再びの秋
秋は夕暮れ。
この言葉を、藤己澄子は何度、心の中で繰り返したことだろう。
東京帝国女学院の三年。
寄宿舎の窓から見える銀杏並木は、まるで金色の雨のように輝いていた。
けれど、その美しさを心から味わう余裕は、もはや誰にもなかった。
空襲警報のサイレン。
防空壕訓練。
疎開する下級生たちの涙。
戦争が、確実に「日常」へと入り込んできていた。
それでも澄子は、笑うことをやめなかった。
なぜなら、笑うことだけが、いま彼女にできる“文学”だったからだ。
「澄子、また詩を書いてるの?」
寄宿舎の部屋で、愛子がため息をついた。
「ええ。卒業文集に寄せる一文ですのよ」
「どうせ恋文みたいな詩でしょう」
「まあ、人間は恋をしてこそ人間ですもの」
「戦争中にそんなこと言うの、あんただけだよ」
愛子は苦笑した。
だが、その声の奥には、少し羨望が混じっている。
澄子の「恋する力」は、もはや彼女の生きる術になっていた。
恋とは、誰か特定の人に向けるだけではない。
空に、木の葉に、便箋に、そして言葉そのものに。
それが澄子の文学であり、抵抗でもあった。
十月の終わり。
澄子のもとに、一通の軍事郵便が届いた。
封を開ける手が震える。
筆跡は、見慣れたあの人のものだった。
藤己澄子殿
しばらくぶりです。
通信隊の任を終え、今度は九州へ転属の命を受けました。
戦局は厳しいですが、空の色はどこでも同じです。
“同じ空の下”──あなたの言葉、今も思い出します。
次に会えるのは、きっと平和の世でしょう。
それまでどうか、笑っていてください。
あなたの笑顔は、戦地にも届く気がします。
大村勇太郎
読み終えると、便箋の端に小さな黒い染みがあった。
インクか、あるいは……。
澄子は唇を噛んだ。
泣くまい、と思った。
だが、涙は勝手に頬を伝った。
彼が“笑っていてください”と書いたのだから。
今、泣くことは、その約束に背くことになる気がした。
冬が近づくにつれ、授業は次々と中止になった。
教科書の代わりに竹槍を持たされ、防空壕を掘る。
「戦争が終わったら、何をしたい?」
ある日、澄子が聞くと、愛子は肩をすくめた。
「さあね。生きてるかどうか分かんないじゃない」
「でも、生きてたら?」
「うーん……パンケーキ食べたい」
「まあ、夢が庶民的ですこと」
「じゃあ澄子は?」
「私は……手紙を書きたいですわ」
「またそれ?」
「だって、私の人生、手紙でできてますもの」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声が、静かな校舎に吸い込まれていく。
十二月のある夜。
サイレンが鳴り響いた。
「空襲警報発令!」
澄子たちは、慌てて防空壕に駆け込んだ。
外では爆音が響き、地面が震える。
空の向こうが真っ赤に染まっていた。
「秋は夕暮れ……戦場の空にも茜はさすのでしょうか」
澄子は、昔書いた慰問文の一文を思い出していた。
そう、あのときの夕焼けも、今の炎も、同じ“茜”なのだ。
だが、今のそれは、あまりに熱く、痛かった。
愛子が澄子の肩を抱いた。
「大丈夫、きっと朝が来る」
「ええ。……冬はつとめて、ですわね」
「何それ、文学の引用?」
「ええ。夜明けが近いという意味ですの」
空襲は夜明け前に収まった。
焦げた匂いと、かすかな煙だけが残った。
翌年の三月。
東京はまだ冷たい風が吹いていた。
けれど、女学院の校庭には、ほんの少し梅の花が咲き始めていた。
「これが、最後の制服姿ね」
愛子が言った。
「あなた、泣かないの?」
「泣きませんわ。泣くのは終幕にふさわしくありません」
「またそういうこと言う」
澄子は微笑み、白い手袋をはめ直した。
式の最後、校長が言った。
「皆さんは、戦火の時代を生き抜いた。
しかし、人の心は戦に焼かれてはなりません。
学びを続けなさい。思いを絶やさぬように」
その言葉に、澄子は深くうなずいた。
思いを絶やさぬこと。
それが、澄子の“つとめ”なのだ。
卒業の日の夕暮れ。
澄子はひとり、校舎の屋上に上った。
銀杏並木はすっかり裸で、遠くの空が茜色に染まっている。
彼女は懐から封筒を取り出した。
宛先は「大村勇太郎 様」。
しかし、住所欄は空白のままだ。
「もう届かなくてもいいのです」
彼女は静かに呟いた。
便箋には、ただ一行だけ書かれていた。
秋は夕暮れ。あなた様の見る空にも、茜はさしておりますか。
澄子はその手紙を、そっと風に放った。
封筒はふわりと舞い上がり、夕陽の中で小さくなっていった。
戦争が終わったのは、その年の夏。
澄子は疎開先で終戦の知らせを聞いた。
「勝ち負けのない夏」と、彼女は日記に書いた。
大村勇太郎の消息は、しばらく分からなかった。
だが、数年後。
小さな封筒が届いた。
東京帝国女学院卒業生
藤己澄子殿
お元気ですか。
生きて戻りました。
上野の噴水のそばで、また会えますか。
馬の尻も、もう見飽きました。
大村勇太郎
澄子は、思わず笑った。
涙で文字が滲んだ。
でも、それでよかった。
秋。
夕暮れ。
上野公園の噴水のそば。
澄子は、あの日と同じように立っていた。
そこへ、軍服ではなくスーツ姿の青年が現れた。
「藤己澄子さん?」
「はい……大村勇太郎さん、でいらっしゃいますか?」
「ええ。もう馬はいません」
「まあ、それは残念」
二人は顔を見合わせて笑った。
噴水のしぶきが金色に光り、空は茜に染まっていた。
澄子は、そっと口を開いた。
「秋は夕暮れ、ですわね」
「ええ。やっぱり、これがいちばんいけない時間ですね」
夕陽の中で、二人の笑い声が重なった。
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手紙は、もう出さなくてもいい。
だって、言葉は届いたのだから。
秋は夕暮れ。
そして今も、同じ空の下で。
(澄子の日記より)




