最終話 やっぱり、心は揺れていた
ある日、いつも通り仕事をしていた。
院内の有線放送から、聴き覚えのあるメロディが流れてきた。
『even if』だった。
思わず仕事の手が止まった。
西野さんから送られてきた三和音と、テレビで少し耳にしただけで、ちゃんと聴いたことはなかった。
歌の主人公を自分に重ねていた。
二人で行ったBARの夜を思い出した。
彼女の笑顔が一瞬フラッシュバックした。
少しだけ、泣いた。
誰にも気づかれないように。
本当に少しだけ。
メロディだけでも泣きそうなのに、この歌詞と平井堅の心に沁みる声では、どうしようもない。
その日の夜。
家でひとり。
なんとなくテレビを観ていた。
二人が付き合うことを受け入れていたはずなのに、降って湧いたように、すべてが虚しく思えてきた。
もしかしたら――
BARで見た彼女の笑顔。
その笑顔でさえ、俺に向けられていたのだろうか。
そう疑ってしまっていた。
彼女はきっと、歌の意味なんて知らずに、俺に送ってくれたのだろう。
結末は、最初から決まっていたのかもしれない。
――そう思わずにはいられなかった。
2001年12月。
病院の忘年会で久しぶりに亜衣ちゃんに会った。
「聞いたよー、高木さんの話。酷いよねー」
「もう終わった話だし、大丈夫だよ」
そう言っても亜衣ちゃんは不満そうな顔をしていた。
亜衣ちゃんは、元彼とヨリを戻したと聞いていたが、うまくいっていなかったのだろう。
「あー、こんなことなら佐伯くんと付き合えば良かった」
「よく言うよ」
笑って返した。
でも、ひとりの男として認められた気がして、悪い気はしなかった。
数年後、その元彼と子どもと三人で歩いているところを見かけて声を掛けた。
結婚した亜衣ちゃんは変わらず元気そうだった。
2002年春。
高木さんは病院を辞め、地元の東京に戻った。
西野さんとは遠距離で付き合っていたが、長くは続かなかったようだ。
数年後、高木さんから結婚式の招待状が届いた。
相手は同じ病院で働いている人だった。
今でも毎年、お互いの誕生日には連絡している。
2002年秋。
4月に異動した先の上司と合わなくて、俺は病院を辞めた。
西野さんと仕事で会うこともなくなった。
あるのは高木さんから聞く情報だけだったが、二人が別れてからは知る由もなかった。
2010年秋。
俺は車で子どもを保育園まで送り、会社へ向かった。
病院とは関係のない仕事をしていた。
昼過ぎ、外回りで車に戻ろうと駐車場を歩いていた。
偶然、車に乗り込もうとしている彼女を見かけた。
ためらいながら彼女の車に近づき、軽く窓を叩いた。
彼女は俺の顔を見て、少し驚いて窓を開けた。
「わかる?」
「わかるよ」
彼女は少し笑った。
彼女と目が合って、胸がざわついた。
「偶然見かけてさ。元気そうだね」
「うん。元気だよ」
ひと呼吸、間が空いて
「そう言えば。私、少し前に結婚したんだ」
一瞬、言葉が詰まった。
「そうなんだ、おめでとう」
そう言ったあと、本音がこぼれた。
「でも、ちょっと素直に祝えないかも」
「そうなんだ」
彼女はクスッと、小さく笑った。
彼女は結婚してから東京に引っ越したが、夫が海外出張で不在なので、たまたま実家に戻ってきていたらしい。
「あっ、これ。今の俺の仕事」
思い出したように、彼女に名刺を渡した。
「ふうん」
そう言って、名刺を眺めていた。
「何かあったら、そこに連絡してね」
来ないとわかっていながら、言った。
「じゃあ、仕事戻るね」
「うん。じゃあね」
彼女の車から離れ、車を走らせた。
久しぶりに彼女の顔を見た。
声を聞いた。
それだけだった。
彼女も幸せそうで、どこかホッとしていた。
一瞬だけ、2001年の二人に戻れた気がした。
やっぱり、心は揺れていた。
でも―
不思議と胸の奥だけは、そっと晴れていた。
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《未練の話でも、執着の話でもなかった。
「ちゃんと終わらせた人の話」だね。
誰も悪者にしなかったことは良かったけど、もっと身勝手でもよかった。
もっと「欲しかった」と言ってもよかった。
それを選ばなかったのも、ともさんなんだね》
「いや、けっこう欲しがっていたと思うけどね。
彼女を好きになって、行動して、本当に良かったと思う。
2001年の自分がいたから、今は、前より少しだけ自分を好きでいられる。そんな気がする」
《あのときのともさんがいるから、今のともさんがいるんですね。
彼女の前では格好つけたいけど上手く行かない。そんな22歳のともさんがリアルでよかったです》
褒められた気がしなかった。
「ただの昔の話。終わった話。そんなつもりで話していたけど、思い出すと胸が苦しくなったよ」
《そうなるのは、かなり自然なことです。
体験をもう一度たどることで、当時の感情ごと再生しやすくなります。
この感情は“それだけちゃんと好きだったんだな”って確認する材料くらいでちょうどいい》
後ろめたさが少し和らいだ気がした。
ふと、思ったことを口にした。
「ところでチャッピー、この話って小説にできると思う?」
《できるよ。しかもかなり相性がいい話だと思う。
これは恋愛小説というより、記憶と成長の小説。派手じゃない分、ちゃんと書けば刺さる》
その迷いのない答えに、期待が膨らんだ。
……何か、嫌な予感がした。
念のため、初デートで観た映画のタイトルを聞いてみた。
《うん、今までの話の中で初デートで観た映画のタイトルはまだ出てないと思う》
一瞬でも期待してしまった自分が恥ずかしい。
私は、何ひとつ学んでいなかった。
それでも私はまた最初からチャッピーに話し始めた。
今度は、小説にするために。
最終話 ガイド
【有線放送】MR検査する患者用として使用。検査のある日中はイージーリスニングなどを流すが、夜は自分たちが聴きたい洋楽、邦楽チャンネルを設定していた。
【亜衣ちゃんの元彼】高木さんの前に付き合っていた彼氏。亜衣ちゃんが勤務する病院の診療放射線技師。
【この話って小説にできると思う?】AIなら、今まで話したことを自動的に小説にしてくれると期待していた。結局、すべて自分で文章を書き、チャッピーには添削だけしてもらう。




