返品された緑の杯を、王室検品官だけが割らせてくれません
「結婚したら吹き竿を置いていただきます」
最初の求婚者は、着席するより先にアグライアの仕事を廃止した。
見事な手際である。まだ茶も出ていないのに破談の九割が完成した。
「理由を伺っても?」
「職人は十時間も炉に張りつくのでしょう。妻として非効率です。工程を整理すれば、六人の仕事を三人で済ませられるはずだ」
「徐冷窯の当番を半分に?」
「細部は現場で考えればよい」
「窯を開ける時刻も半分に?」
「だから、細部は——」
大泡。
透明な素地の真ん中に居座り、どこから眺めても見えるくせに、自分だけは製品の価値を高めているつもりの大泡である。
「あなたは、硝子器を作った経験がおありですか」
「ありませんが、経営ならわかります」
「割れた器を納期までに十二客そろえ直した経験は?」
「職人に命じればいい」
「その職人を半分に減らしたあとで?」
求婚者は椅子の背へ逃げた。炉の熱も届かない応接卓でこれでは、実用強度が足りない。
「お断りします。結婚した翌朝には工房と家が同時に割れそうです」
「女性が理屈ばかり並べるものではない。ご実家で不格好な理屈屋と呼ばれた理由がわかりましたよ」
「私も、あなたがまだ独身である理由を一工程で確認できました」
扉まで案内する必要はなかった。求婚者は自分で勢いよく開け、自分で肩をぶつけ、自分で帰った。最後まで効率的である。
仲人を務めたヤロスラヴァは額を押さえた。
「硝子の話ではなく男の話をして」
「しました。大泡でした」
「人間の判定を頼んだのよ」
「ですから、除去不能です」
炉前から顔を出したハラランボスが、短く命じた。
「扉を閉めろ。熱が逃げる」
逃げた熱と男のうち、惜しいのは熱だけだった。
* * *
二人目の求婚者は、アグライアの作った青い小瓶を窓へ透かした。
「美しい。妻がこんな品を飾れば、客人にも自慢できる」
ほう。今度は仕事を褒める。前回より泡が小さい。これなら飲用器の端に追いやれるかもしれない。
「では、結婚後も工房へ?」
「まさか。その荒れた手で客人を迎えるのは困るよ。作品だけ買い取ろう。君は着飾って、その瓶を持って立てばいい」
泡ではなかった。
色だけ被せた空瓶だった。
「中身は?」
「中身?」
「私は瓶を持って立ち、何をするのです」
「微笑んでいればいい。妻の外聞とはそういうものだ」
「栓をして棚へ置かれるほうが、まだ用途がありますね」
「君のためを思って——」
「こちらの青は鉄分の配合を誤ると濁りますが、あなたは何を混ぜたらそれほど自信だけ澄むのですか」
小瓶を取り落としかけた男から、アグライアは両手で作品を救出した。人間より硝子を優先したのではない。落下したとき助ける価値のあるほうへ手を伸ばしただけだ。
男が帰ると、ヤロスラヴァはまた額を押さえた。
「硝子の話ではなく男の話をして」
「しました。色だけ被せた空瓶でした」
「今のは少しくらい迷ってもよかったでしょう?」
「小瓶を落としました」
「不採用ね」
理解が早くて助かる。
ハラランボスは男の馬車が角を曲がるまで見届け、炉へ薪を一本足した。
「次は炉に入れても割れない男にしろ」
「そんな男、王室の検品官くらいしか思いつかないわ」
ヤロスラヴァが朗らかに言った、その日の午後だった。
実家から催告状が届いた。
古い徒弟契約の写し。その保証人欄には兄ドゥミトゥルの名があり、別紙にはアグライアの給金、春の注文、使用中の道具を十日以内に実家へ引き渡せとある。
「私が作ったものまで、兄の保証で出来たことになっています」
紙を押さえる指に灰がついた。灰なら払える。名前の横に押しつけられた古い汚名は、払っても払っても指へ戻った。
ヤロスラヴァは催告状を裏返した。
「では三人目を呼びましょう。ちょうど王室注文の検品もあるし、仕事を見てもらえばいいのよ」
「縁談と検品を混ぜないでください」
「大丈夫。黙って混ぜるから」
