第22話:傷跡(後編)
開陵高校とのフットサル対決を前日に控えた土曜日。
その日も、俺はレンタルルームで白河をモデルにエロマンガを描いていた。
「この原稿も、いよいよラストスパートだな」
原稿作業は遂に、最終盤へと差し掛かっていた。
全体が約70Pある内、ペン入れが必要な必要なページは後10P程。
後で細かい修正が入るとしても、早ければ夏休み前には完成するだろう。
「そうなるといいけど」
「なんだよ。まさか、最後の最後で全リテイクなんて言わないだろうな」
「それは出来次第かな。全部通して読んで、完成からは程遠かったら当然やり直し」
「俺の作品なんだから俺が完成って言えば完成だろ」
「限界美大生の卒業制作じゃないんだから。クライアントの私が認めて、そこで初めて完成に決まってるでしょ」
互いの冗談に冗談を重ねて返していく。
いつの間にか、こいつとのこういうやり取りにも慣れてしまった。
けど、今の原稿作業と共にこの関係が終わるのも間近に迫っていた。
最初は、ただただ解放されたくて仕方なかった。
こんな関係は俺の人生においてリスクしかないんだから当然だ。
でも、今は一口にそうとは言い切れない感情を確かに抱いてしまっていた。
「……まさか、二作目が欲しいなんて言わないだろうな?」
だからなのか雑談の中で自然に、そんなことを尋ねていた。
どんな答えを期待してなのかは自分でも正直分からない。
向こうの反応次第では、それも悪くはないと思っていたのかもしれない。
けれど、白河の反応は少なくとも俺が予想していたものとは違った。
「モナリザがメトロポリタン美術館にもあったらどう思う?」
「……並ぶ時間が半分になって良さそうだな」
言いたいことは分かっていたが、あえてはぐらかして答えてしまう。
「もっと減るんじゃない? だって、世界に1つしかないっていう価値がなくなるんだから」
「そうか? 本当の傑作なら1つが2つになるくらいは許容範囲だろ」
「そう。でも、私には1つで十分だから」
食い下がる俺に対して、白河はそう言って話を無理やり終わらせた。
「まあ、俺は解放されるならそれでいいけどな」
「完成の暁には、私史上で最高のお礼と共に送り出してあげる」
「それは楽しみだ」
白河がそう言うのなら俺から言えることはもう何もなかった。
出来るのはただ、終わりへと向かって画面上にペンを走らせるだけ。
そうして、しばらく無言の時間が続いている中、不意に白河のスマホが鳴った。
「珍しいな。家族からか?」
「西園寺さんから」
スマホを手に取った白川が短く答える。
「聖奈から? なんて?」
「明日、開陵高校とうちの男子でフットサルの試合があるから観に来ないかってお誘い」
「ああ、それか。ちなみに返事は?」
「丁重に断った。興味ないし」
そう言うと白河はスマホを元の位置へと戻す。
「一応、俺も選手として出るんだけどな」
「だったら、尚更来られたくないんじゃないの?」
「……確かに、そうだな」
なんでこんな会話を振ってしまったのかと少し後悔しながら作業に集中し直す。
画面上には互いの為に全てを捨てた二人が、文字通り心身共に結ばれる場面。
これまで何度も身体を重ねたにも拘らず、まるで初めての時のように緊張して背中合わせに座っている黒羽と虚山が描かれている。
「……何?」
「その……参考資料が必要になったというか……」
「脱げばいい?」
「で、そこに後ろ向きで座ってもらえれば」
追加注文を受けると、白河は俺に背を向けてモゾモゾと服を抜き始めた。
「こんな感じ?」
上下ともに脱ぎ去り、前とは微妙に違う黒い下着姿の白川が尋ねてくる。
「あ、ああ……そんな感じで、ちょっと髪の毛も横に流してもらえれば……」
「うなじを見せろってことね。そう言えばいいのに」
俺の曖昧な指示を完璧に理解し、横に流した髪の毛が身体の前へと持っていく白河。
すると、白いうなじがチラリと見える完璧な構図が生まれた。
その芸術的なまでの妖艶さに、無意識的にゴクリと唾を呑み込む。
自分が持ちうる全ての能力を用いて、これを記録しなければならない。
そんな使命感と痛いくらいの圧迫感を股間に覚えていると、視界の端に違和感が映った。
