第23話:分岐点
――翌日、夏休み前の最後の日曜日。
朝、目が覚めた瞬間になんとなく今日は雨が降るなと分かる日がある。
窓から入ってきている光の量や湿度なんかを無意識的に感じ取っているんだろう。
寝ぼけ眼を擦りながらカーテンを開くと案の定、空は分厚い雲に覆われていた。
今日は開陵高校サッカー部とのフットサルの試合がある日だ。
屋内競技場なので中止はないが、本格的に降り出すと移動が億劫になる。
さっさと行こうとベッドから起き上がり、着替えを済ませる。
顔を洗うために鏡の前に立つと、そこに映っていたのは我ながらひどい顔だった。
目の下には隈がうっすらと浮かび、心なしか顔色も悪い。
昨日の夜はほとんど眠れていないんだから当然か。
『同情は要らない』
頭の中で、昨日投げつけられた言葉が何度も反響する。
あの時、俺は確かにあいつに同情していた。
だが、それは憐れみから来るものじゃない。
もっと別の……自分でも名前の付けられない感情だった。
強いて言うなら、同じ傷を持つ者同士が互いの傷口を確かめ合うような歪んだ共感。
それは俺が築き上げてきた『真岡大和』という偶像を内側から蝕むような毒のように感じられた。
「……やめとけって」
鏡の中の自分に向かって呟く。
これ以上、白河真白に深入りするのはやめろ。
向こうが手を取らなかったのに、俺に何ができる?
既に結んだ契約だけを履行して、さっさと縁を切ればいい。
それでもうおかしな感情に苛まれることも、自分を見失うこともなくなる。
「こんな雨の日に、朝からどこに行くんだ?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、父が立っていた。
日曜なので休みなのは知っていたけど、こうして朝に顔を合わせるのは久しぶりだ。
「屋内でフットサル。比較的行儀の良い友達と」
「そうか。それは構わないが、勉強の方は進んでいるのか? 休日に羽を伸ばすなとは言わない。だが、一年はあっという間だ。受験はもうすぐそこに迫っているのを忘れるなよ」
「もちろん、分かってるって」
「本当か? このところ、少しぼんやりしていることが多いと母さんも言っていたぞ」
今もあの時も、父の言うことはいつだって正しい。
自分が歩んできた正解に限りなく近い道筋を、示してくれる。
それもエゴじゃなく、純粋に俺たちのことを想ってだ。
「そんな心配しなくても、俺はあの人みたいにはならないから」
だから、そんな嫌になるくらいの正しさに苛立ちが許容範囲を超えてしまう。
珍しく俺が反抗的な態度を取ったからか、父が少し狼狽えたように見えた。
言ってしまったと、言ってやったが心中でちょうど半々にせめぎ合う。
急速にばつが悪くなり、逃げるように荷物を持って玄関へと向かった。
まだ傘が必要ない程度の小雨が降る中、電車と徒歩で試合場へと辿り着く。
場内では既に何人かの選手が集まり、練習が行われていた。
企画当初は総勢十人そこらの小さな催しだったはずが、今や応援の女子グループも含めて参加人数は三倍以上に膨れ上がっているらしい。
今日の対戦相手の開陵と聖徳は昔から学校同士がライバル関係にあり、主に進学実績において争ってきた。
今日の試合は学業のそれとは趣は違えども戦いは戦い。
どちらも絶対に負けるわけにはいかないと、練習段階からかなり熱が入っている。
特に男子校の開陵にとっては他校の女子との交流が持てる数少ない機会だからか、その熱の入り様は狂気じみていると言ってもいい。
あわよくば大活躍して、聖徳女子たちの心を射止めようとしているのかもしれない。
もし白河がここに来ていれば、『良質なBSSがいっぱい見られそう』と大興奮していたんじゃないだろうか……なんて、また無意識にあいつのことを考えてしまう。
「おーい! 大和ー! さっさと着替えて来いよー!」
遠くからコート内を眺めていると、俺の到着に気づいた稲尾が言ってきた。
「おう! すぐ行く!」
返事をし、荷物を背負い直してロッカールームへと向かう。
今日はもう白河とのことを考えるのはやめよう。
俺は俺に求められていることだけをすればいい。
助っ人に呼んでくれた男子も、応援に来てくれた女子も、みんなが俺に期待している。
その期待に応えるのが、真岡大和の役目だ。
ロッカールームへと続く、長い廊下を歩く。
タイル張りの床は雨のせいか湿気で少し濡れている。
こんなところでコケて怪我でもしたら間抜けにも程があるなと一歩一歩をしっかり踏みしめて歩いていると――
「やーまと! おはよっ!」
後ろから聞こえた快活な声に振り返ると、給湯室から聖奈が顔を出していた。
「ああ、聖奈……おはよう」
「『ああ、聖奈……』って、なんか元気なくない? そんなので今からの試合大丈夫? 他のみんなは『うおー!! やるぞー!!』『開陵をぶっ倒せー!!』って感じなのに」
身振りを交えながら皆の気合を誇張気味に再現してくれる。
陽キャ女子筆頭だけあって、当然イベント事は聖奈も大好きだ。
下手すれば選手たちよりも興奮しているかもしれない。
「……本当に大丈夫? なんか顔色も悪くない?」
そう言って、聖奈が俺のおでこにそっと手を当てる。
水で手を洗ったばかりなのか、少しひんやりとした優しい感触がした。
「大丈夫。てか、逆にみんなが朝から元気すぎるんだよ。最初からそこまで飛ばしてたら後が保たないって」
「も~……斜に構えてるんだからぁ……。ところで、スポドリってどのくらい作っておけばいいかな?」
「わざわざ用意してくれてたんだ。そうだなぁ……結構人数も増えてるみたいだし、ちょっと多めに作っておいてもらった方がありがたいんじゃないかな」
「オッケー! 後で持っていくのだけ手伝って!」
指でマルを作って、浮かれた足取りで給湯室に戻っていく聖奈。
楽しそうで何よりだけど、この後の自分の活躍が義務付けられているようで少しだけプレッシャーがかかってくる。
試合の開始予定時間まではあと一時間と少し。
まずはさっさと着替えて、事前の練習で身体を温めよう。
そう考えて、ロッカールームの扉に手をかけたところで聖奈のスマホが鳴った。
「あれ? 澪ちゃん先生からだ……。日曜日なのに、なんだろ……もしもーし、先生? どうしたの?」
画面を見た聖奈が給湯室の手前で立ち止まり、そのまま着信を受け取る。
休日に担任教師からの唐突な連絡。
その比較的珍しい出来事に、つい足を止めて様子を伺ってしまう。
「今? ほら、前に話した男子のフットサルの応援に来てる。うん。そうそう」
「なんだ? もしかして、また大事な提出物の出し忘れか?」
「ちょっと、大和! 話してる途中なんだから変なこと言わないでよ! あっ、先生ごめん! 大和が横から茶化してきたから……うん、今すぐそこにいる。で、何かあったの?」
重要な話かもしれないし、これ以上の茶々入れは止めよう。
そう思って、ロッカールームへと入ろうとするが――
「え? 白河さんって、真白のこと?」
その名前が聞こえた瞬間に、ドアノブを回そうとした手が止まってしまう。
もしもここで立ち止まっていなければ、俺の人生は全く違っていたかもしれない。




