第03話 最後の夜と沈黙の別れ
雨が降っていた。
しとしとと、濡れた音すら立てぬほど細く、静かな雨であり、空は鉛色に曇り、どこまでも低く、重く垂れ込めていた。
風はない。
ただ、まるで世界そのものが呼吸を止めてしまったかのような静けさ。
淡く霞む王都の空気は、濡れた石畳に淡く煙をまとわせ、景色すらも輪郭を失い始めていた。
その朝、王立騎士団の名簿から、ひとつの名前が静かに消えた。
──ノワール・ヴァレリアン。
『魔力ゼロ』の勇者候補――平民出身の落ちこぼれ。
誰からも惜しまれず、誰の耳にも届くことなく、彼の名は帳簿の一行として抹消された。
異議も、別れも、何もなかった。
それは、ただの事務処理。冷たい紙の上で消えた、無価値な文字列。
彼は小さな革袋を肩にかけ、王城の寮を静かに後にした。
手荷物らしい手荷物は何もなかった。
けれど、背中にのしかかるものは重かった。
石畳を打つ雨粒が、地面に淡い水紋を描いていく。
その水面に、空の鈍い灰が染み込み、色彩を吸い取っていった。
ノワールは、傘も差さずに歩いている。
濡れた髪が額に張りつき、しずくが頬を伝って顎から滴る。
黒の上着は肩口から重くなり、腕のあたりではもう雨が染み通っていた。
衣の冷たさが肌を焼くようで、それでも、彼は一切気にする素振りを見せなかった。
首筋を這う雨水の感覚。
靴の中にしみ込む水の不快さ。
それらすべてが、今の彼には現実を証明するための『感覚』でしかなかった。
ノワールは、まっすぐ前だけを見て歩いていた。
顔を伏せることもなく。振り返ることもなく。
一歩、また一歩。等間隔の足音だけが、石畳に確かに刻まれていく。
──その背を、誰かが見ていた。
エヴァレット侯爵邸――最上階の小窓、その重厚なカーテンの隙間から。
カローラ・エヴァレットは、窓辺に立ち尽くしていた。
指先でカーテンをわずかに押し広げ、静かに、息を潜めて。
冷えたガラス越しに見る世界は、薄い膜を一枚隔てた別世界のようだった。
彼の背中、傘も持たず、雨に打たれながら去っていく黒い人影。
静かだった。
音がまるで届かない。
すべての音が、雨に吸い込まれ、消えてしまったようだった。
彼の足取りは、決して早くはなかった。
けれど、その歩みは恐ろしいほど確かで─―彼女が何を願おうと、もう決して戻らないことを、無言で突きつけてくるものだった。
彼は、一度も振り返らなかった。
(……最後くらい、見てよ)
声にならない叫びが、喉の奥で暴れる。
(私が……見送ってるのに。ちゃんと、ここにいるのに……どうして……)
言葉は喉の奥でせき止められ、呼吸すら浅くなる。
視界が揺らぎ、目の奥に、じんわりとした熱が滲み始める。
けれどカローラは、涙を流さなかった。
流してはいけないと、自分に言い聞かせていた。
唇を強く噛み、息を押し殺し、まるで心を封じ込めるかのように。
ガラスに額が触れてみると、とても冷たかった。
その冷たさが、かろうじて彼女の意識を引き戻してくれる。
ノワールの背中は、ただ静かだった。
感情の一欠片すら、そこからは感じられない。
怒りも、悲しみも、拒絶も、希望も──何もない。
静かで、遠くて、そして──ひどく冷たい。
ふと、記憶の残像が脳裏に差し込む。
──林の奥で、薪を背負い、不器用に笑った少年。
──「君を守る」と、小さな身体で剣を構えた彼。
──婚約破棄の夜、ただ静かに「わかった」と言って背を向けた、その瞳。
そのどれもが、もう手の届かない遠い光景になっていた。
(私たちは……いったい、何を……失ったの?)
その問いに、誰も答えなかった。
答えるべき相手は、もう遠い背中になってしまった。
言い訳のひとつもできなかった。
「ごめんね」とも、「ありがとう」とも、彼が去るその瞬間に、カローラは何一つ、言葉をかけることができなかった。
それらはすべて、今も心の奥底で未練となり、言葉にならぬ痛みとなって彼女を蝕んでいる。
彼の姿が、雨に溶けるように消えていった。
輪郭がぼやけ、足音もかき消され、黒い上着の背中だけが記憶の中に焼きついていく。
カローラは、ゆっくりとカーテンを閉じた。
布の擦れる音が、妙に重たく耳に残る。
──最後の視線さえも、そこから断ち切られた。
見えなくなった背中を、もう二度と追いかけることはできない。
その夜のことを、彼女は一生、忘れることができなかった。
誰にも語られることのなかった『最後の別れ』を。
言葉をかけられなかった自分を。
何も返されなかった彼の静寂を。
そして──あの背中の、冷たさを。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
止む気配はなかった。
まるで彼女の心の奥底を映すかのように、
とめどなく、静かに、ただ、降り続けていた。
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