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第08話 ただ一言、「迎えに来た」


 領主館の応接間には、まるで時が止まったかのような静寂が漂っている。

 重厚なカーテンから差し込む午後の光が、絨毯の模様を淡く照らし出している。

 テーブルの上には、湯気の消えた紅茶のカップ。

 カローラは、それに一度も口をつけぬまま、ただ指先で縁をなぞっていた。


 ――ひとりきりの部屋。


 警護も侍女も退けられた空間は、しんとした静けさと共に、胸の奥を冷たく満たしていく。


 ――彼が来る。


 それだけの事実が、鼓動のリズムを狂わせていた。


 扉がコン、コンと、二度だけ叩かれた。

 名乗る声はない。だが、不思議とわかってしまった。


「……あなた、なのね」


 答えはない――ただ、ゆっくりと、扉が軋む音を立てて開かれた。

 現れたのは、漆黒のローブを纏った男。

 仮面が銀の光を返し、その背にある黒剣が、空間の重力すら歪めるような存在感を放っている。

 彼は一歩、部屋に足を踏み入れる。

 それだけで、空気が変わってしまった。

 冷えたわけでも、風が吹いたわけでもない。

 けれど、世界が静かに身構えた。そんな錯覚すら覚えた。


「……ノワール?」


 震える声が自然とこぼれる。問いかけのようで、確信でもあった。

 彼は言葉を返さない。

 仮面越しの視線だけが、まっすぐカローラを捉えており、その視線の奥に、何があるのかは読み取れない。だが、感じる。

 熱と、痛みと、あまりにも深い、未練。

 ノワールは無言のまま近づいてきて、真正面で静かに立ち止まった。


 「……カローラ」


 彼が口を開いたその瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。

 名前を呼ぶその声は、あまりにも懐かしく、けれどもう戻らないものを突きつけてくるようだった。


「久しぶり、ね……」


 その声は、まるでどこか遠くから響いてきたようだった。

 乾いた喉を無理に鳴らしたせいか、自分でも驚くほど掠れていて、うまく息が続かない。


「ああ……十年ぶりだ」


 彼は、淡々と答えた。余分な感情はない。

 けれど、その静けさが返って胸に沁みた。


 「……十年も、経ったのね、私たち」


 口にした瞬間、まるで目の前の空気が遠のくような感覚がした。

 十年――たった四文字で語るには、あまりにも長く、濃く、深すぎる時間だった。

 その間に彼が、どれだけの苦しみを背負い、どれだけのものを犠牲にして歩いてきたのか――たった数音の挨拶では到底埋まらない深淵だった。


「その……来てくれて、ありがとう」


 微笑もうとした唇は、うまく動かず、自分の感情が追いつかず、言葉だけが浮ついて響いた。

 どこか他人事のように聞こえるのが、少し怖かった。

 ノワールは、それには頷かず、ただゆっくりと首を横に振った。


 「違う」


 静かに、けれど確かな言葉で。


 「――迎えに来た」


 その声は、深く、低く、静かな響きだった。

 強く押しつけるようなものではなかったのに、なぜか胸の奥に鋭く突き刺さった。


 「え……わたしを?」


 問いかける声が自然と震えてしまった。

 動揺していることは、自分でも分かっていた。

 でも、それを止められなかった。

 彼は、一歩だけカローラに距離を詰める。


 「カローラ、君を迎えに来た」


 ゆっくりと、はっきりと名を呼ばれた瞬間、何かが胸の奥で崩れ落ちた。

 ずっと心のどこかで、その言葉を、聞きたかったのかもしれない。

 でもそれが現実になった瞬間、胸が締めつけられるように痛かった。


「君を守る……それが、俺の全てだから」


 彼の瞳は、まっすぐにカローラを見ていた。

 そこには怒りも、恨みもなかった。ただ――揺るがない意志があった。

 けれど、その意志はあまりにも重すぎる。

 まるで、全世界を背負ったまま差し出される言葉のように。


「……でも、あなたはもう、遠くへ行ってしまったわ。わたしとは……違う場所に」


 カローラは視線を逸らしながら呟く。

 ノワールは、しばし黙っていた。

 その沈黙が、妙に苦しく感じる。


「遠くへ行ったのは、力の話じゃない……俺の心は、ずっとここにいた」

「……ここ?」

「カローラ、君の中だ」


 たったそれだけの言葉で、また、胸の奥が大きく揺れた。

 彼の声は静かだったのに、どこまでも深く刺さって、熱かった。


(十年経っても、この人の中に……わたしがいるの?あなたを裏切ったのは、私なのに)


 信じたくなかった。

 でも、否定できなかった。

 彼の眼差しが、そう語っていた。

 どんな苦しみを越えても、どれだけ血に塗れようと――この男は、自分だけを見ていたのだと。


「でも……あなたは、もう英雄なのよ? 王ですら頭を下げる存在になって……」

「だからこそ、君だけが――」


 彼はそこで言葉を切り、ほんのわずか、視線を伏せた。


「……君だけが、俺にとって『目的』なんだ」


 その一言に、喉の奥が詰まりかける。


「……わたしは、あなたを拒んだのよ? あの時、何も言わずに背を向けた」

「覚えてる。だから……もう同じにはしない」


 低く、決して怒っているわけではないのに、どこか冷たく響いた。


 「君が拒んでも、俺はもう立ち止まらない……君を求めることに、迷わない」


 それは、告白ではなく、懇願でも、訴えでもない。

 ただ静かに宣言された、意志のかたまりだった。

 カローラは言葉を失った。

 彼が、自分のためにどれだけ歪んだのか。どれだけのものを、失い、壊し、それでも守ろうとしたのか。


「……そんなふうに言わないで。あなたは……」

「違うか?」


 遮られたその声に、カローラの心がぎゅっと縮こまった。


「俺は、神を斬った。帝国の軍を、たった一人で消し飛ばした。それでも、君が笑わないなら……俺にとっては、何の意味もない」

「ノワール……」

「君が微笑んでくれれば、それでいいんだ……例え世界を敵に回しても」


 静かに、しかし確かな重さを伴って語られる言葉に、全身が凍るような戦慄と、火傷のような熱が交錯する。


「でも……」

「すぐには、連れて行かない」


 彼は、ふと仮面を外した。

 露わになったその顔は、かつての面影を確かに宿しながら、まるで別人のように冷たく、整っていた。


「君が自分の意志で、俺を選ぶ日が来るまで――待つ」


 その声には、優しさの仮面をかぶった狂気が宿っていた。


「……選べと?」

「ああ……だが一度選んだら、俺はもう君を逃がさない」


 カローラの肩が、かすかに震える。


「……怖いの、あなたが。昔とは、あまりに……」

「俺はもう『昔』の俺じゃない。だけど――カローラ。君を想う気持ちだけは、十年前から何一つ変わっていない」


 仮面を指で回しながら、ノワールは背を向ける。

 だが扉の前で、最後に一言だけ残した。


「君が扉を開けたとき、もう逃げ道はない。それでも……俺を選んでほしいと思ってる」


 その背中が扉の向こうに消えた瞬間、カローラは初めて、自分の鼓動が泣いていたことに気づいた。

 あの声、あの目、あの言葉――すべてが、彼女の心の奥に、痛いほどに刻み込まれていた。


 その夜、眠りにつこうとしても、彼の声が耳に残り続けた。


 ――君だけが、俺の目的だ


 その言葉が、甘く、苦しく、そして怖いほどに愛しかった。

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