第05話 戦火の足音
――魔王が復活した。
その報せは、王都よりも早く、風よりも鋭く届いた。
血の匂いを含んだ、不吉な風とともに。
「ヴェルゼンが……陥落? 一夜で?」
「王宮は炎に包まれ、王室の安否は不明。国境守備隊も壊滅……との報です」
戦略会議の間には、重苦しい沈黙が支配していた。
地図の上に並べられた三つの国――ヴェルゼン、クランド、アスロニア。
僅か十日で、すべて魔王軍の手に落ちた。
まるで紙の城を倒すように、あまりに呆気なく、容赦なく。
「……聖騎士団は何をしている!?」
国王ローランドの怒号が、石壁に反響する。
しかし、軍務卿の声は震えていた。
「第八師団は壊滅、第四師団も後退を……もはや戦線は崩壊寸前です」
「冗談ではない……王都が陥落?あと……一ヶ月だと?」
「最悪、それ以下の可能性もあります。殿下、決断を――」
空気が凍った。
全員の喉が詰まる。誰もが、絶望の名前を避けようとしていた。
──その時、 老騎士の一人が呟いた。
「……ノワール・ヴァレリアンが、今ここにいたら……」
嘗て、その名を口にした者たちがいただろうか?
すると、懺悔のような声に、若い副官が鼻を鳴らした。
「『無能』と嘲られたあの平民か? 今さら何を……」
しかし、別の男が、震える声で口を挟んだ。
「……知らないのか? 『神殺しの勇者』の話を」
「な、何の話だ?」
「魔王の奥に現れた『神性』を、たった一人で……斬った。あれは……ノワールだ」
その名が落ちた瞬間、会議の空気が一変する。
まるで、空間そのものが静止したようだった。
「噂かと思っていた。だが、各地で同じ記述がある。あの剣技、あの黒衣の男……」
「まさか……我らが追い出した、あの少年が……!」
老騎士は震える手で地図を握り締め、額を伏せた。
そして――
「ノワール・ヴァレリアン。あの者の行方を至急探させよ」
王の言葉には、深い後悔と、唯一の希望が宿っていた。
▽
その頃――南西の辺境、エヴァレット領。
平穏だったはずの緑の谷に、ゆっくりと──しかし確実に、戦の気配が迫っていた。
「ソ、ソレンが……落ちたって!?」
「あっちの空、ほら……煙が……!」
焦げた風が吹き込み、乾いた土のにおいとともに、民の不安が色濃く立ち上る。
「母様、こわいよ……」
「水が……もう水がないの……っ」
逃げてきた民たちは、ぼろぼろの荷を抱えてエヴァレット家の城館へ殺到した。
疲弊した顔、すすで汚れた衣。
小さな子どもたちは泣き叫び、大人たちは無言で唇を噛みしめていた。
その混乱の中心に立ち続けていたのは、カローラ・エヴァレットだった。
「子どもたちは教会へ!年配者と負傷者は、南棟の医師のところに!水の配給は列を! 混乱を避けるために!」
高く通る声――それだけが、この場をどうにか保つ最後の糸だった。
「はい、カローラ様!」
「すぐに動きます!」
使用人たちが慌ただしく走る。
その中で、カローラもまた、裾の汚れたドレスを気にも留めず、泥に足を取られながら指示を飛ばし続けた。
白い手袋は薄く破れ、手の甲には傷ができていた。
それでも──彼女は止まらない。
誰かがしなければならなかった。
誰かが、希望の顔を保たなければ。
けれど──
「ああ……私のこの笑顔、あとどれだけ持つのかしら」
ふと足を止め、城館の中庭で空を仰いだ。
青くあるべき空が、どこか遠くで赤黒く染まっており、山の向こうから吹いてくる風は、かすかに血と煙のにおいを含んでいた。
その日の夕刻。
カローラは、城館奥の謁見室へと足を運ぶ。
カローラの父──エヴァレット侯爵が、無言で書類に目を通しており、部屋に入った娘を見てもその視線は一度も動かなかった。
「父様」
絨毯の上に立ったカローラは、まっすぐに告げた。
「領民はすでに三分の二が避難を終えました。ですが、門を閉じれば──その残りの人々は……っ」
静かに、だが確かな声で訴える。
「お願いです。南門の開放を」
「却下する」
書類から目を上げず、侯爵は短く告げた。
その言葉には、情も、迷いも、なかった。
「中央からの命があるまでは動かぬ。勝手な判断は、王家への背信と取られる……貴族としての責務は、冷静な秩序の維持にこそある」
「……それは、本当に『責任』なのですか?」
思わず口をついて出た言葉。
カローラ自身が驚いた。
目の前で、父の手がぴたりと止まる。
「その言葉、今一度……自分の立場を思い返してから口にするがいい」
その声には、静かな怒りが滲んでいた。
けれど、カローラはもう下を向かなかった。
父の冷たい視線をまっすぐに受け止め、そっと言葉を返した。
「命を見捨ててまで守る『立場』なら……私は、もう、要りません」
一瞬――侯爵の目が、何かを見透かされたように揺れた。
だがその動きはすぐにかき消され、扉の向こうへと、彼女は背を向けた。
父との話が終わった後、館の最上階、私室の窓辺に、カローラはひとり佇んでいた。
開け放たれた窓から、夜風が静かにカーテンを揺らす。
遠くの空が、赤く染まっており、燃える街の火の粉か、あるいは──血煙か。
「――ノワール」
その名を呼ぶと、喉が震えた。
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
「ねえ……あなた、今、どこにいるの……?」
そっと抱えた両腕に、微かな震えが伝わる。
彼を切り離したあの日、自分が選んだ『正しさ』は、今の世界ではただの『虚しさ』になっていた。
――あの日から、もう十年の月日が流れてしまった。
未だに、カローラはノワールの事を忘れていない。
おかげで既に彼女は貴族の世界では『行き遅れ』だ。
父が婚約者候補の名を口にしたのだが、カローラはそれこそ首を縦に振る事はなかった。
(……だって、あの日、私はノワールを突き放した。これは、私の罪だから)
後継者がいなくなるかもしれない。
しかし、別に父と子だけではない。
可能だったら、親戚の子を養子にしてこの地を継げばいいと思っている。
それほど、彼女はノワールの事を忘れる事が出来ないのだ。
「会いたい……もう一度、あなたに……会わせて……」
絞り出した声は、まるで夜空への祈りのように、静かに風に溶けていく。
しかし、返事はない。
けれど、心のどこかで──確かに、何かが動いた気がした。
そしてその瞬間。
遠く北の空に、ひとつの『黒い影』が、静かに現れ始めていた。
▽
王都では今、民たちがひそやかに語り合っていた。
「『黒衣の剣士』が、また東の山で魔族を斬ったらしい」
「ひと振りで、十体の魔物を斬ったって……本当かね?」
「……神殺しの勇者。あの名が……本当なら……」
伝説は、静かに広がっていく。
それはまだ、希望というには頼りない。
けれど、崩れゆく世界の中で──『その名』だけが、人々の心を繋ぎとめていた。
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