第04話 去った彼の、その後
ノワール・ヴァレリアンが王都から姿を消してから、数日が経過した──いや、時の流れが鈍くなったように思えた。
王立騎士団の寮。
かつて彼が暮らしていた簡素な一室には、もはや何ひとつ残されていなかった。
剥き出しの床板。空っぽの棚。埃をかぶった窓枠。
どこを見ても、そこに誰かが住んでいた、気配は微塵もない。
「ここ……誰か使ってたっけ?」
新入りの団員が、扉の前で不思議そうに首を傾げる。
返ってきたのは、嘲るような声だった。
「ああ、魔力ゼロの『勇者様』の部屋だよ。消えてせいせいしたな」
「まさか、いなくなるとは思わなかったよな。まあ、雑草が抜けたみたいなもんか」
「どうせ山奥で野垂れ死んでんだろ。名も血もない奴の末路さ」
彼らの笑い声が、誰もいない部屋に空しく反響した。
その床の隅に、黒い糸くずがひとつ、落ちていた。
まるで、彼の痕跡がこの世に残した最後の『証』であるかのように。
誰も気づかない。誰も拾わない。
ノワールという存在は、まるで最初からこの場所にいなかったかのように、忘れ去られていく。
▽
エヴァレット侯爵家の私室は、静まり返っていた。
ふかふかの羽毛布団に包まれ、カローラ・エヴァレットは身動きひとつせず横たわっている。
額に乗せられた冷たい布だけが、火照った肌にわずかな慰めをもたらしてくれている。
──まるで、壊れた人形のようだった。
あの日――ノワールとの婚約を破棄した、あの雨の日を境に、彼女の身体は言うことを効かなくなってしまった
熱は下がらず、食事も喉を通らない。
瞼は重く、心はどこまでも沈んでいく。
医師は『神経性の過労』と診断したが、真の理由に触れる者はいなかった。
むしろ誰もが、無言でその『傷』から目を逸らしていたからである。
カーテン越しに微かに揺れる光。
冷えた空気が室内を撫でる中、侍女セリアがそっとスープを盆に乗せて近づいた。
「――カローラお嬢様。ほんの少しでも、お口に……」
その声は、ひどく優しかった。
けれど、カローラは首を振った。ゆっくりと、力ない動作で。
「ご無理をなさらずとも……あのような者のことで、心を煩わせる必要など……」
セリアの声が、かすかに震える。
「お嬢様は、間違っておられませんでした。あの方とは……生まれも、立場も……あまりに違いすぎたのです」
「……違う……私は……」
ほんの少し動いた唇から、かすれた声がこぼれ落ちた。
それは、否定の言葉だった。けれど、セリアは気づかないふりをした。
「……正しいご判断でした。お家のため、未来のため……貴族としての、理を貫かれたのですから」
「……正しい……こと、だったのよね……」
その言葉は、自分自身に向けられていたかのように感じた。
何度も繰り返し、念仏のように呟かずにはいられない――そうしなければ、自分が崩れてしまいそうだったから。
やがて、数日が経ち、熱は少しずつ引いていく。
しかし、それでもカローラの内側に空いた穴は、埋まることはなかった。
回復したある朝。
彼女は、姿見の前に立った。
淡い薔薇色のドレス、皺ひとつないレースの袖。
編み上げられた髪には、真珠の髪飾りがきらりと光る。
鏡に映るのは、完璧な侯爵令嬢の姿――欠けたところなど、何もない。
けれど──その瞳の奥には、何も宿っていなかった。
光も、熱も、感情の色も。
「……よかった」
その呟きは、あまりにも無機質だった。
まるで、音だけを発する壊れた機械のような、感情の抜け落ちた声。
「……本当に、これで……よかったのよね」
誰に語りかけるわけでもない。
ただ、言葉にするたびに、胸の奥が少しずつ冷えていくのがわかる。
『正しさ』を言い聞かせるたび、『確かさ』が、ひゅう、と風のように抜けていく。
ノワールの名を呼ぼうと、唇を開いた。
けれど、声にはならなかった。
喉の奥が固く閉ざされ、何も出てこない。
彼の顔を思い出そうとした。
なのに、その輪郭がぼやけていた。
笑っていた瞳。
凛とした横顔。
まっすぐで、不器用で──でも、優しかった手。
どれもが、霞の向こうに簡単に消えていく。
遠く、遠く――まるで夢の中の幻のように。
そしてその夜、彼女は夢を見る――それは、幼い日の記憶。