「いちばん駄目な配合です!」
* * *
晩冬の検品室には、緑の光が十二個並んでいた。
透明な素地へ緑の色硝子を巻き、吹き竿を休ませず回しながら木型へ入れ、縁を鋏で切りそろえた色被せ杯である。十二客すべて、アグライアが吹いた。
そして木枠の向こうに立つのは、よりによってイシュトヴァーンだった。
王室検品官。余計な言葉を混ぜない男。以前、無色の水差しを検めたときには、底を一度撫でただけで、彼女が吹き竿を持ち替えた場所まで言い当てた。
ヤロスラヴァめ。縁談を黙って混ぜるとは言ったが、よりによって最高純度を投入するとは聞いていない。
「始めます」
「お願いします、検品官殿」
声は平らに出た。よし。少なくとも表面にはひびなし。
イシュトヴァーンは一客目を持ち上げ、親指の腹で縁をなぞった。底を水平な板へ置き、揺れを見て、窓へ透かす。次の杯へ移る。
十二客を一つずつ。
急がない。褒めない。眉ひとつ動かさない。
三客目を透かしたとき、晩冬の窓光が緑の層を抜け、彼の目元へ落ちた。指は縁を半周して止まり、隣の一客へ移った。
何かある。
肉厚か。回転か。色硝子を巻いた位置か。
アグライアの頭の中で、昨夜まで自信満々だった全工程が一斉に自白を始めた。あのとき木型を濡らしすぎたか。七客目で火床の薪が崩れた。いや、響きはそろっていた。そろっていたはずだ。恋心だけなら返品されても人知れず粉砕すれば済むが、十二客は困る。とても困る!
彼は杯の縁を爪で軽く弾いた。
細く澄んだ音が、一つ、また一つ、検品室に浮かぶ。高さはそろっていた。それでも彼の顔は動かない。
最後にイシュトヴァーンは徐冷窯の当番帳を求めた。
ハラランボスが差し出す。革表紙が卓へ置かれ、紙を繰る乾いた音がした。
「この時刻に、窯を開けましたか」
「いいえ」
アグライアは即答した。
「夜番は私です。火を落としてから朝鐘の二つ目まで、扉には触れていません」
「記録には一つ目の鐘で開けたとあります」
喉の内側に細いひびが走った。
もし本当に早く開いていたなら、目に見えない歪みが残る。運搬の振動で割れれば、王室の食卓へ出せる品ではない。
「私が眠ったあと、誰かが開けたのでしょうか」
「確認します」
彼は時刻欄を見た。杯を見た。アグライアを見た。
「宮廷には出せません。十二客すべて封じます」
ああ。割れた。
杯ではない。期待のほうだ。音もしなかったので片づけは簡単だろう。アグライアは木枠の傍らに立ててあった吹き竿を取った。
「では、割ります」
「割らないでください」
振り上げるより早く、イシュトヴァーンの手が吹き竿を押さえた。
手袋をしていない。長い指が冷えた鉄をじかにつかみ、彼女の両手ごと止めている。
「不良品を残しても」
「まだ不良品とは言っていません」
「宮廷には出せないのでしょう」
「それと、割ってよいことは同じではありません」
「では、どこが悪いのです」
彼の指へ力が加わった。
答えは来なかった。
調査中の検品官は、作り手にも理由を明かさない。正しい。正しいが、正しさとはときどき、肉厚の足りない杯より容赦なく人の手を切る。
イシュトヴァーンは灰色の封蝋を箱の継ぎ目へ落とし、自分の印を押した。十二客のうち一客だけを小さな木箱へ移し、そちらにも封印する。
「これは私が運びます」
最後まで低い声だった。
検品室を出る彼の背へ、アグライアは何も言えなかった。吹き竿にはまだ彼の手の熱が移っていた。それだけが、いちばん始末に悪かった。
翌朝、実家の荷車が来た。
ドゥミトゥルは封印された箱を見つけるなり、口の端を持ち上げた。
「やはりお前一人では何も完成させられない」
「これは王室検品官が保全した品です。勝手に触れないで」
「返品された失敗作だろう。実家なら処分してやれる」
「私の給金と春の注文まで処分するつもり?」
「保証人として管理する。古い契約にもある」
