね」
唐突に頭上から声がふってきた。純の指は、背中にこぼれる私の髪先をいじる。長さは……肩甲骨を少しすぎたくらいだろうか。純が何も見えなくなったことを知り、絶望した私が乱雑に髪を切ったのが一年前。あの時の私は、何かを代償にすれば彼の瞳に光が戻るのではと無茶な期待をしていた。そこまでして、何かにすがりたかった。
それからただの一度たりとも切らず、今に至る。
伸ばし続けるにはわけがある。
愛という形のないものを確かめようと、私たちに可能なのは感情の表示ではなく温度と時間を分かち合うこと。情愛を音声と文字にできなくなってから、その二つが互いの中ではっきりと意味をもつようになった。今まで頼ってきた眼球と声帯は機能を成さない。
ならば、別の方法で。
そこで私は、髪を伸ばそうと決心した。髪の長さは、純とすごした時間の長さ。それはどれだけ二人が想い続けてきたのかを意味するから。
彼は彼で、私の方へ手を差し出すようになった。私の体温が無言の愛を伝えるから。今二人が並ぶベッドだって、一緒に眠るには少し狭い。純の虚ろな指先が、少しでも私に届きやすいように。伸ばした腕が空を掻き、大切なこの人がこれ以上落胆しないですむように。そんな、祈りを添えて。
「でも少し傷んでる。せっかくなんだし、もう少し手入れしたら?」
だって。
ぐ、っと喉に力を込める。だって、いくらきれいな髪をしたって、純には見えないじゃない。
もちろん言えるはずもなく、悲しみと諦めがないまぜになった感情は胸の内に蓄積されるだけ。せっかく泣きやんだのに、また泣きそうだ。こらえるように目の前の胸板に頭部を強く押しつける。
昔は違った。声も視力も、お互いがもっていた頃はこの人に少しでもきれいって思われたかった。でも、それが叶わなくなってから。髪も爪も肌も気にかけても意味なんて存在しないようになったから。私はそれらへの手入れを一切しなくなった。きっと、これからもずっと。あなたにだけ、「きれいだね」っていわれたかった、だけなのに。それすらもう、│泡沫の夢。
「佐助は愚かだ」
耳に届いたのは、純の口癖。佐助――――「│春琴抄」に出てくる気高い女性に仕え、最終的には自分の目をつぶす男の名前。その後に続くセリフは、きっとこうだ。
「自分が愛した人なら、いつでも、いつまでも美しいはずなのに」
やけどで酷い傷を負った春琴。そん醜い容貌を記憶に留めぬよう、ずっと自分の理想通りであるよう、眼球に針を刺した佐助を純はことごとく悪く言った。永久にその目を自らで闇で覆うくらいなら、自分によこしてほしかったとも。
純のきもち、分かる気がする。失ったものは異なるけれど、自身を苛ます苦痛は多分同じだから。
私も、声帯の震わせ方を意思に反し自分の体が忘れた時から、人魚姫はばかだ、と罵るようになった。 その声を失くすのなら、私に譲ってほしかった。私が名前を呼べるようになったら、例え私自身の声でなくても純は喜ぶはずだ。その為なら、両足くらいいつだって彼女に捧げられる。純が陸にいる限り、私は地に足立っていられる。無い二本足で、立ち上がっていられる、のに。
純と付き合い始めてすぐ、どうして「愛しい」と書いて「かなしい」と読むのだろうと考えたことがある。誰かを慕うすてきなきもちが、なぜ涙を零し、泣き叫びたくなる感情と同じ音をするのだろう、と。
今、やっと、その意味を悟った。
愛するって、こんなにもかなしい。違った固体であることにもどかしさと煩わしさを覚え、一つになりたいと願う。肌の境界線を溶かし、目の前の人が受ける苦しさや痛み、いとしい人に広がる黒一色の世界を知ることができたならと切に思う。けれど、お互いを隔てる対処のしようがない高い壁が不幸な二人組をより一層不幸にさせる。
でも、握った指や、突然ふってくるキスや、私を受け止めてくれる目の前の純の胸がすごくあたたかいから。これは二人が一人だったら感じ得ない熱だから。別々でよかった、違う存在でよかった、って心から思える。
そんな時、無性に泣きたくなるし、笑いたくもなる。これがきっと、愛と哀の正体。
ゆっくりと、腕の拘束を解いた。額を置いた目の前の胸のシャツは、涙で濡れて色がかすかににじんでいる。私の動きにつられ、純も添えた手のひらを離した。肩口にうずめていた顔を上げ、私と向き合う。 彼の閉じたまぶたの裏側の瞳は、普通だったら一体今何を映しているのだろう。知りたいけど知ることは永遠に無いから、ごまかすように小さくキスをした。
触れるだけの口づけは、いつもやさしく、あたたかい。
ねえ純。
心の中で呼びかける。
「私、世界で一番幸せよ」
しっとりした雰囲気をイメージ。
割と部活では評判が良かったのですが、どうでしょう?
評価・感想、お持ちしています。
参考『春琴抄/谷崎潤一郎 角川文庫』