閑話 神殿の動揺──「神殺し」の余波
「……大主教様。これを……ご覧ください」
神官の声は、ひび割れた硝子のように震えていた。
差し出された一枚の羊皮紙には、薄く焦げた痕が刻まれていた。
輪郭は焼け焦げにしてはあまりに整いすぎており、まるで熱そのものが形を持ったような不気味な痕跡。
それは、王都西方の修道院から密かに届けられた事件の記録。
報告書に添えられていたのは、一枚の聖具の写真――いや、かつて聖具だったものの写真。
写っていたのは、真銀の十字架、聖杯、祝福を刻まれた聖書。
それらが、まるで地獄の業火に焼かれたかのように黒く変色し、原形を保てぬほどにひび割れ、捻じ曲がっていた。
本来であれば、聖なる力の中心であるはずのそれらは、光を放つどころか、闇に焼かれた残骸と化していた。
「…………これは」
大主教の手から羊皮紙が滑り落ちる。
老いた指は紙一枚すら支えきれず、膝の上へと落ちたそれを、見下ろすことしかできなかった。
「どういう……ことだ……?」
その声は、信仰を司る者の声とは思えぬほどかすれ、弱々しかった。
神に仕えてきた人生のすべてが、写真一枚で軋みを上げていた。
「……現地の証言によれば、修道院に現れた『黒衣の男』は、ただそこに『立っていただけ』だったそうです……何の言葉も発せず、何の魔術も行使せず、剣すら抜かず――ただ、沈黙のまま、そこに立っていただけだったと……」
「……それで、この有様か」
大主教の喉が鳴る。
呻きとも、嗚咽ともつかぬ声が漏れた。
「馬鹿な……この十字架は、七代前の聖職者が神の加護を受けて授けられたもので……!聖杯は、神の血を受けた聖具そのものなのだぞ……!」
だが、神の名のもとに築き上げられたはずのそれらは、簡単に、ただ居るだけの存在のモノに、崩壊した。
清められたはずの祈祷室は、霊的な沈黙に包まれ、空気すら流れぬ空白の領域へと変貌したという。
結界は跡形もなく消滅し、備え付けられた聖水は湯気すら上げず蒸発。
礼拝堂に満ちていたはずの神聖な魔力は、まるで見えない穴に吸い込まれるかのように掻き消えていた。
「祈れなかったそうです……神の名を口にしようとすると、舌が凍りつくような感覚に襲われ、心臓が……強く、締め付けられるように……」
別の神官が震える声で続ける。
「祈りも……賛美も……息をすることさえ難しかったと。誰一人、彼の前で言葉を発することができなかったのです」
「黙示録に記された、終焉の前兆だと……口にする者までおりました」
「彼の足元に、刻印のような影が落ちていたそうです。誰も触れていないのに、床石が焼き斑のように、禍々しい模様を刻んでいたと……」
大主教の顔からは、血の気が完全に引いていた。
まるで彼自身の『神への信仰』そのものが、目の前で焚き火のように燃え尽きたかのように。
「神は……なぜ、沈黙されたのだ……なぜ、何も与えてくださらなかった……?それほどまでに、我らの信仰は……軽かったのか……?」
言葉を失ったのは、彼らが“現実”を前にして初めて知ったからだ。
彼らが祭壇の上に掲げてきた神像、毎日唱えてきた教義――そのすべてが、たった一人の存在の前で音を立てて崩れたということを。
その男――ノワール・ヴァレリアン。
かつて『平民崩れ』と笑われ、異端者と断罪され、神殿から追われた少年。
彼の名を、彼らは笑った、侮った、無視した。
十年前、自分たちの『尺度』で計り、切り捨てた。
だが今、その少年は神聖を否定する存在として、確かにこの世界に立っている。
神罰が彼に及ばぬどころか、神の力そのものが彼に『沈黙』させられたのだ。
もはや彼は『冒涜者』ではない。
神をも冒涜する必要さえ感じていない存在――ただ、存在するだけで、信仰の根幹を焼き払う『恐怖』となってしまっていた。
「……我々が裁ける相手ではない……」
大主教は、そう呟くと椅子に崩れ落ちた。
祭壇に飾られた神像の顔に手を伸ばし、そっと布をかぶせる。
まるで、神の目を塞ぐかのように――いや、神にこれ以上、恥を晒さぬようにと。
沈黙が、室内を満たす。
誰一人、声を上げない。呼吸音すら憚られる、恐怖の静寂。
だが、その空気の底には確かに――屈辱と言わんばかりの痛烈な現実が横たわっていた。
十年前、少年を見下した者たちの信仰が、今や彼の足元に転がっている。
彼を追い出した神殿は、今や彼の『気配』だけで沈黙する。
そして、信じるべき神は何もしてくれず、ただ世界は沈黙したままだった。