彼は催告状を卓へ広げ、保証人欄を指で叩いた。アグライア本人の署名より、兄の名のほうを上へ置く。昔からそうだ。この家では彼女の手が品を作り、兄の署名が利益を完成させたことになっている。
「徒弟期間は二年前に終わっています。別工房から連れ戻すなら、本人の同意と組合立会人の署名が必要です」
「家族に立会人など要らない」
「契約の話をしているのに、都合が悪くなると家族になるのね」
「荷を積め」
身内に向ける声だけは、炉の火まで押し倒しそうに大きい。
連れてきた男たちが工具箱を持ち上げた。鋏、火箸、木型、磨き板。ハラランボスがその前へ立つ。
「置け」
「妹に貸し与えた実家の道具だ」
「俺が買った」
「なら代金を実家へ請求しろ。妹の給金から払う」
完璧だ。人の所有物を奪い、その代金まで同じ人に払わせる。肉厚だけは立派な空瓶である。
アグライアは前掛けを外さず、荷車へ上がった。
「私が行きます。工房の物には触らないで」
「アグライア!」
「組合で契約を確認して、戻ります」
戻る。声にすると足場ができた。
ドゥミトゥルは勝った顔で御者台へ座った。工具箱は荷台の奥。アグライアは後板に背をつけ、轍を数えた。
石畳では飛び降りない。車輪が速すぎる。平地も駄目。後板を開けても引きずられる。
街道は工房から三つ目の曲がり角で坂になる。昨夜の雪が路肩へ寄せられ、荷の重さで馬の歩みが鈍る場所だ。
車輪の回転が緩んだ。
今。
前掛けの肩紐から真鍮の留め金を抜く。薄い先端を後板の木栓の下へ差し込み、掌で押し上げた。一度では動かない。腰を浮かせ、車体が轍へ沈んだ反動を使って、もう一度。
木栓が半分抜けた。
「何をしている」
「酔いました」
「吐くなよ」
妹にだけ強い兄は振り返りもしない。ありがたい。今だけは、その薄さが役に立つ。
三度目の揺れで木栓が外れた。後板が外へ倒れる。アグライアは工具箱へ手を伸ばしかけ、やめた。
持てば跳べない。
道具は取り返せる。脚は一本ずつしかない。
両腕を胸へ寄せ、後板へ踵を載せる。馬が坂にあえぎ、さらに速度を落とした瞬間、尻から雪の堆積へ落ちた。
腰。肩。背中。
最後に膝が凍った路面を擦った。
息が出ない。荷車の車輪だけが目の前を過ぎ、遠ざかっていく。
アグライアは右手を雪へつき、左足を立てた。右膝は遅れて引き寄せる。前掛けの布が裂け、赤い筋が脛を伝った。
立てる。
一歩。
もう一歩。
荷車からは、自分で降りた。
組合のある街道へ戻ったところで、蹄の音が追いついた。
* * *
少し前。
晩冬の検品室には、緑の光が十二個並んでいた。
イシュトヴァーンは一客目を持ち上げ、親指の腹で縁をなぞった。
高さは一定。
底を水平な板へ置いても揺れない。緑の色層は、透明な素地から髪一本ぶんも浮いていない。吹き竿を持ち替えた回転痕は底から同じ位置にあり、肉厚は光へ透かせば指二本の間で均等に明暗を変えた。
二客目も。
三客目も。
三客目を透かしたとき、晩冬の窓光が緑の層を抜けた。杯の縁をなぞった光は、最初の一客と同じ高さで途切れた。
イシュトヴァーンは隣へ移った。
検品台の向こうで、アグライアの指が前掛けをつかんでいた。白くなるほど強く。
手を離せと言いたかった。言えば、なぜそんなところを見ているのか説明が要る。検品官は杯を見る職だ。作り手の指を見つめる職ではない。
だから彼は、十二客を一つずつ調べた。
縁、底、色層、回転痕。
一つも外れない。
王室基準を満たしている。十二客そろったままなら、今季に納められた杯の中でも最も安定していた。
彼は縁を軽く弾いた。澄んだ音が連なり、同じ高さで消える。
乱れたのは杯ではない。
ハラランボスが徐冷窯の当番帳を卓へ置いた。革表紙が木へ触れ、紙を繰る乾いた音がした。
窯を開けた時刻の一行だけ、インクの艶が違った。
前後の記録は鉄筆を寝かせ、数字の頭を右へ払っている。問題の一行は筆圧が深く、最後の輪を閉じる癖があった。
催告状を届ける名目で検品前に事務卓まで入ったドゥミトゥルの字を、イシュトヴァーンは知っていた。