夏の森、木漏れ日が揺れる道を、小さな靴音が駆けていく。
「ノワール……」
呼びかけると、木の陰から、少年が現れた。
――カローラ
変わらぬ笑顔で自分の名を呼ぶノワールの姿。
まっすぐで、少し照れたようなその瞳。
彼はいつものように、手を差し出してきた。
あの頃と同じように、そっと。迷いなく。
カローラも手を伸ばす。
あと少し、あと少しで、指先が触れ――その瞬間、世界が崩れた。
夢の森が砕け、光が揺らぎ、温もりが霧散する。
「……あ……」
頬に、熱いものが伝っているのがわかった。
現実では決して流すことのなかった涙。
静かに、けれど止まらずに、こぼれ落ちていく。
それは、ずっと奥にしまい込んでいた後悔――凍りついていた心の奥に、ようやく届いた、ひとしずくの温もりだった。
「の、わーる……」
カローラは泣きながら、静かに嘗ての婚約者の名を呼んでいたのだった。
▽
その頃、遥か北の果て、吹雪と崖に閉ざされた山岳地帯。
人の手も声も届かぬ氷の世界に、ひとりの少年がいた。
――ノワール・ヴァレリアン。
その名を、もはや誰も呼ばない。
けれど彼は、確かにそこに立ち続けていた。
凍てついた岩肌、吹きすさぶ風。
雪に覆われた崖の上、彼は剣を握っていた。
その手は傷だらけで、指の節は裂け、皮膚は氷のように冷え切っている。
それでも彼は、剣を振るうのを止めなかった。
「──はっ、はっ……」
浅く、荒い呼吸、体力は限界を超え、意識も朧――けれどその腕は、鋼のように動きを止めることはなかった。
何千、何万と繰り返された剣の型。
それはもはや『技』と言うモノではなく、『執念』そのものだった。
振り下ろすたびに、空気が裂ける。
舞い上がった雪が、彼の身体を切り刻むように叩きつける。
それでも、彼の瞳は、ひとときたりとも逸れなかった。
前を見ていた。遥か彼方──もう二度と届かぬと思い込んだ『彼女』を、ただ真っ直ぐに。
──『守る』ための剣ではない。
──『正義』のための力でもない。
これは、彼だけのもの。
誰にも、何者にも奪わせない。
「……結局、俺は……いらなかったってことか」
呟きは、吹雪に掻き消される。
けれど、その言葉の裏に秘められたものは、悲しみでも諦めでもなかった。
──それは、彼女を手放さないという、静かな狂気だった。
たとえ捨てられたとしても。
たとえ裏切られたとしても。
彼の心は、十年前のまま。あの日の雨の中に置き去りにされたままだった。
その執着は、時間を超えて腐敗もせず、むしろ研ぎ澄まされ、磨かれ、剣とともに研がれていった。
「……だったら」
ノワールは、氷のように冷えた空を見上げた。
「世界そのものを変えてやる」
その言葉に、愛はなかった。
でも、誰よりも強く、たった一人の人物を強く望む、それ以上に重い感情が、確かに宿っていた。
「君の世界を、君の理想を、痛みを、未来を……全部、俺のものにする」
その声は、低く、静かだった。
まるで凍土を貫く雷のような鋭さで、大気を裂いた。
それは願いではなかった。
救いを求める祈りでもない。
──ただの命令。
己の心に課した、絶対不可侵の命令。
彼女のすべてを『手に入れる』ために。
誰にも渡さず、誰にも近づけさせず、自分のものとして刻み込むために。
たとえその愛が、歪んでいても。
たとえそれが、彼女を傷つけるものであっても──ノワールはそれを『愛』だと信じていた。
唯一無二の、手段を選ばぬほどに純粋な、
他の何者にも代えられぬ、たった一つの想いだった。
「……俺は、まだ終わっちゃいない」
少年の瞳には、静かに狂おしい光が宿る。
その瞳は、もうかつての無垢さを宿してはいない。
温かさでも、悲しみでもない。
──ただひたすらに冷たく、
──けれどその奥に、絶対に消えぬ焔を抱えていた。
それは、彼の時間が止まったあの日から、ずっと燃え続けている焔。
鉛色の空の下、吹きすさぶ風の中、たったひとりの少年が、世界の理に背を向けて立っていた。
その剣は、いつかすべてを斬るだろう。
彼女の心すらも、例外ではなく──。
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