「ん? それ、どうしたんだ……?」
「それって?」
俺の言葉に、白河は何も心当たりがないように返答する。
「痣、か……? それ……」
椅子から立ち上がって一歩近づき、ペンで肩甲骨の横にある痣を示す。
普段なら髪に隠れる位置にあるそれは、最近出来たものなのか若干の赤みを残している。
「痣? そんなの知らな、あっ……」
指摘から一拍遅れて、白河が何かに気づいたような反応を見せる。
「何かあったのか?」
「何かって? DV彼氏には心当たりがないし、知らないうちにぶつけてただけでしょ」
「もしかして、安元にやられたのか?」
導き出した答えをすぐ言葉にする。
あの場は竜二が収めたとはいえ、安元の怒りが完全に収まったとは限らない。
白河の帰り道で待ち伏せして、暴力を働いたのは十分に考えられる。
「まさか。あの人に退学覚悟でそこまでできる程の度胸なんてあるわけないし」
「だったら誰なんだ? 俺の知ってるやつか? それとも――」
「知らないうちにぶつけてただけ。それだけ」
俺の言葉を遮って、はっきりと言い切られる。
その強弁を否定できるだけの材料を俺は持っていない。
けど、白河真白は人のみならず、あらゆる物事に対して常に気を張っている女だ。
そんなやつが単なる不注意で、こんな痣ができるの事故を起こすだろうか。
「……もしかして、身内か?」
俺の言葉が図星をついたのか、白河がピクッと震えたような反応を示した。
「はぁ……本当に人の話を聞かない……」
「お前が変にはぐらかすからだろ。それに、そんなもんを見せられて気にするなって方が無理がある」
「創作意欲を下げったのなら謝る。ごめんなさい。これに関しては完全に私の落ち度。だから、今日はこれで終わりにして続きはまた後日で――」
「なんで、お前はいつもそうなんだよ!」
昂り切った感情が抑えきれずに、身体の奥底から噴出した。
「孤高ぶって! なんでそこまで他人を拒絶するんだ!?」
一度堰を切った感情は雪崩のように止まることはない。
「少しくらい話してくれたっていいだろ!? 俺はそんなに頼りないか!?」
口からは次から次へと、らしくない感情に塗れた言葉が溢れ出してくる。
確かに、ここに至るまでの切っ掛けは最悪だった。
最初は関わりたくもなかったし、できるだけ早く縁を切りたいと思っていた。
でも、今はそうじゃない。
こいつとの時間は、俺にとって掛け替えのないもの一つになっていた。
自惚れじゃなければ、互いが互いにとっての何者かになれていたはずだった。
「……言いたいことはそれだけ?」
なのに、こいつはこの期に及んでまた俺を他人として跳ね除けた。
「それだけって……お前、俺がどれだけ心配――」
ドンッと両肩を強く押された。
普段ならいくら不意打ちでも、女子に押された程度で倒れたりはしない。
でも、その時の俺は何かがおかしかったのか、気がつくとベッドで仰向けになっていた。
「余計なお世話。同情は要らない」
俺の身体に跨った白川がゾクっとするような冷たい声で言う。
「同情って……単に心配してるだけだろ」
「だから、それが要らないって言ってる。私がそんなことして欲しいなんて頼んだ? ううん、頼んでない。私が君に頼んだのは、私をモデルにしてエロマンガを描いて欲しい……それだけだよね?」
俺を高みから見下ろしながら続けていく白河。
その冷たい声色は、これまで同級生たちを拒絶してきたのと同じものだった。
まるで俺たちが積み重ねてきたはずの時間が、全てなかったことにされたかのように。
「そもそも、君が助けたいと思ってるのは本当に私?」
「他に誰がいるんだよ」
「それは、君自身が一番分かってるんじゃないの?」
ドロっとした墨のような瞳が、心の奥底を無遠慮に覗き込んでくる。
「な、何の話だよ……」
「じゃあ、質問の仕方を変える。君はどうしてエロマンガなの?」
「は? なんだよいきなり……今度は話がすり替わってるぞ……」
「文武両道、眉目秀麗、光彩陸離、一呼百諾。誰もが羨む学校一の人気者の真岡大和くんに、どうしてエロマンガが必要なの……? 君が描く作品は一体、誰のためのものなの……?」
「それは……」