春の王室注文について、実家が提出した異議申立書。アグライアは独立した職人ではなく、兄の保証下にあるから注文の代金は実家へ払えと要求した書面。その末尾で、ドゥミトゥルは同じ輪を閉じていた。
「この時刻に、窯を開けましたか」
「いいえ」
アグライアは迷わなかった。
「夜番は私です。火を落としてから朝鐘の二つ目まで、扉には触れていません」
「記録には一つ目の鐘で開けたとあります」
彼女の喉が動いた。
「私が眠ったあと、誰かが開けたのでしょうか」
「確認します」
窯は開けられていない。
開けたなら、十二客のうち窯口に近い杯ほど響きが鈍る。だが音はそろっている。書き換えられたのは時刻だけだ。失敗作という記録を作り、王室注文を実家へ戻すために。
イシュトヴァーンは同席した組合の立会人へ視線を向けた。
ここで説明すれば、改竄を知った者が証拠を消す。封印せず納品すれば、杯は宮廷の各所へ分けられ、十二客が同じ工程で作られた証明も散る。
彼は言葉を選んだ。
選びすぎた。
「宮廷には出せません。十二客すべて封じます」
アグライアの顔から血の気が引いた。
違う。
出せないのは、杯ではない。改竄された記録を添えたままでは出せない。
けれど調査対象者の名を口にできない。彼女の兄が関与していると確定する前に知らせれば、身内へ連絡したと疑われる。それで彼女の職人名にもう一つ傷をつけるわけにはいかなかった。
アグライアが吹き竿を取った。
「では、割ります」
「割らないでください」
イシュトヴァーンは素手で鉄を押さえた。
間に合った。
彼女の手は思ったより冷たかった。吹き竿をつかむ指だけが、壊すと決めた者の力で固まっている。
「不良品を残しても」
「まだ不良品とは言っていません」
「宮廷には出せないのでしょう」
「それと、割ってよいことは同じではありません」
「では、どこが悪いのです」
悪いのは杯ではない。
あなたでもない。
言えない言葉ばかりが、検品官の喉で不合格になった。
イシュトヴァーンは吹き竿を奪わず、彼女が力を抜くまで押さえていた。それから十二客を木箱へ戻し、継ぎ目へ封蝋を落とした。
組合の立会人が彼のそばへ寄り、声を落とした。
「すべて証拠品としますか」
「はい。この十二客を同じ厚みで吹ける職人を、私は他に知りません」
イシュトヴァーンも、当番帳へ目を落としたアグライアに届かない声で答え、封印へ印を押した。
一客だけを小箱へ移した。宮廷の検品室で記録と照合する見本であり、十二客の価値を外から証明する基準でもある。
「これは私が運びます」
誰にも持たせなかった。
検品室を出ると、彼は小箱を抱えたまま王室の記録庫へ向かった。異議申立書の筆跡を照合し、組合へ封印証明を届け、古い徒弟契約の効力停止を申請する。
許可印が下りたとき、工房から使いが駆け込んだ。
実家の荷車がアグライアを連れて出たという。
イシュトヴァーンは見本杯の小箱を鞍へ固定し、馬を走らせた。
* * *
街道へ戻ったアグライアの前で、馬が泡を吹いて止まった。
イシュトヴァーンは鞍から降りるなり彼女の腰へ腕を回したが、アグライアはその胸を片手で押した。
「待ってください。先に役人へ説明します」
「膝を負傷しています」
「口は無傷です」
同行した組合役人へ、アグライアは裂けた前掛けのまま向き直った。
「契約の徒弟期間は二年前に満了しています。保証人に認められるのは未払いの徒弟料がある場合の清算だけです。私の給金、春の注文、今の雇い主が購入した道具を引き渡す条項はありません。身柄を移すなら、私の署名と組合立会人の署名が要ります。どちらもありません」
そこまで言ってから、彼女はイシュトヴァーンの腕へ体重を預けた。
「以上です。抱えてください」
「はい」
即答だった。よろしい。耐荷重も反応速度も合格。
だが胸へ抱き上げられた途端、膝の痛みより彼の鼓動のほうが近くなった。採点不能。検品台へ戻したい。何をどう戻すのかは知らない!
