第19話:一箱のタバコ
「すっご……」
隣で凛が、目と口を丸々と見開いて感嘆の声を上げる。
白河に全く好印象を持っていなかった人間にさえ、そうさせてしまう歌唱。
それがどれだけのものかは言葉で言い表すのも難しい。
目の前でマイクを握っている女が、あの自分をモデルにエロマンガを描かせている女と同一人物だと信じられない。
数分の歌唱が終わり、カラオケボックスとは思えない静寂が室内を包む。
最後の音がスピーカーから消えても、その余韻が狭い部屋を支配していた。
部屋の中のあらゆるものが、先の歌声を記憶しているかのように静まり返っていた。
誰も声を発せなかったのは、きっと単なる驚愕だけじゃない。
声を出すと、今の歌唱の余韻を壊してしまうと心のどこかで思ってしまっていた。
そんな静寂の中、白河が机の上にマイクを置いた音が鳴る。
「プロ!? 白河さんってもしかしてプロの歌手!?」
大興奮した聖奈が白河の身体を揺すりながら大はしゃぎしている。
「ただの学生だけど」
一方の白河は、その絶大な称賛に大して全く喜んでいるような様子を見せない。
元々そういうやつだというのを置いてもあまりに無感情で無反応。
むしろ、その表情はどことなく怒っているか悲しんでいるようにも見えた。
「それにしては歌うますぎない!? 絶対にプロでしょ! プロ!!」
「だから違うって」
興奮しすぎて語彙力が消失している聖奈に、白河もやや呆れ気味に答えている。
確かに、それだけの感想を抱くのも納得できるほどの歌唱力だった。
それも単に音が完璧に合っているとかその程度の話じゃない。
もっと、魂を直接揺さぶってくるような根源的な魅力があった。
自分が上手いといっても所詮は素人の範疇だと恥ずかしくなってしまうくらいの。
「じゃあ絶対プロになった方がいいよ! 私、感動しちゃったもん! ほら、まだ鳥肌立ってるし」
「ならない」
「え~……! なんで~……!?」
「なりたくないから」
ひたすらヨイショを続ける聖奈を白河がばっさりと切り落とす。
どれだけ褒められても喜ぶどころか、逆に不機嫌さが増してるようにも見える。
そろそろ流れを変えた方が良さそうだなと思った時――
「もしかしてさ。身内にそういう人がいて、プロの苦労を知ってるからとか?」
凛がそんな言葉を口にした。
本人は多分、冗談半分で言ったんだと思う。
けれど、それを聞いた瞬間に白河の纏う空気が変化するのを俺は感じ取った。
「まあ、そんなところ」
「えっ、まじで? わっ、あぶなっ……」
冗談を肯定されて驚いたのか、凛がグラスに刺さっていたストローを落としかける。
驚いたのは凛だけじゃなくて、俺も同じだった。
この三人の中で一番白河について知っているのは自分だと思っていたが、俺もまだこの女のことをほとんど何も知っていなかったのだと。
ただ、それは開いてはいけないパンドラの箱を開けるようなことの気もした。
「えー! 知り合いにプロの音楽家の人がいるなんてすごーい! なんていう人なの? 歌手の人? それとも作曲家さん?」
「言いたくない」
「えー、なんでー? 聞きたーい。すっごく気になるんだけど」
「そうそう、いいじゃん。教えなよ。もしかして、かなりの有名人だったりする? テレビとかにも出てる系の人? それともオーケストラとかそっち系?」
頑なな白河に、二人がチャカし気味に追求する。
こういう時にいつもなら『そのくらいにしとけよ』と止めるのが俺の役割だ。
でも、この時は俺も気になってしまっていたせいか止めるのが少し遅れてしまった。
「もう十年も前に他人になった人のことだから」
白河が発したその一言でまた空気が変化する。
聖奈と凛の笑顔が固まり、部屋の温度が実際に数度下がったような感覚を覚えた。
「あー……それはごめん」
「私もごめん……調子乗りすぎちゃった……」
「別に、最初に言い出したのは私の方だし」
特に気を悪くした素振りも見せずに淡々と答える白河。
母子家庭というのは知ってたけど、具体的な家庭の事情のことは知らなかった。
聞いてはいけなかったことを聞いてしまったバツの悪さが内心に生まれる。
「それより次、誰か歌えば?」
白河自身もそうだったのか、話題を無理やり切り替えるように言う。
俺と凛は互いに顔を見合わせて、『お前が歌えよ』と擦り付けあった。
正直、俺でさえもあの後の歌うのはかなり気が引ける。
だから結局、その後は聖奈以外はほとんど歌うことなく解散した。
帰り道で二人きりになってからも、聖奈は白河のことを称賛し続けてた。
PINEを交換したとか、もっと仲良くなりたいとか、また絶対カラオケに誘うとか。
俺的には不穏なことも言っていたけど、彼女の人間関係にまでは口を出せない。
その日、家に帰ってから作業の前に白河が歌っていた曲について調べた。
旧ソ連で国民的な人気を誇ったロックバンドの曲で、『一箱のタバコ』と言うらしい。
和訳された歌詞を読んでいると、『ポケットの中にタバコが一箱あれば、今日はそれほど悪くない』という諦念とも楽観とも取れるフレーズが何故だか強く印象に残った。