全てを見通しているような眼光に、返す言葉に詰まってしまう。
「それは?」
「俺は……不能なんだよ……」
「不能?」
「そうだよ。だから、それを治すためにエロマンガを書いて初期衝動の再現を――」
「ふ~ん……じゃあ、これは何?」
そう言って、上に乗った白河は俺の身体に少しだけ体重をかけてくる。
すると、股間に名状しがたい強い刺激が奔った。
刺激の源へと視線を移すと、俺のモノがズボンを突き破りそうな程に屹立していた。
「こ、これは……な、なんで……」
自分の意思とは真逆の身体的な変化に戸惑いの言葉が漏れ出る。
このタイミングで、なんでこんなことになっているんだ。おかしいだろ。
そう思えば思う程、意識すればする程に、血流は下腹部へと流れていく。
先端がズボン越しに、白河の股間部分を何度も突き上げている。
「ねぇ、どういうこと? 不能? 全然そうは見えないんだけど」
白河が更に腰を落として、体重を俺の下半身に預けてくる。
ガチガチになったモノを押さえつけられる痛いくらいの圧迫感。
なのに、それは更に硬度を増して、互いの間にある隔たりを貫こうとしている。
布越しなのに、少し弾力のある肉感をはっきりと感じる。
「ちがっ……こんなのは、ただの……」
こんなのはただの生理現象だ、と反論したかったができない。
俺の身体はずっと、そのただの生理現象を示さなかった。
聖奈とどんな良い雰囲気になっても、どれだけドシャシコなエロマンガを読んでも全く無反応の状態が何年も続いていた。
そんな中で、唯一の例外が白川真白だった。
俺の秘密が白河にバレて、自分をモデルにして欲しいと迫られた時。
俺のモノは数年の沈黙を経て、ついに不能を打ち破った。
だから白河の提案に乗ったのも、その理由を見つけるためだった。
でも、本当は最初からずっと分かっていた。
それは嘘に塗れた俺の人生でも最も大きな欺瞞だ。
分かっていたのに、俺はずっとそれを分からないフリをしていただけだった。
そして、それが今まさに他ならぬ白河によって暴かれようとしている。
「私とセックスしたいの? 全部そのためだった?」
「だか、らっ……ちが、う……って……」
全身が未知の感覚の奔流に襲われて、言葉が途切れ途切れになる。
目の前で大きな二つの果実が揺れる度に、内なる本能が食らいつけと叫ぶ。
薄氷よりも薄い理性でなんとか持ちこたえているが、限界は近い。
俺には聖奈がいるから、これはただ漫画のモデルにしているだけ。
そんな言葉で誤魔化してきたが、所詮俺たちは男と女なのだと思い知らされる。
「じゃあ、何なの? どういうこと?」
「俺は……俺は、俺が……」
何年も、俺の中で燻ってきたマグマのような何かが吹き出そうとしている。
抵抗は無意味だと本能的に理解させられていた。
辛い。
過ぎた快楽は辛いものだというのを、身を以て思い知らされている。
もう諦めて何もかもを吐き出すのが、最も楽なのかもしれないと瞬間――
「なーんて、ね」
言葉で、身体で、白河が持ちうる全てを使って俺にかけていた圧が消えた。
「は……? えっ……?」
寸でのところで唐突なお預けを喰らって、間の抜けた声が出てしまう。
あれだけ昂っていた全身の熱が、急速に冷めていくのを感じる。
「前に押し倒してくれた仕返し。どうだった?」
俺を見下ろしながら白河がほくそ笑む。
「……最悪の気分だよ。これまでの人生で一番な」
「なら良かった。もう同情する気も失せたんじゃない?」
「おかげさまで、すっかりとな」
俺の答えに満足したのか、身体を退けてベッドから降りていく白河。
そのままソファに脱ぎ捨てていた服を拾うと、背中の痣を隠すように着始めた。
「じゃあ、今日はこれで終わり。というか痣が綺麗に消えるまでは一旦中断かな。見られる度にお節介されるのも面倒くさいし。それじゃ、お金はここに置いとくから」
財布から取り出した千円札をテーブルに置いて、白河が一人先に部屋から出ていく。
その間も俺は何も言えずにただ、その背中を見送るしかなかった。
『同情は要らない』
俺を突き放したその言葉が、頭の中で何度も繰り返して響く。
心にぽっかりと空いた大きな穴は最初からあったのか、それとも今できたのか。