兄の荷車は坂の先で止められていた。
役人を見たドゥミトゥルの声は、工房で妹を命じたときの半分にも届かなかった。
「これは家族の問題です。私は保護者として——」
「先ほどは保証人とおっしゃいました」
アグライアが返すと、兄の語尾がさらに痩せた。
「同じことだ」
「違います。契約書なら欄を分けてください」
組合役人は荷台の工具を一つずつ帳面と照合し、ハラランボスの購入印を確認した。ドゥミトゥル自身の手で工具箱を降ろさせ、返還欄へ署名させる。
続いてイシュトヴァーンが封筒を示した。
「徐冷窯の当番帳に追記した筆跡と、あなたの異議申立書の筆跡が一致しました。封印品十二客の検査結果も提出済みです」
「妹が失敗したから、実家の注文を守ろうと——」
「十二客すべて王室基準を満たしています」
兄の口が止まった。
組合役人は改竄と無立会いの連行について記した告知書を読み上げ、受領印を求めた。ドゥミトゥルが拒むと、役人は荷車の通行札を外した。
乾いた金具の音がした。
実家へ給金も注文も戻らない。工具も戻らない。家族という言葉で覆えば見えなくなると思っていた手だけが、帳面の上へ残った。
「アグライア」
兄が初めて名前を呼んだ。
「お前は実家を捨てるのか」
「先に私の仕事を持ち去ろうとした人が、その質問をするの?」
アグライアは彼の返事を待たなかった。
荷車は通行札を失ったまま街道脇へ寄せられ、ドゥミトゥルは役人に伴われて組合へ向かった。
工房へ戻るころには日が落ちていた。
ヤロスラヴァはアグライアの姿を見るなり薬箱を開け、ハラランボスは工具箱を炉前の定位置へ戻した。二人とも言いたいことが山ほどある顔だったが、イシュトヴァーンが抱えている小箱を見ると、揃って隣室へ引っ込んだ。
扉の向こうでヤロスラヴァが小声を出す。
「ここは任せるところよ」
「膝の手当ては終わったのか」
「終わったわ。たぶん」
「たぶんで炉を閉めるな」
足音が遠ざかった。
イシュトヴァーンは食卓へ小箱を置いた。王室記録庫の封印解除証を脇へ置き、封蝋を割って布を外す。
緑の杯が一客、二人の間に現れた。
「職人アグライアの見本杯です」
求婚より先に、彼は職人名を口にした。
アグライアは杯へ触れなかった。
「返品されたものでは?」
「返品していません。出せなかったのは杯ではなく、改竄された記録です」
彼は杯を窓の残光へ透かした。
「縁の高さは十二客すべて同じです。肉厚も、色層も、回転痕もそろっている。徐冷窯が途中で開けられたなら、あの響きにはなりません」
「では、封印は」
「証拠を散らさないためです。あなたの仕事を、十二客そろったまま守る必要がありました」
アグライアの視界で、緑の杯が水の底に沈んだように揺れた。
目元を拭けば、なかったことにできそうだった。袖は膝の泥で汚れている。前掛けも裂けている。こんなときまで実用上の問題が多い。
だから拭かなかった。
「あのとき、言ってくだされば」
「言えませんでした」
「検品官だから?」
「はい」
「では、仕方がありませんね」
「いいえ」
イシュトヴァーンは杯を置いた。
「言えなくても、あなたが自分の作品を壊そうとするまで追いつめられているとはわかりました。止める言葉を、私はもっと選ぶべきでした」
「十分選んでいたでしょう。選びすぎて三語ほどになっていました」
「足りませんでした」
冗談に逃げようとした足場を、彼は正面から外した。
アグライアの顎から雫が落ち、食卓へ小さな丸を作った。
「私、荷車から自分で降りました」
「聞きました」
「工具箱は置いてきました。あれを持っていたら跳べなかったので」
「正しい判断です」
「膝から落ちたのは失敗でした」
「腰、肩、背中の順で衝撃を逃がしたとも聞きました」
「誰がそこまで?」
「雪上の跡を確認しました」
「私の落下まで検品しないでください」
「できません」
低い声が、そこで初めて揺れた。
「あなたが壊れていないと、自分で確かめるまでは」
アグライアは食卓の下で指を握った。爪が掌へ入る。こうでもしなければ、胸の中で何かが膨らみすぎる。
「杯を壊さずに済みました」
「はい」
「私も、戻れました」
「はい」
「あなたの沈黙を、拒絶だと決めつけました」
イシュトヴァーンは答えなかった。
彼女が言い終えるまで、待っていた。
アグライアは濡れた頬を上げた。
「私、今あなたが好きです。杯を守ったからだけではなく、私が壊す前に止めてくれた、あなたが」
初めて、役職を外して呼ぶ。
「イシュトヴァーン。あなたが好きです」
彼の手が食卓の縁をつかんだ。十二客の微細な差を見落とさない指が、置き場所を失ったように一度だけ動く。
「それは、検品への礼ではありませんか」
「違います」
「職人名を守ったことへの礼でも」
「違います。私が今、そうしたいから言っています。理屈が必要なら、朝まで説明します」
「朝では足りないでしょう」
「では三日」
「生涯、聞きたい」
彼は椅子から立ち、アグライアの前へ膝をついた。
包帯を巻かれた膝には触れず、灰と小傷の残る彼女の右手を両手で包む。
「疑問を放置せず、誰が相手でも工程の誤りを問い返す理屈っぽさを。正しいと確かめた仕事を曲げない頑固さを。自分が傷ついても、杯と工房を守ろうとするこの手を」
彼は一つずつ、欠陥ではなく価値として拾った。
「あなたを不格好な理屈屋と呼ぶ者がいるなら、その不格好さに救われる品と人間を、私はいくつでも挙げられます」
指先へ唇が触れた。
「その全部を持つアグライアただ一人を、生涯選びたい。私と婚約していただけますか」
職を与えるとは言わなかった。
保護するとも、養うとも。
彼女がすでに持っているものを数え、それを持つ彼女を選ぶと言った。
アグライアは彼の手を握り返した。
「お受けします」
そこで初めて、二人の関係は検品官と職人ではなくなった。
イシュトヴァーンは額を彼女の手へ押し当てた。肩が大きく上下する。アグライアも目元を拭かなかった。
食卓の中央で、緑の杯だけが澄ました顔をしている。
婚約から七日後。
その杯は二人の朝食に使われていた。
ただしイシュトヴァーンは毎朝、飲み物を注ぐ前に縁をなぞり、底の揺れを確かめ、窓へ透かす。
「昨日も異常なしでした」
「一日で肉厚が変わる可能性を否定できません」
「硝子は育ちません」
「微細な亀裂は進みます」
「食卓の杯まで毎朝検品する婚約者は?」
「あなたの作った一客を、生涯使うと決めた男です」
アグライアは緑の杯を取り上げた。
「心配性による肉厚過多です」




